1-1

 壱番魔晄炉の爆破を終えたアバランチのメンバーは、アジトでもある七番街のバーに集まっていた。常連客を追い出して、重大な責務を果たした面子がヴィンテージとは言いがたい使い古された木製テーブルで、各々ジョッキをかわしている。
「バレット、クラウドは?」
 薄く埃の舞う店内、セブンスヘブン――と瞬くネオンの下に立つ女バーテンダーが、荒々しい面持ちの男に問い掛けた。
「さあな。待ち合わせの列車にも乗って来やがらなかった」
「え、もしかして捕まっちゃった、とか?」
 大きな目を瞬かせた女に、男――バレットは、ふん、と鼻を鳴らす。
「まあ、あの野郎が報酬を受け取らずに逃げ出すわきゃないだろ」
 忌々しげに口をへの字にしかけたところで、「とうちゃん!」と鈴の音のような明るい声が飛んでくる。バレットは強面の顔を瞬時に緩めて、声の主であるピンク色のワンピースを着た少女を広げた腕の中に抱きとめた。
「よぉしよしよし、マリン、いい子にしてたか?」
 年の頃は四、五歳といったところ。彼女はバレットの娘だ。
「うん、ティファのおてつだいしていたの」
 父に肩車をしてもらったマリンは、横にいるセブンスヘブンの女主人であるティファを得意げに見下ろす。
「ね、いろいろ手伝ってくれたね」とティファも彼女に向けて微笑んだ。
 そのとき、カラン、カラン、と来客を知らせるベルが鳴った。
「クラウド!」
 ティファの声に、一斉に皆の視線が向けられる。
「約束の時間に遅れたようだな」
 ドア口から姿を現したのは、金髪碧眼の男。今宵アバランチメンバーとともに壱番魔晄炉の爆破に臨んだ雇われの傭兵、クラウドだ。一見儚さを抱く美青年に見えなくもないが、細そうに見える腕にはしなやかに筋肉がつき、ハイネックのノースリーブニットに左肩のみについた金属製の肩当て、背中には自分の身丈ほどの長さの大剣を背負っている。どれも紫紺の 下手をすれば闇に溶け込みそうな服装をしていた。
 元神羅のソルジャーをやっていたという彼は、ティファの幼馴染である。今回は《なんでも屋》としてアバランチに協力した。
「おい、遅刻野郎! ずいぶん偉そうなお出ましじゃねぇか」
「そうでもない。普通だ」
 バレットがマリンを肩から下ろして男に噛みつくも、男は飄々とした態度を崩さない。整った顔を微塵も動かすことなく店に入ってくる。ケッ、心配させやがって、とバレットがぼやいたところで、ようやく綺麗な眉をぴくりと上げた。
「ほう、心配してくれたのか」
「なっ……」
 余計なことを口にしてしまったとたじろぐバレットに、クラウドは意地悪く唇を歪める。どうやら揚げ足をとるのがうまい男らしい。言い逃れられまいと感じたのか、バレットはただ舌打ちをすると、遅刻の分は報酬から引くからな、と忌々しげに言い残して、その場をあとにした。
「クラウドさん、お疲れっす」
「へへ、クラウド、次も頑張ろうな」
「やだ、クラウド、ほっぺが汚れてるわ!」
 地下へと降りていったボスに続いて、ウェッジやビッグス、ジェシーが口々にクラウドに労いの言葉をかけていく。
「クラウド、遅かったのね」
 ひと息ついたところで、ティファが口を開いた。
「途中、厄介な拾いものをしてな」
「拾いもの?」
 店内の鈍い照明にその金糸を煌めかせながら、クラウドが腰に巻いていた麻袋からなにかを取り出した。
「……猫?」
 不思議そうに小首を傾げるティファに、クラウドはこっくり頷いた。
 その手には、グローブの色とは対照的な白い猫が抱えられている。細い毛並みは灰色にうす汚れ、実際の白さを霞ませている。瞳は閉じられているが、お腹が上下するのを見る限り、かろうじて息はあるようだ。
「クラウドが珍しい」
「スクラップ置き場に落ちていたんだ。放っておこうと思ったんだが、鳴き声がうるさいから連れてきた」
「そんなこと言って、クラウドってばなんだかんだ優しいんだから」
 ふふ、と和やかに笑いながら、ティファはクラウドの手から白い猫を抱きとる。しばらく眉をひそめて難しそうな顔をしていたが、自分を見ている二つの瞳に気がつくと、クラウドはそっとそれを解いた。
「ほら、マリン、クラウドにおかえりなさいは?」
