「あ」
不意に二つの声が重なった。
吾輩は学校の外に出るとまったくの別人である、と、かの高名な夏目漱石も言ったかどうかは定かではないが、この日の春子も普段の黛春子教諭の皮を脱ぎ去り、その多分にもれず大都会東京に溶け込む一人の若者となっていた。
一方で、都立呪術高専の教諭である五条悟は到底その他大勢に馴染めているはずもなかったのだが。
「いやぁ、こんなところで春子に会うなんて、僕はとんだ幸せ者だね」
「ソウダネー。最後尾に並ばなくてすむからネー」
「そんなことないって。ホラ、待つのもジェントルマンの嗜みって言うでしょ。待てができない男は嫌われるからね。全然、僕あっちに並ぶつもりだったって」
「今からあっちに並んでもいいんだよ?」
「そんな冷たいこと言うなって。僕と春子の仲でしょ」
「どんな仲」
「甘党同盟?」
「たしかに」
というのも、とにかく背の高いこの男は目立つのだ。その上体格もよく、さらりとした髪の毛は日本人にはなかなか見慣れない色彩。いつもの目隠しはさすがにサングラスに変わっているが、立っているだけで異彩を放つ。
そんなこんなで、表参道の有名パンケーキ店の行列に並んでいた春子は往来を闊歩する五条をいともたやすく見つけてしまった。
「でもまさかこんなところで五条くんと会うとは思わなかった。というか、現実世界に存在していたんだね」
「それどういう意味? 場合によってはデコピン百回」
「多すぎない? 単に、学校でしか会ったことないから、私生活が謎だったってこと」
「あ、僕の私生活気になる感じ?」
「うーん、全然。というか、まさか表参道のど真ん中で会うとはおもわないよ。同僚にも会ったことないもの」
「うーん、世知辛いね。ちなみに表参道は僕の庭も同然」
勢いよく流れていく会話のテンポは、いつにも増してよどみがない。彼の同僚や後輩たちが聞いたら、「あの唯我独尊ワンマンランナーの五条悟と会話のキャッチボールを楽しんでいる? 一体どんなクズ?」と引かれそうだが、当然春子は知るよしもない。
一人、長蛇の列に並びながら、携帯をいじる用事しかなかったからよい暇つぶしができてラッキーくらいの心持ちだった。この世で五条悟を暇つぶしと言えるのも、そうそういないものだが。
「ここのビルも一年前までは空きテナントだったのに、なかなかの盛況ぶりだね。この行列は正直ヒくわ」
彼はパンケーキ屋の入ったビルを見上げる。二階部分もどうやら客席になっているようだった。
思いがけず五条の背後に「どんだけ〜」という声が聞こえてきそうだが、元祖か否か春子は頭に二つの顔を浮かべつつ、並んでもないのによく言うよと肩をすくめる。
「ドラマの舞台になったからかもね。結構人気だったし」
「ああ、アレね。あのシーンは感動したな。ホラ、道路に飛び出て、ぼくはしにましぇーん! って車を停めるところ」
「それ、何十年前のドラマ? まあ、わたしも正直ここまでとは思わなかったかな。前はテナントの入れ替わり激しかったし」
SNS映え間違いなし! のスタイリッシュな一面ガラス張りの二階部分を見上げていた五条がふりむいた。
「あれ、春子って意外とそういうの詳しいんだ?」
「表参道は大学時代から通ってるからね。このビルは案外そのころから有名だったよ、いくら新しいテナントが入ってもすぐ潰れるって。だから今回が特別かもね」
「なるほど」
五条があごを撫でる。そのうちに列が動いて、いよいよ次の次で彼らが店に入る番だった。それとは反対に、先ほどまで一つ折り返していたほどの行列がいつのまにか三列、四列と増えている。
さすがは今をときめく人気店。表参道という街は昔からこういった話題をつくるのが上手い街だった。大学生のころよく友人と通っていたころと比べると、大通りを除いてかなりのお店が入れ替わってしまったが、最先端を走り続けているのはいつも同じだ。
そんな街で五条という神出鬼没な男と一緒にパンケーキ店に並んでいると思うと春子はなんだか滑稽に思えたが、まあこれも縁か、と店員からメニューを受け取った。
「春子どれにする?」
「んー、オーソドックスにリコッタチーズのパンケーキかなぁ」
「お、さすがわかってるねぇ。トッピングは?」
「バターと生クリーム。五条くんは?」
「俺はね——」
そこで、「春子ちゃーん!」という明るい声が響いた。
ゲッと春子は顔を引き攣らせる。どうにも聞き覚えのある声だった。
「うっわ、もしかしてデートじゃない? 横にいる背のデカい人!」
「やばいやばい、超ヤバい!」
保健室常連のソフトボール部員である。日ごろグラウンドで声を張り上げながら白球を追いかけている彼女たちの声は当然ながら大きい。
惚れた腫れたの話は、まだ小麦粉がメリケン粉と呼ばれていた時代から女学生の好物だ。こうなったら、向こう一か月厄介なことになるのはもはや明白であった。
「めっちゃかっこよくない? サングラスとかやば! 春子先生ぱない!」
「ねぇねぇ春子ちゃん、この人カレシ?」
そんなことつゆ知らず、呑気に隣の男は麗しい髪をさらりと揺らして、サングラスをひょいと上げる。
「どうも、カレシ候補でーす」
「ちょっ……」
