第十四話 夜の再来

「では五条さん、本日はこれより山梨での任務がありますので、そろそろ……」
 高専職員室で机に脚を載せて自堕落に過ごしている五条に声を掛けたのは、補佐監督の伊地知であった。事務処理能力は特級のはずなのに、すっかり上司に振り回されることに慣れてしまった彼である。
 五条の長い脚が、それも靴を履いたまま机上へ放り出されているのはやや気になるが、もはや毎度馴染みの光景に、今さらツッコミを入れる人間はいない。もとより、ほぼ人が出払っているということもあるが。
「五条さん?」
 胸の前に指先を合わせたまま返事のない五条を伊地知は訝る。
「またゴネてるのか」
 そこにやってきたのは、五条と同期であり高専の専属医である家入硝子だ。目の下に深く隈を刻んだ気だるい顔で五条を一瞥する。面倒な任務になると年甲斐もなく駄々をこねて伊地知を困らせるのは日常茶飯事のことだった。
「いんや? ちょっと気になることがあって」
 五条はやおら脚を下ろすと、今度は机に頬杖をついて神妙な顔を見せる。
「伊地知、渋谷区神泉の窓から連絡は?」
「は? ……なかった、と思いますけど」
「今すぐ見る」
 にべもなく命令され、伊地知は慌ててスーツの胸ポケットから携帯を取りだす。
「五条さん……」
 途端顔の色を変えた伊地知に、五条はニイと唇を釣り上げ椅子から立ち上がった。
「んじゃ、そういうわけで先に一個用事終わらせてから行くから」
「ちょ、五条さん!」
 伊地知の制止も聞かず、ひらり後ろ手に手を振り五条は去っていく。
「なんだか、いつにも増して気持ち悪いなアイツ」
「気持ち悪い?」
「機嫌がよすぎる」
 はあ……? と腑に落ちない様子の伊地知の携帯には、「京王井の頭線神泉駅にて、何者かによる帳を視認」という文字が浮かび上がっていた。
 高専から渋谷まではおよそ在来線で一時間、急行に乗れば三十分といったところだ。しかし、五条はそのどれも使わずに同時刻の神泉■■ビルの屋上に現れて見せた。
 駅周辺には人だかりができており、閑静な住宅地ともいえるそこで小規模のパニックが起きているさなかであった。下された帳はさほど大きくはない。五条の眼で見るに、駅の構内を含めた半径数十メートル程度だろうか。「人が倒れているんだって」「殺人事件かもしれない」「病気じゃないの?」「さっき白衣のひとが急いで中に入っていったよ」そんなさわめきの中、人の形をした呪骸が黄色と黒の立ち入り禁止線の前で駅構内への侵入を拒んでいる。
「ふうん、用意周到ってわけね」
 一般人を巻き込むつもりはないという配慮は、およそ花丸満点をつけたいところだ。しかし、呪詛師とあらば、そのツメの甘さはマイナス百点。一般人がいては不利を被るという危惧を露呈しているようなもの。海外製のチョコレート並みの甘さが、かえってわざとにさえ思えてしまう。
「どちらにせよ、ずいぶんおざなりなこと」五条はつぶやく。
 スラックスのポケットに突っ込んだままの指先を太ももに打ちつける。
「さて、どれだけ愉しませてくれるか、お手並み拝見」
 青空に下りた暗澹たる闇。
 まだ、夜は始まったばかり。

 事務所にいたはずの人間は、すべからくあの駅員と同じただの肉塊に変えられてしまったようだった。男の背後に見えていた通行人も、いまや一人もその姿が見えず改札は閑散としている。休日の真昼ともあれば、ありえない景色であった。
 全身の毛が逆立つ。春子にはそこにいる男以外視認することはできないが、視えない怪物がそこかしこを這いずり回っているのはわかった。
「五条悟がこんなところに来るわけない」
 背中の少女をきつく手で抱き寄せながら春子は男を睨む。
「それはどうでしょうか」
「あなたがわたしにどんな幻想を抱いているかはわからない。けど、わたしにそんな利用価値はないもの」
「こうしても?」
 男が右腕をゆっくり肩口まで上げ、呪符を包帯の要領で巻きつけた指先をピンと撥ねる。否や、左頬に焼けるような痛みが走った。
「っ……」
「あーあ、きれいなお顔にキズがついちゃいましたねぇ、黛春子サン?」
 そこからひとすじの熱い液体が伝っている。痛い。もういやだと投げ出してしまいたいほど、たかが五センチほどの切り傷ですら酷く痛む。じく、じく、灼けただれる感覚。細胞が悲鳴を上げている。
 しかし、歯を食いしばり、春子は気丈に振る舞い続けた。
「こんなことしたって、彼は怒りもしないわよ」
「こういうことも?」
 男が指先を払うたび、顔や体に傷が増える。
 いつのまにか純白の衣は血色に染まり始めていた。
「わたしが死んだって、きっと、痛くもかゆくもない」
