第十七話 枯れた白薔薇

 ピ、ピ——規則的な音が響いている。たゆたう水面に体を預け、どこまでも漂っていた春子はまぶたを押し上げた。
 目映い光が網膜を灼く。一面真白の世界。一瞬、そういう場所に来てしまったのかと思ったが、突如視界に女性の影が入り込んで彼女の思考は果てしない海から身を起こした。
「目が醒めたか」
 女性が言う。肩口までのミディアムストレート、目もとにはくっきりと不健康の印を刻んだ、きれいな女性であった。春子は淡々とした様子で自分をのぞき込む彼女を見つめながら、「ここ、は……」と唇を震わせる。
「病院だ。都内の■■大学病院。どうしてここにいるか、わかる?」
 こくり、春子はうなずいた。
「……事故に、巻き込まれたんですよね」
 昨年も、スーツの男性にそう説明された。校舎の耐震構造が甘く、一部が崩壊し火災が起きた。校舎内で起きたことはすべて事故であり、その日見た一切の出来事は彼女の幻覚であること。また、なにが起きたのかは他言無用であること。後に彼女を診た医者にさえ、背中の傷跡は「倒れてきたロッカー」によるものと説明したのを憶えている。視えないなにかが悪さをしたなど、人の恐怖を煽るだけだからだ。そのスーツの男性は、まさか春子がその後もとある呪術師と親交を続けているとは思わなかっただろうが。
 しかし、春子の言葉に目の前の女性は未だ眠りのただ中に脚を残したままの瞳をまっすぐのぞいて、「いや、正確には立て篭もりテロに巻き込まれた」と言った。
「悪質な呪詛師——つまり、呪いの力である呪術を使って人を仇なす者が起こした、ね。視えたでしょう? あなたも」
 未だ思考はぼやけているが、それだけははっきりと憶えている。男の指に巻き付けられた呪符、視えない力、そして、奇怪な怪物たち。しかし、なぜ彼女が真実を曲げることなく告げてきたのか、春子は女性の答えに釈然としないまま、二度目の首振りをした。
「この世界には、不可思議な存在が多々ある。呪いもそのうちのひとつだな。けど、言えることは、呪いはたしかに存在して、今回のように人々を襲ったり殺したりしている。ああ、昨年も同様に、だな。そんなこんなで、日本における約一万件の行方不明や怪死事件などは、およそ呪霊被害によるものとも言われている」
 彼女は説明しながら、春子の瞳孔や脈拍などを確認していく。「手脚は動かせる?」言われて、春子は指先に力を込めた。
「よし、思っていたより、神経はイカれていなかったな」
 平然な顔をして、なかなか恐ろしいことを言う。だが、眠りにつく前の引き裂かれたような痛みに比べると、驚くほど体が軽く思えた。
 手際良く確認を終えて春子に背を向けた女性に、春子は、「あの……」と話しかける。
「でも、ど、して、それを……?」
 まだ、口がうまくまわらない。自分はどれほど眠っていたのだろう。今は何月何日で、あの日から何時間あるいは何日経ったのか。ただ、世界に取り残された感覚は春子にもわかった。
 女性はうしろに控えていたスーツの男性になにかを告げていたが、春子の言葉にやおら振り向く。
「ん? 知っておくべきだと思ったからだ」
 春子は返事もできぬまま、女性の顔を見つめた。ひとつひとつは端整なつくりなのに、気だるく、不健康さの目立つ顔立ち。センターパートに分けた茶髪と少し垂れた眉と瞳は、見憶えがあった。
「その顔だと、去年はなにも伝えられていないって感じだな。まあ、おそらくそれが慣わしなんだろうが。でも、二度目とあれば、しかも、直々に呪詛師に狙われたとあれば、話は別だろ? 伊地知」
 男性が眼鏡を上げ直しながら、はい、とうなずく。その声色はなんとも気の乗らない音色だった。
「黛さんには、ほかにもお伺いしなければならないことがありますので」
 春子はまた小さくうなずく。
「ま、それはもう少し元気になってからにしよう伊地知。かれこれ一週間は眠っていたことだし、寝たきりでは体力も落ちるからな」