 ティファに促されるも、少女はティファの陰に隠れてしまう。
「ごめんね、クラウド、マリン照れちゃってるみたい」
 表情の動かぬクラウドだが、小さなマリンには少なからず不躾な態度を緩めるらしい。構わない、と軽く肩をすくめると、ティファの腕の中の猫に目をやった。
「耳につけているのはマテリアか」
「……あ、本当だ。でも、見たことない色をしてる」
 ぐったりと身を預ける白猫の耳には、銀色のヴェールの上にオーロラの煌めきを載せた丸い石がついている。
「なんだろう、珍しいね」
「ああ。もうひとつ途中で拾ったんだが、着けてみてもなにも起こらなかった」
 クラウドがズボンのポケットから、同じく石のついたピアスを取り出した。
 ティファはまじまじと眺めてくる。
「なんだろう。この子、飼い猫なのかな。そうだとしたら、飼い主を探してあげなくちゃね……マリン、この子をベッドに寝かせてあげてくれる?」
 ティファの後ろに隠れていたマリンが、返事の代わりにうれしそうにひと跳ねした。
 クラウドは石のついたピアスを失くさぬようにもう一度ポケットにしまいながら、マリンが小さな腕に白猫を大事そうに抱くのを眺めた。汚れてはいるが、プレートで覆われたミッドガルのスラム街には不釣り合いの毛並み。にゃあ、とか細く鳴く声は、まるで高級なハープのような音色だった。今はもう、その声は聞こえないが。
「クラウド、会議の前になにか飲む?」
 あのまま、放っておけばよいものを。マテリアらしきものを着けていたからといって、なぜ自分がその猫を連れて帰ったのか、いささか疑問が拭いきれぬまま、クラウドはティファの言葉に、「ああ、頼む」と頷いたのだった。

 ぴちゃん、水の滴る音がする。
 一面、光のない鬱蒼とした世界が広がっていた。天も地もないような濃い闇の中、体は冷たく、低く深く水底に沈んでいくような感覚が美月の肌を包んでいる。
 どこにいるのか、わからない。そもそも、ここが場所であるのかも。立っているのか、座っているのかも、そして、生きているのか、も。ただ、ぼう、と目の前の暗晦を眺めていた。
 ぴちゃん――また一つ、耳の裏で音がする。
 刹那、碧い光が見えた。暗澹とした辺りに、ぽうと灯った、一抹の淡い光。それまで抱いていた煩慮が薄れ、胸からじんわり熱が溶けていくのがわかった。冷たい水底に沈む体が、ゆらり、ゆらり、人肌の心地好い湯の中でたゆたう。光は段々と強くなり、空とも海ともつかぬ、碧が全身を包み込む――。
「ここは……」
 目が覚めると、飛び込んできたのは材木がむき出しになった天井だった。裸電球が下げられている様は、ひと昔前の山小屋のような出で立ちで、お世辞にも綺麗とは言えない。築五年という比較的新しいアパートに構えた美月の部屋とは、似ても似つかぬ光景だった。
 硬いシーツの中で丸めていた体を起こす。よほどの時間、身を縮めて眠っていたのか、ミシ、と骨が軋む音がした。
「……どこだろう」
 まだぼやけた思考で、ぐるり、辺りを見回す。必要最低限の家具しか置いておらず、どこか薄暗い室内は、やはり見覚えのない場所だ。
「わたし、なんでこんなところに……?」
 自分はしがない会社員で、いつものように仕事を終えて、一人暮らしをする家に帰ったはず――ズキン。
「いた……」
 眠りにつく前の記憶を辿ろうとして、唐突に前頭野に激痛が走る。ギュッと血管を握りしめられたような、鋭い痛みだ。こらえきれず、こめかみに手を当て美月は瞼をきつく閉じた。
 目が覚めたら、知らない場所で寝ていたなんて。頭痛もする。もしかすると、よほど強いお酒でも飲んだのかもしれない。考えを巡らせるも、たどり着く先は幽々とした暗闇だ。美月は状況を理解できず、ただひらすらこめかみをさする。
 ――キイイ
 ため息をつこうとしたところで、扉が開く音がした。
 美月は鈍る思考をなんとか起こして目を開く。すぐに、碧い宝石とかち合った。
「な……」
「へ……?」
 金色の髪に、見たこともないような碧い瞳、それから、スッと通った鼻すじや形の良い唇。ベッドの上からではその細かい造形まではわからないが、相当整っている顔立ちの青年がドア口に立っていた。
 美月はこめかみに当てた手をそのままに、呆然と彼を見つめていた。
