2-1

 私は歩いていた。いつもの道を、川に沿って駅へと向かいながら。
 ポインテッドトゥのパンプスに、白のアンクルパンツ、風に藍色のジャケットが靡く。川沿いの桜は散り、青々とした並木が広がっている。駅に着くと電車に乗った。都心まで出る電車は相変わらず満員で、ガタンゴトン、さっぱりとした日差しを浴びながらビルの中を進んでいく。ぎゅうぎゅうのすし詰め状態のまま何駅か通り過ぎて、会社の最寄りで降りた。
 朝の風景だった。紛うことのない、自分の日常。だというのに、なぜだかブラウン管に流れるビデオテープを見ているような気分だった。何度も何度も流して、やがて擦り切れていく。
 会社に着くと同僚に出迎えられた。おはよう、真っ赤なルージュが動く。ひっどい顔、唇がまたしてもそう言葉を模って、私は自分が酷い顔をしていることに気がついた。あはは、私は笑う。それからすぐに上司がやってきて、デスクに着く。目まぐるしく廻るオフィス、すっかり見慣れた社食、眠気を誘う会議、場面が移り変わっていく。
 そして、私はデスクを立った。薄暗くなった廊下を、かすかな灯りを目指して歩いていく。赤いパネルがまみえて、扉を押して中に入る。ジャー、蛇口から水が勢いよく流れる音。手を洗う。ふう、とため息をついて、顔を上げた。

 

 目映い日差しが差し込んでいる。真上には白い天井。私の部屋よりも幾分か高く、薄汚れた様子もない。
「……ゆめ、か」
 重たいまぶたを閉じるように腕を目元に置くと、微かな潮騒が聞こえてきた。ザザァン、ザザァン、やさしくまぶたの裏を撫でていく。
「そっか、私……」
 ひとつ息をついてあたたかなシーツから起き上がる。ベッドから抜け出しそうっと足音を盗んでリビングに顔を出すと、彼はすでに出ていったあとだった。
 ザザァン、波の音がする。目の前に拡がるのは昨晩眠る前に確認したリビングと同じ、白い壁に淡いイエローアッシュのフローリング。窓から注ぐ日差しはまろやかで、レースのカーテンが揺らいでいる。ただ、かすかに香ばしい匂いが鼻腔を掠める。
「……もうこんな時間」
 壁にかけられた時計をみると、とっくに世界が動き出す時間だった。その針の位置にどきりとするのは、もはや性分だろう。
 流しにはカップとインスタントコーヒーの屑が片付けられた痕跡がある。居候の身なのだから、先に起きてコーヒーのひとつでも用意しておくべきだったか、と思うも、すぐにかぶりを振る。
 ――ぼくの部屋は一番奥。大事な書類などもあるから基本的には近づかないでほしい
 リビングや洗面所などは自由に使っていいと説明をしたあと、彼が言い添えた言葉だった。
 玄関から入り、リビングを左手に客間、クローゼットと過ぎながら廊下を突き当たる。そこが彼の部屋。常に閉じられた、シンプルなつくりのドア。奥に進むたびにしんと引き締まるような空気。はがねかなにかでしつらえられたかのような堅牢さ。
 よくわからないひと。
 二日間過ごしてみて、抱いた彼の印象がそれだった。突き放したと思えば、引き寄せてみたり、そしてまた手を離す。親切さと冷淡さのバランスがひどくよくとれているようにも感じた。いや、どちらかというと、冷徹な人間、かもしれない。
 他人のペースや心情に惑わされることなく物事を冷静に見定め距離を測る様は、物腰の柔らかさとはうらはらになにか硬いものがある。まさにそう、あのガラスケースの中の石のような。
 ともかく、私はべつに彼の伴侶でもなにもないのだ。ただ寝泊りする場所を提供してもらえただけで、ここに暮らすことを許されたわけでもない。
 思い返して、息を吐く。整然としすぎたリビングは、まるで住宅販売のチラシに載ったモデルルームみたいだ。
 ぱたぱたとスリッパを鳴らして、なにか飲み物でも淹れることにした。霞ゆく深いコーヒーの香りを嗅ぎながら、ポットに湯を沸かす。それからゆっくりと身支度をはじめた。
 だれもいないこの家はかえって過ごしやすかった。

