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 その日はとにかく、海辺で過ごした。携帯や本はおろか、財布さえもない状態だったので、呆然と海を眺めたり、貝殻を探したり、お腹が空いたら近くの木になっていたきのみを食べた。瑞々しくて、ほんのり甘い。桃に似ているだろうか。水分をとるのにも打ってつけだった。
 トクサネシティは温暖で、流れる時間もそれに比例するようにゆるやかに過ぎていく。いかにも南国らしい趣きに溢れていた。だが、西を渡る陽光がいっそう強い煌めきを放ち始めたころには、冷たい風が耳の裏を頼りなく撫でるようになっていた。
 太陽が地平線に沈んでいく。空は茜色に染まり、蒼い雲を飲み込もうとする様は、幻想的でどこか悍ましさを覚える。
 だから、だろうか。不意に現れたあの男のひとに、震える吐息を吐き出してしまったのは。

「もう日が暮れる。夜の海は危険だ」
 夜はどこで過ごそうか、浜辺で黄昏ているときだった。ぼんやりポケモンセンターが無料で宿泊もできる施設だと言っていたことを思い返していた私に、声をかけたのはあの男のひとだった。
 魔物が手をこまねいていそうな淡墨の中で、銀色の髪が街灯の目映い光を溜め込んでいる。
 なにも言葉を返さずただまばたきをゆるやかに繰り返す私に、彼は小さく息を吐いて歩み寄ってくる。ザク、ザク、砂が鳴く音が海辺にやけに響いて聞こえた。
「どこに行こうか、考えていました」
 すぐそばまでやってきた彼に、私は言う。
「トレーナーズカードは?」
「トレーナーズ、カード?」
 素っ頓狂な問いだったのだろう、弓形の眉がかすかにひそめられる。それでも彼は丁寧に説明してくれた。
「ポケモントレーナーとしての身分証明書だ。それがあれば、ポケモンセンターに泊まることができる」
 身分証明書。淡い期待が魔物に攫われていった瞬間だった。
 そんなもの、持っているはずがない。持っていたら、こんなところで蹲ってなどいるはずがない。口を開いたり、閉じたり、なにか言おうとして、やっぱり唇を噛む。
 彼はそんな私をただ見下ろしていた。そこに感情を窺うのは難しかった。
 冷ややかな風が頬を撫で、光に立ちはだかった彼の影にとっぷり飲み込まれていく。そして、やっとの思いで口にできたのは、ただひとつの真実だった。
「……私、この世界の人間じゃ、ありません」
 ザザァン、潮騒が夜空に響く。
「それはどういう……」
 うそじゃない。でも、うそみたいな話だ。いよいよ怪訝そうに顔を歪めてしまった彼に、私は瞳を伏せる。
「なんでも、ありません。忘れてください」
 彼はただ私を運悪く見つけてしまっただけのひと。なのに、こんな行き場のない感情を押しつけられて、あんまりじゃないか。
 ふと我にかえって、笑みを浮かべる。そうするのは人一倍上手いのだ。
「べつに、子どもじゃあるまいし、なんとかなりますから。ご迷惑をおかけしました」
 それはだれに言い聞かせていたのか。私はおもむろに立ち上がり、彼に背を向けて歩き出す。
 日はすでに暮れていた。彼はそれきり、追いかけてもこなかった。
 

