第一話

 階上に響きだしたふたつの声に、治療にやってきていた警備隊の人たちがまたかと肩をすくめる。ひとつは女性の、高すぎず低すぎず凛として透きとおったもの。もうひとつは腹の底からはるか遠く響いていきそうな咆哮に似た音。そのどちらも今となってはすっかりギンガ団でお馴染みだ。
「また痴話喧嘩やってらぁ」
「飽きねえな、あの兄ちゃん姉ちゃんも」
 口々に呆れの言葉を交わす警備隊員たちに苦笑しつつ、わたしは薬草をすり潰して作った薬を患部に垂らしていく。
「あいかわらずナナセちゃんの薬は効くぜ。せがれの嫁に来てほしいくらいだ」
 つう、と刺激を堪える様には思わず眉根を寄せそうになるが、減らず口のひとつやふたつ叩けるくらいならば問題ない。ずきりと人知れず軋んだ心にふたをして、爛れた傷口になおも薬を塗布しながらその揶揄をかわそうとすれば、「またそういうこと言って」と戸口から新たな声が飛んでくる。
「ナナセさんだって、遊びでここにいてくれてるわけじゃありませんからね。キネ隊長が来たら追い出されますよ」
 麻袋を肩に掛けてやってきたのは、調査隊のテルくんだった。隊の証ともいえる着物を折り目正しくまとった彼は、手当てが目的なのか油を売るのが目的なのか丸椅子に座った壮年のふたりをジトりと平たい目で一瞥して帽子をとる。
「おうおう、テル坊もよく言うようになったじゃねえか」
「あんな小さかったテル坊が、いまやこんなに大きくなって」
 年齢のわりに落ち着いた物腰の彼を、大人たちは肘で小突きあいながら笑う。いつものあいさつのようなやりとり。「やめてくださいよ」と言うテルくんの涼やかな頬が、かすかに朱に染まっている。とはいえ、穏やかなテルくんに甘えて、万が一こちらでも諍いが始まっては困るため、まあまあと大人たちを宥めて手早く木綿布を巻いていくことにする。
「すり傷におそらくモンジャラの出した粘液がついてしまったのでしょう。化膿しているので、日ごと欠かさず包帯をとりかえにきてくださいね」
 巻き目をきゅっと締めて結べば、「ってぇことは、毎日ナナセちゃんに会えるわけだ」明るい声が返ってきた。
「ズルい、ズルすぎるよ、おめえってやつぁ」
「ヘン、悔しかったらモンジャラと戦ってきやがれ」
 泣き真似やらしたり顔やら、忙しないひとたちだこと。すかさず続いた応酬に、「おふたりとも、怪我がないことが一番ですよ」と微笑んでふたりを送りだす。わたしがいないときはキネさんに声をかけるようにと言い添えて、あれだけしゃべれるのならばきっと傷もすぐによくなるだろう。

 ヒスイ地方、コトブキムラ。こちらはギンガ団の本部。調査隊のシマボシ隊長の執務室の隣、四角く切り取られた窓の向こうにはのどかなムラの風景が広がっている。
「これ、頼まれていたものです」
 ようやく静かになったころ、作業台の上を片し始めたわたしに、薬草袋を手にしたままテルくんが歩み寄ってきた。
「こんなにたくさん?」
 受け取った袋の中には、射し込んだ陽光にきらきらと瞬く葉をもつ植物が山のように折り重なっていた。五本の指を持つ葉の形に、金色の色彩。取り出してみれば、少年の顔をゆうに隠してしまう大きさだ。一枚だけではなく、それも、何束も。キングリーフという名のこの植物は、黒曜の原野ではなかなか採れない貴重な薬草の一種で、遠方に調査に出てもらったときに、いつも彼に依頼しているものだった。
「今日はショウが一緒だったから」
 どこか気恥ずかしそうに頭を掻く彼にふと頬を弛める。
「でも、お願いしていたのはテルくんだもの。やっぱりあなたに任せてよかった」
 ありがとうと告げて、前掛けの衣嚢に隠した缶から包み紙にくるまれたお菓子をとりだす。どこか西の香りがする洒落た包みのそれは、イチョウ商会の方から内緒で仕入れてもらった異国のもの。「すこししかないから、トクベツね?」と、ひとつふたつ握らせて、あとは謝礼として約束していた瓶詰めの鎮痛薬を用意する。グレッグルの毒と薬草とを煎じて作ったその薬は、身が入る――たとえばよく歩いたり腕や脚を酷使したりしたときの筋肉の強張りによく効くものだ。それを巾着に入れて差し出せばテルくんはようやく年相応な顔で見つめてから慌てて帽子を額までずり下げ、恩にきます、と言った。
「調査で忙しいと思うけれど、あまり無理をしないでね」
 いつもそればかりだと言いたげな目が向けられるが、常にそう思っているのだから仕様がない。わたしは首をすぼめてキングリーフのにおいを嗅ぐ。青々とした、若い香り。摘みたてのいっときしか嗅げない特別な香気だ。すっと背すじが伸びるような、鼻腔が洗われるような。
 たしかに、齢若い彼らがコトブキやヒスイを担ってくれるのは、なんともありがたく頼もしい。けれどそのぶん、彼らにしかない時間を奪うことになる。若さは有限だ。それに、ショウちゃんが空からやってきたことにより、次第にポケモンの生態が明らかになってきたとはいえ、ムラの外は完全に安全とはいえない。わたしはこうしてギンガ団の本部にいることしかできないから、どうか彼が無事であることをいつも祈る。
