第十九話 風になりたい

 その日七海健人は都立呪術高専の敷地内を歩いていた。
「なーなみ!」
 草むらから飛び出すうさぎのごとく現れたのは高専教師であり、特級呪術師の五条悟。うさぎとは言ったが、実際にはおよそ小動物とは言えぬ大きな図体と多くがクズと称するデリカシーを欠いた言動が癪に障る生き物でたる。
「おいおい! 無視かよ七海ィ、仲良く熱帯魚眺めながら同じハニトーのトーの部分食った仲だろ、ツレないんじゃないのその態度は」
「たしかに熱帯魚は眺めましたが仲良くもないですし、トーストを食べていたのはアナタだけでしたよ」
「なんだよ、食いたかったの? 言ってくれればよかったのに。七海も素直じゃないなーホント」
「そういうことじゃありません。というより、アナタが頼まれてもやらないと言ったんでしょう」
 常の調子で完全無視を決め込むつもりだったが、奈良公園のシカ並みにまとわりつかれては七海もかわすことができなかった。遭遇早々、五分も経たぬ間に多大なるストレスを抱えた七海は、はあ、とため息をつきながら自販機の前で脚を止めた。
「この間、会いましたよ彼女」
 スーツのポケットから小銭を取り出して、ブラックの缶コーヒーを押す。五条は隣でのんきにスラックスのポケットへ手を突っ込みながら、「へえ? 生きてた?」と軽率さをにじませる声で言った。
「ええ」七海は膝を下り、取り出し口からコーヒーをとる。
「なかなか痛ましい様子でしたよ。まあ、呪霊に襲われて、命を落とさずに帰れただけ儲け話でしょうけど」
 立ち上がった瞬間、なに食わぬ顔で胸の前に大きな手が差し出されたが無言で払いのけた。
「ヤダー七海こっわーい。つーか、尊敬する大先輩にメロンソーダおごるとかないわけ」
「尊敬されるようになってから言ってください。それに私の何倍も稼いでるひとがなに言ってるんですか」
 すぐに脱線する会話を戻すか迷いつつ、七海はコーヒーでストレスを胃に流し込んで、五条悟と不運の遭遇をしてから本日二度目のため息をつく。
「それで、あの呪詛師のお仲間は懲らしめたんですか」
 信用できるし信頼もしているが、尊敬だけはできない先輩の五条は不承不承自分のお金を出してメロンソーダを買っているところだった。
「んー、ボチボチってところ? めぼしいところはとりあえず潰したけど、肝心な呪符使いがいないんだよなぁ」
「とりあえず潰したって、いくつもカルト集団壊滅させといてよくもまあ」
 ここ最近、いつにも増して五条の仕事が多かったのは風の噂で聞いていた。そのほとんどが七海が高専に訪れた際、「五条さん知りませんか」と訊ねてくる伊地知によってもたらされたものであるが。頼んでもいない仕事を勝手に請けては、地方の小さな宗教団体をいくつも殲滅していると胃を押さえながら、こちらこそ頼んでいない五条の情報を話してくれたわけである。七海は自分がこの男の居場所を知っているのではないかと思われていることすら不名誉であった。
 それはさておき、五条が永らく水面下で動き回っていると知る彼は、コーヒーを煽りながら、よっこらせ、と自販機の取り出し口の前にしゃがみこむ男を横目で眺める。
「なに、七海」
「いえ。呪符使いではありませんが、呪霊を御する力を持つ人間なら心当たりがいたと思いましてね」
 ヤンキー座りのまま、五条は七海を見上げた。
「オマエの口からそれが出てくるとは思わなかったよ」
「アナタの口から出てこないことにも驚きましたがね」
「今から言うところだったって、七海はせっかちさんだなぁ」
「その言い方癪に障るのでどうにかなりませんか。言っても無駄でしょうけど」
 先日起きた渋谷神泉での立て篭もりテロは、五条悟を狙った呪詛師による計画的な犯行であったというのは、気の知れた高専関係者の間ではちょっとした噂であった。呪詛師は五条悟との接触を謀るために、彼に関係する一般人を襲ったのだという。その一般人が、先に出た彼女だったことは言うまでもない。
「ま、なきにしもあらずってところかな。でも僕的にその線は薄いとも思うんだよね」
「それはなぜ?」
「ん? 特級呪術師のカン?」
 メロンソーダ片手に立ち上がり、なんともふざけた調子で言うが、その言葉を否定できないほど五条が飛び抜けた呪術師としての実力を伴っているのは理解していた。ただ、やはりどこかイラついた七海はなにも言わずコーヒーを口にする。隣で、プシュ、とプルを上げた音が鳴り、甘ったるいメロンソーダの香りが漂って七海はかすかに目もとを引き攣らせた。
「マジな話、アイツが寄越した置き土産っていうなら、熨斗つけて送り返したいくらいだよ。あまりにずさんだ」
 しかし、五条の声色に七海は口を噤みただ高専の敷地内を見るともなしに眺める。
 冬に起きたあの一件は、すっかり見る影もなく片づいていた。この男の気持ちなど推し量るつもりもないが、諸行無常の念を感じずにはいられまい。今見る景色が昔と、それこそ十年前と変わらないようで、常に物事は変化している。立ち止まった今もなお、等しく頭上にその時間の変化はふりかかり、日常を進めていく。七海はふと一面の水槽を思い出した。青白い光の下でまさしく天に向かうあぶくが消えてはまた生まれいづる光景。
 変わらないように見えて、同じものなどどこにもない。どこにも、変わらないものなど存在しない。
「——今は、かえって傷が治ってしまうことのほうが怖いかもしれません」
 七海がふと口にした言葉に、五条は缶に口をつけたまま横目で彼を見遣った。
「なんだよ」
「彼女の言葉です」
 五条は前を向いた。いつものからかいや軽率な冗談、そしてうすら寒い笑みすらもない。ただ、それが答えだと七海は思った。
「向かってくる敵をすべてかき消すような男が、怖気づくなんて情けないですね。それとも、今さら喪うのが怖いとか抜かさないでくださいよ、気色悪いので」
「オマエ、僕に恨みでもある?」
 かすかに低くなった声に、七海は迷うこともなく、「恨みしかありませんよ」と答えて飲み終えた缶コーヒーをしっかりゴミ箱に捨てた。
「お別れくらい、したほうがいいんじゃないですか。どうせアナタのことだから、あの日のこと謝ってもいないのでしょうし」
 これは決して、この男のためではない。七海は言い聞かせる。泣きたくても泣けぬ、笑いたくても笑えぬ、顔の引き攣った哀れな彼女のためだ、と。
「では、用事がありますので」七海は五条の顔を見ることもなく、その場を立ち去った。
 特級呪物、宿儺の指がとある少年を受肉するのは、これから間もなくのことだった。

