車は高速に乗り、都心から遠ざかっていく。外の景色がビル群から緑豊かな大自然に変わり、しばらく霧立つ山路を行くとやがて大きな寺院の前で停まった。
「都立、呪術高等専門学校」
表向きは、宗教学校として別の名で登録されている私学らしい。その別名はなんとなく、聞いたことのある名前であったが、その実態が呪術師を育成する日本で数少ない専門機関であり、呪術師の総本山だとは思いもよらなかった。霧の中に現れた荘厳な伝統様式の膨大な敷地を前に、春子は足がすくむ思いでそびえる五重の塔や屋敷を見上げる。
「では、こちらへ」伊地知がそんな春子を見かねて声をかけると、彼らは敷居を跨いだ。
「あの、本当にわたし、ここにきてよかったんでしょうか」
寺院独特の引き締まった空気に、どこか緊張を抱きながら春子は伊地知のうしろを歩く。
「え?」
「なんだか、一般人が入ってはいけないような雰囲気なので」
「まあ、通常出入りする人間は限られていますけど、家入さんのご指示ですから、私はなんとも」
そうこうするうちに、参道を上り、春子はいくつかある校舎のうちのひとつに案内された。
「来たな」
医務室と書かれた部屋で、彼らを出迎えたのは家入だ。常の不健康そうな顔で、白衣を羽織っている。春子が会釈をすると、家入は挨拶もそこそこに春子をソファーへ座らせた。
「遠路はるばるおつかれさま。山道だから、なかなか堪えただろ」
「そうですね。まさか、こんな山奥までくるとは思ってもみませんでした」
ぎこちなく笑って肩をすくめた春子に家入は眉を上げ、後ろに控えていた伊地知へ、「もう行っていいよ」と指示を出す。伊地知が律儀にお辞儀をして部屋から出て行くと、早速診察が始まった。
「上着を脱いで」
いつもの要領で、下着姿になり左肩の触診が行われる。呪霊によって抉られ、黒く壊疽しかけていた傷口も、すっかり元の肌色に戻りつつあった。
「うん、悪くない。腫れもないし、皮膚の再生はバッチリだ」
次に肩を回して可動域を調べる。
「これはどう」
「大丈夫です」
「こっちは」
「平気です」
淡々と診察を終えながら春子は思った。もしここで、痛がればまたしばらく経過観察が必要になるのか、と。
「しびれたり、引っ掛かりは?」
だが、春子は「大丈夫です」と答えた。それに納得した家入は次に左大腿部の触診を始める。あいかわらず、彼女の手際は迷いがなかった。
「経過良好。これで終わり」
カルテに書き込んで、ファイルを閉じた家入に春子は洋服を着ながら頭を下げる。
「傷痕はまだ残っているけど、少しは薄れるよう工夫をしてみたから安心して。効果はわからないけど。ああ、そうだ、最後背中の傷、見せてくれる?」
春子は一瞬瞠目したが、指示に従って今一度ブラウスを脱いだ。
「やっぱり、これはかなり残ってるな。昨年、見た医者がヤブだったな。私が診ればよかった」
「自分では、なかなか見えないので気にならないんですけどね」
「でも、困るだろ」
家入の指先は冷たい。背中に大きく渡った傷をツ、となぞられてびくりと肩を跳ね上げながら、春子は答えを探す。
「銭湯とか、プールとか」
「この一年は行かなかったので、とくに困らなかったですよ」
「ああ、誘われなかった?」
「なかなかグサッとくることおっしゃる……でも、むしろ行かなくても困りませんしね」
「それは一理あるな」
この歳になって肌を出す用事はめっきり減るものだ。銭湯にもプールにも、行かなければ困ることはないし、行かなくても人間死にはしない。温泉旅行には行きたいと思うこともあるが、個室露天風呂付きの部屋だってあるし、時間をずらせば人の目が気になることもない。春子にとって、とるにたらないことであった。
「でも、これから先、困ることがあるかもしれない」
くるりと丸椅子を回転させられて、向き合う。不意に自分を射貫いた視線に春子の心臓は大きく跳ねた。
「治そうか?」
