第二話

 コトブキムラは小さなムラだが、コンゴウ団やシンジュ団の集落をのぞいてこの場所以外、ヒスイじゅうの土地の開拓が進んでいないために、ムラの中だけでたいていのものは揃うと言っていい。野菜や肉などの食材はもちろんのこと、生活に必要な雑貨や衣服、娯楽は少ないがそれでもソノオ通りにゆけば写真館だってある。一歩外へ出れば苛烈な大地がわたしたちを襲うという中でのムラでの生活は、おだやかでそして不自由がない。
 久しぶりの暇をもらい、わたしはソノオ通りにやってきていた。いつもは本部へ向かう道のりだが、ミオ橋を渡ってすぐに曲がればムラで最も活気のある件の通りに出る。一日の勤めで困憊しきったときに歩くのとはおおちがい、「いいの入ってますよ」とタイサイさんに声をかけられれば、そっちへふらふら、イチョウ商会の方が広げる品物にも、ふらふら。昼間にフワンテが現れたら、こんな感じかもしれないとおもうほど、ムラでの一日を満喫する。
 しばらく歩いたところで、そろそろ疲れたから通りの屋台で冷やし飴でも買って休もうかと思っていると、散髪屋から女性がひとり、ふたりと出てきた。彼女たちはそろってこぎれいな着物に身を包み、たった今、結い上げてもらっただろう髪をうれしそうに手で撫でている。このあと慕っている男性のもとへと向かうのか、どこか多幸感とよそよそしさが入り混じっている。まさに、うら若き乙女たち。
 はて、なにか特別な催しでもあるのだろうか。三人を過ぎて、四人目の女性が出てきたとき、ふとそんなことを思う。旅役者がやってくれば一週間は前からムラじゅうがお祭りさわぎになるし、前に一度カントーから名うてのナントカ屋がやってきたときにはそれはもう昼夜問わず宴のようだった。
 お目当てのカブキ役者がムラに逗留すると知った女性たちは、さぞ落ち着かない様子でおしろいを塗り直し、そして何度も何度も塗りたくるからいつも以上に厚塗りになって。みな一様に能面みたいになってしまったのを思いだす。長屋のおかみさんたちはときおりその話をしては、「あれは見ものだったねえ」と笑い飛ばすのだが、そういえば、そのときの雰囲気にすこし似ているかもしれない。あっちでそわそわ、こっちでそわそわ。女性たちがいつも以上に身なりを気にしている。もしや、そういう日だったのではと不安になって胸に手を置くと、お店から出てきた少女が声をかけてきた。
「おねえさんも、どう? いつもとちがう髪結い、あたしけっこう上手だよ」
 店先の床几に腰かけ組んだ足をひょいと放り出す。あご先で切られた内向きの髪とすこしだけ長いえり足。ムラの女性たちとは一風変わった装いだけれど、彼女にとてもよく似合っている。わたしは一瞬呆気にとられていたものの、長らく似たような巻き髪を手でさわって、たまにはいいかしらと彼女の誘いにうなずいた。
「どういうのが好み?」
 鏡の前で椅子にすわり、ほどいた髪を彼女がひとふさ手に取る。このムラに訪れてすぐに連れてきてもらった、それ以来かもしれない。そのときは老夫婦がふたりで切り盛りしていて、不器用だから髪結いができないと言うわたしに、豪胆に笑いながらカントーで流行りの巻き髪を教えてくれた。
 いくらか経った今でも、やはりまだそうした流行りには疎く、殊このような場所だからイチョウ商会の皆さんがカントーやジョウトから仕入れてくれる新聞や雑誌、あるいはカブキ役者たちの錦絵くらいしか外の出来事を知る機会がない。そして悲しきかな、いまいちそれらも女心を刺激するわけではない。そうですね、と鏡の中の自分をなんとなしに眺めながら、「このかんざしに似合う髪型を」巾着から取りだした髪飾りを手渡すと、彼女――ヒナツさんはへえと目を瞬かせた。
「キレーだね、銀かな」
「どうでしょう、わたしもいただいたものですから――」わからなくて、と言おうとして、横から答えたのは店主だ。
「ふむ、そりゃあ白金だね」
 あごをなでて銀色のかんざしを眺める彼女にヒナツさんとわたしはギョッとした。
「白金?」
「ホウエン地方の遊女が、このクニでいちばん最初に身につけたとされていますがね、まさかヒスイで目にするとは思わなんだ」
 白金といったらプラチナだ。その価値は銀をはるかに上回る。そんなものを気軽に持ち歩いていただなんて……。あんぐり開けた口が元に戻らないわたしをよそに、ヒナツさんは興味深く白熱電球の光に銀のそれを晒す。
「昔、集落で前のリーダーが白金の粒を持ってるのを見たことあったけど、こんな見事なのは、あたしも初めてかもね」
「なんと、ヒスイでも採れるのかね。海のはるか向こうのモノだと思い込んどったが」
「でも、こんなにきれいじゃなかったよ。小さな鉄のかたまりって感じだったかな。金のほうがよく採れるしね」
 金、その言葉に店主が慌てて周囲を見渡す。
「古くから金、銀ってのは争いの種じゃからの、ヒスイがその惨禍に巻き込まれんとよいが……」
 そうだ、金、銀、銅、あるいは金剛石などの鉱物をめぐる争いは、遥か海を越えた先で文明が確認されたころから何度となく起こっている。ここ■■■■■■でも――はたとわれに返る。
「とにかく、お嬢さんも、これまたとんでもないものをもらったもんだね。ヒナツや、とびきりの髪型にしておやり」
「うん、そのつもり」
 鏡の中のぼう然と魂の抜かれた自分を見つめているうちに、やわらかな手がふわりと髪をすくう。自分で結うのとはちがい人に髪を整えてもらうのは、ふしぎとこそばゆいようで心地よさが優る。
「おねえさんも、すごい男に惚れられたね」
 あたしも腕が鳴るよ、と、ヒナツさんの言葉にハッとして、ひと息に熱がのぼる。