 日差しがその強さを和らげたころ、私はポケモンセンターに赴いた。
 この世界のことについて学ぶのならまずは行ってみるといい、それが彼からの助言だった。彼の本棚には読み古した絵本と鉱石や化石に関する小難しい本しかない。かといって彼に諸々の説明を頼むのも気が引けたので、これはありがたかった。
 危惧していたトレーナーズカードについてもエントランスを使用するぶんには必要がないらしく、もっと早くに知りたかったと心の中で呟くことになったのだがそれはまあいいとする。
「それでさ、この間クチバから友達がやってきて……」
「デボンの新商品、見た? あれ、すごいよねえ」
「今度、この子をフエンに連れて行ってあげようと思って……」
 ポケモンセンターにつくと、明るい話し声が聞こえてきた。
 トクサネの奥と言っても過言ではない海辺にある彼の家から比べると、だいぶ繁華街に来たような印象だった。
 クリームやオレンジ、それからピンク、パステルカラーでまとめられた室内はトレーナーや住民で賑わっている。ただ、私はそうして憩いに来たわけではないので、こんにちは、と朗らかに声をかけてくれたジョーイさんに会釈を返すと、私はまず目についた地図の前まで歩いた。
「これがホウエン……」
 海に囲まれた、大小さまざまな島が連なる地形。地図を見ればその世界がわかるとはよくいったものだが、きっとこのホウエン地方は自然と共に生きてきたのだろう。
 西の本土には火山や豊かな森林、また、広大な海に囲まれ、大小さまざな島が連なる様は、どこか私の知る日本と似通っているような気がした。だが、それでいて、はっきりとちがう。
「トクサネ、ルネ、サイユウ……」
 それからミナモ、キナギと順に都市を指で辿っていく。指先が描く軌跡は、不規則で、不安定だった。そこに広がるものがなんなのか、考えるには想像力に限界があった。
 次にポケモンジャーナルという雑誌を読んだ。大人向けとも子ども向けともとれる、不思議な雑誌。ポケモンの生息地に始まり、最新の自転車、モンスターボール。この世界独特の記事が多く掲載されていた。
 ぱらぱらとめくっているうちに、あるページに目がついた。美しい空と海、そして歴史を感じさせる佇まい、水の都アルトマーレ。街の中を水路が走り、水とポケモンと共に生きる。ゴンドラの舵を取る船頭、花香る風、どことなく、ヴィネツアに似ていると思った。

 その帰りは吸い寄せられるように砂浜に寄った。ローヒールのパンプスは砂に引き摺り込まれ、そのたびに体がぐらぐらしたが、足が砂まみれになることも、もはやとくに厭わなかった。
 やわらかく潮風が髪を攫う。キャモォ、キャモォ、とキャモメが鳴いている。
 いよいよ砂が本格的に浸食しはじめるとパンプスを脱ぎ去って、波打ち際まで歩いた。
 足に触れる水は冷たい。ザザァンザザァン、止め処ない自然の営みに身を委ねた。
「私の知っているものが、あるのかな」
 地平線は果てしなく続いている。この先に、きっとミナモシティか、ルネシティがある。そしてその奥には、世界が拡がっている。ポケモンと共生する、とてつもなく広大な世界が。
 彼は私を知っていると言ったが、人類が作り出したおとぎ話の中にいることを、彼は知らない。
 果たして、それを言ったらどう思うのだろう。いよいよ、頭のおかしい人間というレッテルを貼られてしまうだろうか。それも、そうだ。だって自分の生きる世界がフィクションだと言われたら、だれだっていい気はしない。
 ただ、私自身考えあぐねていた。今目の前に広がるものが、本当に作られた世界なのか、と。とてもじゃないが、そうとは思えなかった。あるいは、やけにリアリティに富んだ夢をずっと見ているのか、と。

 浜辺をあとにすると私は市場に寄った。少しの野菜とそれか、新鮮なフルーツ。ツワブキダイゴさんから借りたお金でそれを買って、まっすぐ家に帰った。
 その夜、彼はだいぶ遅くに帰ってきたようだった。

 次の日もまた次の日も、それまでの日常とは打って変わって穏やかな日々を過ごした。朝、ゆっくりと目を覚まして、一杯のカフェオレを淹れる。窓を開け放つとさわやかな風が吹き込んでくる。フィルムに収められたような静謐な日々。ときおり、庭に出てひなたぼっこをしたり、それからガラスケースの石を眺めたり。慣れとは恐ろしいもので、そうすることがもはや生活の一部となっていた。