 その後の経過は良好だった。体力の全快までとはほど遠かったものの、継続的な治療とリハビリを続けたおかげで春子は歩けるまでに回復した。
「うん、これなら週明けには退院できるな」
 医療に特化した反転術式を使う呪術師、家入硝子の治療もこれで数回め。間に伊地知という都立呪術高専関係者による事情聴取を挟みつつ、順調に治療は行われ、当初は粉々に砕けていたという鎖骨と大腿部の骨と肉が、家入の持つ呪術の力によってほぼ元に戻りつつあった。
 だが、皮膚に残った傷跡は消えない。
「ただ、職場復帰はもう少し余裕を見たほうがいい。骨も肉も皮も繋がっているけど、それはまだ仮留めみたいなものだからな。それに、今回は厄介な呪毒が回ってくれたおかげで、傷口の周辺組織を壊疽させていたから、通常に比べると治りが遅い」
 入院着を脱いだ春子の体を逐一チェックしながら家入が言う。背中に刻まれた傷痕のほかに、体には無数の肥厚性瘢痕ができていた。左肩と太ももを筆頭に、ケロイドとまではいかないが皮膚が盛り上がり、裂傷部は赤みとひきつりが残っている。周辺も、家入の言うとおり皮膚組織が壊疽しかけていたので、肌色というよりかは、やや黒ずんでいる。もはや、到底きれいとは言えない体だ。
「すまない、きれいに治してあげられなくて」
 春子はふいに落ちてきた謝罪に小さくかぶりを振る。
「ここまで治るなんて、思ってもみませんでしたから」
 治療前の自分の姿を想像してゾッとする。おそらく、生けるゾンビと化していたのではないだろうか。それを思うと、人の形を取り戻せた今を幸運と呼ぶ以外の方法が見当たらなかった。
「たぶん、もう少し傷痕はマシになるはずだよ。まあ、完全には消えないだろうけど」
 慰めているのだろう、しかしぶっきらぼうな物言いに春子は笑う。切れた頬が引きつり、違和感は拭えない。
「ああそうだ。退院後も定期的に検査と治療が必要になるから、それは伊地知と手続きをしてくれ」
 もう服着ていいよ、春子は言われ、入院着を羽織る。
「それと、これ」
 家入が差し出てきたのは黒い箱だった。
「これは?」
 春子は思わず首をかしげる。大きさは両手の平に収まるほど。手触りはなめらか、シルバーのリボンがあしらわれている様はどことなく高級そうだ。
「看護師から。開けてみたらいい」
 彼女の言うとおり、服もまともに着ず、すぐさま銀リボンを引っ張って開けてみる。
 出てきたのは、ガラスのドームに入った白薔薇だった。
「なんでも、胸もとに置かれていたらしい。それをそのままにしておくのはもったいないからと、手先が器用な職員がドライフラワーにしたんだと」
 赤でもなく、ピンクでもなく、純白のオールドローズ。黒い小箱の中、曇りひとつないガラスに包まれ春子を受け容れる。
「きれい、ドライフラワーじゃないみたい」
「だな。こうしてみると存外花も悪くない」
 何色にも染まらぬ、可憐で神秘的なその色彩に、なぜか心臓の奥がきゅうと締め付けられた。いったい、だれがこの薔薇を置いていったのだろう。茫然とその置き土産を眺めているうちに、「それじゃあ、次は月曜に」家入は身支度を終える。
「なにか質問は?」
 青白い顔でじっと見つめてきたが、「いいえ」春子は再び笑って箱を下ろすと、かすかに麻痺の残った指先で入院着のボタンをかけた。