「さ、食堂でイモモチをたんとおあがり。また調査に行くときはお願いするわね」
 すっかりたくましくなった背を優しく押すと、テルくんはあごをちょんと上に反らし、任せてください、と威勢よく答えて医務室を出ていった。

 ついにひとりになった室内には、しいんとした静けさが宿る。開いた戸の向こうから、滑りこんでくる声がひとつ、ふたつ。あとは時計の針がギイと軋む音。ようやく溜め込んだ息をふうと吐きだして、途中であった片づけを再開する。今日は朝からキネさんが往診に出向いていたために、ずっと医務室はわたしひとりきりだった。こんなときに限って、外で負傷者が多く出るのだから、シンオウさまもなかなかどうしてあまのじゃくだろう。
 治療に使った薬や薬さじなどをまとめて、それからテルくんの持ってきてくれた薬草袋の中身を検めようとを取りだしたところで、背後から声が落ちてきた。
「オレにもトクベツってやつはねえのかい」
 あまりに突然のことで、わたしは手にした薬草を落としてしまった。あっと思うよりも早く、はらはらと金色の葉が広がる。そのひとは大股で、わたしがいつもかかるよりもはるかに少ない足音で、ぼう然と立ち尽くすわたしのすぐそばまで歩み寄ると、床へ散らばったキングリーフを拾い上げた。真白の巻木綿の指先ではなく、あざやかに日にさらされ血の通った練色。
「おめえはそそっかしいな、ナナセ」
唇を器用に持ちあげて、ふり向いたわたしを切れ長の目でまなざす。
「セキさま……」
 応、などと人懐こい顔をしてみせるのは、コンゴウ団の長である方。他所からやってきたわたしたちギンガ団の人間とはちがって、古くからシンオウさまの御名のもとヒスイ地方で暮らしてきた一族のひとりだ。そんな彼はいつもの群青色の羽織をなびかせ、ひらひらと王の名を冠した葉を燦めかせる。
「カイさまは、もうよろしいのですか」
 なぜここにとか、いつのまにとか、言いたいことはままあったはずなのに、口をついて出たのはそんな言葉だった。ああ、なんて可愛げのないと心裡にため息をつきたくなりながら、それでも平静を装って笑みをかえすと、彼は剃り込みの入った眉をピンと跳ねた。
「カイ? とっくに別れたぜ」
「左様ですか。先ほどまで、おふたりの声が聞こえておりましたから」
 それは耳の奥までツンと痛くなるほど。ようやく彼から薬草を受けとろうとして、その手を絡めとられる。まさかそうなるとは思っておらず、けれど、その手に触れることができたのならと考えていたものだから、びくりと心の臓が震えてしまった。
 なにも口にできないでいるわたしを放って、彼は器用にも指先にキングリーフを挟みながら、手の甲をするりと撫であげては手首を掴んで引き寄せる。
「ガキだからって、あまり贔屓にすんじゃねえや」
 なにを、などと言わなくてもそれがなんのことを示しているかなんて自明だ。それでも、そんなふうにしていたわけじゃないと抵抗すると、彼はすべてを受け止めてなお、籠絡してくる。
「おめえはオレのだろ」
 ――だなんて。
 ふとこぼれた吐息は、自分でもはっきりとわかるほど熱かった。気を抜けばその場に腰を抜かしてしまいそうになってしまう。まるでパブロフの犬みたい・・・・・・・・・・・・――パブロフって、なんだったかしら。
 とにかく、からだが触れ合いそうになる距離で彼はささやいて、またしても唇を薄くし、そして柳美をあげて挑発的な顔をした。
「……セキさまのにおいがします」
 それだから、たまらずうつむいてぐらりと蕩揺する思考に身を委ねることにすれば、いっそう彼の香りはわたしを苛む。ずるいと思いながらも逃れられず、どんどん溺れていく。
「そうか、どうだ」
 いつかそのまま息の根を止めてもかまわないくらいに。わたしの右腕をそうっと指のはらや手のひらでかたどりながら耳へささやいて、大やけどをしてしまいそうなほど熱い吐息を吹きかけてくる彼の胸許へ、どうにか額を預ける。
「……とても濃厚で、いまにも酔ってしまいそうです」
 彼はハッと愉しげに笑うと、指先で掴んでいた金色の薬草のにおいを嗅いで、「酩酊作用でもあるのかもしれねえな」と躰を離した。

 セキさまと出会ったのは、黒曜の原野へ同行したときのことだ。その日はマスキッパというポケモンが大量発生しており、いつもならば拠点に残り団員たちの帰りを待つわたしも、倒れて動けなくなった彼らの手当てをするために共に調査へ赴いていた。
 空を厚い雲が覆っている、どこか昏い天気。早く調査を切り上げてムラへ戻ろうとするも幾度となくポケモンたちに行く手を阻まれ、そのうちにわたしと怪我を負った警備隊のひとりは、他の団員とはぐれてしまった。夕刻まではまだあるはずなのに、辺りはどんどん暗くなり、次第に雨も降り始めた。怪我人をはやく安静な場所で寝かせなければならなかったが、ムラはおろか拠点までの道のりもわからず、かろうじて意識のある彼を肩に支えながら、わたしはひたすら草原を歩くしかできなかった。
