第二話 ぼくは救世主

 黛春子という人間は、おおむね人畜無害という言葉が当てはまると五条は思った。
 あたかもすでにそこにいましたという、空気のような存在の女。しかし空気というのは厄介で、先に称した人畜無害という言葉とはほど遠い。なぜなら、空気がないと人間は生きられないからだ。おそらく、太陽が東から昇って西に沈むというように、また、朝の情報番組の天の声と友人のヤマちゃんが同一人物だということくらい、これは当たり前のことである。
 この世で最強の呪術師と呼ばれる五条悟が、そんな彼女のもとに訪れるのは単につかの間の(物理的に)甘いランデヴーを楽しむためだけではなかった。
 本来ならば常に人手不足の呪術師界で、さらにはあちらこちらに引っ張りだこである超絶人気イケメンの時間は一分一秒でも惜しいほどである。しかし、彼はどんなに忙しくとも、月に一度彼女のもとへ赴き、厄介な呪いが集まっていないかを確認するようにしている。こんなこと、実際には伊地知に頼んで、そのへんの窓にやらせれば済むことだが、彼は北は北海道から果ては沖縄まで、各地を回った体でここへ寄る。そこにはやはり疲れた頭と体を癒す甘いものが待ち受けているという魅力もあるのだが、実際には、春子の城である保健室の異様な綺麗さが気にかかっていた。
 昨年、この渋谷煌心女学園に起きた一件は、表向きには耐震工事の欠陥により一部校舎の崩壊事故が起きたとして処理されている。しかしその実体は、一級呪霊が原因の特殊事故だ。呪いは通常あらゆる場所に発現し悪さを働くが、とくに学校などの集団生活を営む場では多く発生しやすい。それほど、たくさんの人間の負の感情が集まるからだ。辛酸、後悔、恥辱……のみならず、義憤、悲哀、嫉妬、それらが吹き溜まりとなって、突如暴発する。春子はその暴発の餌食となり、呪霊の持つ生得領域に生徒とともに閉じ込められていた。
 その呪霊大暴走の一件で、校舎は約三分の一が崩壊し、彼女の城である保健室も甚大な被害を受けた一角であったはすだ。当然、改修を受けたのでどれほど綺麗であってもおかしくはないのだが、ただ、綺麗すぎる(、、、、、)のだ。たった一年経っただけだというのに、すでに校舎内にはいくらかの呪いが集まり始めている。それが普通だ。人間生活を送る上で、他者との関係は切っても切れない。いくら強く在ろうとしても、他人と自分の間にできた摩擦が静電気を生じるように負のエネルギーは呪力となって体から滲み出てしまう。大半は悪さもできないような蠅頭以下の存在だったが、目に見えて育っているときには五条はときおりそれらを祓ってもいた。
しかし、春子の城に関しては、一切の呪いを視認するのはおろかそうしたエネルギーすら確認できていなかった。通常、非術師でも多少なりとも呪力を持ち、知らず知らずのうちに体外に発しているものである。彼女にはそれすらも感じられなかった。生来、呪力を持ち得ぬ体質か、はたまた呪術師か。もしかすると、体内に術式が刻まれているのかもしれない、と思いもしたが、結局、彼の六眼がなにかを告げることはなかった。呪いを寄せ付けない稀有な体質の可能性も考慮するが、当時、呪霊に襲われかけていたことを思い返してその考えを消し去る。仮説と打ち消しの連続であった。
 同じ人間、いや彼女と自分は到底同じとは言えないが、それでも人間という分類の中でもこうも不可思議な存在を前にすると、人間とは心底おぞましい存在だと思う。