「こんなの、好いた女じゃなきゃ贈らないでしょ」
「そんなんじゃ、ないんです。いつもお世話になっている方で、命の恩人で、わたしの後見人みたいな感じ、……だと思います」
 脳裡に浮かんだのはウォロさんの顔だ。笑みではなく、神妙にわたしをまなざしている、あの遥かな瞳。思いがけず言葉尻がすぼんでしまったが、それに対しヒナツさんは訳知り顔でふうんと唇を薄くすると、かすかに目を三日月型にして器用に髪結いを続けた。
「今日はその人に会うんだ?」
「まさか、たまたま仕事が休みだから、あてもなく過ごしていただけで」
「へえ、残念だねえ、そのヒトも。想い人の、とっておきの姿が見られないなんて」
 顔が熱いったら、ありゃしない。顔どころか、喉もとさえやけに燃えるようでむずむずする。ウォロさんは、そんなんじゃ、ない。
 ――アナタのコトはだれよりもよく知っていますよ。
 けれど、脳裡に蘇る声がそれを邪魔する。ちがう。……ちがう。そのはずなのに。
「そういえば、今日はなにか特別な日なのですか?」
 とうとう、いたたまらなくなって話題を変えると、彼女はああと呆れ顔を浮かべた。
「あれはリーダーが――ウチの長がくるっていうから」
「コンゴウ団の?」
「そう、みんなソワソワしちゃってさ、ホーントよくやるよね。ま、そのおかげであたしはいろんな人の髪結いができて、一石二鳥なわけだけど」
 心の臓が、今度はちがう意味ですばやく韻律を刻む。
「色男だからさ、あの人」
 たしかにと同意するまでにもなく、ヒナツさんは片眉をあげて一笑する。
「それを、わかってる節もあるからズルいんだ。でも、あの人はそれでもカッコいいと思う。豪胆で、粗野に見えることがあっても、まっすぐあたしたちに向き合ってくれる、誇れるリーダー」
 そうね、そうだ。彼女の言葉に、群青の羽織を翻し、胸を張って歩く彼の姿が脳裡をよぎる。勝ち気に笑ったと思えば、オレを頼れとばかりにたくましい腕を差し伸べてくれる。それは、彼の懐に入ったもの、皆に平等に与えられるもの。
 完成したのは、巻き髪とは異なり凛とした髪結いだった。うなじのほうで低くまとめて、前髪は斜めへ流し耳を隠す。最後に花びらの華奢に揺れる簪を挿せば、なぜだか妙に色香を感じた。
「とてもすてき。髪型ひとつで、こんなにも雰囲気がちがうのね」
「そうだね。巻き髪も似合ってたけど、おねえさんにはこっちのほうがイイよ」
 顔の横で得意げに頬をあげて、白いケープを取り払う。たしかに、こっちのほうがしっくりくる気がした。どこかくたびれた感じを、うまく艶に変えてくれるような。はて、いったいわたしはいくつなんだろう? 自分で考えてすこし笑ってしまった。

 また腕磨いとくからさ、と見送られソノオ通りに戻ると、ちょうど表門にひとりの少女が帰ってきたところだった。元気よく走ってくる彼女に頬を弛めれば、「ショウちゃん!」わたしは声をかける。途端、ぱあっと明るく破顔する彼女は、空高く禍々しく渦を巻く〈時空の裂け目〉から落ちてきたという。ポケモンの扱いに長けており、調査隊としてヒスイじゅうのポケモンたちを調べ、また異変を起こしている各地域のキングたちを鎮めている。
 つい先日、紺青の海岸から帰ってきたと思ったのに、今日もどこかへ旅立ち――正確には、一昨日、だが――そして戻ってきたのだ。元気な姿をみると、こちらまでその元気を分けてもらえるが、あまりに忙しなく走り回るものだから、少々心配になる。
 おかえりなさい、と迎えるわたしに彼女は立ち止まって、ただいまです、とはにかんだ。
「今日はどこまで?」
 紅蓮の湿地です、と彼女は答える。なんでも迷子になってしまった警備隊のご家族の方がいて、捜索ついでにチェリムの図鑑を完成させてきたのだという。
「やっと隊員ランクをあげてもらえるんです」
 そんなふうに朗らかに語る彼女の鼻先についた泥を、着物の袖でぬぐってあげた。
「よかったね、ショウちゃんの活躍がまたひとつ認めてもらえる」
「はい! でも、すみません、お着物、汚しちゃいました……」
 すまなそうにシュン、としてショウちゃんは頭をさげる。
「いいの、洗えば落ちるのだし」
「でも……。そうだ、これ、よかったら」
 腑に落ちない様子だった彼女が、ポーチから取り出したのはひとつの鉱石だった。
「なあに、これ」
 きれいねえと太陽にひらひらとかざすと、翡翠色のそれはうつくしく瞬く。
「〈めざめいし〉って言うんです。ホントはポケモンの進化に使う石なんですけど、でも、部屋に飾ってもいいインテリアになるだろうし。あ、インテリアっていうのは、置き物のことで」
 なるほど、殺風景に近いあの長屋の、どこに置こうかと考えてつい顔がほころぶ。
「ありがとう、いただいていいの?」
「はい、ナナセさんに! 私はもう何個も持っているので、それと、もし進化の石として使いたければ、ポケモン、捕まえてきます!」
 エッヘン、と力こぶを作ってみせるショウちゃんに微笑んで、「でも、これじゃあ割に合わないね?」と巾着の中に手を差し込む。
「疲れてるだろうから、はい、甘いもの」
 手のひらにはらはらと落としたのは、包み紙にくるまれた洋菓子。ショウちゃんはキャンディー包みになったそれを見つめて、ぱあっと目を輝かせる。
「キャラメル……!」
 そう、とわたしはうれしくなって声を上ずらせた。
「ウォロさんに仕入れていただいたの。なんだか懐かしい味がして、食べるとホッとするから。わたしも好きなんだ」
 ミルクと砂糖と、バターを煮詰めて作り上げるお菓子。ここヒスイにはミルクを出してくれるミルタンクというポケモンがいないから、自分の手で作ることはできないけれど、ウォロさんが知り合いの商人とそのポケモンの手を借りてカントー地方で作ったものをわざわざ取り寄せてくれたのだった。