(すごい、人形みたい)
 自分がどこにいるのか、なにをしているのか、どこか浮世離れした美貌を前に、そんなことも今だけは意識の彼方。
 しばらく視線が絡んでいたが、不意に男の視線が落ちた。途端に白い頬に紅が差し、綺麗な瞳を気まずそうに逸らした姿に、美月は時を取り戻して瞬きをする。そして、男につられるがまま、視線を同じように下げた。
「え……?」美月は唖然とした。
 日に焼けたことのないような白い肌には、黒いレースの下着のみ。
 見ず知らずの青年がなぜ頬を紅潮させたのか。女らしさもかわいらしさも忘れて、美月は凄まじいスピードでシーツを抱き込んだのだった。
「アンタ、どこからここへ入った」
 ひと息ついて、すっぽりとシーツで体を隠した美月に、青年は容赦なく鋭い声を向けてきた。粒の揃っているとても綺麗な声だが、かえって威圧感がある。
 ベッドから一歩でも動けば全身を拘束されてしまいかねない空気に美月はぎゅ、とシーツを握りしめる。
「気がついたら、ここにいて……あの、あなたの家ですか」
「いや。ここは、セブンスヘブンという店の空き部屋だ」
「せぶんす、へぶん……?」
 男は警戒を露わにしたまま、こっくり頷いた。
 きっと、文字に起こせばカタカナであろうその言葉は、馴染みがあるようにも聞こえるが、実際には全く身に覚えのない名前だ。そんなこともわからなくなるくらい飲んだというのか。
 これまで生きてきて、それほど泥酔した記憶は、ないとは言い切れないが――なにかがおかしい。飲みすぎた胃もたれや倦怠感はないし、それに、妙な胸騒ぎがする。
 このセブンスヘブンという店の佇まい、目の前の美青年、どれをとっても、美月の知る現実とはかけ離れている。一体、なにが――。
 懸命に考えを巡らせていると、おい、と声を掛けられた。
「アンタは神羅の人間か?」
「しん、ら?」
 またしてもおうむ返しをする美月に、青年は眉をひそめた。
「神羅を知らないのか?」
「しん、らって、なんでしょうか、あの……ごめんなさい、本当に状況がよくわからなくて……」
 青年の視線に耐えきれず、俯く。と、ため息をつくのが聞こえた。
「……白い猫をどこへやった」
「猫?」
 今度はわかる言葉のはずだったが、視線をあげると美月はまたしても幼い子どものように睫毛を頼りなく揺らしながら首を傾げる。
 目が覚めて、ベッドの中には自分一人だけだった。白い猫なんて、どこにもいない。
 こてん、頭を傾けたその拍子に髪が揺れ、頬にかかる。それを、彼女は自然な仕草で耳にかけ直した。
「そのピアス……!」
 水面を打ったように、男の目が見開かれた。
「ピアス?」
 びくり、体を跳ねあげながら、美月は耳に手をやる。と、身に覚えのない金属のなにかがついていることがわかった。
「え……? なんで、ピアス……?」
 指先に伝わるひやりとした感覚に、背すじに冷ややかな稲妻が駆ける。そもそも、自分の耳に穴など空いているはずがないのに、耳たぶにはたしかにピアスがついている。
 どうして。いつのまにピアス穴まで? 知らない場所、外国人風の男、身に覚えのない、アクセサリー。もしかして――美月の中で最悪の事態が想定される。
「お前は……」
「あ、ああ……うそ、やだ……」
 おまけに彼女は今、下着しか纏っていない状態だ。澄んだ空気を纏う彼がそんなことをするとはにわかにも信じ難いが、ここまで条件が揃っていれば十分とも言える。
 シーツごときつく体を抱きしめる。血液に恐怖が溶け込んで全身を駆け巡るのがわかる。ぞくぞく、背すじが痺れ、臀部にかけて勢いよく降りていく。
 ――脳裏に浮かんだのは、『死』のひと文字。
「う、あ、やだ……」
 体はがくがくと震え出していた。明らかに様子のおかしい美月に青年の表情が崩れるが、彼女にそんなことを気にする余裕などない。
「や、あっ……やめっ……ぁっ」
 うまく、息が吸えない。溜まった空気が、喉に痞えて出てこない。過呼吸に陥った美月に、ドア口に立って一定の距離を保っていた男が踏み出してくる。
「おい!」
 なんで、わたしはこんなところにいるの。どうして、生きているの。
 ――今から、殺されるの?
