人間の処理認知能力には限界がある。そしてそれを超えた先になにが待ち受けるのかを私たちは知らない。
その夜私は夢を見た。不思議な夢だった。暗澹とした海を衣服をつけたまま泳いでいた。いや、ふよふよとくらげのごとく漂っていたと言うのが正しいかもしれない。
あるとき、ごぽりと波が唇を塞いだ。もがく間もなく水の中に誘われ、深く、躰が沈んでいく。まるで、だれかが私の足を掴んでいるみたいだった。必死に手を伸ばすけれど、どんどん水面から遠ざかり底へ向けて呆気なく落ちていく。いや、向かっていたのが底だったのかも、私の上に水面があったのかもわからない。とにかく、私はどこかへ連れ去られていた。唇から伝う小さな泡。次第に肺が押しつぶされ、意識が朦朧としてくる。だが、最後の空気が唇からこぼれたとき、それは一瞬にして変わった。
私は、水中を揺蕩っていた。毛布に巻かれるような、温かな感触に包まれていた。なにかに呼ばれる声が聞こえたが、はっきりとはわからなかった。
次に目が覚めたのは、ふかふかとしたソファの上だった。
さっぱりと洗われた日差しが注いでいる。全体を白やオーク材で統一した部屋の隅に、ガラスケースが鎮座していた。
「目が覚めたようだね」
上体を起こした私に、ドア口から声がかかった。銀色の透き通るような髪に、すっきりと整った顔。まるで、陶器の人形のようなつくりだった。
「どこか悪いところは?」
昨晩は知ることのなかったその髪の色や面立ちを認めて、体が自然と強張る。が、一定の距離を置いて、腕を組んだままこちらを見遣る美丈夫に、かろうじてかぶりを振った。
「大丈夫じゃなさそうだけど」
とはいえ、なにもかもお見通しだったのだろう。おもむろに歩み出した男の髪が、リネンのカーテン越しに注ぐ陽光を反射している。ザザァン、耳の裏をなぞるのは、微かな波の音。そうだ、私は。
「トクサネ、シティ……」
「そう、ここはトクサネシティ。なにか、思い出せたかい」
ぎゅう、とブランケットを握りしめる女を一瞥して、彼は窓を開け放つ。二の腕に銀の輪をつけたスーツの袖元が弛み、ふわり、潮風が吹き込んだ。
「ごめんなさい、なぜ自分がここにいるのか、よく、わからなくて」
目が覚めたら、知らない場所だった。学生時代は記憶を失うほどお酒を飲んで、気がついたら朝だったということはあった。でも、こんなこと、ありえるのだろうか。
自然な仕草で眉をひそめた彼に、私は居たたまれなくなってこうべを垂れる。
「キミ、住んでいる場所は」
近くってわけではなさそうだね、と窓枠に背を預けてこちらを向く彼からは、警戒の色が窺える。それも、あからさまな赤や黄色ではなく、丁寧にレースで包まれた色。彼の顔の横で真白のカーテンがはためいている。指先がチリチリし、喉がやけに乾いたが、私はなんとか答えた。
国籍、住所、それから最寄駅。男性はそれを受けてスーツの内ポケットから携帯のようなものを取り出して、操作する。音もない、流れるような指の動き。きっと、怪しい女の告げた住所を調べてでもいるのだろう。
白い部屋に彼の姿はよく映える。程よく見え隠れする警戒心を加味しても、なんだか、透明なさらりとしたシロップの中にでも浸かっているみたいだった。性能のいい一眼レフで風景を撮ったら、こういうふうになるのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に、キャモーキャモー、という不可思議な声がした。
カモメ、だろうか。さっぱりとした光のもと、彼の奥を見遣る。
「ぽけ、もん……?」
窓の外に見えた光景に私が茫然と呟くのと、彼のきれいな眉間にひとすじのしわが刻まれるのは、ほぼ同時だった。
「つまりキミは、気がついたらこの部屋にいたというわけだ。キミ自身の意思もなく」
はい、と頷いた声はまさしく迷い子のそれであった。空にはカモメやペリカンによく似た生物が飛んでいる。私はこの世界に見覚えがあった。
「調べたけれど、キミの言う住所はおろか、そんな地名も国名もここにはないようだよ」
「そんなはずは……」
ない、と言おうとして口を噤む。今自分がいる世界は、果たして私の生まれ育った世界と同じか――否だ。だとすると、彼の言葉にうそはない。うそをついているのは、ほかでもない私になる。
「記憶喪失の類か、それとも」
「いえ、その……名前も年齢も言えます」
記憶喪失ならば、どれほどマシだっただろう。いつどこで生まれたか、どんな幼少期を過ごしどうやって大人になってきたか、私は迷うことなく答えることができるというのに。ただ、この世界にいる理由、それだけが見つけ出せない。
結局なんと言えばいいかもわからなくて、もごもごと言葉を淀ませていると、男性は、「ともかく」と携帯を閉じてジャケットの内ポケットへとしまった。
