第十六話 希う

 京王井の頭線神泉駅における呪詛師による立て篭もり殺傷事件について

 発生日時 2018年■月■■日
 発生場所 京王井の頭線神泉駅
 事件内容 呪詛師による立て篭もり及び殺傷
 被害状況 死者  13名 (容疑者含む)
     負傷者 2名 うち1名は現在も意識不明の重体

 以下 事件解決までの経緯

 午後13時45分ごろ 女生徒A神泉駅ホームへ続く階段の異変に気づく
      50分ごろ 呪詛師Aが女生徒Aに接触、女生徒階段より落下救護室へ
 午後14時10分ごろ 教諭Aが駅舎に到着呪詛師Aに接触
      15分   高専関係者による帳の視認
      20分   特級呪術師 五条悟現場に到着
      34分   五条呪詛師Aに接触 術式を使用し人質を救助
            その後呪詛師Aの死亡を確認

【事件概要】
 下された帳は、呪術師五条悟のみ侵入を可能とした特殊結界術を用いており、現場に落ちていた呪符から犯人は呪霊を操る呪詛師と判明。容疑者は特級呪術師五条悟を誘き寄せるため被害者二名と接触したとみられる。人質のうち一名は知人を介し前夜に接触しており、明確な動機と計画のもと事件は実行された。しかし、容疑者死亡により事件の真意は掴めず。
 また、事件当時現場には複数の呪霊が視認されたが、いずれも三級に満たぬ低級呪霊であり、事件には無関係と断定。
 神泉駅で起きていた転落事故、及び渋谷周辺の連続通り魔は同容疑者による犯行とみて、余罪を確認中。
 なお、人質二名に関しては現在■■大学病院にて入院治療中。うち一名は依然、意識不明。回復次第、事情聴取を実施予定である。

 この報告書は、被害者である女生徒Aの証言をもとに現場対応にあたたった術師五条悟によってまとめられた。なお、本書は門外不出とし、いかなる場合においても高専関係者を除いた他の閲覧を禁ずることとする。

 

「女生徒の経過は良好だ。おそらく明日にでも退院できる」
 家入の言葉を聞いて、五条は窓枠に背を預けながら、「そ」と端的に返した。
「若さってヤツだな。傷の治りも早いし、それに、多少の呪力を持ち合わせていたから、術式と相性がよかった」
「へえ、んじゃ、うちの生徒候補かな。あとでスカウトしてこよ」
 体を起こし五条は医務室を出て行こうとする。「ほどほどにな」家入は不躾な声色も改めぬまま言い放った。
「それにしても、今回の呪詛師、おまえが狙いだったんだろ? 無謀なヤツもいるもんだな」
 五条は脚を止める。
「ねー。この僕に楯突こうとした時点でセンス悪いよね。いい結界術使うじゃんと思って及第点あげようかとも思ったけど、ダメダメ。能力の無駄遣い」
「でも、今どきめずらしい呪符を使ってたじゃないか」
「ん、呪符はね。でも多分あれ本人のじゃないし」
「へえ?」
「彼自身の呪力は赤子ほどだったよ。あの呪符のお陰で底上げされてたって感じ? どこから手に入れたかはわからないけど」
「なるほどな」
 家入は興味なさげにつぶやいた。白衣のポケットに手を突っ込んで、すっかり冷めたコーヒーを口にする。
「彼女、どうするつもりだ」
 五条はなにも言わなかった。
「おそらく、今後も続くぞ。今回は単独犯だったが、ああいうのは徒党を組むきらいがある」
 弱者がよく群れをなすのと一緒だな、家入はカップを置いて、気だるくデスクチェアに座り込んだ。机上に置かれた書類を眺め、深く背もたれに体を預ける。
「かわいそうに、傷モノにされて」
「それ、僕に言ってる? それとも、僕が殺した呪詛師に対して?」
「いいや、ただの独り言。それより、これから任務じゃなかったか。早く行かないと、また伊地知が泣くぞ、クズ」
 五条は肩をすくめると、「そうするよ」ひらり家入に手を振って部屋を出て行った。
 遠ざかる足音とともに、女のため息がこぼれる。
「どうしようもない奴らだな、本当」
 ——黛春子、都内在住、渋谷煌心女学園教諭。左肩甲上部から鎖骨下部、大腿部損傷および粉砕骨折による大量失血にて、意識不明の重体。また、全身の裂傷口に呪霊の特殊粘液が付着し周辺組織が壊疽。しばらくは反転術式を用いた継続的な治療が必要。左半身に後遺症が残る可能性有。
 デスクに置かれた書類には、こう記載されていた。

「伊地知、ちょっとそこ曲がってくれる」
 いつもどおり頼もしい腕でハンドルを握る部下に告げたのは、そんな言葉だった。
「はあ、なにか所用ですか」
「まあね。そこを曲がったらしばらく真っ直ぐ行って、次は左」
 後部座席からの指示に、伊地知は従順に従う。このあと神奈川の三崎海岸まで呪霊を祓いに行く仕事があったが、だいぶ余裕があるのだろう。これが新幹線や飛行機に乗らなくてはならない予定だったならば有無を言わさず連行されていたにちがいない。
 スモークの貼られた車内から五条は移り変わる景色を眺める。ついこの間までは桃色の花びらが散っていたのに、今やもう青葉が冴え冴えと風にそよいでいる。のどかな風景であった。
 車はオフィス街から繁華街へ。駅近くともあってか人通りが多くなっていく。「止めて」大学生や主婦はたまた営業マンたちが行き交う通りまでやってきて、五条は告げた。
 突如発せられた言葉に驚くこともなく、伊地知はスムーズに車を停車させる。
「少し待っててくれる」
 そう言って降りると、数分後似合わぬ花束を持って五条は帰ってきた。
「行き先は」
「ん、さっき言ったとおり、次は左ね」
 いつもならば、「またそんなものを」と言う伊地知も、この日ばかりはなにも言わなかった。ガーベラやカーネーション、それからオールドローズ、可憐な色彩で彩られたフラワーアレンジメントをフロントミラーで一目してから、ゆっくりとアクセルを踏む。
 車は都内のとある病院へ向かっていた。