完全に消せなくとも、目立たなくすることはできる。家入の言いたいことは、なんとなくわかった。春子の華奢な背に刻まれているのは、決してきれいとは言えない傷だ。恋人ができたとき、結婚するとき、子どもができたとき、もしかするとこの傷が呪いとなるかもしれない。
それでも、気だるく憂いを帯びた瞳の中の、優しい救いの光を春子は拒絶する。
「……いえ。これは、そのままでいいです」
家入は儚く、困ったふうに今にも泣きたそうな顔でぎこちなく笑う春子を見たが、すぐに、「そ、ならいいけど」とデスクに向き直った。
「それじゃ、診断書出すからそこらへん散歩してて」
春子はこくりうなずいてブラウスを羽織った。
「——で、聞いてたんだろ、クズ。どうすんだ」
完全に扉が閉まり、家入は窓を振り返った。
医務室を追い出された春子は、屋敷を出て周辺を散策していた。あまり遠くに行っても迷子になるだけである。明治神宮並みに広い敷地の高専内を自由に歩き回る自信はなかった。
雨上がりの大地の香りを嗅ぎながら、春子は趣ある景色を堪能する。一般的な寺院や神社と違って、人気がないのがよりいっそうその神秘さを醸し出していた。夢の中を歩いている心地がする。しばらくして、声が聞こえてきた。
「おーい、伏黒、いたいた!」
「ちょっとアンタ、勝手に動き回るんじゃないわよ! ちゃんと案内しなさいよね!」
生徒だろうか、賑やかなやりとりに頬がゆるむ。
あっという間に声の主たちは近づき、春子の視界を黒い制服姿の少年少女が横切っていく。
「なんで俺が……」
「アイツが言ったのよ! 僕忙しいから恵に任せるねって。男ならきちんと任されなさいよ」
「おっ伏黒、ここ俺通ったぜ。この間案内してもらった」
「案内してもらったなら、もう用は済んだな、帰るぞ」
「ちょっと! 私がまだだっての! この広い敷地にレディーを放り出すつもり? 五条もアンタらもホンット男の風上に置けないわ、あ〜やだやだ」
刹那、一瞬の風が吹く。
ぽたり、滴が滴る。
「春子」
声がして春子は振り返った。
彼らと同じく真っ黒な衣服を纏って、天を向く銀糸と、それから端正な目元を隠す黒布と。たしかに、視線が絡んでいる。
「五条くん」
その名を紡ぐのが、こんなに心地いいとは。
この声が、届くとは。
「あっ、五条先生じゃん!」
なおもにぎやかな声がつづく。
「エッ忙しいとかまたホラ吹きやがったのかあの男。って、バカ虎杖! お取り込み中じゃない! 伏黒も! 突っ立ってないで、木の影に隠れろや!」
「いや、のぞくのかよ」
「なに言ってんのよ、男女の逢引きはこっそりのぞくに限るわよ」
「なんか楽しそうだな! 伏黒、一緒に隠れようぜ!」
「聞こえてるからね、三人とも」
少年少女へなごやかに手を振って、五条は春子に歩み寄る。軽い足どりながら、その動作にためらいはない。一歩、二歩、あっという間に大きな体が春子の目の前に立ちはだかる。
「春子は、バカだね」
ひどい、春子は肩を揺らす。
「のうのうと、なにも知らずに笑って生きてりゃいいのに。なんでこんなところ、来ちゃったんだか」
逞しい指先が頬をなぞる。
「でも、五条くんが助けてくれるんでしょ?」
ほんとうは連れてこられたのだ。この世界に足を踏み込んだのは、ほんの偶然。もしかすると、必然。しかし、今はそんなことどうでもいいと春子は思った。
その指の感触を受けとめながら、彼の顔へ手を伸ばす。双眸を覆う黒布を指で押し上げて、きれいに微笑む。
彗星が駆け、銀河が瞬く。なにも怖いものはない。なにも恐れるものはない。未だ見ぬ果てにどんな凄惨な未来が待っていようと、今ここに互いの瞳の中で彼らは生きている。それはきっと、甘やかな……。
長い腕が春子の肩を抱き寄せる。広い胸へ春子が飛び込む。たゆたうぬくもり、はるかな香り。きつく、その躰を模るように大きな手が背に回り、熱が、鼓動が、たしかに彼らをひとつにしていく。
「当たり前でしょ。なんてったって、僕、春子の救世主だから」