「ボクはこれから仕事があって出なくちゃならない。今回のことは、キミになにか特別な悪意があったわけでないとわかったから、ここまでにしよう」
彼の背中から照りつける日差しが眩しい。そうは言っているが、彼は釈然としないといった様子だ。ガラスケースの中に鎮座する石たちすら、その身を光らせ私を監視している気がする。
チカチカする瞳を伏せて、すみません、と謝ると、彼は返事がわりにスーツの襟元を整えて首を小さく捻った。
「ブランケットは適当にそのへんへ。悪いけど、ジュンサーさんを呼ぶ時間はないから、ポケモンセンターまで送っていくよ」
そこならなにか助けになると思うよ、と提案してくれる声に私は本日何度目かのかぶりを振った。
「……いえ。すみません、たぶん、一人で行けますので」
本当に申し訳ありませんでした、と肌触りのよいブランケットを丁寧に畳んでソファに置くと、彼はまたひとつ眉をひそめていた。
ポケモンセンターへ行ったところで、なにかが起こるわけもない。半ば自失状態で彼の家を出ると、目の前には海辺の町が広がっていた。忙しなく町が動いている。時刻はすでに人々が目を覚ます時間であり、さざ波のあいだ、そこかしこからカタコトと金属の擦れる音が聞こえてきた。
朝焼けの町は、淡く金色に染まっている。吹く風はどこか生温く、潮の香りがする。沖縄かその離島にいる、そんな感じだった。だが、私の視界を掠めていくのは、さまざまな姿形をした生き物たち。そう、ポケモンだ。
銀髪の彼は朝焼けに消えていく私の背をしばらく見届けていたようだったが、やがて彼も彼の世界を取り戻すべく、はがね色の美しい羽を持った鳥のような生物に乗って空に羽ばたいていった。あれも、ポケモンなのだろう。
不思議な世界だった。意識を失う前――といっても、それがいつどこでピリオドを打ったのかはわからないのだが――に拡がっていた世界となんら変わりはなさそうに見えるのに、決定的に違う。犬や猫が町中を歩くように色とりどりのポケモンが人々とともに生き、空には、キャモォキャモォ、とあの変な鳴き声のカモメやペリカンが優雅に羽ばたいている。
「キャモメ、だっけ」
あのポケモンを知っている。あのポケモン以外にも、紫色のボディに緑の葉を生やしたあの子や小判を頭に載せたあの子、それから、黄色いネズミに似たあの子も。けれど、小さな狼や、馬のようなラクダのような、あるいはカメの姿を模したあの子は知らない。
それもそうだ。幼いころにやってそれきりのゲームなんて、いや、アニメだろうかわからないけれど、知らないことばかりなのも当然だ。ただ、この不可思議な現象をわずかながら明らかにしてくれたのはほかでもない彼らで、すんなりと自分が地球ではなく別の世界にいることを受け入れることができていた。
「ほんとうに、ポケモンだ」
とはいえ、天災や超常現象を前に人間は無力になるのは確かなようで。ぽつり、呟いた私を夢の中に浸かっているような、また、朝日にまどろむような、そんな感覚が包んでいた。
ポケモンセンターを横目に海に出た。白い砂浜は、まるでダイヤモンドを散らしたように輝いている。頬を撫でる風は温かく、磯のいい香りがした。
ざく、ざく、と砂を踏み鳴らす音が心地よい。波打ち際まで、歩いていく。足元はローヒールのパンプス。仕事に行くときにいつも履いていたやつだ。綺麗に見えるからとヌーディベージュのポインテッドトゥ。それから服は、こちらへ来る前の最後の記憶の中の私が纏っていたもの。ずんだらな部屋着じゃなくてよかった。そんなことを考える私は、たぶん楽観的な人間だ。
ザザァン、やさしい音が耳に届く。寄せては返し、白砂を攫ってはワカメやアカモクなどの海藻を代わりに齎してくれる。小さな貝殻のカケラが砂の中から現れて、私はそれを手にとった。その瞬間に、波が押し寄せ元からなにもなかったかのように窪みを埋めていった。
「きれい」
薄く透き通ったその貝殻は、純白のヴェールを纏った乙女みたいだった。中心はほのかに桃色に染まり、どこか桜貝にも似ている。空に翳すと裏側は七色に輝いた。
ここが、どんな世界か、なぜだかどうでもいいように思えた。
この世界に来た経緯も理由もわからない。ただ、私はあらゆることに辟易していて、ずっとずっと深い海底に沈んでいるような心地だった。だから――。
そのとき、沖で大きな音が鳴り響いた。プオオオオンと大地を揺るがすような、クジラの咆哮。青く、丸々とした巨体が海面から顔を出している。
「あんなポケモンもいるんだ」
クジラの潮吹きが空に舞い上がる。海原はどこまでも続いていた。
燦々と太陽に照らされた水面が私の目を奪い、目映くもやさしく灼きつけていく。
地平線のはるか向こうになにが広がっているのか、ふしぎと心臓は強く波打っていた。