 臀部に、熱が篭る。自分ではコントロールできないような、不愉快な感覚。頭がぼやける。目の前が霞む。
「しっかりしろ!」
 はっはっと苦しそうにままならない呼吸を繰り返す彼女に、青年が手を伸ばす。グローブをつけた大きな手が、シーツにくるまった彼女の肩を掴む。
「クラウド、どうかした? って、え……?」
 沈みゆく美月の意識の中で、明るい声が微かに届いた。

 次に目が覚めると、ひやりとしたなにかが額に当てられていた。ゆっくりと手を伸ばす。どうやら濡れタオルが載せられているようだった。
「わたし……?」
 起きたら知らない場所にいて、外国人の男の人と出会って、と記憶を辿る。
「目が覚めた?」
 そこへ、りん、と鈴の音が鳴るような声が落ちてきた。扉のほうへ視線をやると、長い黒髪の女性がトレイを手に、こちらへやってくるところだった。
「……っ」
「大丈夫、なにもしないよ」
 反射的に身構えた美月に、女性はやわらかく微笑んだ。歳は美月と同じくらいか、もしかすると少し歳下か。あの金髪美青年同様、整った顔立ちをしている。
「わたし……もしかして気を失って……?」美月は恐る恐る訊ねる。
「そう。クラウドが女の人の肩を掴んでると思ったら、ぐったりしてるし、洋服は着てないしで、びっくりしちゃった」
 ふふ、と笑みをこぼしながら、女性はベッドサイドまでやってきた。しゅん、とすまなそうにベッドの中で頭を下げる美月に、気にしないで、と声をかけると、トレイをサイドテーブルに置く。その上にはなにやらマグカップが載っていた。ゆらり、湯気が上がって、ほのかに甘い香りが美月の鼻を掠めた。
「紅茶、飲める?」
「はい……ありがとうございます」
 美月は額のタオルを手に取りながらゆっくりと体を起こす。ぱさり、シーツが捲れ、上半身には、ゆったりとしたシャツを纏っていた。
「洋服……」
「安心して、クラウド――あのさっきの男の人じゃなくて、私が着せたから」
 タオルと交換にマグカップを差し出しながら、不安そうに瞳を揺らした美月に彼女は笑った。
 そう、ですか、とその言葉に安堵しつつ、両手でカップを包み込む。じわっと手のひらに熱が伝播する。ホッと、自然と息を吐くようなちょうどいい温度だった。湯気がゆるりとくゆり、アールグレイの華やかな香りとブランデーの豊かな甘い香りが美月の唇を撫でる。ティー・ロワイヤルというやつだろうか。
 どうぞ、声をかけられて、美月はおもむろに口をつけた。
「おいしい……」
 まったりとブランデーの芳醇な甘みが鼻に抜けて、どこかしあわせな気持ちに包まれる。先ほどまで感じていた恐るべき動揺は、すっかりとどこかへ消え去っていた。
「よかった」美月の横で、女性が笑った。
「ところで、あなたの名前は?」
 紅茶が半分ほどになったところで、彼女が切り出した。
「私はティファ」
 凛と美月を見据えて、やわく微笑む彼女に、「え、と……ミツキ、です」とカップを膝に下ろして答える。
「ミツキ、いい名前ね」
 そっと目を細める彼女に、美月はこそばゆくなり頭をちょこんと下げた。
「ミツキは、どうしてここにいたの?」
 ティファはベッドサイドに椅子を持ってきて、腰掛けながら訊ねてくる。どうして、その言葉を口の中で転がしながら、美月は記憶を紐解くことにした。