 雨が降ると傷が痛む。すっかり穏やかな陽気は厚い雨雲に包み込まれ、冷たい雨滴が肌を打つようになっていた。そのころには、春子の生活はすっかり通常運転となっていた。
「春子ちゃんおはよー」
「ちゃんじゃないでしょ、先生」
「せんせー」
「はい、おはよう」
 朝、校内で筋トレをしていたソフト部員があいさつをしに保健室に寄る。すっかり足の捻挫は治ったようだ。
「最近は怪我なさそうね」
「うん、バッチリ! 三年ももう引退だからね、せっかくの夏を棒に振りたくないし」
「それはいい心構え。しっかり柔軟体操して、体をいたわってね」
「はーい」とほがらかな返事とともに、少女が教室へ向かう。入れ替わりで、二年生の生徒がやってきた。
「先生」
 これもまた、見慣れた姿だ。ついこの間、春子とともに都内の大学病院に入院をしていた女生徒。といっても若さゆえに春子より先に病床をあとにしたのだが。
 ブレザーの肩口についた雨をハンカチで拭って、彼女は頬をゆるめて春子と丁寧な挨拶をかわす。
「雨、たいへんだったね」
「うん。せっかく髪の毛きれいに梳かしてきたのに、もう巻いちゃいました」
「わかる。梅雨の時期はだめよねえ」
 気分が沈む季節ではあるが、あの一件以来、妙に憑き物がとれた顔をして彼女は明るく笑うようになった。血の気の少なかった頬も、いまはほんのり色づいている。春子は室内の整理整頓を終えて、ドア口まで彼女を迎えた。
「なんだか、いいことでもあった?」
 にこにこ、微笑を浮かべている彼女に、春子はふしぎになって首をかしげる。
「あのね」
 彼女はちょん、と春子の肩をつついて、そっと耳打ちをした。

 その週末、春子は家入から言われ最後の検診を受けることになっていた。いつもなら入院先であった大学病院を指定されるのだが、その日だけは多忙な家入の都合である場所に出向くことになっていた。
 土曜の授業を終えて、春子は指定された渋谷駅モヤイ像前に立っていると、黒いパンツスーツを着た男性が彼女に声をかけた。
「黛さん」
「あ、伊地知さん」
 何度か世話になったことのある、呪術高専の関係者であった。今回の事件の経緯や呪術師や呪霊について大まかな知識を教わったのも、春子の事情聴取を行なったのも実を言うと彼である。さらにはその他、治療及び検診の連絡窓口、そんな多忙な役回りをサラリとやってのけてくれた彼が、春子を見つけるや、「車を用意しております」と黒塗りの車に案内する。どこに行くのだろう春子は疑問に思ったが、素直に伊地知の指示に従い後部座席に乗り込んだ。

「申し訳ございません、いろいろと訳あって、家入さんが持ち場を離れられないものですから」
 慣れた手つきで車を走らせながら、伊地知は春子に語りかける。その丁寧で慇懃な対応はいつも安心できるものがあった。
「いえ、いつもわざわざお時間をとっていただいている身ですから」
「そう言っていただけるとありがたいのですが」
 フロントミラーに胃痛を抱えていそうな顔つきで、ホッと息をつく伊地知の姿が映る。
 今日で、おそらく彼と話すのも最後。それは、家入も変わらない。曖昧に溶けた境界にたゆたうのもこれで終わりだ。いずれはくるとわかっていた。しかし、いまだ日常の非日常とのあわいを漂うくらげの心地を味わっていた。どちらが日常で非日常か、なにが現実で夢幻か、淡くふちどられた楽園の、果てに背を向けて、愛しいひとの面影を探している。彼がどのように生き、今どこでなにをしているのか、楽園の果てになにが待ち受けるのか、春子は知らない。おそらく彼女は永遠に知らないまま、そこから去らなくてはならないだろう。楽園など、まやかしだ。それでも春子は、つかの間でもいい、夢でも、幻でも構わない。ただ、五条とともに有りたかった。たとえ、果てに修羅が広がろうと、彼を止める凪となり、その身を包む科戸風となり、飛ぶ鳥の背を押す追い風となりたかった。