「では名前を」
白衣姿の家入が言って春子は口を開く。
「黛春子、28歳、血液型は■■型、板橋区在住、渋谷煌心女学園養護教諭です」
「よろしい。では、これからいくつか図版を見せるので、それがなにに見えるか答えてもらいます。途中休憩が必要であれば都度申告をお願いします。では」
カルテになにかを書き込んだあと家入が用意していた紙を春子に見せる。
「蝶が一匹、羽を広げている。大きな蝶」
「次」
「赤い帽子をかぶったが二人、向かい合い、手を合わせている。サンタみたい」
「次」
退院してから初めての診察であった。家入の隣には同じく白衣姿の男性が座っており、しきりに手元の資料へ書き込みをしている。おそらくこのロールシャッハテストの結果を診断する担当医師だろう。淡々とインクの染みを見つめて、春子は答えを告げていく。
「次」およそ七枚目を過ぎたとき、はじめて春子の言葉が詰まった。
「……魚。大きな魚がこっちを見ている。赤いシミはひげ。体は緑や黄に光り、冷たく、ぬるぬるしていて、それから、血と、肉とを放置した、ひどい腐敗臭」
沈黙が続く。カリカリ、ペンが紙の上を走る。
「次」
「光、それから熱風、硝煙。その中に男性が一人立って……背を向けて、歩いてる」
「次」
「これは……よく、わかりません」
春子の顔からは一切の表情が消え失せていた。家入はそれでもペースを崩さず紙を捲り続けた。
「はい」
テストが終わり、待合室のベンチに座る春子に家入がカップコーヒーを差し出してきた。
「ブラックだけど」
「ありがとうございます」
春子は受け取り、ふう、ふうと何度か息を吹きかけて口をつける。
「このあとはレントゲン撮ったら今日はおしまい。夜はゆっくり休むといいよ。疲れたでしょ」
ぶっきらぼうな物言いに小さく笑って、春子は手を下ろした。
今日春子が受けたのはロールシャッハテストといって、いわゆる性格検査のひとつだ。警察官やパイロットなど特殊な技能または精神を必要とする職業の適性試験に用いられることもあれば、単に心理カウンセリングに伴う検査の一部として用いられることもある。インクを落としてできたような左右対称の図版をもとに、それがなにに見えていくかを答えることによって、人の精神状態や思考パターン、あるいは本人の自覚していない深層心理を分析する。
こうして、春子のように事件や事故に巻き込まれた人間の精神状態を診断する際にも使われることがあった。
「学生時代、実習で何度かやったことがありましたけど、なかなか通しでやると気を削りますね」
「ああ、心理学専攻だったか」
「ええ」
それももうはるか遠くに感じる。懐かしささえにじむ記憶に肩をすくめつつ、春子は隣に家入を受け入れる。
「昔はあんなのでなにがわかるんだろう、人の認知構造と心理構造がどうつながっているんだろうと不思議に思っていました。でも、結構、あなどれないものですね」
「私は人間の中身(こころ)に関しては興味ないからわからないけど。でもまあ、人間の心理っていうのは人体の造りをはるかに凌駕する複雑さだからな」
そっちはお手上げだ、と家入は降参の構えを示し、漫然と目の前に貼られた院内ポスターを眺める。
「ま、まだあれからひと月も経ってないし、さほど気にすることはない。むしろ、これで淡々としすぎていたら精神状態を疑うところだ」
七枚目までは順調だった。いや、順調と言うのが正しいのかはわからないが、インクの染みがなにかに変貌し春子の脳を追い詰めることはなかった。だが……。
慰めているのか、そうでないのか、いつも微妙な言い回しをする。しかし、それが彼女の優しさなのだろうと春子は思った。
「肩と脚の具合は?」
「問題ないですよ。歩けていますし」
「しびれは?」
「ときどき。でもなにかを持ち上げたり、階段をのぼったりするときくらいですから。とくに気になりません」
言いながら、春子は内心自嘲した。——はい、ダウト。能天気な声が聞こえたからだ。こんなときでさえお見通しだなど、ほんとうに嗤えてしまう。
家入に告げた言葉とはうらはらに、いまも、指先が震えている。雨の日には傷が疼く、寝る前にはおぞましい光景とともに痛みが蘇る。
家入は春子を気だるい横目で一瞥したが、「そ、ならいいよ」すぐに首を捻り椅子から立ち上がった。
「んじゃ、レントゲン撮って帰るか。経過良好なら、もうそんなに診せにこなくてよくなるし。来週には仕事復帰もできると思うよ」
なにごともないふうに皆が仮面をかぶって生きていく。それが、人間というものだ。
春子は診察の帰り、行きつけのベーカリーに立ち寄った。