 何度目だろう、キャラメルの名を告げる前に、「例のやつですね」と人差し指を立て先手を打たれたのは。それを思い出すと、今でも恥ずかしくなる。
「イチョウ商会って、こういうものも扱っているんですね」
「ええ、ウォロさんに頼んでみたら、きっと探してくれると思うわ」
「プリンとか、アイスとか、ないかなあ……」
 くすりと笑うと、ショウちゃんは照れ隠しか頭巾をちょこんとずり下げた。
「さすがに、そのふたつは船旅だと厳しいかもね」
「そっか、そうですよね……。じゃあ、カレーのルーとか売ってないかなあ。そういうモノ、食べたくて」
「この時代、たぶんルーはないけれど、スパイスなら頼めるんじゃないかしら」
 そう言うとショウちゃんは、「そこまで大変なカレーづくりはしたくない」となんとも複雑な顔をした。
「焼き菓子なら保存も効くし、クッキーとかサブレはどう? あとは、キャンディーかしら。……ショウちゃん?」
 じいっとわたしを見つめて意識を手放していた彼女は、名前を呼ばれてようやくハッと我にかえった。
「どうかした?」
 一日の疲労がのしかかってきたか。心配になってその顔をのぞきこむと、またもやわたしの顔をまじまじと眺めて、ようやく彼女はかぶりを振った。

 休日ほど、夜が来るのは早いもの。日が暮れて通りに明かりが灯り始めると、にぎやかだったムラの空気も穏やかに静まっていく。
 結局、手持ち無沙汰になって、報告へ向かうというショウちゃんに着いて本部へ訪れたわたしは、医務室の隅で医学書を広げて勉強に精を出したのだった。分厚い本とまっすぐ睨み合い――というわけにはいかないが、トヨさんやタミさんたちが記してくれた〈ひでんのくすり〉やカンポーなどの覚書きと照らし合わせ読み進めていく。
 タオファさんには肩こりや眼精疲労にも効く軟膏を頼まれているものだから、すこしでも早く届けたい思いもあった。あとは、あのひとに会えないかしらという期待も。けれど、今日は本部には用がなかったらしく、待ち人が来ることはなかった。勉強を終えてから、「すてきですね」と本部前に立っていた警備隊のスグルさんに、真顔のまま髪型を褒められて帰路につく。
 すっかり火灯し頃ということで、宵闇にぽう、と浮かび上がるガス灯の光はどこか神秘的で美しかった。彼方此方聞こえてくる生活の営みがそれを彩って、ひそやかだけれど、あざやかな夜の景色を産み出す。
 ミオ橋を渡って真っ直ぐ歩いていけば長屋が立ち並び、警備隊の宿舎の先に医療隊に与えられた長屋がある。皆三人四人と複数が寄り添って暮らしているが、幸か不幸か空きが出た関係でわたしだけはひとり部屋だった。だからいつ帰っても中は真っ暗で、すこしだけ帰るのが億劫になる。
 文明の灯火に照らされたミオ通りから一本入り、裏手に回った最奥がわたしの部屋。しぜんとつく戸の明かりが見えてきたところで、どうしようかと逡巡する。
「どうした」
 そのとき、滔々と低い声が闇間をたゆたい、ぴりっと背すじを震わせた。
「……セキさま」
 応、と唇を薄くしてこたえるそのひとは、夜の見せた幻影なのではないかとわたしは何度も目を瞬く。
「なんだよ、いちゃ悪いか?」
「いえ、だって……」
「だって?」
 ここはムラの中なのに。しかしその言葉は声にはならない。しびれを切らしたのか、先が続かないことを悟るとセキさまは腕組みをして小さく眉を跳ねた。
「これからどこか行くのかい」
 そう言われると困るけれど、やはり帰るつもりはなかった。
「すこし、外を歩こうかと思って」
 そう答えると、セキさまはそうかと相づちを一度打ったあと、腕をほどいてその片方を伸ばしてくる。
「なら、こっちだな」
 なにを思ったか、大きな手のひらでわたしの手首を掴んで、始まりの浜へ続く門をくぐるではなく、畑の方面へ向かった。喜ぶべきところなのに、心の臓がそう一筋縄ではいかないのは、「もしだれかに見られたら」という心配が一番にやってくるからだ。
「見張りのやつに見つかると、やいのやいのとうるせえからな」
 そう言ってのぼるのは門の横にある土手だった。軽々わたしを引き上げては、コトブキムラの塀を越えていく。そうとなったら、向かう場所はひとつしかない。
 宵口の脱走劇はだれに見咎められることもなく無事成功し、わたしたちは浜辺までやってきた。
「海ってのは、なかなか悪くねぇモンだよなあ」
 遥か先、月明かりに浮かぶ水平線を前に、彼は両腕を広げて瞑目をする。勇ましく結い上げられた髪が夜風に吹かれる。昼間でもないのに、眩しくそれを見つめて数歩の距離を埋めるべきかどうかを迷う。
「アンタは好きか」
 こちらへ送られた声に、わたしはこくりとうなずいた。
「……好きです」
 こぼれた言葉は思いのほか小さく、吐息みたいなものだった。それでもセキさまは聞きこぼさず、そうか、と先ほどのように静かに相づちを打った。
「ならいい。来たかいがあった」
 羽織のすそを翻し、彼は近くの流木に腰掛ける。落ちていた木の枝を手にしては、ぽんと宙へ投げてから再び捕らえ、あっけなく手放す。その木の枝が、自分ではありませんようにと願う一方で、いつまでこうしていられるのかと考えてしまう。
 今日、髪型を変えたの。みんなあなたに会いたくて、見初められたくて、一日じゅう落ち着かなかったの。それはもちろん、わたしも。
どうかわたしを見て――けれど、やっぱり見ないで。いっそのこと、ちっとも見てくれないほうが、見られていないとわかったほうが、安心するから。