「目が覚めたら、ここに。それまでのことは、はっきり覚えていなくて」するり、カップの腹を撫でる。
「でも、たしかに仕事が終わって、家に帰ったはずなんです。山手線にも乗ったし、帰りに、ファミマも寄った記憶はあって……」
「ヤマノテセン? ファミマ?」
 きょとん、と首を傾げるティファに美月はハッとした。先ほどの自分を見ているような反応だったのだ。まさか、日本語を話していたら誰もが知るような名称を知らないなんて――そこで美月の頭にはある考えが過った。
「あの、ティファさん。ここって、なんて街ですか?」
 美月は恐る恐る訊ねる。
「ミッドガルよ」ティファは答えた。
「ミッドガル……」
 地球上のどこかにありそうな名前だ。美月は指の腹でカップを何度かこすったあと、ええと、と質問を続けた。
「じゃあ、なんという国ですか?」
「国? 国って、なに?」
 ティファが訝るように眉を動かすのを見て、美月は軽い衝撃を受けた。
「アメリカとか、日本とか」半ば絶望しながら言い添える。
「アメリカ、日本……?」
 いよいよ、おかしなことになってしまったようだ。不思議そうに言葉を転がすティファに、美月はマグカップをぎゅうと握りながら、眩暈を覚えた。

 ひとまず、ティファの気遣いもあり、シャワーを浴びることになった。ザアザアと降り注ぐ飛沫を受けながら、美月は考える。
 自分は、知らない世界にいる。つまり、異世界トリップというやつだ。どうやら、なにかのはずみで美月は世界を飛び越えて違う惑星か、それとも次元か、ともかく地球とは別のどこかに来てしまったらしい。同じ言語を話している――かどうかは定かではないが、お互いの話していることを理解はできている――というのに、二人の間には大きなズレのようなものがある。
 夢かと思い頬を抓ってみるも、ただ痛いだけ。心臓はいやにどくどくと動きを早めるが、誘拐ではないことがわかったぶん、美月の頭はかえって落ち着いていた。
(わたし、どうして、ここに?)
 ――それは、わからない。思い出そうとしても、頭に痛みが走るばかり。名前も、生まれも、育ちも、昨日の朝ごはんになにを食べたのかまで、すべて鮮明に覚えている。だが、この世界にくる直前のことは、一番新しい向こうの世界の記憶のはずなのに、なにひとつ蘇ることはなかった。
 どうやって帰ればいいのだろうか。どうすればいいのだろうか。親も友人も、仕事も、すべて向こうに置いてきてしまった。手がかりは――美月は自分の耳に触れる――このピアスだけ。鏡がないから、どんな形をしていて、何色の宝石を載せているのかはわからない。
 ティファは、美月の身の上について、ピアスのことも含めてシャワーを浴び終えたらゆっくり話そうと言った。どうやって、告げようか。はっきりと知らない世界から来てしまったことを打ち明けるべきか、否か。だが、言ったところで信じてもらえるのか。
 ザアザア、湯が降りしきる。俯いて、手のひらを眺める。
 たしかに、見慣れた自分の肌はそこにあるはずなのに。このシャワー室から一歩踏み出したら、なにもかもを知らない世界に飛び込むのだ。
 ティファは、悪い人には見えなかった。だが、あのクラウドという男の人は?
