妙な胸騒ぎがした。心臓のうねりは全身に巡り、背中の傷を疼かせる。職場に帰った春子は職員室の新聞を一ヶ月分広げた。
「黛先生?」
体育担当の男性教諭が新品のバレーボールを片手にやってくる。これから部活があるのだろう。すっかり部内ジャージを羽織っていた。
「どうかなさいました?」
珍しく職員室で作業をする春子をふしぎに思ってか、彼は難しい表情の彼女に話しかける。
「あの、この一ヶ月、学校周辺で妙な事件が連続していませんでしたか?」
「妙な事件?」
「その、通り魔的な……」
「ああ」思い出したように彼は言った。
「港区と渋谷区で起きてるっていうやつ? 幸い生徒は被害を受けてないみたいだけど、若い女性を中心に狙われているっていくつか新聞に出てたかな」
これと、これと、これ。彼は一ヶ月分の新聞の中から、該当記事が載っている日付を取り上げる。
「犯人の情報はいずれも掴めていないらしいよ。でも、同一犯の仕業かもしれないから注意するよう生徒には伝えたな」
たしか、このニュースは以前春子も職員会議で耳にしていた。「またも犯人逃亡。都内在住の女子大生襲われる」「会社員の女性、路上で何者かに斬りつけられる」「二十代女性看護師を襲った透明人間」似たような見出しの記事。しかし、日本随一の繁華街がある渋谷周辺でそういったことは日常茶飯事であり、また、さまざまなことが次々にふりかかり、いつのまにか右から左へ流してしまっていた。
最悪だ、春子はひとりでに奥歯を噛み締める。
「でも、それがどうかした?」
「いえ……少し気になることがあって。そうだ、このごろ、生徒がなにかふしぎなことを話していたりしませんでしたか?」
「なにかっていうと?」
「その……おかしなものが視える、とか」
男性教諭はあごに手を当てる。
「いや、聞かないな。でも、この一ヶ月、何人もの生徒が駅の階段を踏み外してるんだよな。高等部のテニス部、卓球部、美術部。あと、中等ソフト部、吹奏楽、それに、この間うちの部員もそれで捻挫しているんだ」
春子の脳裡にある言葉が蘇る。
「——階段がなくなったみたいだった」
要領を得ない顔で同僚は春子をまじまじと見つめてくる。しかし春子は説明を加える前に、三日分の新聞を置いて慌ただしく職員室のパソコンへ飛びついた。
「なに? どうかしたの?」
「ソフト部の子が言っていたんです。急に階段がなくなった、って」
「そういや、うちの部員も言ってたな」
あのときは疑問に思わなかったが、今ははっきり嫌な予感がする。スリープ状態から解いたパソコンに自分のIDカードをかざそうとする。学校に備え付けられた電子機器は、すべからく職員に渡されるICチップ付きのカードが必要だった。
「……ない」
しかし、いつも白衣のポケットに入れているはずのそれが見当たらない。
「……そうだ」
昨晩仕事終わりにカバンへ入れて、そのままだったからだろうか。毎朝校門で出勤カードを切るが、そのカバンすら今朝はなかったため、IDを手打ちで入力したのだ。
「あ、カードなら俺の貸すよ」
「……すみません、ありがとうございます」
あとでちゃんとあるか見ておかないと。思い出して唇を小さく噛み締めながら、横から自分のそれをカードリーダーに置いてくれた同僚に頭を下げる。
カチカチカチ、はやる気持ちを抑え彼女はマウスを打ち、パソコンを立ち上げると即座にインターネットを開いた。
「SNS?」
彼女がアクセスしたのは、青い鳥がイメージアイコンのソーシャルネットワークサービス。老若男女問わず、世界中で使用されている情報交換ツールのひとつであり、本日の献立から世界で起きていることまでリアルタイムで探すことができる。
春子は同僚の言葉にうなずきながらすばやくキーボードを叩いた。
「神泉駅の階段で、同様の転落事故が起きてないか、調べるんです」