 傲慢な気持ちたちの狭間で揺らぐわたしを、彼はきっと知るよしもない。不安定で不均衡で、ほんとうに相反する感情がせめぎ合う。むしろ、それを知られたくはない。けれど、口をついてでそうになるのはただひとつの言葉だけ。
 広くたくましい背を眺めて、風の合間に熱い吐息を小さく洩らす。
「この向こうに広がるモンをオレは知らねえ」
 夜の静けさを纏うように、セキさまが言った。
「生まれてこの方、テメェの生きる場所のことを考えるしかできなかった。――いや、それすらも満足にはいかねぇモンだな」
 寄せては返す潮騒の中で、再度彼は、「海ってやつはいい」とくり返す。
「デカいぶん、こっちが小せえことなんざお見通しなんだろうよ」
 砂を踏みしめて、わたしはひたりとその堅牢な背に頬をくっつけた。
「セキさま」
 膝をついて、いつもより丸まった背を守るように寄り添って。なにかを告げることは不可能だった。ただその名を紡ぐだけでわたしには精一杯だった。
 ようやく訪れたぬくもりに、抱くのはやはり愛おしさだった。
「そっちじゃねぇぜ、ナナセ」
 緩慢な仕草で伸ばした腕に躰を攫われる。座る彼の空いた胸許に抱かれ、掻き抱くようにしてほんの少し乱暴にそこへ閉じ込められる。やがて、与えられるのは熱い接吻。
 なにもかも、頭を覆っていたもやすら、この瞬間に弾けて散り散りになって、「今」以上に大切なものなど存在しないのではないか。そんなふうに考えてしまう、烈しい感情。
「ナナセ」
 そうして紡がれる音色だけがすべてであればよかったのに。遠くから近くから、ささやかに続く潮騒に包まれ、ただ今は互いの熱に溺れる。果たしてこの不確かで不安定な逢瀬が、なにをもとに形づくられているのか。潮風すらいとわず、その答えをわたしたちは呑み込んでいく。
 太い指に掻き乱された髪から、白銀に照らされた砂の上へかんざしがこぼれ落ちた。

 キネさんに頼まれ畑作隊の方々に巻木綿とさらし木綿とを届けた帰りのことだ。イモヅル亭でショウちゃんやテルくんたちと出会った。
「ナナセさん、よかったらご一緒にいかがですか」
 ラベン博士もいらっしゃるため、調査を終えて一日のご馳走にありついているところなのだろう。誘いに甘えて、赤い番傘の下でイモモチをほおばるショウちゃんのとなりに腰かけると、ムベさんにわたしも一人前をと頼んだ。
「お勤めはもう終わりですか」訊ねてくるラベン博士に、はいと答える。
「荷物を届けたらそのまま帰って構わないとキネさんに言われていたので」
 外の座席だというのに、なんともいい香りだ。頬を緩めていると、ひと足先に湯のみが置かれた。
「みなさんは、今日はどちらまで?」
「今日は黒曜の原野まで。マスキッパの大量発生があってショウと一緒に調査に行ってきたんです」
 答えてくれたのはテルくんだ。マスキッパといえば、しばらく前の出来事を思い起こして湯呑みに伸ばした手が止まる。
「そういえば、ナナセさんも以前、マスキッパの大量発生時に調査に同行されたことがあったとうかがいましたが」
 ラベン博士のことばに、ええ、と唇をゆっくり震わせる。
「おふたりがこちらへくる前のことですね。そのときは被害も大きく、隊とはぐれて大変なことになってしまって」
 そうでしたか、ラベン博士は眉をさげた。
「どうにか警備隊と調査隊が本部に帰ってきたけど、ナナセさんがいなくて大騒ぎだったんです。タミさんとトヨさんなんて、ひと晩じゅう手を合わせて祈っていたくらいで」
 付け加えたのはテルくんで、
「それもそうでしょう。今となってはショウくんがいるので我々調査隊もスムーズに調査を行なえていますが、それまではそうはいきませんでした。その上、ムラの外ではぐれたとなれば、命の保証はありませんからね」
 神頼みもしたくなるはずだと、そんな彼にラベン博士はイモモチをほおばる。ちょうど自分のぶんの定食も運ばれてきて、わたしも手を合わせた。
「だから、セキさんが、ナナセさんと警備隊員のふたりを連れて帰ってきたときは、ムラじゅうの人間がホッとしてましたよ」
 その名前に、あの夜の秘め事すらも思い出しそうになって、曖昧に笑う。
「セキさまには本当によくしていただいて、動転するわたしをよそにモモンの実で毒に冒された警備隊の方を救ってくださったんです」
「なるほど、それはよかった。襲われて以後帰らずというのは、少なくないですから……」
 そこで、暗くなった空気を払拭するように、ラベン博士はパッと破顔した。
「今回の調査では、マスキッパの出す粘液には誘引作用があり、それをもとに獲物をおびき寄せるというのがわかったんですよ」
「誘引作用、ですか」
「ええ、甘い香りがするんです。人体にどう影響するかはまだはっきりわかっていないのですが、新たなポケモン寄せの道具などに利用できるかもしれません」
 ねっショウくん! と話しかけられ、イモモチをたんまり頬張っていた彼女は気恥ずかしそうにはにかんだ。
「なるほど、ポケモンの生態は奥が深いですね。チュリネの葉はカンポーにもよく使われますし、その葉を煮出した汁はむしよけになると、先日博士からお借りした本に載っていました」
「ナナセさん、博士のあの外つ国の本が読めるんですか?」
 おどろいたテルくんに一度目を丸くしてから、ええとうなずく。
「すこしだけれどね」
「すこしでもすごいや、おれなんかチンプンカンプンで」
 ちょん、と少年の唇が尖る。
「ナナセさんは、カントーの商家のご出身なんですよね。幼少のころ、父君について洋行なさったことがあるとお聞きしましたから、とてもよく勉強していらしたのでしょう」