店を満たす焼き立てパンの香りは疲れた心にとてもよく効く。クロワッサンやパン・オ・ショコラ、クロックムッシュにクロックマダム、子どもに人気のベーコン・エピや愛らしいパンダを模した菓子パン。甘くて香ばしい匂いと、目に宿るにぎやかな景色。いらっしゃいませ、と常套句を飛ばす店員のほがらかささえ、今は慰みか。
春子はトングを手に、ああでもないこうでもないとパンを品定めする。神経を使ったので、体が即効性の糖分を欲しているが、しかし腹に溜まるものも捨てがたい。なんだかんだと昼食を摂るタイミングを逃してしまったのだ。
ヴィエノワズリーコーナーを通り越して、サンドイッチのショーケースへ向かう。ジャンボンブールかカスクートか、あるいはいっそのことカツサンドか。そこで店の自動ドアが開いたのも気づかぬ春子は迷う。
カツサンドは胃にもたれそうだし、ジャンボンブールも退院してすぐに食べたし、なかなかおおざっぱな消去法で春子は最後のひとつに決める。
だが、カスクートを取ろうとして、春子は隣にやってきた存在に気がついた。
「……カスクート、いります?」
運の悪いことに、最後のひとつだった。
シルバーグレーの形よいスーツに身を包んだ男を見上げ、春子はトングを引っ込める。
「いえ、先にいたのはあなたです。購入されるのであれば、どうぞお気になさらず」
上背は春子の頭ひとつ分はゆうに高いだろうか。独特のサングラスと照明に鈍く煌めく髪が記憶の片隅で重なった。忘れもしないあの夜。彼と連れ合いだった男だ。
ぱっと見はサラリーマンに見えなくもないが、たたずまいが普通のそれとはやはりちがう。
春子はまじまじとその横顔を眺めていたが、やがて瞳を伏せると目の前のショーケースへ視線を戻した。
「ここのカスクート、おいしいですよね」
「あいにく、今日が初めてです」
男は答える。
「そうですか、でしたらぜひカスクートを」春子は言った。「伝統的な製法で作られたバゲットと自家製ハムの組み合わせが最高なんですよ。わたしは、また、来れますから」
自分でも、なぜそんなことを言っていたのかはわからない。これでは単なる店の回し者みたいだな、などと思いながらショーケースの上段から木苺のジャムとバターを挟んだバゲットサンドをとる。ただ、なんとなく、本当になんとなく、今日はカスクートの気分ではなくなっただけ。自分のトレーに真っ赤なジャムサンドが載って、つやつやして、きれいだと漠然と思った。
左肩の筋肉が小刻みに収斂する。頬が引き攣る。春子は小さく唇を噛んで、トレーに右手を添える。
「傷は痛みますか」
昼下がりのベーカリーに客は二人。のどかな空気のただ中で、沈黙を切り裂いたのは男だった。カスクートをとることも、春子を見ることもなく、サングラスのブリッジを押し上げて言った彼に、春子は小さく唇をふるわせる。彼女もまた目の前のサンドイッチのショーケースを眺めながら。
「そうですね。まだ、ジン、と疼きます。最初のころは痛くて眠れないくらいでした。でも、今は、かえって傷が治ってしまうことのほうが、怖いかもしれません」
不意にこぼれた本心だった。
日常は廻りゆく。太陽は沈み、また、日は昇る。ニュースに流れるのは地球のどこかで起きた森林火災のこと、はたまたどこかの商店街や学校で起きた事故のこと。今日も人が死に、昨日も明日もおそらく命が消えていく。目の前に見えぬそれは、およそだれもが他人事と思っているだろう。今この瞬間、命を燃やしてだれかが見えぬ恐怖や絶望と戦っているなど、目を背けて自らの仮面の下に閉じこもる。
いつもどおりに来る電車、ひしめき合う車内。がたん、ごとん、揺れる景色。届かぬ青空、後ろから吹く風。おはよう、という挨拶、キーンコーンと鳴る鐘。真白のシーツに、クリーム色のカーテン。ソファがひとつと丸テーブルに椅子が四つ。流し台に、冷蔵庫に、デスクの上に飾られたパンダの置き物。世界は変わらない。
変わったとすればそれは。
「五条くん」
春子は久々にやってきた自らの城で、あたたかな陽気を抱きしめる。授業は始まり、驚くほど校舎内は静かだ。ときおり遠くに聞こえる体育の声が耳の裏を心許なく撫でる。冷蔵庫には同僚から快気祝いにともらったケーキが眠る。だが、それを分けあう相手も、もういない。
息が苦しい。胸が痛い。背と肩と脚と、さまざまな傷が疼き、目の前がかすむ。長い人生の中で、およそひと握りにも満たない時間だったのに。はるかに長く、彼を知らずに過ごしてきたはずなのに。
変わってしまった。
ただひとつ、枯れた白い薔薇が春子の机の上で目映い陽射しを集めていた。