神泉駅、階段、怪我、キーワードを打ち込み、ルーペのマークをクリックする。すぐに検索結果は出てきた。
「あった……」
『神泉駅の階段マジムリ』『神泉の階段で思いっきりコケた』『怪我人には神泉駅周辺は地獄だわ』『今日神泉駅の階段上ってたら足もと消えたんですけどウケる』『神泉駅の階段を上がり円山町を抜けると……』『最近、神泉駅、怪我人多くない?』すべてがすべて該当する内容ではなかったが、たしかに、神泉駅構内の階段で負傷する人が増えているようだった。
関連するつぶやきの日付を時間的に並べてみると、すべてこの一、二ヶ月の間に投稿されていることがわかる。渋谷周辺の犯人のいない通り魔事件、そして、消える階段。明らかに、なにかが起きている。
——春子
脳裡にある男の顔が過るが、彼女はかぶりを振った。こんなときだけ、助けを求めるなんてムシがよすぎる。それに連絡先だって知らない。
「あの、階段を踏み外した生徒の名前ってわかりますか?」
春子は血の気を失った顔で訊ねる。
「ああ、わかるよ」
近くにあった紙をとって、同僚の男がクラスと番号を書き出し始める。
「黛先生!」
しかし、そこで、春子は名前を呼ばれた。やや急いた声に春子は勢いよく顔を上げる。前方のデスクで、教頭が信じられないという顔つきで受話器を握っていた。
「二年生の——さんが、駅で階段から落ちたって」
春子は立ち上げたパソコンもそのままに、白衣を翻し職員室を飛び出した。
嫌な予感が、形を成していく。忍び寄る影のように、はたまた空を覆う暗雲のように。春子の胸に濃い帳を下ろしていく。
「渋谷煌心女学園の者ですが!」
駅に着くと、春子は乱れた呼吸もいとわず、食いぎみに事務窓口に飛び込んだ。駅員はその気迫に驚いていたものの、白衣姿の彼女を見てすぐに奥の救護室に案内してくれる。
「親切な方が助けてくださって、どうにか軽傷で済んだんですが……」
「——さん!」
駅員の話を聞いていた春子だったが、硬い革張りの長椅子に座る少女の姿が見えた途端、彼女は急いで駆け寄った。
「大丈夫? 階段から落ちた……って……」
俯いていた少女が顔を上げる。その顔に、春子は息を呑んだ。
瞳孔が開いている。白眼は潤み、顔は蒼白だ。唇や肩、そして指先が、まるで氷点下の世界に放り出されたように震えている。
「——視えたのね」
こくり、少女はひどく怯えた様子でうなずく。
昨年、校内でなにかが大暴れをしたとき、彼女は空虚を見て取り乱した。あ、あ……と声にならない悲鳴をもらし、額に汗を、瞳に涙をにじませ、スカートのすそを強くにぎりしめていた。
時刻は午前十時。二限が始まってしばらく経ったころのこと。春子はたまたま高等部から中等部に戻るため、二階の渡り廊下を歩いていた。通常ならば生徒は授業を受けている時間。そこに少女の姿があるのはおかしかった。「どうしたの?」立ち尽くし微動だにしないのを不思議に思った春子は声をかける。しかし、反応がない。生徒の横から顔をのぞく。大きく校舎が揺れたのはそのときだ。瞬く間に校内にサイレンが響き渡る。東棟の校舎の一部が崩壊、火災の恐れあり。生徒は教員の指示にしたがってすみやかに校庭へ非難すること。春子は急いで、生徒を連れて階段へ向かおうとした。しかし、少女の足は地面にはりついて動かない。「せん、せ……」かぼそい声に、春子は彼女の顔をふり向く。
そうだ。そのときだ。
彼女たち以外だれもいないはずの廊下を、戦戦慄慄と見つめ立ち尽くしていた。そう、なにか視えてはいけないものを視てしまったように。
「いますぐ、ここを出ましょう。学校に行けば、ほかの先生たちもいるから」
「……でも」
彼女と目を合わせて、その肩を抱く。背後で、なにかが床に崩れる音がした。
「あ……ぁ…………」
目を見開き、さらに血の気を失った顔がこわばっている。歯がカチカチと鳴り、尋常じゃない怯えようだ。テレビでよく見たことがある、まるでこれは……。