 ラベン博士がさりげない訳知り顔でふむとうなずいたとき、キュウ、と足もとから鳴き声がして、わたしは卓の下をたしかめた。
「あら、ラルトス?」
 白と緑のその子はわたしの脚を盾に隠れるようにしてこちらを見上げていた。
「あ、また逃げ出した!」
 もう、と声をあげたのはショウちゃんだ。彼女は白い頬を膨らませながら箸を置いて立ち上がった。
「このあいだ捕まえたやつか? 放牧場に預けたのにしょっちゅういなくなるって言ってた、例の」
「そうなの、ボールに入れてもいつのまにか出てきちゃうし」
 ラルトスはススッとわたしの脚の裏側に隠れ、ショウちゃんから逃げまわる。
「すみません、ナナセさん」
「ううん、いいの」
 さあ、出ていらっしゃい、上体をかがめて手を伸ばせば、ラルトスはぴっとりその手にくっついてきた。
「この子はひとの気持ちに敏感なポケモンなんですよね。だから、くたびれたわたしを心配してくれたのかも」
 抱き上げればその子は小さな手をあげて応えた。それがなんともかわいらしく、顔がほころぶ。
「ナナセさんは、あまりポケモンを恐れませんよね」
 ラルトスをショウちゃんに受け渡すと、ラベン博士が言った。
「そうでしょうか」おもわず首をかしげる。
「ショウくんのおかげでポケモンの調査が進んだとはいえ、まだまだ人々にとってかれらは未知のもの。ですが、ナナセさんには迷いがないようにも思います」
「迷い?」
「ええ。困惑や動揺とも言えますが、あなたの中で、ポケモンは疎むべき、あるいは忌むべきものではない」
 きょとんと目を瞬いていると、ラルトスがまたもやショウちゃんの手から逃げだしたようだ。あのショウちゃんの隙を突くのだから、なかなかどうして強者である。それを眺めて、わたしは博士の言葉を反芻した。
「迷いが、ない……。自分でも、よくわからないんですが、懐かしい気持ちと昂揚する気持ちがあるんです。楽しいとかうれしいとか、ポケモンにふれると、いろいろな感情を思い出す気がする」
 ラルトス! と、すぐそばでは追いかけっこが始まっていた。テルくんはふしぎそうにしていたが、ラベン博士だけは得心したように、そうですかとまなじりをゆるめた。
「さすがに、オヤブンに睨まれたときは、ヒヤッとしましたけど。でも、同時に思ったんです。ほんとうにポケモンっているんだ、ゲームの中の存在じゃ――」
 ――わたしは、だれの記憶を話しているの?
「ナナセさん?」
 テルくんがわたしを呼ぶ。我にかえり、なんでもないと笑うと、こちらへ走ってくるラルトスを抱き上げた。いよいよ見かねたムベさんが、冷めちまうぞとわたしたちをたしなめにくる。
 せっかくのイモモチだ。食事を再開しようとしてショウちゃんをふり向いたときだった。
「ずいぶん楽しそうにしてるじゃねえか」
「セキさん!」
 若者たちの声を浴びて、彼は、応、と気さくに笑った。

 ヒスイ地方に来た日のことを、わたしはよく憶えていない。
 朦朧とする意識の中で金色の光が瞬いていた。辺りは昏闇、明けない夜の先にある、たったひとつのともしび。あるいは宵の明星。やがて、その光が体を包み、わたしは目醒めた。そして、目醒めたときには、見知らぬ天幕の中で横たわっていた。
 大丈夫ですか、と、のぞき込んできたのは、ウォロという男。カントーからやってきたわたしが、雇われるはずであったイチョウ商会の行商だった。万事、悟ったわけではない。前後不覚となったわたしに、その人は丁寧に説明してくれたのだ。両親を喪ったこと、生きるため商いをしていた父の縁をたどり、イチョウ商会を訊ねようとヒスイへやってきたこと、その船の上で熱病にかかり、長いこと昏睡していたこと。そして、わたしが「ナナセ」という名前であること。その名を耳にしたとき、わたしは自分が「ナナセ」であることを理解した。その名前は、名前だけはすぐに溶け込んでわたしの一部となった。ただ、それ以外はなにひとつ残らず、わたしの中から抜け落ちてしまった。

「デンボクの旦那に用があってよ」
 と彼が腰掛けたのはわたしの隣だった。「テンガン山の件ですか」とすかさず訊ねるテルくんをよそに、ふわりと群青の羽織の裾が着物越しに脚にふれて、わたしは早まる鼓動を抱えることになった。
「それもそうだが、今日は別の用でな。アンタらは学者先生とそろって調査帰りか」
「はい。今日はマスキッパの大群が出たので、黒曜の原野に。ショウが図鑑を完成させてきたんですよ」
 そりゃやるじゃねえかと声を高めた彼に、ショウちゃんが照れたように頭をかく。
「そんで、アンタは」
 今度はわたしの番だった。笑顔まではいかないが、かすかな笑みを目元に浮かべて視線を送ってくる彼に、「ちょうど、通りかかったもので」とわたしは答えた。
「そっか、おふたりはお知り合いでしたね」
「そう、そのマスキッパが出た日だ。あの日は運良く間に合ってよかったよ」
 ラベン博士にこともなげに答える彼とちがって、わたしは心の置き場に困っていた。いつもはこうしてだれかの前で肩を並べることなどないし、共通の知人を含めて会話をすることなんてもってのほか。なあ、と語りかけられて、わたしはどうにか微笑する。
「しかし学者先生、たいしたイモモチの量だ」
「調査のあとはいつもこうです。それほど、ムベさんのイモモチは、ワンダフル――そう、えも言えぬ味わいなんですよ」
「へえ、ヒナツもたらふく食ってやがったな。どれ、ひとつ」
 手が伸びてきたのはわたしのお皿だ。あっと思う暇もなくひとつイモモチがさらわれて、思いがけず彼の顔をふり向いた。
「なるほど、こりゃあいい」