 伊地知を車で待たせたのち、五条は面会受付で丁寧にも受付を済ませるとエレベーターで八階まで上がった。
「黛春子のお見舞いに来たんですけどォ」
 ナースステーションに声をかけて、「奥の個室ですよ」と案内を受ける。全身黒服なうえサングラスを身につけた彼を誰ひとりとして訝る様子がないのは、ここが高専関係者専用の特別病棟だったからだ。日夜呪霊による被害が多発する日本において、いくつかそういう受け入れをしてくれる病院がある。高専には優秀な医師であり稀代の反転術式を使いこなす家入もいるが、一般人相手にかかりきりになるわけにはいかない。通常はこうした病院に基礎治療をお願いし、呪霊による特殊な症状の治療を家入が担当する。非呪術師の手を借りた上で呪術界の医療体制をまかなっているというのが実情だった。
 五条は看護師の言葉を聞き、どうもー、と能天気に返事をして廊下の先へ進んでいく。
 最奥の部屋は日当たりのよい部屋だった。あいにく天井からは下りたカーテンが陽光を遮っているが、それでも室内は明るい。一面真っ白で不気味にも思えるそこは、白昼夢に似ている。
 ピ、ピ、と味気のない機械音が連続し、それを発する機械たちはベッドに横たわる人間へと繋がれていた。常の五条だったならば、「うっわ、人造人間じゃん。写真撮っちゃお」などと携帯を取り出すところだが、彼は窓際の多くの花々や見舞いの品を眺めたあと、ベッドのすぐ脇に立った。
 ベッドには、春子が寝ている。額には包帯が、頬にはガーゼがあしらわれ、見ているだけでも痛々しい。閉じられたまぶたはなんとも穏やかだが、血の気を欠いた頬が彼女を人形のようにも見せた。
 掛け布団からはみ出た左腕には点滴、そのほかにも、血中酸素計やら心電計やら、数多くのコードがモニターと彼女との体をつなぎ、まるで映画のワンシーンを思い出させる。病院着の襟もとからのぞく鎖骨部には包帯。ミッションインポッシブルごっこでもしたのか、などと笑えたらよかったが。しかし、見つけたときの彼女の姿から比べれば、天国と地獄の差である。もの言わぬ唇が心地悪いが、生命の営みを告げる電子音は止まることはない。秩序があり、安寧があり、おそろしく静穏の世界。
 それは、春子の城にどこか似ている。呪いとは無縁の、やさしくやわらかな陽気に包まれたあの部屋。「五条くん」春子の声が脳裡に響く。
「ばかだね、オマエも」
 五条は春子の顔を見下ろして、小脇に抱えたブーケをシーツの海にそっと落とした。
 安らかすぎる寝顔はいますぐにでも笑い出しそうだ。「なんだ、五条くん。来てたんだ」目を開いて、薄く唇を引いて、「今日はね、福岡のお菓子、お取り寄せしたんだ。食べる?」なんて。
 心配はしていない。おそらく、じきに目を醒ますことはわかっていた。かれこれ数日昏睡状態が続いているが、同窓である家入の実力は折り紙つきだ。いくら血肉を抉られようが腕がなくなろうが、きれいさっぱり治った実例を何度も見てきている。
 微塵の憂慮など、彼は抱いていない。むしろ——目を醒まさなきゃいいのに、と五条は心の中でぼやいた。
「救世主なんて、ホント、笑えるよ」
 色のない唇を眺め、丸みを帯びたあごを指先でなぞる。そのまま、おとがいをつなぎ喉もとに爪を立てる。
 驚くほどに、その首は華奢で細い。彼の大きな手をかけたら、さほど力を込めずとも息の根を止められるだろう。いっそのこと、そうしてしまおうか。五条は思い、自嘲する。
 呪術師としてしか生きる道も持たぬ自分と、呪術師としての道を持たぬ彼女。およそ重なることのない道程がこの先も続いている。
 窓辺に飾られた多くの花、黛先生、春子先生、春子ちゃん、春子、さまざまな名でつづられた手紙や寄せ書き。その世界は紛れもなく彼女のもの。その世界に帳を下ろしていいのは彼女だけだ。人生の舵をとるのは、いつだって自分でなくてはならない。
 五条もそうだ。止まり木を手折った鳥はどこまでも飛び続ける。どこまで行けるかはわからないが、行けるところまで行かなくてはならないのだ。追い風が吹こうとも、背を撫でる風が止もうとも、待つのが屍の山だとしても、今なお最期の地へ飛び続けるさなか。
 五条は彼女の首すじに手を添え、その脈拍を自らの肌に宿す。おだやかで、やわらかで、心地好いリズム……。
 やがて五条はゆっくりとその手を離した。閉じた彼女のまぶたに口づけを落とし、鼻や頬、それから唇を模り、包帯の巻かれた額にかかった髪を人差し指でそっと避けてやる。
「じゃあね、春子。しあわせになんなよ」
 救世主など、どこにもいない。ただ今ここに、彼女の前に存在する自分は、ほかならぬ忌々しき呪いだ。
 ひとつ声を落として、五条はシーツの海に沈むブーケから咲き誇ったオールドローズを抜き取り彼女の胸元に置いた。
 振り返ることもなく、彼は病室をあとにした。