「もういいから、ナナセさんだけでも逃げてください」
 彼はそう言ってはくれたものの、そんなことができるはずもなく。「大丈夫ですよ、きっと、だれかが助けに来てくれますから」そうして、身を隠す場所を見つけましょうと必死に自分に言い聞かせるようにして行く先を探した。
 このままいけば、日が暮れて夜がくる。そうすればムラまで帰るのは至難の業。昏闇の中でポケモンたちに遭えばどうなるかわかったものではない。死にものぐるいに、洞穴や岩陰などに身を寄せようとするが、案の定、コリンクに出会ってしまったのだった。
 見た目は可愛らしくとも、かれらは気性の荒い性格で、そのでんきショックを食らったらひとたまりもない。わたしの立てる音が気に食わなかったのか目を真っ赤に剥いて、息つく間もなく襲いかかってきた。
 もうだめだ――ほとばしる閃光にそう思ったとき、
「リーフィア、行け!」
 という声が響いた。緑色の光弾が背後から鋭く破裂した。
「こっちだ!」
 颯爽とあらわれた緑青と金色のうつくしいポケモン。かれに見惚れるうちに、強く腕を引かれた。勢いよく駆けだす。いつのまにか肩にかかっていた重みはなくなり、群青の羽織を着た男のひとが、怪我をしたその人を抱え上げてわたしを先導した。
 それが、セキさまだった。音を立てぬようひそやかに、しかしぬかるんだ地面をしかと踏みしめて、彼は自分たちの立てた天幕に連れてきてくれた。
「あの子は……」
 ぼう然と立ち尽くすわたしをよそに、彼は怪我人を天幕の中に敷き詰められた寝具の上に下ろして、得意げともいえる顔で眉を跳ねた。すぐに、愛らしい鳴き声がしてその子は帰ってきた。
「ほかの人間は」
 うつくしいたてがみを撫で、彼は訊ねる。その子は心地よさそうに寄り添っている。その光景を眺めながら、わたしは震える指先をにぎりしめてはぐれたことを告げた。「そうか、それは難儀だった」とひと言。冷淡に思え、その音色のなんとやわらかいこと。労うようにして与えられたその低い声に、必死で心の帯を引きしめてこたえるのが精一杯だった。
「ありがとうございました」
 深く頭をさげたわたしに、彼は、「ギンガ団の人間ってぇのは、もっと野蛮で話のできねえ連中かと思ってたが」と言った。すぐに、唖然とする女に向けて、「冗談だ」とわらい、「夜が明けたらムラまで連れてってやる」とも。
 たとえ軽やかな物言いだったとしても、どれほど頼りになることだったか。しまいには、それまでそこで寝てな、などと自分の寝床を明け渡してくれた。しかし、すでに怪我をした警備隊の彼がいたために、結局、天幕のすみに座って夜を過ごすしかならず、酷い熱で、うなされる彼をそばで治療し続けた。
 傷口からマスキッパの放った毒が入り込んで、全身を冒していたのだろう。片時も目を離せないからと手ぬぐいで汗をふき、非常用に持っていた水を少しずつ脱脂綿に含ませて口にあてがう。それを、何度も何度もくり返し、顔色をうかがう。拠点にいけば備蓄の解毒薬もあるというのに、こういうときにかぎってひとつも手許に残っていないのは、運命なのか。どうしよう、ひたすら焦る心で胸は埋め尽くされていた。
「これを食わせてやんな」
 しばらくして、天蓋があがり顔をのぞかせたのはセキさまだった。火の光を背負いながら、ひょいと腕を伸ばして、なにかを差し出してきた。
 手渡されたのは桃色の果実。
「いくらか毒にはいいはずだぜ」
 ――そっか、そうだ。みずみずしく、甘いこのきのみは、食用以外に解毒作用がある。そのとき、ようやく喉で痞えていた息がほどけた気がした。
 わたしは慌ててそれを両手で受け取ると、床に伏せた隊員の上体を起こして口許に近づけた。しかし、ぐったりしていてまったく食べることのできる状態じゃないものだから、ひと口かじって口移しをした。どうにか嚥下してくれたのを確認すると、もう一度体を横たえ汗をぬぐった。それを、何度も繰り返した。緑青と金色のリーフィアというポケモンまでもが、親切にも枝ごとモモンの実を差し出してくれ、その愛らしさと感謝で張り詰めていた緊張の糸をすこしずつ解いてくれた。
 警備隊員の容態が落ち着いたのは、すっかり更のたけころだった。天幕の外に出ると、セキさまは焚き火の前で過ごしていた。パチパチと、躍る火の粉に精悍な横顔を黄金色に染め上げ、ふとそれがとてもきれいだと思ったのをよくおぼえている。
「眠れねえのかい」
 そう言った彼の声は夜によく似合う低いゆったりとした音色だった。
「しばらく、モモンの実もあげ続けなくてはなりませんから……。それと、こういうとき、いつも寝られなくて」
 一種の昂揚状態なのか、それとも緊張か、ちっとも眠気は訪れることはない。寝床を奪ってしまったことにすこし気後れを感じながら告げると、彼は巻木綿の手をちょいと動かして隣を示した。
「それなら、付き合ってもらおうか」