「黛さん、こんにちは」
湿り気を帯びたぬらりとした声が耳の裏をなぞり、春子はおそるおそるふり返った。
「あなたは……」
黒縁の眼鏡にいかにも量産的な短髪。ライトブルーのシャツの下はこぎれいなチノパン。一見すればそのへんにいる青年と変わらない。しかし、春子はその男の姿に一匹の熱帯魚を思い起こした。
「やはり、黛さんの生徒さんだったんですね」
ゆらりゆらり青白く光るシルバーアロワナ。まだ一日と経っていないので、はっきりと見覚えがある。しかし、名前がなんだったかそれすらも憶えのない、ただの合コン相手の男のはずだった。
温度の下がった室内にはひどく不釣り合いな鷹揚さで彼は眼鏡を直しながら春子たちに歩み寄ってくる。この男が駅員の話していた親切な男性なのか。それにしては、あまりに寒気がした。冷えた空気の中まるで魚の体を押し当てられる、そんな不快感。
先ほどまで背後に立っていた駅員はどこに行ったのか。春子が後ずさり、少女を護るように男の前へ立ちはだかると、彼はたおやかに笑った。
「ちょうどよかった。あなたにお渡ししたいものがあって」
しかし、そのやわらかな言葉とはうらはらに、春子の目に、彼が足もとで蹴飛ばしたものが入った。
「それ……」
「おや、見てしまいましたか。いやはや先に処理しておくべきでしたね」
おそらく人間だったもの。どす黒い血溜まりに、いくつか肉塊が落ちている。その塊のうちひとつを足蹴にした男の革靴には、赤い液体がぬらぬらと光を放っていた。
「だいじょうぶですよ、今、見えないようにしてあげますから。あまり気持ちのいいものではないですものねぇ」
自分で殺したくせに、なにを言うのだろう。春子は震える唇を噛み締め、少女の視界を自分の体で遮る。肉塊がニチャリ、ニチャリ、と奇妙な音を立てて小さくなっていく。ぴりりと肌を刺す空気。なにかが、そこにいる。今、まさにそこで、駅員だったモノを貪り喰っている。
「っ……」
生々しい咀嚼音と、血や魚を炎天下に放置したひどい臭い。昼に摂ったパスタがこみ上げそうになる。
「あなたが、やったのね」
「ボクといえばボクですし、ボクでないといえば、ボクではありませんね」
春子はわかっていた。この男の狙いがおそらく自分であることを。ゆらり、ゆらり、アロワナが水槽越しに揺曳する緩慢とした言い返しに、きつく奥歯を食いしばる。
「駅員だけじゃない、神泉駅の落下事故も、それから、連続して発生している通り魔も」
「勘の悪い人間はきらいではありません」
昨晩感じた妙な違和感はこれだったのだ。たった一瞬、ただひと言ふた言会話を交わしたくらいなのに、見た目とはうらはらの強烈な印象。
春子の職場を言い当てたこと、それから、昨年の事故について言及したこと。背後に揺れるアロワナ……。いつだ。いつからだ? 昨日、偶然出会ったにしては、あまりに出来すぎている。
「まずは先にこれをお返しします」
男はシャツの胸ポケットから一枚のカードを取りだした。
「これがあったおかげで、その子はボクがあなたの知り合いだって信じてくれましたよ。けれど、その子にはここにいるなにかが視えていたようですが」
カバンに入っているはずのIDカードだった。数年前、大学卒業と同時に撮った初々しい春子の写真が貼られている。紛れもなく、彼女のもの。
「おっと」
男がカードを手放し、あっけなく血溜まりに落ちていく。赤黒く侵蝕される自らの顔。そうなる運命を語っているようなその光景に戦慄が体を駆けるのを感じながら、背中で震える小さな存在を春子は後ろ手に抱きしめる。
この子だけは、この子だけは護らなくちゃ。まだまだ未来がある。こんなところで、巻き込んでその未来を失くすわけにはいかない。
「目的は?」
「わかっているでしょう?」
ニタリと男が唇を釣り上げた途端、空気が重く張り詰める。
「五条悟。あなたがいれば、きっと五条悟がここにくるはずだ」
