肉塊や血溜まりを踏み、散らかったデスクの間を駆け、窓口を乗り越える。改札にはそこかしこに人間だったものが落ちていた。
「先生、こっち!」
少女の眼を頼りに駆け抜ける。
「こん、の、クソアマァァアッ」
背後で衝撃音が響いた。咄嗟に振り返る。先ほどまでそこにあったはずの事務所や改札レーンが見るも無惨に砕け散って、駅舎は一気に戦場と化していた。
心臓が炙られる。傷がジクジクと痛む。毒が回っているみたいに、頭が重くなる。それでも春子は強く拳を握る。
神泉駅は二階からなる小さな駅。逃げるためにはいずれかの階段を下りなくてはならないが、その単純なつくりを利用して、うまくいけば逃げ切れる。人の目があるところまで行ければ……それももはや不可能であるが、彼女は知らない。すぐそばにある絶望に目を背け、男がゆらりゆらり体を横に振りながら歩いてくるのを確認したのを最後に、ホームへの階段を駆け下りようとする。
だが、春子の肩と脚をなにかが貫いた。
「先生!」
春子は勢いで倒れこむ。
「逃げて!」少女に叫ぶが、突如奇怪な形の魔物が目の前に現れ少女を吹き飛ばした。一撃をくらい、細い体が壁にぶつかって地面に落ちる。
「……さん!」
あと少し、あと少しでホームへ逃げられたかもしれないのに。春子は地面に拳を叩きつけながら、気を失った少女のもとへ這いずる。だがその間にも、いつのまにか視えるようになった怪物が春子の行く手を阻んだ。
「これが、五条くんの、視えるもの」
おぞましい生き物たちであった。否、生き物と言ってもいいのかすらわからない。魚と同じくひれがあり、尾があり、しかし眼は四つ、口は二つ、その口先からは対になったヒゲがたなびく。アロワナに似た、しかしおよそ自然界には生まれ得ぬ奇形。おまけに泥水と血とを攪拌したようなドドメ色の体色に、酷い腐敗臭。
「殺す」
それらにあっけにとられるあいだにも、男が呪符を巻いた十の指を晒しながら迫りくる。もはや好青年の容貌はそこにはなく、髪をふり乱し、口端から血を流しながら狂気を孕んだ眼で春子を睨みつけていた。
どうにか、少女だけは。あまりの悪臭に嘔吐きながらも、春子は片腕で地面を這い、少女の盾になろうとする。
もはや全身が引き裂かれそうだった。どこか無事なのかなにが痛むのかも麻痺している。ただ、護らなくちゃ、わたしはこの子の「先生」なんだ。その強い信念で体に鞭を打つ。
地面に倒れた少女の体にかぶさって、「起きて、起きて逃げるの!」春子は叫ぶ。しかし、目は固く閉じられたまま。
「おいクソアマ」
男がついに春子にたどり着き、束髪を引っ掴んだ。
「ひ、ぁッ……」
無理やり上体を反らされ、春子は声にならない悲鳴を上げる。
「恨むんなら、五条悟を恨むんだな」
レンズ越しに、妖しく瞳が光る。指を小指から順に、獲物を誘いこむ魚の尾ひれのように閉じ、また開く。一匹、二匹、魚が寄り、あろうことに、春子に食いついた。
「ァッ、ああア”ア”ッ……」
血のにじむ肩や脚を貪り抉る激痛に、春子は悶絶する。それでも男に髪を掴まれたままなので、身動きもとれない。力入らぬ体を魚たちがまさぐる。その姿はアロワナというよりかは、屍にむらがる死人食らいのようだった。
男は掴んだ髪を引き寄せ、悲痛の表情を喪いもはや呆然としたまなざしで自分を見つめる女の頬をべろりと舐めると、嘲笑い、その場で彼女を地面に投げ捨てた。
ドサ、と鈍い音が鳴る。本日、何度目かの激痛が全身を駆ける。脳が揺らぐ。硬いコンクリートに打ちつけられた衝撃は、彼女の意識を確実に抉った。
異形の魚が宙を揺曳している。ひれは踊り、尾ひれが翻る。眼がギョロリと獲物を探す。
そこから、すべてがスローモーションに見えた。男が少女に歩み寄るのも、気色悪い指先を曲げて、なにかを指示するのも、少女の額に魚が食らいつき、血が流れるのも。春子の体にもまた群がる。