 おそるおそる、横へやってきたわたしに彼はひとつきのみを投げて寄越すと、「おめえも倒れたら元も子もねえだろ」と言って鼻でわらった。もうひとつははす向かいで利口に座っていたリーフィアに渡す。その子にはオレンの実を、わたしにはナナの実を、鎮静作用のある実としても有名で桃色に熟した皮を剥いで口に含むと、とても甘かった。
「あなたは、いろんなことを知っていらっしゃるのですね」
 気が動転して、ろくな治療もできなかったわたしとはおおちがい。火の粉を見つめながら言ったわたしを彼は咎めるでも褒めるでもなく、「生きていく知恵ってやつだな」と手の中のオレンの実を投げては獲ってをくり返す。
 コンゴウ団、シンジュ団とともにこの地に息づくひとびと。コンゴウ団といえばどこか粗野な印象を抱いており、近寄りがたいと思っていた。しかし、この男のそばは、酷く安心できるような気がした。
 青い羽織に刻まれた傷痕のようなその金色の繕いをなぞりながら、彼の首飾りや髪結いを眺める。ひと房おりた髪も、耳許の飾りも、それから流れてくる涼やかな瞳も、すべて、わたしの目を奪っていくのに十分だった。
 やがてぱちりと火の粉が舞い、視線が絡み合った。突然のことで、わたしは一瞬ひるんだ。けれど、すぐにそれが自然なことのように思えて、彼の視線を受けとめていた。合図もなにもなく手が伸び、無防備な頬にふれて、羽織の中へ女をさらうのは刹那のこと。重なった唇は、その後もわたしを離してはくれなかった。

「今日はおめえんとこ泊まっていく」というセキさまを名残惜しくも見送って、わたしは仕事に戻った。それからも午前の忙しさは尾を引いて、キネさんが顔を出すまでひっきりなしに患者を受け入れては治療を行なうくり返し。結局、落ち着いたのは夕刻だ。太陽が山際に隠れていく、そんなうつくしい情景とはうらはらに、夜番の隊員と交代するときにはその疲れは重石のように肩へのしかかってきた。
「ナナセさん」
 今日もつかれたわ、そんなふうに首を左右に押し曲げていたところ、わたしを見つけたのはイチョウ商会のウォロさんだった。いつも彼はこんなふうに神出鬼没だから、困ってしまう。よりにもよってこんなときに。恥ずかしくなってそそくさと着物の裾を払い居住まいを正すと、彼は金糸を揺らして微笑を浮かべた。
「いやはや、お疲れのようですね」
「ええ、今日はいつにも増して怪我人が多くて。みっともないところをお見せしました」
 彼は気にしていませんよと溌剌と答え、重そうな背嚢をゆさゆさと揺らして歩いてくる。表門のほうからやってきていたので、もしかすると今しがたコトブキに着いたばかりなのかもしれない。
「みっともないところなど、なんとも絶妙な瞬間を見ることができました。ジブンは運のいい人間です」
 まったく調子がいいんだから。にこにこと笑みを浮かべる彼に、さらにいたたまらなくなって熱くなった顔を手で扇ぐと、そういえば、と彼は切り出した。
「先日、差し上げた品はいかがでした」
 そうだ、先日――その言葉に浮かんだのは異国のお菓子だ。飴のようで飴ではない、テルくんに握らせたあの愛らしい包みのもの。わたしはたちまち飛び上がり、直前のことなど一切合切を忘れて彼に詰め寄った。
「それはもう、すばらしいお味でした!」
「そうですか、そうですか」
「あのなめらかな舌ざわり、思考までとろけてしまいそうなまろやかな甘さ、加えて鼻腔に抜ける香ばしさといったらもう!」
 ウォロさんは動じることもなく、満足げに笑みを浮かべながらふむふむとわたしの鉄砲玉のように飛び出てくる言葉を受け止めてくれる。
「あのお菓子はどちらの地方から届いたものなのでしょう? なぜだか懐かしい味がして、何度も手が伸びてしまうのを、止めるのに苦労しました……。包み紙も愛らしく、捨ててしまうのがもったいないほどで……」
 まだまだ続きそうな言葉を、彼はなるほどとやさしく包み込む。
「あれは、海のそのまた向こうの土地に住む商人から知人が買いつけたモノだったのですよ。その商人は、そうですね、ギンガ団本部にそびえるあの煙突部分のモニュメント――銅で作られた円形の装飾部分があるでしょう? あの元になったポケモンがいる場所です」
 あの、と示したのは、本部の正面に立って左手側にある像のこと。本部の瀟洒な洋館を建築する際にさまざまな知恵や技術を他地方から取り入れたというが、そのうちのひとつ、船ではるか先にある土地の商人が、しばらく前からここヒスイに足繁く通っているのは何度か耳にしたことがある。
「と、言っても、あのお菓子はそちらの土地ではなく、べつの場所が起源のようですがね」ウォロさんは付け加える。
「ナナセさんのため、ジブンがのちほど作りかたを訊いておきましょう!」
「よいのですか!」
 ぴん、と人さし指を突き立てたウォロさんに抱きつかん勢いで言うと、彼は、ええ、ええ、と金糸を何度も揺らして答えた。
「ただ、作るには新鮮なミルクが必要なのが痛いところ」
「なるほど、こおりタイプのポケモンが力を貸してくれたらよいのですが」
 あからさまに肩を落としたわたしに、ウォロさんは一笑する。
「また仕入れてきましょう、商人としての腕が鳴ります。――と、それより、今日はずいぶんとか愛らしい髪飾りをしているようですね!」