 自分の中で伝える内容を整理してみるも、どれもこれも、説得力のある話にはならなそうだった。体はさっぱりしたのに、胸にかかった暗い靄は晴れぬまま。
 あまり長湯しては失礼だと思い、シャワーのバルブを閉じる。ザアザアとその場を占めていた音が消え、途端に無音な世界に取り残された。
 不意に、冷蔵庫の中に食べたかったアイスを残してきたことを思い出す。
「食べたかったなあ」
 案外呑気な自分に、美月自身も内心驚いていた。
 ぴちゃん、水の滴る音が、静かに響いた。

「それで、アンタは別の世界からやって来たっていうんだな」
 シャワーのあと、ティファの洋服を借りた美月は、スキッパーシャツにスキニーパンツというラフな出で立ちで、彼女に連れられてセブンスヘブンの店内へと上がっていった。そこにはあの金髪碧眼の美青年――クラウドと、それから、片腕が銃の強面の男の人がいた。
「はい、証拠はって言われると、困るんですけど……でも、とにかく、ここはわたしの知る世界じゃないんです」
 クラウドの言葉に必死になって返すと、もう一人の男の人が、「そんなの、信じられるか」と唸るように口を挟んできた。
「バレット」ティファが諌める。
「だってよ、いきなりベッドに現れたんだろ? なにが目当てだ、ええ? 金か、それとも――」
「バレット!」
 バレットは渋々とカウンターの椅子に座って黙り込んだ。
 彼の言うことはもっともだ。片腕が銃という見た目と声の大きさや喋り方から、美月はバレットに恐怖心を抱かずにはいられなかったが、今の自分を顧みてみれば、金銭目当ての怪しいやつと思われても仕方がない。
「……すみません、そう思いますよね……でも、本当にわたし、お金とか取る気もないし、危害を加える気もないんです。とにかく、わけがわからなくて」
 ごめんなさい、と美月が頭を下げると、バツが悪そうにバレットは鼻を鳴らした。
「クラウド、ミツキの言うこと、どう思う?」
 ティファが唇をムッと結んだままのクラウドに訊ねる。
「俺たちの誰もがアンタの侵入に気がつかなかったんだ。腑に落ちないが、アンタの言うとおり急に現れたと考えるのが一番妥当だろうな」
「じゃあ、ミツキのこと……」
 ティファは自分を信じてくれているのだろう。いや、それは正直なところはっきりとはわからないが、少なからず、美月に敵意がないのと、この状況を理解し味方でいてくれているようだ。
 美月は俯きがちにクラウドに視線を向ける。感情を削いだ顔つきは、精緻な人形のように整っている。初めて見たときはそこまで知ることはできなかったが、彼の瞳は不思議な碧色をしていた。空のようにも、海のようにも見える。とても、きれいで、どこか懐かしいような――。
「信じなくもない。が、猫はどう説明をつける?」
 ぱちり、目が合った。だが、それは一瞬で、すぐに逸らされてしまった。
「そうだ、あの白猫……」
「……あの、猫って?」美月は仕方なくティファを見る。
「ミツキが目覚める前に、クラウドが拾ってきた猫をあのベッドに寝かせていたの」
 ね? と同意を求められて、クラウドはこくりと頷く。
 そういえば、意識を失う前に同じことを訊かれたような。
「……ごめんなさい、見てないです」
 美月が唇をはむ、と隠すと、ティファが悩ましげに顎に手をあてた。
「どこか、逃げちゃったのかしら。とっても、きれいな猫だったの。白くて、小さくて。マリン――バレットの娘なんだけど、マリンがお世話するの楽しみにしていたの……」
 わたしが来たからきっとどこかへ行ってしまったのだろう、美月はティファの言葉にそんなことを考える。
 悪いことをしてしまった、としゅんと視線を落とすと、不意に、なあ、とあの粒の揃った声で呼びかけられた。
「……もしかして、アンタがその猫なんじゃないか?」
「え?」彼の言葉に、驚いて目を瞬かせる。
「いえ、まさかそんな……」
 慌てて否定しようとしたが、彼の視線が彼女の耳元に注がれていることがわかると、美月は咄嗟に耳を触った。そこには、あの丸い一粒玉の宝石がついたピアスが。
「え、ミツキ、そのピアス……」
 ティファが信じられない、という顔で美月の耳を覗き込む。なにがなんだかわからない美月は、目を白黒させるばかり。バレットも同様、なにが起こっているのかわかっていない様子だった。
「全く一緒なんだ、猫が着けていたピアスが」
 じっと美月の耳元を注視していたクラウドがやがて告げたのは、とんでもないひと言だった。