痛い。苦しい。気持ち悪い。
……こわい。
——五条くん。
春子は心の中で唱える。
たすけて。
「たすけて……っ、五条くん……ッ」
刹那、破砕音が響いた。空を切り取っていたあらゆる窓ガラスが端から順に割れ、彼女たちの体に群がった奇形の魚に向け、その破片を撒き散らす。
「——やあ、春子。呼んだ?」
細かな粒子が射し込んだ太陽の光に煌めき、その集中点に彼が現れた。
「五条……悟……」
男の唸り声がする。だが、当の本人は男に目もくれず、鷹揚な足どりで地面に崩れた春子のもとまで歩み寄り膝を折った。
「よくがんばったね」
やさしい音色に涙があふれ出す。逞しい指が彼女の頭を撫で、春子が唇を噛んで彼を見上げると、端正な唇がきれいに弧を描いた。
「さてと、こんな真っ昼間の渋谷に仰々しい事件を起こしてくれたのはだれかな」
五条は常の調子でおもむろに立ち上がる。
「やっぱり、来たな五条悟。おれの読みは正しかった」
「やだなぁ自己紹介もないなんて、はじめて出会った人にはご挨拶って教わらなかった? ほら、ごいっしょに」
「うるせぇ! 女を殺そうと思えば殺せるんだぞ!」
場違いなのはどちらだったか。しかし男の怒声に五条は怯むはずがなかった。
「——だから?」
五条はスラックスのポケットへ手を突っ込み、一本のそびえる大木となって春子と男の間に立ちはだかる。
「殺せるから、なに?」
一瞬にして研ぎ澄まされた空気に、たじろいだのは男だ。
「おまえ……この女が、惜しくないのか」
焦燥を隠せぬ様子で男が人差し指を折り曲げる。ぬるり、春子の首に死人食らいがまとわりついた。冷たく、張りつくような魚体。痛覚は壊れてしまったのに、いまだ冴えている嗅覚を恨みたくなるほど、酷い悪臭がした。
「春子の言ってたこと、覚えてない?」
五条は言った。
「なにをだ」
「彼女を殺しても僕はなんとも思わない、って。あいにく、彼女の言ってたことは本当でね。僕は彼女が傷ついても、泣いても、たとえ死んだとしても、怒りどころか悲しみさえ抱かない」
「そんなこと……」
「ありえないって? あるんだなぁそれが。君、トロリー問題って知ってる? あるいは、トロッコ問題。有名だと思うんだけど」
一九六七年、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソンらアメリカの哲学者らによって考察された、功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題だ。
とある人物を救うために他者を犠牲にしてよいか? という問いは、人間がいかように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知るために有用とされ、道徳倫理学や神経倫理学ではしばしば重要な議題として扱われている。
「暴走するトロッコの前に五人の作業員がいます。このままいくとトロッコは五人をひき殺してしまう。一方、トロッコの進路を変えて退避線に入れば、その先にいるひとりの人間をひき殺すだけで済む。さあ、君ならどうする?」
愉しげな五条とはうらはらに、男は奥歯を食いしばり不快感をあらわにする。
「あれ、答えられないって? 君は情に深いたちなんだね、意外」
「黙れ!」
男の放った数々の呪いが五条に勢いよく向かっていく。だが、それは彼に当たることなく、直前で静止した。
「僕はね」五条はその魚たちを指先で触れながら、おどろくほどしずかな口調で言った。
「大多数の一般人か、彼女かと言われたら迷いなくその他大勢を選ぶよ」
