コンと窓を打った音に春子はパソコンを閉じてふらりと窓辺へ寄った。
「こんにちは、五条くん」
いつもどおり窓から現れた男に鍵を開けてやる。白銀の光に透き通るきれいな髪と、それとはうらはらに全身黒ずくめの様相は、いかにもこの真昼の学校にはそぐわない。おまけに目もとには黒い目隠し。これから金庫の鍵を破りにいきますといったハリウッド映画にも負けじとも劣らずな不審者の構えで彼は窓の外に立っていた。
外と中ではそれなりに高低差があるはずだが、カーテンを留める彼女の目線と彼のそれはほとんど同じ。当の本人は自分の恰好などみじんも気にすることなく、「やっ」とのんきに手を振ると窓を乗り越えて中へ入ってきた。
「最近調子はどう?」
華麗に着地を決めたこの男は、五条悟。春子の救世主だった。
「絶好調? 校内もオンボロだったのがあれ以来どんどんきれいになって最高かも」
「ハハ。死にかけてそんなこと言う人間、僕、春子が初めてだよ」
客人とは名ばかりの態度で五条は立派な体躯を鷹揚に動かすと、並んだベッドの横を素通りして中央の椅子に腰をかける。さすがに中高生用の椅子だからか、五条の長い脚は余りに余っているようだった。
もはやいつもどおりの行動パターンに春子も驚きはしない。大胆に投げ出された脚を咎めることもなく窓を閉めると、春子はデスク横の流し台へ寄った。
「紅茶? コーヒー?」
春子の城ともいえる保健室には、生徒を受け入れるベッドやソファのほかに、簡易キッチンが設置されている。お湯を沸かすのみならず、冷蔵庫までもが設られているため、氷を作ったり、食べものを冷やしたり、客人を迎えるにはうってつけな設備が揃っていた。
「そうだな、とびきり甘いイチゴミルクとかない?」
「牛乳ならあるけど、ハチミツでも入れようか? あ、賞味期限一ヶ月前だった」
「うーん、さすがの僕でも胃袋までは最強じゃないな」
太ももまでの長い白衣を揺らして、春子は紅茶を淹れる。
彼女、黛春子は、東京都のど真ん中渋谷に存在するとある私立中高一貫校の養護教諭だ。大学を卒業して数年、間にいくらかの臨任期間はあれど、永らくこの学校で働いている。したがってこのオフホワイトとクリームとオーク色で統一された保健室もすっかり彼女の住処であったが、最近はこのように珍客が現れるようになっていた。
今はちょうど授業中のこともあり、校内はとても静かだ。遠くに校庭からの体育教諭の声が聞こえるくらいである。いつもなら体調不良で寝ている生徒がいてもおかしくないが、運良く今日は皆健康らしい。
よきかなよきかな、そんなことを思いながら、春子は黒ずくめの救世主を手厚くもてなそうとスティックシュガーを五本とポーションミルクをありたけ掴んでお盆に載せる。
「はい、五条くん」
「ん、ありがと」
若人たちが勉学に勤しむ中、遠慮もせずに紅茶に手を伸ばす光景ももう見慣れたものだ。それも、家に帰ってきた体たらくの親父なのみの、至極だらけた格好で。生徒が見たら、変質者がいる! と通報必須案件だが、春子はにこにこと花のようにほころんで、自分用のカップを机に置いた。
この男、五条と春子が出会ったのは約一年前のこと。入学式を終えてようやくひと息、というところで、春子の勤めるこの学校を悲劇が襲った。穏やかな春の陽気の中、突如起こった激震。校舎は崩壊し、そして火災が発生。生徒は校庭へ避難、迅速な行動のおかげで難を逃れる。しかし、春子は二人の生徒とともに校舎内に閉じ込められた。それを助けたのが彼だった。
その五条とも、気がつけば一年の仲。今や、「調子はどう?」などと居酒屋ののれんをくぐるように、都内でも警備が厳重と指折りの私学校のセキュリティをかいくぐってくる彼を、春子はさも当たり前に、それこそ居酒屋の女主人のように泰然と迎え入れる。
「今日のお取り寄せは、愛媛の老舗洋菓子店のレモンケーキでーす」
ドバドバと砂糖とミルクを注ぎ足す男をよそに、春子はデスクの引き出しから箱をとりだす。中からきれいにひとつひとつ個包装されたお菓子が現れた。レモンの形をしたそれは、昔ながらの焼き菓子。淡いクリーム色のホワイトチョコに、青いレモンのスライスが載ってなんとも芸術的である。
おおー、と上がる声と拍手に、春子はむふふとあごをあげてレモンケーキを差し出した。
「さすが春子はセンスがいい。僕、レモンケーキ大好き東京部門第二位の男だからまさにこういうの欲してたわけよ」
「本当? ハカタの塩を使ったバターどら焼きか迷ったんだけど、それならこっちにしてよかった」
「まじ? ハカタの塩とか超イキってるじゃん。でも、ハカタの塩って博多でとれた塩じゃないらしいね」
「ハカタはハカタでも、愛媛の伯方だからね」
「うわ、これまでの人生損した気分だな。博多に敬意を贈っていた僕がバカみたいだ。ということで、今度愛媛行ったらまずそれを買うことにするよ」
彼の後輩がこの場にいたら、「あの五条悟とそれらしい会話のキャッチボールが成立している?」と目を疑うところだが、春子は知るよしもない。軽薄適当、さらには横暴と性格破綻者に似つかわしい俗称がつく男だが、春子の前では前者は相変わらずなものの後者は多少中和されるようだった。
五条は春子の二倍はあろうかという大きな図体で、手のひらよりも小さな焼き菓子の封を切る。
「うん、うまい!」
まるで、真昼のカフェのような雰囲気。なにも恐れることなどない、ありふれた日常の一幕。しかし、ここはあくまで学校。しかも、保健室である。五条の姿は到底この平和の象徴である、あたたかな室内にはそぐわない。
天を差す白銀の髪も、はっきりと視界に刻まれる闇色も。そして、端正な顔立ちの、肝心な部分を隠す黒布も。
「あいかわらず、いい食べっぷり」
「そんなに見られると照れちゃうな」
「全然かわいくないけど」
「そんなこと言う春子はマジビンタ」
それでもおよそ月に一度、こうして訪れる穏やかなひとときを春子は気に入っていた。