 そう言われて、はっとした。
「あ、これは、その、子どもたちがやってきてつけてくれたものですから」
 午後、浜辺で遊んでいた子どもたちが転んで怪我をしたと言ってやってきた。そのときに、「お礼」として、一輪の花をもらったのだ。花瓶に挿しておこうかと思ったのだが、よく似合うからつけておいてほしいと小指を絡められ、そのままにしてあったことをすっかり忘れていた。途端、語気が弱まったわたしにウォロさんは手を叩いて、「よくお似合いですよ」と言ってくる。
「白いその花は、まさしくアナタみたいですね」
 純真無垢で、なにひとつ知らない――大きな上背をちょこんと折り曲げると、わたしの顔をのぞきこみ、右眼をやわく細める。
「ですが、毒があるといううわさもありますから、どうかお気をつけて」
 鼻にひたりと触れたのは、ウォロさんの指だ。おどろくほど冷たく、思いがけず肩を揺らしてしまう。
「なあんて、ジョーダンですよ! まあ、あながち冗談でもないんですが、おそらくそちらの花は心配ないでしょう!」
 大丈夫なのか、大丈夫でないのか、いまいち判別しがたいが、ウォロさんの言葉を信じることにして、わたしは耳許に挿してある白い花をそっと撫でた。
「お詫びにこちらをさしあげます」
「でも、今月のお給金、まだ先なのに……」
「なに、お詫びですから。ジブンからのトクベツな餞別と思い、今後ともご贔屓にしていただければありがたいものです」
 後ろ手に背嚢の横についた巾着から取り出したものを、彼はわたしの結い上げた巻き髪に挿す。生花とは反対側、気になって確かめてみれば、しゃらりとした垂れ装飾のついたかんざしがそこにあった。
「ウォロさん、こんなもの!」
 いただけません、思わず声を上げるが、ウォロさんは笑うだけでとりあってはくれない。
「ここだけの話、他地方の豪族の方との取引がひとつ決まりましてね、その記念にといただいたモノなんです」
「そんな……」思わず舌がもつれる。「それを聞いたら、なおのこといただけませんよ」
「なに、ジブンが着けても気味わるがられるだけですからね! それならば相応なヒト――つまりアナタに持っていていただいたほうが、そのカンザシも喜ぶというもの」
 でも、商品にしたらきっと値が張るのだ。それでおいしいものを食べて、ゆっくり休んだらよいのに。納得がいかずに唇をもごもごと引き結んでいると、ウォロさんの手がまたしても伸びてきて今度は頭の生花を抜きとった。
「その代わり、ジブンはこちらを。アナタだと思い大事に胸にしまっておくことにしましょう。なんと香りのかぐわしいこと!」
 ではこれにて、そう言い残して去っていく彼をわたしはしばらくぼう然と眺めていた。

 通りで食材を買い、ご近所さんたちと井戸端での話を終えたあと、宿舎についたのはすっかり日が暮れたころだった。そろそろショウちゃんの捕まえたヒコザルというポケモンの尾が、火の玉みたいに浮かび上がるころかしらと思いながら錠を落とせば、引いた戸の向こうから長屋のひとつであるその部屋のひやりとした空気が頬を撫でた。さむい、というよりも先に訪れたのは、一抹の落胆である。まだいらっしゃってないか、しぜんと肩の力が抜けてしまった。すると、不意にしゃらしゃらと鳴ったのは、髪に挿されたかんざしだ。
 あまりに自然につけられたものだから、その存在を当たり前として受けとめてしまっていた。そういえば、まだきちんと実物を見ていない。わたしにふさわしいと彼は言っていたが、果たしてどうだろうか。気になると、いてもたってもいられなくなるもので、落胆など据え置き草履を勢いよく摺って土間から上がると、わたしは奥の畳の間にある姿見に自分を映した。
「あら、かわいい」
 薄明の光を浴びて淡く瞬くそれは、七色の幻の花みたいだった。なんの種類か、実在するのか、それすらもわからないから、まぼろし。頭の動きに合わせて垂れ飾りが揺らめき、きらりきらりと光を撥ね返す。咲き誇った花から花びらが散っていく、そんな優雅さと儚さがあるだろうか。素材は銀――だとしたら高級だ。さすがにそんなものをなにも見返りなしに、他人に渡したりしない、はず、よね。
 正確には、野に生えた花という見返りはあったのだが、銀と比べられるはずもない。ひとり自問自答をくり返していると、すぐ横に設えられた窓からコツンと音が聞こえてきた。
「セキさま」
 慌てて――普段よりも何倍のすばやさで開け放った窓から、ひょいとすべりこんできたのはよく知る男だった。一陣の風が頬をかすめた途端、抱きすくめられていることに気がついた。
「ずいぶん不用心じゃねえかい、おめえさんよ」
 ああ、なんとあたたかい。
「相済みません。でも、こんな時間に窓を叩くなんて、セキさましかいらっしゃらないと思って」
 そう、昼間よりも饒舌に回る舌は、なにが故だろう。もつれてしまいそうになりながら羽織を掴むと、あとからリーフィアが部屋へ飛び込んできてセキさまを尻尾で咎めた。