春子は激しい痛みの中でそれを聞いていた。彼の声を聞けば、それが本心か否かなどたやすくわかる。普段から飄々とくだらぬことばかりは言うが、まじめなときはおどろくほど笑わない人間だった。指折り数えられるほどの回数しか会ったことがない関係だとしても、五条悟はそういう人間だった。
「とんだ正義だな」
「正義? 笑っちゃうな。正しいとか正しくないとか、それ以前にそれが特級呪術師の務めだからね。功利主義って言って」
五条が指を払うと、魚たちは呆気なく消えていく。
「だけど」彼は言った。
「ひとつだけ、お前の言っていることは正しかったよ。春子を人質にとれば、僕がくるってこと」
しん、と静まりかえった駅舎に声が響き、春子は重たい瞳をなんとかもたげ大きな背中を見つめた。
「なんてったって、僕、春子の救世主だから」
五条は明るく言い放つや否や、片手をポケットに突っ込んだ気だるい姿勢のまま、左腕を突き出した。
「術式反転——“赫”」
刹那男が光に呑み込まれた。烈しい爆発。突風、そして熱線。
目を瞑った春子が次に見たのは荒野だった。
「なにもかもがお粗末だね。まったく、退屈すぎて、反吐が出るほどだ」
立ち昇る硝煙の中、五条が長い体躯をかしげて立っている。
あれが、“五条悟”。
やがて、春子の視線に気がつくと、彼は軽やかに体を捻った。
「や、春子。おつかれサマンサー」
まるでステップを踏むような足どりで近づいて、座る力すらなく横たわる春子のそばに、五条はしゃがみこむ。よっこいせ、こぼれたのは年寄りじみた言葉だった。
「大丈夫、じゃ、なさそうだね」
「そう、だね……ひどいかおでしょ」
自分のいまの姿を想像すると、もはや彼の前から消えてしまいたかった。だが、そんなことできる余裕など当然ない。
春子が痛みに顔を歪めて笑うと、五条はつけていた目隠しをとって彼女の頬をぬぐった。
「あのこは」
「この期に及んで他人の心配とは、余裕だね」
しかし、軽口を叩きながら五条は女生徒を横目で一瞥して、「平気だよ、少なくとも君よりは重傷じゃない」と彼女に告げた。
視界に映るのは、揺れる銀糸、それから、うつくしき銀河。
「よかった……」
頭がぼうっと熱を孕んで、神秘的な色彩たちがゆらゆらと春子の視界で揺らぐ。もはや痛みさえ鈍っていた。ただ春子の網膜を灼く光が、なにひとつ遮ぎるもののない鮮やかな光が彼女に生きている心地を味わせる。重たいまぶたを必死で開けて、しかしそれすらも耐えがたいと小刻みに震える。
「春子」
その瞳に帳を下ろすのは、強かな指先。
「君は、五人と一人だったらどっちを助ける?」
硬くて、少しカサついていて、逞しいのにどこか冷ややかで。それでも、人の温度を感じる。
「とびこむよ」
暗闇の中、彼のぬくもりに身を委ねて春子は言った。
途端、体が浮き、忘れかけていた痛みが彼女を襲う。いっ……と小さく悲鳴を上げると、「持ち上げるよ」五条は今さら報告した。
「さき、いってよ……」
「うん、次はね。で、飛び込むの、春子は」
ふわふわ、激痛の中で思考がたゆたう。背と膝裏に添えたられた腕がしっかりと春子を抱きしめている。あたたかな海にでも飛び込んだみたいだった。彼と二人、熱帯魚とともに碧き水面をただよう。つかの間の楽園。
「うん、とびこむよ。その六人が、わたしの生徒だったら。みんな、たすける」
まぶたの裏に太陽の光とさわやかな風を感じながら、今だけはその腕に、逞しい胸板に、身を委ねて。
「そうじゃなかったら?」
「なにも、みなかったことにする」
「僕よりむごいじゃん」
彼の香りがした。甘くて、さわやかで、脳が溶けてしまいそうなほど刺激的な香り。しかし、どこか安らぐ。
「五条くん」
「なあに、春子」
とくり、とくり、鼓動が伝う。
「たすけてくれて、ありがと……」
「——どういたしまして」
それは、やさしくも強かな音色であった。