「はい、今日は有名老舗和菓子店の水羊羹でーす」
 シックなグレーの紙袋を取り出した春子に五条はいつものとおり軽い拍手を送る。
「ところで、僕水羊羹に厳しいけど、平気? 寒天使ったやつとか絶対認めないタチだけど」
「やだなぁ五条くん。お取り寄せマイスターの春子サンを舐めてもらっちゃ困るよ」
 どうやら、皇族献上の実績を持つ京都で有名な店らしい。五条が仕事であちこちを回っているように彼女もネットという大海で日本各地を行き来しているようだ。そんなことを言ったら怒られそうだが。
「栗蒸し羊羹が一番人気なんだけどね、今日、わたくし黛春子マイスターはこの水羊羹をおすすめしたいわけです」
「うーん、栗蒸し羊羹も捨てがたかったかな」
「ビークワイエット!」
 しっ、と人差し指を唇に当てる仕草は、同い年だという彼女をひどく幼く見せる。本当に、人間ってやつはおそろしいなと五条は長い脚を組み替えながら思った。
「冬に赤福取り寄せたとき、五条くん一箱ぺろりと食べてたでしょ? 赤福好きならぜひともこちらも食べてほしいの。食べないと人生損してる」
「そんなに?」
「そんなに」
 赤福と水羊羹はかなり別物だとは思うが、そんなツッコミは無粋だろう。紙袋から取り出した包みをおもむろに開けて、彼女は水羊羹を五条に見せる。鮮やかな青竹の筒に入ったそれはなるほど老舗という言葉が似合う高級そうな水羊羹であった。
「おお、この竹本物?」
「そうそう! 天然の竹を使用しているから、食べたときの香りが……」
 瞑目して恍惚の表情で頭をふるった彼女に五条はくすりと笑ってサングラスの隙から彼女を観察する。
 どこにでもいるような、普通の女。するりと溶け込むくせに、必要以上に残らない。まさに空気なのだ。頬を撫でた風をこの手に掴めないのと同じで、彼女もするりと手から抜けて行く。とるにたらない人間でもあった。
 まさか、あの日、地方からとんぼ返りでたどり着いたこの場所で、この奇妙な繋がりが構築されるとは。帳の中へ足を踏み込む彼は、思いもしなかった。
 彼が春子を見つけたとき、彼女は二人の生徒を抱えて背中に傷を負っている状況で、見ればだれもが惨事だと思うだろう状況だった。しかし、呪いを前にして、生存しているというのは儲けた話でもあった。五条の予想ではとっくに中に残された人間は殺されているところだったからだ。
 やってきた彼を見て、彼女は目を細めて戦場に咲く花のごとく微笑した。
 ——もう、だいじょうぶ
 教え子たちに囁く声が今でも耳に残っている。

「ねえ、春子はあのとき恐かった?」
 渡された竹筒から羊羹を出して、それを黒文字で切りながら五条は訊ねた。
「ンー、恐かったよ」
 背を向けて緑茶を淹れながら春子は答える。
「にしては、案外余裕そうだったけど」
「生徒の前だったからね。恐怖に恐怖を足してもただそれらは増幅するだけ。だったら、だれかが断ち切らなきゃ」
 五条は羊羹片手にサングラスを指先でかすかにつまみ上げた。
 教師なんて所詮はかっこつけだと彼女は言う。生徒の前では、腐っても大人でいなくてはならない。実は酒豪で毎晩日本酒を一升流し込んでいても、休日はベッドに巣ごもりするようなナマケモノでも、コーラとポップコーンを盛大にソファへぶちまけながら映画を見ていて居眠りをする人間でも、翌朝はさもいい大人なふりをして教壇に立つ。生徒からは疎まれ、保護者からは牙を剥かれ、先輩教師からはきつく扱かれても、「先生」でなくてはならない。
 教師は未来ある人間の生命の時間を預かっているのだから。なにがなんでも、それを守る義務がある、と。
「何人たりとも、若人の青春をうばうことは許されない」
 なんでしょ? 春子がふり返り、五条の瞳を生で見つめて唇をたおやかに引いた。
「学校は、生徒たちにとって救いの場であってほしいんだ。そこにいるわたしも、生徒たちの救いでありたいの。あ、わたしの救世主は五条くんなんだけどね」
 意外と、こういうところに惹かれてしまったのかもしれない、と五条はひそかに思った。
 アフターケアだなんだと称して一年も通ったが、まさしく空気のように彼女がするりと五条悟という複雑で難解で混沌とした人間の中に入り込んできたのだ。その風は春風のようにあたたかく、緑風のようにさわやかで、はたまた木枯らしのように冷たい。こういう人間の、ひどく乱れる瞬間こそ見てみたい、五条はサングラスを下ろしながら心の奥でほくそ笑む。黒文字に刺した水羊羹は、いつのまにか机に食べられてしまった。
「ちょっとちょっと、春子サンの用意した極上水羊羹がかわいそうなことになってるわよ」
「ゲェッ。僕はとぅるんと喉に流してやろうと思ったのに、ゴメンよオマエ……」
 しかし、ただ純粋に、世界最強の呪術師ではなく、単なる五条悟としてだれかの救世主になってみたかったのかもしれない。