 おめえは、と喉で唸る彼におもわず笑みがこぼれる。豪胆な見た目とは打ってかわり、彼の連れているポケモンはどことなく優雅で品があるものだ。
「お食事はお済みですか」
 訊ねると、ああ、と返ってきた。
「少しばかり食ってきた。けど、ナナセ、おめえの作ったモンが食いてえな」
 まほうのような言葉だなとおもう。返事を聞いたときは気持ちがしぼんだのに、今はもう膨らんではじけてしまいそう。すぐに用意しますと囲炉裏に火を灯すと、囲炉裏端にまな板を敷いてタイサイさんのお店で買い求めた食材たちの調理を始めた。
「そういや、それどうした?」
 ふたりと一匹で囲炉裏を囲みながら団らんをとっていると、彼が茶碗を置き視線を投げかけてきた。「それ?」切れ長の瞳の先を追いかけ、すぐにああとかんざしに手を伸ばす。
「お世話になっている商人の方からいただいて」
「あの金髪の」セキさまは言う。
「ええ、ご贔屓にってことでしょうけど、なかなか気に入ってしまって。挿したままにしておりました」
 眉をさげてそっと抜き去る。このあと湯浴みに向かうのだから、今のうちに外しておいてちょうどいいだろう。シャランとかすかに音が鳴って、花びらが舞った。
「今度、すこし奮発してお買い物しなくてはなりませんね」
 実際に、ご贔屓にと言われたことを思いだして苦笑するわたしに、リーフィアが近寄ってきた。手に取ってみれば、さらに上等なもののように思える。どこの国のものなのでしょうね、と語りかけると、リーフィアは、くん、とその髪飾りのにおいを嗅いで、なんと毛を逆立てた。
「リーフィア!」
 おどろくうちにセキさまが声を上げて、その子を下がらせる。わたしはぼう然としているままで、すまねえ、と謝られたところで、やっとのこと意識を取り戻した。
「……いえ、きっと気になったのだと思います。異国のものだと聞いたので」
 フーッとその子はまだ威嚇を続けていて、セキさまは苦い表情でその頭を撫でてやる。
「めったに暴れねえだろうが、おめえは」
 落ち着けよと宥められ、その言葉を理解したのかリーフィアは尻尾を垂らして彼の隣に伏せた。事が収まっても、空気が固くなったのは否めなかった。だが、それを切り裂くようにハアとやさしいため息をつくと、とりあえず食っちまわねえとな、とセキさまは片眉をあげて、汁物を飲み干した。

 宿舎のお風呂場で湯浴みを済ませたあと――セキさまはすでにムラにある浴場で済ませてきたらしい――部屋へもどると、すでにリーフィアが土間から上がったすぐそばの板間で眠りについていた。
 セキさまといえば、羽織を脱ぎ腕の巻木綿を新たに巻いていたところで、わたしは畳に上がっては下に散らばったその端を捕らえてくるくるとひとつに巻き取っていく。
「すまない」
 終わりを器用に口と手で結んでから、ややバツが悪そうにする彼が愛らしくて、つい頬がゆるむ。
 いつも胸を張って堂々と歩いている彼のそんな姿は貴重だ。ただの村人だとしたら、きっと見られなかったこと。たとえば腕のその布の下になにが隠されているのか知らないとして、それでもなんでもいいと思えてしまう。でも、すこしだけ、ほんのすこしだけさみしいのはたしかだ。
 ――そう、さみしい。
 もっとふれたい。セキさまに、こころのもっと奥底に……。
 羽織の金継ぎからその下の皮膚を想像するのはたやすい。流星のような傷痕。血や膿が滲んでいないことから今はもう塞がっているとしても、それでもその傷の苛烈さを物語るには、その腕を覆う木綿布だけで十分――などと。その隠された痛みを知りたいと思うことは、罪か。胸の奥に、そんな我が儘を秘めたまま。わたしにだって、彼に告げられぬまま胸にしまいこんだものがある。だれだって、そのはず……。
 いつもどおり、巻き上げた木綿布をなくさぬようにまとめてからセキさまにふれる。そうっと、指先だけ。わたしから彼にふれるのは、すごく、勇気の要ることだった。どこかふれてはならない聖域にふれてしまうような、そんな心地がしてしまうから。
 おそるおそる、ふれあった肌を逃さぬようにと、すかさずセキさまが指先を絡めてくる。合図もなく口づけをして――もしかしたら肌の接触がそうだったのかもしれない。青と金色の豊かな髪が、やがて背に回したわたしの手の甲をさらりともてあそぶ。その感触すらすべてが刺激で、寄せては返す快楽の波に抗いながら、彼の与えてくれる欲と熱とに酔いしれる。

 朝露が草木に瞬く光の中を、土埃を立てないようにして歩きながら本部へ着くと、すでにキネさんの姿がそこにあった。明け方まで泊まり込み、さきほど帰着した調査隊員や警備隊員たちの世話をしていたらしい。「代わりますね」と、彼女から申し送りの覚書きを預かると、糊をつけてアイロンを当てた前掛けを身につけた。だが、彼女と揃いの看護帽をかぶろうとしたところで、「そういえば、シマボシ隊長が呼んでいらしたわよ」という言葉に身支度の手を止めた。
「シマボシ隊長が?」