「でしょう? 今度からセキさんも、コトブキムラにいらした際には、イモヅル亭を利用されるとよろしいですよ」
 指先を舐める彼と目が合い、なにやら含みのある笑みを返された。
 心の臓がふっと撫でられた心地だろうか。決して触れられない箇所でも彼は平気で触れられてしまう気がする。
「さて、ここらでオレはお暇するとするぜ。旦那を待たせるのも野暮ってモンだ」
 ほんとうにイモモチをひとつ、さらっただけ、けれど突如あらわれたぼうふうのように、たしかな爪痕を残して彼は立ち上がる。
「そうだ。これをアンタに」
 羽織の内側から取り出したのは、青く染まった麻の巾着だった。
 コンゴウ団らしい群青色。なんだろうかと精悍な顔と巾着とを見比べていると、「ウチのやつらに作らせたモンだ。失せ物の代わりといっちゃあなんだがな。ああ、家に帰ってから開けてくれ」と言い募り、そのまま青い衣を翻して歩いて行ってしまった。
「失せ物?」
 ふしぎそうなテルくんとショウちゃんの視線を浴びながら、わたしはその巾着をしばらく眺めていた。

 結局、ソノオ通りを表門へ向けて歩き、放牧場の手前の橋の上で巾着を開いた。宿舎まで歩いてそうかからないはずなのに、そこまで待ちきれなかった自分を恥ずかしいとはおもったけれど、辛抱よりもわたしの胸のほうが先に限界を迎えてしまった。
 どうにかムラの中で人影のない場所を考えて――といっても、放牧場はショウちゃんたち調査隊の皆さんが捕まえてきたポケモンたちでたいそう賑わっていた。それでも、だれかに声をかけられることもあるまいと、いろとりどりのポケモンたちを見渡せる橋の上、わたしは開いた巾着の中からそれをとりだした。
「こんなの」
 彼の男を思わせる群青色の組紐。結び終わりには、留め具のかわりに小さな鉱石がついている。深い、深い青……。
「ずるい……」
 たったひとつの紐だ。強く引っ張ってしまえば、途切れてしまうかもしれない、ただの糸。それでも、膨らんではすぐ萎んでしまう胸を、瞬く間に熱く膨張させるには十分すぎる。彼の温度を思い出しながら、すがるようにそれを抱き締めて、わたしは橋の上にうずくまった。

 翌朝、下げ巻に結った髪を仕上げに組紐でまとめて横を向く。鏡に映ったわたしの髪には、日暮れの空にほんのひととき現れるようなえも言えぬ群青が宿る。青というのは不思議な色だ。そこにあるだけで物事に秩序を与えるような気がする。さすらば安寧、深い思慮と知性を感じさせる色。けれど時として、それはあまりに高貴なものに思えてしまう。
 あのひとにはとてもよく似合うけれど……。うまくできたと思い何度も右を向いたり左を向いたりしていたものだが、手持ちの着物ではどうも悪目立ちしてしまっていた。思えばムラに来てから着物を買い揃えたのは片手で指折り数えられるほど。お給金をもらっていないわけではないが、衣食住を満足いくまで整えるというのはそれなりに手間もお金も時間もかかるもの。
 勤めに向かうだけだから不自由がないとはいえ、一張羅に近い梅鼠色の着物にはその自然を司るような「あお」は甚だ不釣り合い。それがなんとも贈り主との関係をまざまざ突きつけてくるように感じられて膨らんだ胸はすぐ萎む。
 ちっともよくないわ。紐をほどけば、長い髪が肩や胸に散らばった。それでもどうにかそばには置いておきたいと足袋の下の足首に巻きつけた。
「頭痛膏は順調か?」
 製造隊に修理を頼んでいた器具を受け取りにきて、タオファさんはいつものすげない調子で訊ねてきた。もちろんですよ、と苦笑して答えると、彼は満足そうに鼻を鳴らした。
「先日、渡したすり鉢が優秀だったからだな」
「おっしゃるとおり、量を細かに調節するのに大変便利で手放せません」
「あとは作り手の腕にかかっとるわけか」
 そう言われると荷が重いもの。けれどキネさんや、〈ひでんのくすり〉を編み出したトヨさんがそばにいるので心づよい。
 古く、梅干しをこめかみに張ったり、鉢巻をきつく締めてその痛みをやわらげたりとあるが、タオファさんの頭痛はおそらく目と肩からきている。そのため、血行を促し筋肉を弛緩させる薬草をもとに試しに組み合わせているところだ。
 特効薬といったらいいものの、ヒスイにある材料で代用しつつ作るのは容易なことではない。ただ、こうして使命があるというのはいいことだ。できるだけそれに応えたい。なにかをしているときは、それ以外のことを考えなくて済む。
「そういや、おまえさん、シンジュ団のキャプテンに、不可思議な男がいるうわさを知っとるか」
 受け取りついでにキャビネットの整理をしていたところだ、思い出したようにタオファさんが言ってわたしはクラフト道具片手にふり向いた。
「はあ、存じ上げませんけれど」
「そうか。なんでも珍妙な身なりをしており、ヒスイにたどり着く以前の一切の記憶がないというぞ。おまえさんと全くもって同じとは限らんが、健忘というのはそう少なくはないみたいだな」
 人の記憶は木の枝のようだと、たまたまヒスイへやってきていたお医者さまに聞いたことがある。それらは複雑に入り組み、ほんの一本の枝を揺らしただけで木全体が揺らぎ始めることがある。
 わたしのその揺らぎが起こるのはいつか。なにもないことはかえって自由も同然だった。ヒスイにはわたしを知る人間もほとんどいなかったし、ムラに来るまではウォロさんがさまざまな話をしてくれた。この世界のこと、ヒスイのこと、ポケモンのこと。ムラに来てからは多くの書物があり、知識を詰め込むには苦労をしなかった。乾いて小さく縮まった晒し木綿が、水を得て瞬く間に膨らみ、広がるように。ふしぎと、怖いと思ったことはなかった。これまでは……。