そんなばかな。途端、春子の否定をかき消すように、キャーーッと黄色い悲鳴が響いたのはいうまでもない。
「どこで出会ったの?」「先生のどんなところが好き?」「ねぇねぇいつ告白するの?」「どこまでいった?」「うーん、君たちには言えないところまでかな」「キャーーッ!」という半ば拷問のようなひとときを終えて、店内へ入るころには春子はげっそりしていた。
「かわいいねー、春子んとこの生徒」
対して、すべての元凶である男はさも涼しげな顔でメニューを覗き込んでいる。
「五条くんが言うとなんだか犯罪っぽいね」
恨みつらみとばかりに言うと、五条は、「あはは、マジでデコピンしていい?」大きな体躯を前のめりにする。
NO! とメニュー表を衝立にして、頭痛のタネ製造マシーンから身を守る。ちょうどそこで店員がやってきて、春子はリコッタチーズのパンケーキを、五条はホイップ増し増しバナナとバニラアイストッピングのパンケーキを頼んだ。
「にしても、月曜が憂鬱」
はあ、と盛大にため息がこぼれる。週明けには、「黛春子は銀髪長身イケメンとゴールイン直前」だなんだと見事に尾ひれがついたううわさが拡がっていると思ったほうがいいだろう。
保健室に籠城しようかしらと店員が置いていったグラスに口をつけると、やや意外そうな顔をした五条に気がついた。
「なに?」
「いや? 春子も憂鬱って言葉知ってるんだなーと思って」
「失礼な」
眉を上げて唇をちょんと突き出すと、五条は肩を揺らした。
「いやいや別にディスってはないよ。春子って、常に自分の感情をコントロールできる人間だと思っていたからさ」
そこで彼の言いたいことをはっきり理解した。彼がいつも見ていたのは、職場での春子だったのだ。あまり意識したことはなかったが、あそこにいるとどうにも体がそうなってしまう。
「学校ではね。黛春子教諭を演じきってしまうのは、そう難しくないもの」
「演じる、ねぇ」
言葉をゆっくりと咀嚼する五条に、春子はコースターの場所をわざわざ整えてグラスを置いた。
「人間ってそんなものよ。We all wear masks…, metaphorically speaking.(私たちはだれもが仮面をかぶっているのです、比喩的な意味で)ーーニューマン博士の言葉」
「僕、緑のマスク男が管理人にマシンガン向けてゴムボールみたく飛んでいくシーンが好きだったなぁ、爽快で。あとは、絶好調! ってね。春子は?」
「警官と一緒に列を作って踊りだすところ」
「あそこも名シーンだね。踊りたくなる」
「あとは、悪役の気を引きつけるためにヒロインがその男とキスするところ――で、人間ってうまくできてるのよ。脳が騙されるまで演じれば、それはいつしか本物になる」
「なるほど、奥が深いね」
ご教授痛み入るよ、さぞ愉快そうに唇を歪めて、今度は五条が水に口をつけた。
先ほどの騒がしさとは一転して、店内は真昼のカフェらしい雰囲気がただよっていた。客のほとんどが女性であり、また年代が若めということもあって、決して静かとは言えないが、パンケーキを待ち侘びる客やパンケーキを頬張る客の昂揚と期待がひしめいている。まさに、以前「呪われた空きビル」とまでうわさされた姿はどこにもない。
しかし、やはり彼の姿は目立つなとどこか胃の重たい心地であった。学校の外で、まさか彼に会うとは思っていなかった。
「ところで」
空白を埋めた声に、春子はそっと視線を戻す。
「そんなに僕、ダメだった?」
この期に及んでこの男は。というのが春子の顔が語っている言葉である。
テーブルに肘をついて、組んだ両手に流線美しいあごを載せている五条に春子は目を回しそうになった。いわゆるあざといポーズ、この男がやると様になる。
「……五条くん、いかにも恋人とかいりませんって顔してるけど?」
気を取り直して春子は淡々と告げる。彼はかすかに、ほんのコンマ何秒親指の動きをとめたが、すぐにいつものようにあごを打った。
その顔も見ずに、春子は続けた。
「マグロって、死ぬまで泳ぐのをやめられないんだって」
彼がどのようにして、なにをしているのか、春子は実のところ詳しくは知らない。ただ、彼女がかつて見た男の姿は春子の中に強烈な印象を植え付けることに成功していた。僕最強だから、とすべてをその腕に抱え込んで護れてしまいそうなのに、ときおり彼はひどく残酷だ。
「僕をマグロなんて、失礼だね春子も。これでもベッドの中じゃ激しいのに」
「下品」
学校では到底しないような平らな眼で男を一瞥したところで、パンケーキがやってきた。
ナイフとフォークをカトラリーボックスからとり、春子は五条に渡してやる。
「五条くんは、鳥だよ。マグロじゃなくて鳥にする。止まり木を手放した鳥。なににも囚われず、自由に飛び回り、どこまでも飛んでいく」
そのまま、一口刻んで、しゅわしゅわのスフレパンケーキを口に含んだ。一瞬で溶けて、跡形もなくなくなってしまう。うん、おいしい。春子がつぶやくと、口もとになにかがふれた。
「春子のそういうところ、案外嫌いじゃないよ、僕」
それは逞しい指だった。硬くなった指先に白いクリームがついている。
茫然としたままでいる春子をよそに、彼はテーブルに身を乗り出して薄く開いた彼女の唇を奪った。