 そんなことは滅多にないことだ。医務室の長はキネさんであるし、わたしは正式な医療隊員でもなく、あくまで見習いとしてこの身を置いてもらっている、いわゆる皆の補佐である。うろんに首をかしげているとキネさんは微笑んで、「とにかく、行ったらわかるわ。済むまで待っているから先に顔を出してあげて」とわたしの背を押した。
 そう言われては拒む謂れもなく、きっちり身なりを整えて向かったのは隣にある隊長の執務室だ。急用の際は医務室から繋がった出入り口から向かうのだが、今日ばかりは正面から中へと声をかけた。
「ああ、来たか」と、隊長は読んでいた書物から顔をあげる。そのきりりとした面差しにはしぜんと背すじが伸びる思いだ。深呼吸ののちに一礼をして執務机の前まで歩んでいくと、彼女は楽にしていいと机の上に書物を置いた。
「ここでの生活には慣れたか」
 前置きなく始まった言葉に、わたしは失礼のないよう慎重に答える。楽にしていいと言われたが、そうもいかないのが現実だ。
「皆さんとても親切にしてくださいますし、なにより毎日学ぶことがたくさんあり、本当に充実した日々を送ることができています」
 最後までしっかり言い切るとシマボシ隊長は厳格な顔つきを――正確には目許を――ほんのすこし弛めた。
「キミの活躍はよく耳にしている。慣れない土地にたどり着き、頼る縁も皆無のなか、医療隊のため、また警備隊、調査隊、ひいてはこのギンガ団やコトブキの人間のために朝から晩までよく働いてくれた」
 きょとんとしているわたしをよそにシマボシ隊長は椅子から立ち上がり、静かに均一な足音を鳴らして目の前までやってきた。
「なにもかも喪ったキミにとって、この数か月はさぞ苦しかったことだろう。そうであるにもかかわらず、希望を見失うことなく、われわれのために尽力してくれたことを、今、この場でしかと感謝したい」
 なんのことだか、唇を半開きにしていた聞いていたわたしを、彼女はふんと鼻でわらう。これは、笑ったのかしら?
「デンボク団長やキネと話をしていた。そろそろ、ナナセを正式に団員として迎えてはどうか、とな」
「では……」
 シマボシ隊長は、見つめるわたしの目から寸分たりとも逃れずに続けた。
「身寄りのない人間にとって、肩書きや所属というのはなにより力になる。これまで苦労させたな。だが、よく耐えた。その働きを認め、正式に医療隊への入隊を許可する」
 じわじわと、湧き上がってくるのは、あたたかいを通り越してとてつもなく熱い感情だった。堪えきれずに唇を噛むと、シマボシ隊長はただ優しいまなざしでわたしを見つめたあとそっと背を向けた。
「それだけだ、職務に戻ってくれてかまわない」
 席についた彼女に勢いよく頭をさげて――床につきそうになるくらい、深く、だ――わたしは執務室をあとにした。

「その顔は、アレを聞いたんだな」
 製造隊のもとへお願いしていた器具を受け取りに向かうと、タオファさんがレンズ越しにニヤリといたずらな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「ええ。ということは、タオファさんもご存知だったのですね」
「知ってるもなにも、決まるその場におったわい。デンボクとシマボシのふたりは長らく渋っていたようだったが、当然の帰結だろうよ」
 ふんと誇らしげに言ってタオファさんは背を向けると製造中のボールや道具などの山の中から、頼んでいた器具を取りだしてぶっきらぼうに手渡してくる。
 彼らが躊躇うのも無理はない。わたしは他所者であり、本来ならば、ギンガ団に入るべき人間ではなかったのだから。帰る家もなく、戻るべき場所もなく、懐かしむ思い出も持たぬ、そんな怪しい女を手放しで受け容れろというほうがむずかしい。
 わたしは、ヒスイ地方を知らない。それはおろかポケモンでさえ――おそらくわたしは、なにひとつ。ただ自分の名前だけを残して、なにもかも、この世界のどこかに落としてきてしまったのだ。
「デンボクが帰ってきたら、正式な入団手続きが行なわれるんだろ?」
「はい。現在はシンジュ団のユウガオさまとお話をなさるため、湿地帯へいらっしゃっているとか」
 そのため、副団長に近しい調査隊の長であるシマボシ隊長が代わりに伝令を下してくださったのだ。でも、シマボシ隊長が真に自らの記憶から見放されてしまった女を気にかけてくれていたことを、わたしは知っている。それだから、もしかするとデンボク団長が気を利かせてくださったのかもしれない。
「おまえさんには、製造隊の人間のためにこれからも、たんと働いてもらわなければならんからな」
 タオファさんは言って、おまけにぼんぐりの殻で作ったという器をくれた。
「頭痛膏でしたか」
「それと眼精疲労、肩こり……前にもらった塗るやつはありゃ効能がイマイチだな。慰みにもならんかった。もっと長いこと効き目のあるやつがいい」
 内側に多数の溝があり、これで薬草たちを擦ってさまざまな薬を試せというのだろう。丁寧にも底に名前が彫ってあり、わたしは思いがけず眉をさげたのだった。