 少しずつわたしの知らない欠片が集められるように、自分の意識外でうごめき、それに伴い滞留が解消する感覚。この手で手繰り寄せることのかなわないなにかを、恐れている。
 人は、なにを以って人と成すのか。その人が、その人たるためになにが必要なのだろう。たとえば記憶をひとつの要素だとして、それが人を人たらしめるものだとしたら。わたしは、一体――。
「大丈夫か」
 うろんな顔つきでこちらを見やるタオファさんに、わたしは曖昧に笑んで返した。
 ああ、たまらなく、立っていることすら恐ろしい。

 昼餉の時間だからと外へ出て、川縁に脚を投げ出していた。子どもたちがやってきて、ナナセ姉ちゃんはしたないだなんだと散々に言われたが、青い組紐を見ることで心を和ませたかった。
水にはやや遠く、そのさんざめく水面を蹴ることはかなわない。ただの憧憬れのまま太陽の光にさらす。ずいぶん昔にこんなことをしていたような気もしなくないが、果たしてそれがなんの記憶なのかわからない。
 こうして生きているのだから、前の生活があったことはたしかだ。カントーでの過日だろうか。洋行の楽しき思い出だろうか。父と母の顔すら思うように描けないわたしを、彼らは空の上で恨んではいまいか。とどのつまり、堂堂巡りだ。川面に落ちたひとりぶんの影を眺めて、青い組紐の脚をばたりと宙に泳がせる。手にはさきほど子どもたちが持ってきてくれた白い花を、鼻を寄せれば甘い香りがした。
 空は蒼く晴れ渡っている。広大に続くヒスイのその中のちっぽけな存在だというのに、やはり自分の世界では、おのずと自分というのはその大部分を占めるものだ。最近、ずっとおかしい。まるで、そう、深い森にでもいるかのように。
「ワッ!」
 にゅっと影がわたしを呑み込んだのは、徒然に空気を蹴ったそのときだった。おまけに大きな声が落ちてきて、わたしは無様なほどに飛び上がってしまった。こんなことをするのはひとりしかいない。しかし、ふり返るその拍子に、体勢を崩して水面へ真っ逆さま――となるはずが、すんでのところで繋ぎ止められた。
「すみません、おどろかせてしまいました」
 光を背負ったウォロさんがわたしの手首を掴んでいる。顔には影がかかり、うまく表情はうかがえない。けれど、その声から笑っているのだろうとわかった。
「しぬかと、おもいました」
「スミマセン、まさかそれほど飛び上がるとは思いもよらず」
「なんだか、愉しんでいますよね?」
「いえいえ、ナナセさんのそんな顔を見るのは、ジブンの特権かなと考えていたまでです」
 よいしょ、と引き上げる腕の、見かけによらぬたくましさよ。ばくばくと大きくうねる心の臓を抱えて、半ば宙に浮いていた身体を地につけた。
「――あ」
 が、しかし、禍福は糾える縄の如し、なんてことを恰好よく言うのは癪だ。
「――ッ、ウォロさん!」
「いやあ、ジブンも、思いのほか若くないのかもしれません」
 ばしゃんという音が辺りに響いて、騒ぎを聞きつけたムラの人たちがなんだと集まってきた。目の前の男は笑っているけれど、正直、それどころではない。川底に腰を突いて、胸のあたりまで水が迫っている。わたしを引き上げてくれるはずのこのひとは、ついうっかり自分まで足をすべらせて、挙句、ふたりして水へ打ちつけられてしまったのだ。
 浅かったからよかったものの、ウォロさんは荷を背負ったまま。あまり芳しい状況とは言えない。
「ご無事ですか?」
「だいじょうぶ、ですけど」
 むしろ、ウォロさんのほうが大惨事だ。立ち上がり、荷物を先に川縁にあげて、次いでわたしに手を差し伸べてくる彼の衣服は、みるからに水を吸い込んで重そうだった。髪だって、金色のそれから、いくつも雫が滴っている。
「まさか、この川で水浴びすることになるとは、思ってもみませんでした」
「わたしもですよ」
 ほんとうに、いつ、どこでなにをしてくるかわからないひと。むっと唇を尖らせていたが、甚だ馬鹿馬鹿しくなってわたしも吹き出した。
 手を貸してもらい、水の重さに逆らって立ち上がる。
「……あ」
「どうかしました?」
「お花、どこかへいっちゃいました」
 流れゆく先を目で追いかけて、やがて水面に揺れる白い花房を見つけた。沈んでは浮かび上がり、くるりくるりと円を描く。花は流れ、どこへ向かうのだろう。
「身体を悪くしてしまいますね」
 ひとしきり眺めていたところで、ウォロさんが言った。
 おまえさんたち大丈夫か、とかかる声に応えながら岸へ上がった。

「なにからなにまでお世話になってしまって……」
 めずらしくきちんと眉をさげる彼に、わたしはいそいで囲炉裏の鍋に汲み水を足す。キネさんにはその場にいた警備隊のひとりに言伝をたのみ、着替えてから医務室へ戻ることをすでに告げてある。お昼をいただきに向かったのにそのまま帰らぬなんて、なんとも申し訳が立たないが、こうなっては致し方ない。
 しゅん、と怒られたコリンクのように板間に正座をする彼に、わたしは苦笑を返した。
「お召しものは大丈夫ですか」
「ええまあ、幸い、替えの着流しを持っていて助かりましたよ」
 どうやらそちらは濡れずに済んだらしい。いつものあの商売服を着ていないというのはたいそう見慣れないものだが、見た目好い彼のこと、いかなる服さえ着こなしてしまうようだ。
 外に干すのは目立つからと火棚から吊るした服はしばらく乾かないだろう。ジブンは仲間たちのもとへ向かいますよと彼は言ったものの、そのままにするのもいたたまらずに、家に引き込んでしまった。
