養護教諭の朝は早い。というより、教員の朝は早い。始業は一応、八時二十分という生徒の登校時間と同じ時間になっているが、その時間につけばいいわけではないのが教員というものだ、朝練をしている部活もあるし、朝早くに委員の仕事がある生徒もいる。あるいは朝自習室で勉強をする受験生も。ともかく、始業時間があるとはいえど、七時前から学校が開いている限り教師の仕事はおよそ始業前から始まっているのである。
そんな馬鹿なと思うがそれが実情だ。生徒がいる限り教員は教員。朝保健室についたら落ち着いてデスクでコーヒーをなどと悠長に湯を沸かしている間もなく、グラウンドで怪我した陸上部員やソフトボール部がやってくる。ひどい時は電車を降りてすぐ、学校の最寄駅で体調を崩した生徒の対応をすることもある。体制的に言えばとんだブラック企業だろう。
なにはともあれ、この日もきっかり七時すぎについた春子は保健室の鍵を開けて朝一番の掃除をする。教室は教師の心を映す鏡、だとかなんとか教職の授業で習ったから、というのもあるが、治療をする場でもあるのだ。できるかぎり清潔を保つのがこの城主の務め。部屋がきれいだと心も落ち着くからなおよい。
「春子ちゃーん」
そんなこんなで心も保健室も整頓していると、本日の利用者第一号がやってきた。
「こら、春子ちゃんじゃないでしょ」
「へへ、春子セーンセ、おはよう」
「おはようございます。今日はどうしたの?」
若い教員をちゃん付けする風習は日本全国津々浦々、どこでもよく見られる光景だ。それを軽くたしなめながら入ってきたジャージ姿の女子生徒を春子は受け入れる。彼女はソフト部の三年生、すっかり馴染みの顔だった。
「朝ランしてたら膝擦りむいたー」
「そっか、転んじゃったんだ。もう水で洗った?」
「ばっちり」
「ん、えらいえらい」
それから、係の保健委員が顔を出したり、高等部の養護教諭から電話がかかってきたり、そうこうしていつもの朝のひとときを終えると、校舎内は一気に静かになる。そこでやっとコーヒータイムだ。どこにでも売っているようなインスタントコーヒーだが、ニューヨークのキャリアウーマンになった気持ちでカップ片手に窓から向こうを眺めるのが春子のルーティンだった。
手持ち無沙汰な手を白衣のポケットに突っ込んで、軽やかに鼻歌を歌う。まさに気分はアン・ハサウェイ。最高にいい女になった心地である。おそらく多くの人間がハリウッド映画の主人公に自分を投影したことがあるだろうが、彼女もその一人だ。この瞬間を見たら五条はニヤニヤして彼女をからかうだろうに、その男もいないので問題なしであった。
太陽の光を反射する中庭は、まさしく平和の象徴。まさか、昨年この校舎がボロボロに破壊されたとは思えないほど。だが、ここまでくるには、決して易しい道のりではなかった。
「いい天気」
味の薄いコーヒーの苦さがちょうどよい。
そんなふうに優雅なアン・ハサウェイ・タイムを満喫していると、扉がノックされた。
「先生、おはようございます」
「おはよう。どうしたの?」
まだ一限目が始まって間もないというのに、真っ青な顔をしてやってきたのは二年生の子だった。もともと貧血が酷いのか、こうして顔面蒼白で現れることが多い。いわゆる保健室の常連だ。しかし、原因はおそらく貧血だけではない。
「なんだか、教室内の空気が重くて……呼吸が苦しいんです……」
「そっか。呼吸が苦しいのね。一応熱を測って、脈もみてみようか。こっちへいらっしゃい」
おずおずと肩を落として歩く彼女に寄り添って、保健室内のソファへ座らせる。来訪者ノートに学年クラス名前を記入させ、体温計を渡した。
「朝起きたときはどうだった?」
「朝は、そこまで。でも、なんだか変な夢を見て」
ピピ、と電子音が鳴り、体温を確認する。平熱より低いくらいか。そのまま春子は手首に指をあてた。
「なるほどね。教室でいつもみたいになにか視えたりした?」
こくり、うなずいた彼女に、春子はひそかに唇を舐める。
「去年の、あの日の怪物みたいなのが……」
生徒の中には、ごく稀にいわゆる視える人間がいる。学校行事のキャンプで一人はいるだろう、コテージの裏手の森になにかがいる、と言い出す子ども。大人ならまたまた、と冗談で済ますところだが、真面目な顔でそれも虞をその瞳にありありと載せて言うものだから、やけに信憑性がある。少年少女は、「うそだろー絶対見間違いだって。なんか変なもの食べたんじゃないの」と言うが、実際には彼らもその子の言葉に内心怯え始めるのだ。そうして、やがて、嘘か真かは別として、本当に視えているのかもしれない、と周囲は認識していく。
こういう事例は少なくない。実際に春子も教員になってから何度も遭遇している。ましてや彼女は〝昨年あの場にいた〟うちの一人だった。
「そっかそっか。わかった。先生があとで見に行って、その怪物叱ってくるね。コラー! アンタ、授業料も払わずに授業に出て、なにやってんのー! ってね。まったく無銭飲食ならぬ無銭受講は困るわねえ。ウチは私学なのに」
昭和のお母ちゃん風に声質を変えた春子に、女生徒はかろうじて蒼白の顔をほころばせる。
「さ、ここは黛春子の城。女王を前にすると、怪物も逃げ出すんだから。安心して、少し横になろうか」
まだまだ、安寧への道のりは長い。それほど、昨年の事故は生徒の心に癒えぬ傷を残したのだ。春子とともに囚われた(、、、、)うちの一人は学園を去った。この子だって、いつ恐怖に押しつぶされてもおかしくはない。あれは悪夢だった。春子もまた傷が疼くようで、背中を掻きながら少女を奥のベッドに誘う。
「でもね、先生。二年生の階段のところにいた、変なのがいなくなってたんです」
「前に言ってたやつ? 小さいアマガエルみたいなのが、どんどん大きくなってる、って」
「このくらいまで大きくなってたんですけど」
このくらい、手で示した大きさはバスケットボールほどであった。ここ一ヶ月ほど、彼女が視えていたもの。春子には至ってふつうの階段にしか思えなかったが、やはり、ちゃんと、〝いた〟らしい。そして、いなくなったということは——いつのまに、という言葉はもはや浮かんでこなかった。
「さすが、最強の男は抜かりないのねぇ」
彼が来たあとには、よくあることだった。
「先生?」
不思議そうに生徒が顔を覗き込んでくる。なんでもない、春子は微笑んで掛け布団をめくった。