 日常はつつがなく過ぎてゆくものだ。なんの波もなく、嵐もなく、淡々と日が昇りまた沈んでいく。
 春子が目を醒ましてからおよそ一週間、驚異的な速さで彼女は退院し、自らの生活へ戻っていった。二週間前に起きた神泉での立て篭もり事件も、表向きは単なる「強盗」として扱われ、人々の記憶からすっかり消えつつある。紛争も大量殺戮もない、平和な日本の様子に春子は一種の夢を見ている感覚を覚えずにいられなかった。
 しかし、それが本当の世界だ。彼女があの日視た世界こそが、非現実であり非日常にほかならない。悪質な呪詛師に狙われ、それを五条悟が助けにきたことも、あの日のすべてがつかの間の幻だったのかもしれない。しかし、春子の肌に残った傷痕とその疼きが生々しく真昼の楽園を思い起こさせた。

 退院して数日、春子は職場に顔を出した。
「黛先生!」
 時刻はちょうど昼休み。いつもの要領で職員室に向かうと春子は同僚たちに囲まれた。
「もう外出て大丈夫なんですか?」
 心配そうな声を聞きながら、春子は笑って、はい、と答える。まだもう少し職場復帰に時間はかかるが、医師から日常生活に伴う適度な運動は推奨されていた。それでも神泉駅を使うことは躊躇われたので、渋谷からタクシーを拾ってしまったのだが。
「本当、ご心配おかけしました。これ、よければみなさんで食べてください」
「そんな気を遣わなくていいのに! むしろ黛さんが快気祝いもらうほうでしょ?」
「そうだよ! というか俺、黛先生が強盗犯の人質になったって聞いたとき、本当にどうしようかと思ったんだから! マジで、生きててよがっだ……!
 男泣きしだしたのは、バレー部顧問の体育教師だ。あの日春子について行かなかったことを心底後悔しているらしい。
 昼中の学校は穏やかでにぎやかだ。あの日のことなどうそのように、日常は変わらずそこに息づき続けている。職員室の様子に気がついた生徒たちが春子の姿を見つけては、「あ! 春子先生だ!」「春子ちゃーん!」「会いたかったー!」と彼女のもとへと集まる。五分もせずに、春子はあっという間に人だかりに揉まれていた。

 同僚や生徒たちに快気の挨拶と仕事を空けてしまう詫びとを済ませ、春子は学校をあとにした。
 学校から駅まで、今度はゆっくり時間をかけて歩いた。いつもの道、すっかり人生に溶け込んだ穏やかな街並みを進み春子は神泉の駅へ。春子の記憶では半壊状態だった駅舎も、以前と変わらぬ様子でそこに立っていた。有名なファストフード店を横目にエスカレーターを上がり地獄絵図が広がっていた改札を通る。わざわざ殺されかけた場所を通るなどよほどのマゾなのかと自嘲はしたが、思っていたより春子は普通だった。
 粉々に砕けたガラスも、跡形もなく崩れ落ちた駅員事務所も、すっかり元の形に戻っている。どうやってやったのだろう、不思議に思いながら彼女は改札をでてすぐのところで立ち止まって辺りを見回した。変わらないもの、変わるもの、その数を数えると圧倒的に前者のほうが多い。貼られているポスターまでもがほとんど記憶の中と一緒だ。さすがに、新しい版に変えられているのだろうが。変わったものといえば、駅員が何年も毎日のようにお世話になった見知った顔ではなくなったこと。物は修復できても人の生命は修復できない。世のことわりだ。
 春子は目を瞑る。目を瞑って、意識を断絶する。そうして、周りの空気と音を感じながら、しばらく佇んで、まぶたを押し上げた。
 目を醒ましたら日常が変わっている、なんてことはない。いつまでも世界はそこにあり、平行線をたどっていく。交わる道は手のひらで手繰り寄せられない。
 ホームへ降りたあとは、電車に乗って渋谷に向かいそして帰路についた。