 あまり、褒められたことではなかったかな、と思いながら火の世話をする。小さなムラだ。なにかとうわさに上れば厄介になる。でも、彼とふたりきりで過ごすのは、初めてではない。それこそわたしが目覚めた日から、コトブキムラにくるまでの少しのあいだ、ウォロさんとわたしは旅をしていた。だから、わたしたちにとって、なんらおかしいことではないのだけれど……。
 わたしも濡れた着物から他の紬に着替えたので、すっかり体は軽くなっていた。ただ、真夏でもないのに川へ飛び込んだ名残はまだまだ残ってもいた。脳裡に、群青色のあの男が思い浮かぶけれど、コンブをぱきりと折っては鍋へ落としてイモがゆづくりに専念した。
「しばらくしたら、わたしは本部に戻りますが、ウォロさんはよければゆっくりなさってくださいね」
 濡れた鞄の中身をひとつひとつ取り出して確かめている彼に告げれば、「お気遣いはご無用です」と言葉が返ってくる。
「すぐに、だれかが替えの服を持ってきてくれるでしょうしね。――と、それより、ありました!」
 差し込んでいた手を抜いて、彼はどんと天へ向けてかかげた。手のひらには紅色のなにかの入った瓶がのっていた。
「それは、薬ですか?」
「いえ! いえ! この瓶の中身は、ジャムです!」
「ジャム……」
 といえば、高級品だ。一度、ラベン博士がイチョウ商会から買い求めていたのを見たことがあったが、その値段はイモやダイコンを買うよりもはるかに上回るものだった。安定した砂糖と果実の供給が難しいことから、それらをたっぷり使用してつくるジャムは、ヒスイという土地ではあまり馴染みがない。
「これも、外つ国のものですか?」
「ええ、なんでもカシブというきのみを使用したものらしく、ヒスイでは手に入らない種のジャムです。一見、ふつうの見目ではありますが、非常に甘く、その奥深さはカロスの王族までをも唸らせた味だとか」
 そう言われては、口内が潤うのを止められやしない。「ずるいです、ウォロさん……」口許を手で覆いながらぼやけば、彼はにっこり微笑んでみせた。
「気になりますか?」
「気になるどころではありません、喉から手が出てしまいそう」
 だって、ジャムだなんて。しかも王様を唸らせるほどの味! ついに両手で口を覆ったわたしに、ウォロさんは濡れた前髪をかすかに揺らしながら、立ち上がった。
「掘り出しモノとして、あわよくば高値でさばこうと他の人間は考えていたみたいですが、せっかくなので、持ち出してみた甲斐がありました」
「それは……問題ないのですか?」
「ええ! 万事問題ありません、なにせ、ナナセさんに届けて差し上げようと思っていましたので」
 きょとん、と目を瞬いたわたしの隣にやってきて、彼は、どうぞ、とその小瓶を差し出してくる。
「なぜ、わたしに」
「アナタ、大の甘いもの好きでは?」
「そうですね……。そうです……」
 キャラメルの件もあり、もはやそれを隠すことは諦めたほうがよさそうだ。早くも屈したわたしに彼は満足げに目を細めて、その小瓶を手のひらに載せてくれた。
 紅色のそれは、射し込んだ陽光を集めてうるりと輝いている。宝石のようにも見えて、このまま飾っておいても何日も楽しめそうだ。
「そう長くは持ちませんよ」
 それを察したのか先手を打たれ、泣く泣く肩を落とす。つい気持ちが昂って我を忘れるところだったけれど、こんな高級なもの、そう簡単には受け取れない。
「いま、お代、払いますね」
「構いませんよ、ジブンは川へアナタを落としてしまったわけですしね」
 ひとまず舐めてみてはいかがでしょう? 悪魔の誘いを受けて、わたしはごくりと生唾を飲み込んだ。
「舐めたら、返せませんよ」
「もとからそのつもりですよ。ナナセさんはまったく面白い。さあさ、王族の舌をも奪ったその味をとくご堪能あれ」
 粥づくりに用意していた小匙を手に、瓶の蓋を開ける。きゅぽん、と小気味いい音がして、ジャムの表面があらわになった。つるりとしたすべらかさに、光を撥ね返す光沢。かすかに果実の甘みが鼻を掠めて、おそるおそる匙を差し込んだ。
「……緊張します」
 そんな馬鹿馬鹿しい、とタオファさんあたりが見ていたら言いそうだが、とはいえあの人も目新しいもの好きではある。減らず口を言葉にしながらも内心は胸を弾ませていそうだ。匙を持ち上げた手が震えているのをどうにか堪えて、その紅色の果実のめぐみを口へ運ぶ。
「……おいしい」
 なんてぜいたく。蕩けた顔でウォロさんを見上げれば彼は笑みを深めた。
「カシブの実は、さぞ甘いでしょう」
 こくりとうなずいて、わたしはもう一本の匙を使ってウォロさんにジャムをすくう。
「これだけで、高級なお菓子を食べているような心地になります」
「そうでしょう、そうでしょう! 紅茶に合わせても、とっておきの味わいになるとは思いませんか?」
「ほんとう、商いの上手なひと」
 それでは、紅茶もジャムも彼に頼まなければならなくなる。困ったなと弱々笑って匙を差し出せば、彼はやんわりと断った。それでも、いいからと押し通すと、結局、仕方ありませんねと降参した。
「なんだか、いけないことをしている気分ですね」
 このような真昼から、部屋に閉じこもってふたり、瓶に詰められた宝石を味わうなんて。秘めた空気の中、その匙の持ち手を譲ろうとして、彼は手首を掴んだ。
「では、これはナイショ、ですよ」
 くちびるに当たるのはこの上なく甘美なジャム。されるがまま、それを咥えれば彼は涼やかなまなじりをそうっと細めた。
 まるでアナタはムックルですね、そんなふうに低い声でささやきながら。
「えさを与えられ、必死にそれに食らいつく。なんとも哀れで、幼気なムックル……」
 クックー、陽気な音色だけを上辺に載せて、上唇に残った甘い果実を彼は親指でじっくりと拭いとる。