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 ひとはみな、船に乗っている。ボートほどの小さい船もあれば、凪を待つヨット、はたまた鋼鉄でできた荒波にもびくともしない、大きな船。たいていのひとは行き先が決まっていて、自らその船頭となって漕ぎいでていく。なかには、ただひたすら海原を彷徨うこともあるだろう。あるいは、嵐に見舞われ海の藻屑となることも。
 かくいう私も、船に乗っていた。さほど大きくはないけれど、それなりに頑丈で多少の波にはものともしない、ゆっくりと、じっくりと、だが確実に目的地に向けて帆を靡かせる。そうして、広大な海原を進んでいくはずだった。

 とっぷり、波に飲まれ水の底に沈んでいく感覚に目を覚ました。はあ、はあ、空気が塊となって肺を刺激する。いつもの癖でベッドサイドの目覚まし時計を探そうとして、一向にあの無機質な硬質感は訪れず不思議に思った。
 どうしたものか、重たい目を凝らす。いつのまにか、下へ落としてしまったのだろうかと思ったが、そこで、視界に入り込んだのは大きな黒い塊だった。
 辺り一面は真っ暗で、一瞬寝ぼけているようにも見紛った。だが、たしかに暗闇の中で目が合った。
 人間の頭ほどの大きさはある、巨大な塊。ぱちり、ぱちり、鈍い目を瞬かせると、やがて夜目が利いてきた。
「石?」
 静謐な世界に鎮座するそれによく見覚えはあった。ごつごつと凹凸のある表面は、石と言うには些か凶暴にも思える。ときおり川原に落ちている溶岩石と似た形状だった。
 こんなもの、どうしてこんなところに。見覚えはあると言っても、それに関する記憶は無に等しい。よくわからないけれど、酔いの末に持って帰ってきてしまったのだろうか。
 気になっておもむろに手を伸ばす。だが、石に触れる前に分厚いガラスケースによって、それは遮られてしまった。
 ひやりとした、感触。やけにリアルだった。指先からツンと頭まで突き抜け、漠然と、ああこれは夢ではないんだ、という証明を私に与えた。
 ここは、いったいどこなのだろう。
 辺りを見回す。暗い室内を照らすのは、窓から射し込んだ淡い淡い月明かりのみ。見覚えのない部屋だった。今しがた触れたようなガラスケースがいくつか並んでいるのが見受けられるが、それ以外にはローテブルやソファ、それから、本棚とシステムキッチン。広々としたリビングだというのに、やや整然としすぎている。生活感に欠けた部屋。どうやら、その隅に私は立っているようだった。
 ぱちり、ぱちり、まばたきを繰り返す。次第に濃くはっきりと浮かび上がる世界とはうらはらに、やけに頭は重く、肝心な部分に靄がかかっていた。
「だれだい」
 宵闇を切り裂く声に振り返った。玄関からだろうか、微かに漏れ出した光の中で色濃い影が動いたのが見えた。
「だれ……?」
「それはこっちのセリフだ。そこでなにをしようとしていたのか、教えてくれるかい」
 低く、夜のしじまに包まれた湖面を滑るような声だと思った。でも、すぐにみぞおちのあたりがひゅっと冷えた。
 丁寧な口調はどこかやわらかさを感じさせるが、実際には鋭い刃を突きつけられている。情けなく喉が鳴り、私はその見えない威圧感にたじろいだ。血潮が駆け巡る。先ほどまで鈍っていた体が瞬く間に熱くなるが、すぐにその波は引いて、かえって虚脱状態となった。
「ここで、わたし……」
 なにをしようとしていた? 震えだした体にカチカチと歯が軋む。
「ここは、どこ……?」
 真っ暗な部屋に注ぐのは、薄らかな月光と微かなさざ波。
 たしか自分は、自室で寝ていたはずではなかっただろうか。仕事を終えて、いつもと変わらぬ帰路についたはずではなかったか。
 六畳間の、一人暮らしには十分な寝室は、こんなふうに柔らかに白銀の光が入り込む部屋ではない。そして、波の音が掠めるような海辺でも。
「トクサネシティのボクの家だ」
 男はドア口に立ったまま、電気も点けずにこちらを窺っている。
「トクサネ、シティ?」
 どくり、心臓がうねりを上げた。
 一体、どこの地名なのだろう。会社から、駅、それから地下鉄に乗って、家の最寄駅まで、勢いよく記憶を巡る。はたして、その中に、トクサネという地名はあっただろうか。
 憂さ晴らしにコンビニで買った安いお酒を、早く飲みたいからと急ぎ足でアパートへ向かう道のりを歩いて、それで……ずきん、脳動脈が強く波打って、私を迫り立てる。
「いた……っ」
 そのあまりの刺激に頭を押さえると、すべてが弾けたように闇の中へと消えていった。