 夜というのは不思議なものだ。すべてを包み込むような優しさがあり、そして、すべてを飲み込んでしまう恐ろしさがある。私はすっかり孤独に苛まれながら、松の木がそよぐベンチで朝を待つことにした。
 まさかこの歳でホームレスになるとはだれが予想していただろう。お金も、身分証明書もない。まさに着の身着のままで放り出された状態。はたしてそれで暮らしていけるのか、そんなことを考えては気分が滅入っていくばかり。
 とろとろと視界が溶けていく中、漆黒の海に浮かんでいた灯台の灯りだけが少しの慰みだった。
 翌朝、眩しさに目を覚ました。水面は昨日よりもいっそうきらきらと輝いている。時間はわからなかったが、きっと太陽が昇って少し経つだろう。斜めちょっと上から絹の日差しが降り注ぐ様は、なんだか見覚えがあった。
 いつもならば、気怠い体をなんとか動かして、顔を洗い、化粧をしなければならない時間。でも、今はその必要がない。だって、ここはちがうのだ。
 会社に行かなくていいと思うと、お腹が笑っているような泣いているような、ふしぎな気分だった。清々しいわけでもなく、二日酔いの日みたいになんだかちょっぴり疲れている。頬を撫でる風が寝起きの熱っぽさを冷ましてくれるのはいいが、いつものように一杯の甘いカフェオレがないのは、やはり少し寂しかった。
 しばらく海を眺めていた。さんざめく水面の上を海鳥が渡っていく。穏やかな海。遠くで子どもたちの笑い声がする。昨日みたいに、クジラポケモンの潮吹きが見られたらいいのに。心のどこかで期待をしていたが、いつまでもその瞬間は訪れなかった。
 諦めて私は島を歩くことにした。海沿いから港を、それから繁華街を抜けて、小高い丘へと。トクサネ宇宙センターまで着くと、お腹がぐう、と鳴った。近くにきのみがないかと探したが、それらしき木は見当たらなかったので我慢することにした。
 巨大なロケットを目の当たりにしたあと、私は海へ戻った。それはさながら、母のお腹に還るかのような行為だったかもしれない。温い風に乗り、ただ自然と、私は海に還った。
「いつ、帰れるんだろう」
 太陽は、真上から私の頭のてっぺんを照らしていた。つむじがじりじりと灼きつけられて熱い。
 銀色の柵に体を預けて水面を覗きこむと、魚が泳いでいるのが見えた。
「……そもそも、帰れるのかな」
 小高い崖の上、私の背後には昨晩眠りについたベンチがある。年月を経て風化した木のそれは、お世辞にも洒落ているとは言いがたい。繁華街からは少し離れているからか、もはや人々に忘れ去られているかのようでもあった。それでもどこか、温かみがあった。ところどころ、朽ちた木が丸みを帯び、背中のカーブに合わせてゆるやかに背もたれがすり減っている。なにもかもがないこの世界で、唯一、ここだけが私を受け入れてくれているような、そんな気がした。
 水面は柔らかく揺らいでいる。真下ではザザァン、ザザァンと波が岩肌に押し寄せては、白い泡が立つ。
 飛び込んだら、帰れるだろうか。ふと、思ったのはそれだった。
 青々とした、底知れぬ海。どこに続いていくかもわからない海。帰ったところで、なにがあるわけではないけれど、安心して眠ることができて、お腹が空いたときになにかを食べられることは、幸せだとおもった。そして、だれか、私を知っている人がいることも。
 いつまで続くのかわからないこの生活に、私は早くも恐れをなしていた。たぶんそれは、深い海を恐れるのと一緒。
 一隻の小船が、遠くに浮かんでいる。
 私の人生は、あの船のように目的地にむけてゆっくりと進んでいくはずだった。
 ため息をもらすと、それを、風が攫っていった。
 ザザァン、ザザァン、打ち寄せる波に大きな影が現れる。私はいっそう身を乗り出し海を覗き込んだ。
「きみ!」
 そのときだ、私の体が強く後方へと引っ張られたのは。突如訪れた浮遊感に瞠目したのもつかの間、どさ、と鈍い音を立てて、私は地面に尻餅をついた。
 いたた、と衝撃に瞑っていた目を開くと、銀髪の彼が立っていた。
「いま、なにしようとしていたんだい」
「え……?」
「こんなところから飛び込んだら、どうなるかわかってるだろ」
 あの彫刻のような顔が歪んでいた。それは昨日と同じように、ふつうの人からしたらきっと微々たるもの。でも、はっきりとわかった。
 なにか、見たこともないような虫を前にした顔とよく似ている。
 このへんの海流はすぐにうずしおがやってくることで有名で、慣れた人間じゃないと、すぐに海の藻屑になってしまう。
 そう早口で捲し立てる彼の秀でた鼻梁を、私は茫然と見上げるばかりだった。
「ボクの家に来ればいい」
 はぁ、と乱れた呼吸を整えながら彼は言った。手が差し伸べられる。銀色の袖口が目を灼いた。
「……どういう、風の吹き回しでしょうか」
 皮肉を込めたつもりだった。いや、ほんとうは、純粋にわけがわからなかったのもある。
「きみの、トレーナーズカードを申請しようと思う」彼は言った。
「それまでの間、空いてる部屋を使ったらいい」
 トレーナーズカード、それはこの世界の人間だと証明することができるもの。そのカードがあれば、なんとかこの世界で生きていける。だが、なぜ? その問いに答えてくれる人間はここにはいないようだ。
「それとも、ほかに、だれか頼るひとがいるのかい」
 心を見透かすような怜悧な瞳は、どこか居心地が悪い。
「あなたには、関係ありません」
「いいや、関係あるよ」
 彼ははっきりと言ったのけた。

「きみを見つけたのは、ボクだから」

 潮が突き抜けたみたいに、鼻梁の奥が痛んだ。
 まさか、昨日のあのひと言を信じたと言うのか。自宅に不法侵入した女の戯言を? ガン、ガン、と硬い壁に頭を打ち付けられたような、鈍い目眩すらする。
「……考えさせてください」
 でもきっと、気のせいだ。まばたきを繰り返して、目映い瞳から目を離す。何年も座りこんでいたように脚が痺れていたが、彼の手を取らずに一人で立ち上がるのは、べつに難しいことじゃなかった。
 腰についた砂埃を払う。転がったパンプスに脚を通す。綺麗に履いていたつもりだったが、ここ二日の酷使で、エナメルの表皮にはいくつもの傷がついていた。
「ボクは、きみを知ってる」
 彼は言った。差し伸べた手を一向に引っ込めようとせずに。
 上品な印象だったその手は、意外にも骨張り、私よりはるかに大きい。人差し指と薬指に太いリングをつけているが、たぶん、働きものの手だ。
 きっと、彼はその手であらゆるものを掴んできたのだろう。それがなにかはわからないけれど、彼はそうしないと済まないのだ、と漠然と思った。
 生温い風が二人のあいだを吹き抜ける。ザザァン、柔らかな潮騒の合間、キャモメの鳴く声が降る。きらり、絹の陽射しを溜め込んだ銀が金色に瞬き、ベンチのそばにはハイビスカスに似た鮮やかな花が咲いていた。

「この世界できみを知るのは、きっと、ボクだけだ」

 やがてその手は、逃げる私の腕を掴んだ。ちょっとやそっとじゃ解けそうにない、硬く、がっしりとした男の手だった。