 そうだ。五条悟という男は、そうでなくちゃならないのだ。弱みなど、痛みなど、彼には必要がない。
 五条悟はここに来るはずがない。半ば、春子の願いでもあった。しかし、心のすみでは、今すぐに目の前の男をなぎ払い、ここから救い出してくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。
「それならそれを証明してもらいましょう」
 ぬらぬらと揺らめくアロワナが春子に近づいてくる。
「せんせい……」
「だいじょうぶ、大丈夫だから」
 ね? ふり返り、春子は微笑む。その頬には何本もの赤い筋が入り、目も当てられないほどだった。しかし、恐怖は恐怖を増幅させるだけ。ならばだれかがそれを断ち切らなくてはならない。仮面を被れ。演じろ。いつもの黛春子教諭を演じきるのだと春子は痛みで遠のく意識の中で言い聞かせる。
 少女には指一本触れさせるものか。彼女から、なにも奪わせてはいけない。ならば、少しでも時間を稼いで、それから、彼女だけでも逃がす手立てを考えなくては。
 と、なると……春子は救護室という小さな箱庭を見渡す。広さ約三畳。椅子とテーブルがあるだけの簡素な部屋。奥まったここをでない限り、彼女たちは井の中の蛙だ。どうにかして、出口、あるいはホームへ行きたい。運良く電車が来たら、それに乗せて、来ていなければ、線路を辿って彼女を街まで逃してあげられる。
 春子は現在自分が帳の中にいるのを認識していなかった。神泉駅周辺に下された帳は一般人には視認できないが、いわば結界術で厚いドームのようなものをそこに築いていることになる。帳によって種類はあるものの、効力を付加すれば外から中へ侵入を防ぐことも、外へ出るのも拒むこともできる。男が下ろした帳は、まさしくそれであった。だから、電車を待ったとしてもおそらく彼女たちを救いには来ないし、ここから出ることもできない。
 しかし、それを知るよしもない春子は、震える少女をもう一度抱きしめて、必死に頭を巡らせる。
 一瞬、一瞬でもいい、とにかく隙を作るんだ。まずはここから脱出して、広い場所へ出る。それから、彼女の眼を利用して助けを求めよう。携帯電話を置いてきたのが悔やまれるが、もしかすると異変に気がついた警察がここに来るかもしれない。彼女だけは逃さなくては。もはや少女の存在が春子の精神安定剤であった。
 でも、一瞬の隙をつくるなんて、どうやって?
 春子の頭に、ある声が過ぎる。
 ——僕、緑のマスク男が管理人にマシンガン向けてゴムボールみたく飛んでいくシーンが好きだったなぁ、爽快で。あとは、絶好調! ってね。春子は?
「警官と、一緒になって踊るところ」
 つぶやいた春子に、せんせい? 少女が不思議そうに声をもらす。
「あとは……」
 そうだ。
 春子は意識を取り戻すや少女に微笑みを向けると、なにかを耳元でささやく。
「さて、覚悟はできましたか?」
 男は呪符の巻かれた指を、アロワナの髭のように奇妙に曲げ伸ばしながら、春子を見下ろしている。
 春子は男をまっすぐ見据えた。
「殺される、覚悟?」
「ええ。ですが、ただ殺しても退屈ですからね。少しお遊びをしても構いませんよ」
 なにがお遊びだ、春子は心の中で悪態をつく。しかし、相手からそう提案してきてもらえたのは僥倖だった。
 男を見上げながら、春子は唇を薄く開き、みじろぎをする。
「ひとつだけ、教えてあげる」
 男が眉を上げた。
「へえ、どんなこと?」
「五条悟が、いやがること」
 春子は視線の先の顔に悦びが浮かぶのも確認せず、男のシャツの胸もとを掴むと、思いきり引っ張った。
そして、男のくちびるに噛みついた。
 かさついたそこを食んで、しかし丁寧に舌でなぞって。男ははじめその行動に体をこわばらせたが、すぐに彼女を受け容れた。
 先ほどまで見せつけるように弄んでいた手を春子の肩や背に添えてキスに応える。唇をついばみ合うだけのキスが、どこからともなく深いつながりに変わり、やがて互いの呼吸を貪り合う。ザラついた舌の感覚が気持ち悪い。熱を孕んだ男の唾液が、口内に注がれるたび吐き気がする。
 飲み込みたくない。なにも受け容れたくない。あふれた液体があごへ伝う。
 しかし、これは賭けだ。自分から持ち出した賭けに負けるな。春子は目の裏の痛みをまぶたを閉じて堪えると、男の指先に自分のそれを絡めた。
 三、二、一——心の中でカウントする。
 ゼロと同時に、彼女は自分の口内を動き回る舌を思い切り噛んだ。
「ッ……」
 怯んだすきに、男の指先を捻って渾身の力で体を横へ押し飛ばす。
「走って!」後ろの少女の手をつかみ、男がよろめいた瞬間できた隙間に彼女を押し出した。