 夕刻、こんなにもすがすがしい気持ちで本部を出たのは、初めてかもしれない。晴天の日も雨の日も、どんなときでもずっと背後を暗闇に付け回されている心地だったから、きちんと地面を踏みしめながらまっすぐ前を向いて歩くのは、まるきり世界が変わったような気さえした。
 すこしばかり――いや、かなり浮ついた足どりになってしまうのは否めず、普段ならまた今度と我慢するところを、飴売りの店主からみ空色のあざやかな飴を買ってしまったり、それをいつも遊びにくる子どもたちと一緒に分け合って食べては終始にこにことはにかんでいたり。それでも、やはり、だれかに認めてもらえたというのはなによりの喜びで、わたしがだれであるかの証明をやっとのこと手に入れた心地だった。朝、シマボシ隊長のもとから戻ったわたしを、「おめでとう。これからもよろしくね」とキネさんが言ってくれた言葉を思いだしては、唇をはむ、と噛み締める。
 これからも、ここにいていいのだ。わたしは、このムラのヒスイの一員になれたのだ。跳ねるような足でミオ橋を渡ったところで、ふと思い立った。周囲に触れ回るのはあまりに浮かれていると思われるけど、あの男にこのよろこびを伝えたい、と。
 ああ、こんなときに、今すぐにでも思いを届けられる道具があったらいいのに! そうね、たとえば――……。だが、同時に思いとどまる。
「コンゴウ団のあのお方、ほんとうに二枚目だねえ」
「色男っていうのは、ああいうのを言うんだろうね。まったく、うちの男たちにも見習ってほしいもんだよ」
 ねえ、ナナセちゃんもそう思うだろう? 通りざまのおかみさんたちに投げかけられ、わたしは曖昧にはにかむ。
「ああいう殿方の嫁にでもなったら、そりゃあ人生ばら色ってもんさ」
「けれどおまえさん、そうするにはシンジュ団のあのおひいさんにでもならないと」
「そらそうさ。けど、夢をみるのは、だれにでも自由でなくちゃ」
 頭の中に、こごえるかぜでも吹き込んだみたいだ。わたしは彼を慕っている。きっと、彼もわたしを特別だと思ってくれている。そう、思っていた。そう思っていたのに、それはとんでもない思いあがりなのではないかとようやく自覚した。
 何度も唇や躰を重ねて、その熱さえもこの身にはっきりと宿しながら、わたしの前に何度となくあらわれた彼はまぼろしだったのではないか。だって、わたしは「なにも」ない、ただの医療隊員。この土地の人間でもない。ほんとうは、だれでもない。自分が何者かもわからない、そんな女なのだ。わたしが、好いていい男ではない。
 あっけなくしぼんでいく気持ちに、おかみさんたちが、「体調でもわるいのかい」「ちょいとばかし働きすぎさ」と口々に声をかけてくれる。まだまだ、足りないくらい。もっと、もっとわたしは頑張らないと。ありがとうございますと告げて足早にその場を去る。自分の長屋へ帰るつもりであったのに、気がつけば正反対に歩き出していた。
「聞きましたよ、ナナセさん!」
 すっかりうつむいていたからか、突如現れた大きな影に寸前のところまで気がつかなかった。ソノオ通りをとぼとぼと歩いていたわたしを、ひゅうっと呑み込んだそれに飛び上がると、そのひとは夜明けを感じさせる玻璃玉のように色素の薄い瞳を一度丸くして、それからいつもどおりにやわらかく弛めた。
「前を向いて歩かないと、バリヤードのカベにぶつかるところですよ。と、いっても、それは前を向いていても避けるのはほぼ不可能ですがね」
 おもわず、その顔に吹きだした。
「笑いましたね」
「すみません、だって、真面目そうにそんなことをおっしゃるから」
「事実、あとすこしでぶつかるところでしたよ」
 人さし指を立てて鼻先に突きつけられる。やさしいやり方だから、ちっともいやではない。それから神出鬼没の彼は、「ホラ」と言って背後に拡がる空虚をふり返り、ひたりと手を置いた。
「ほんとうだ、あわや大惨事になるところでした」
 同じく手のひらを隣に並べて、押しても、手のひらが空を舞うことはない。しっかりとそこにある壁にひとりでに笑うと、すっかりムラに居ついたバリヤードが誇らしげにウォロさんのうしろを横切っていった。
「それで、正式にギンガ団へ迎えてもらえることになった、とお聞きしました」
 バリヤードを見送ったウォロさんが鷹揚にふり向く。
「お早いですね」
「ええ、ええ。商人とは、常に敏感に、耳ざとく風の声に心を向けなくては務まらないものですから――なんて、本部に立ち寄ったら、医療隊のトヨさんが教えてくださいました」
 なるほど、彼女にはよくお世話になっていたため、昼番としてやってきた際にお礼をかねて報告をした。さて、今日はお祝いですね、と両手を広げて朗らかに笑うウォロさんに、まなじりを弛める。
「ふしぎですね。ウォロさんは、そばにだれかがいてほしいときに現れてくれる。まるで、わたしよりもわたしのことを知っているみたい」
 ウォロさんはきょとんとすることもなく、わたしの言葉を真顔で受けとめると怜悧な瞳を細めた。

「そうですね、ジブンは、アナタのコトをだれよりもよく知っていますよ」