帳内部に侵入後、ただちに作戦は決行された。A班である七海サンと俺は、目標ビルにてひと足先に、調査および人質の捜索と保護にあたっていたB班の日下部一級と合流。
ビルは計八階。下層二階までは低級呪霊のみのため、残留していた従業員の避難は難なく終えたとのことだった。
「しかしまあ、毎年恒例のヤツって感じだな」
日下部サンは咥えた飴の棒を指先でつまみながら言う。
「不特定多数の一般人巻き込んで、呪物ばら撒いて、呪いばら撒いて。餅撒きかって話だ」
「縁起でもない、と言いたいところですが、定期的に起こりますからね。それで、ビル内部の状況を伺っても」
件の宝石商は六階。フロアすべてをオフィスとして所有しているようだ。おそらく民間人はその近辺にまだ残っている。しかし、五階から上はまるで魔窟のようだと日下部サンは告げる。
「二級、一級あたりが蠢いてるな、ありゃ。それに、どんどん呪力がデカくなってる」
「では、猪野くんと私は上層階を」
「ああ、ひとまず四階までは何人か術師を回してる。そこはスルーしてくれていい」
エレベーターホールにたどり着き、日下部サンは七階を押す。
「なぜ七階を」
七海サンは言った。宝石商のオフィスは六階だ。俺までもが胡乱に見つめると、日下部サンは飴をガリッと噛み砕いて続けた。
「冥冥の話によりゃ、そこに空白があるんだとよ」
日下部サンの読みどおり、ビルに姿を消したという民間人は七階に集まっていたようだった。
呪霊を払いつつエレベーターホールからまっすぐ突き当たりに進み、当該の部屋までたどり着いたとき、うめき声が聞こえ蹴破ると中の光景に唖然とした。
「思ってたよりひでぇな、こりゃ」
日下部サンの言葉にごくりと固唾を呑む。
一面を白い壁紙と床材が覆っていた。窓はなく、天井の蛍光灯が目映すぎるほどに辺りを照らし惨状を映し出す。
精神科病棟じゃあるまいし、そんなことを苦虫とともに噛み潰したくなるような、白さ。純潔の色がここまでおぞましいとは。
ぐったりと身を投げ出した人、人、人。目を閉じている者もいれば、空虚を見つめている者もいる。彼らをすっぽりと毒ガスのように覆うのは複雑な呪力だ。結界術と、おそらく犯人の術式が混ざった難解な呪術。
近くにいた人間の脈を七海サンがとると、「正常です」すんなり立ち上がった。
「おそらく、五条さんの言っていた術式が発動しているとみて構わないでしょう」
「一定の呪力が溜まると……だったか」
部屋の外には呪霊がうようよとのさばっていたのに、この部屋には一切発露していない。結界術の一種か。そうなると、呪力を集めるために、人間を閉じ込めていたのかもしれない。見渡すと、彼らの手や胸元、それから耳には、青いダイヤがのぞいている。
「猪野くん、以前君が見たものと相違ありませんね」
七海サンの言葉に、部屋に立ち入り確認する。
「はい。形状はそれぞれ異なりますけど、ダイヤは完全に同じです」
指輪、ブレスレット、ブローチ、ピアス、外せるものは外して用意されていた特殊な袋に入れていく。
高専へ持ち帰りあらゆる検査を行ったあと、おそらくスミソニアン博物館《アメリカ》へ送られるだろう。
「全体を回収後、私たちは上下二手に分かれ、討伐を開始します」
「ああ」日下部一級はうなずく。「そっちは頼んだわ」
彼らの会話を耳に流しながら、「失礼しまーす……」と女性の首もとを覗きこむ。
しかし、思いがけず心臓が握りつぶされた。
(オイオイ、うそだろ……)
ひと粒ダイヤのネックレスだ。青い宝石とシルバーチェーン。
記憶が蘇る。一度目はマンションの下で遭遇したとき。髪を切ったのだとうれしそうに笑っていた。白い肌に銀のチェーンがのぞき、控えめなダイヤがよく似合っていると思った。そのあとも何度か、さも自然と首に飾られていた。
まぎれもなく、彼女がつけていたものと同一。
頭が鈍器で殴られたように目眩がする。
今さら欠けたパズルのピースがはまるなんて、神ってやつはどうしてこんなにも皮肉なのだろう。しかし、なぜだ。なぜ俺は気づけなかった? 少なからず呪力を滲出していれば、そうだ、湾岸道路のときと同じようにわかるはずだった。
なぜ。なぜだ。
(ちくしょう……)
ネックレス片手に勢いよく立ち上がり、倒れた人々の顔を見て回る。
「猪野くん」
声をかけてきたのは七海サンだ。
「このネックレス、もうひとり着けてた人間を知ってるんです」
そうだ、これなら突然肩に蠅頭を載せていた説明もつく。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。そもそもここに集められていないのか、それとも……。
「おそらく、本丸はこの階にいません。となると、ここは日下部一級に任せて、私たちは早急にほかの階を見て回ったほうがよさそうです」
立ち上がる七海サンにこっくりうなずいて外へ出た。
七海サンは五階から俺はその逆、上から下へ降りていく形で二手に分かれる。八階には二級呪霊数体。術式を駆使し討伐完了。管理会社のフロアだったらしく、何名かはすでに息絶えていたが、半数は幸運にもすでに下階へ避難済み。全体を確認したあとは非常階段で六階へ。
しかし、七階まで下りたところであるものに気がついた。
(……血?)
手すりについた赤黒いシミ。なにかを引き摺ったように線を描き、床にまで点々と連なっている。始まりは七階非常扉すぐの手すりだが、おそらく六階まで続いている。
思いがけず、心臓が炙られる。
残り数段を飛ばし下り、非常扉を開いた。
(おいおいおい……)
すぐ目についたのは壁や床に散った粘液だ。どす黒く変色し異様な臭いを発している。
残穢を見るにこれまでとは比べものにならない大きさの呪力。加えて、飛び散った蠅頭の残骸から、呪霊を取りこんでさらに変体している可能性がある。
すぐに踵を返そうとして、視界の隅に一瞬光が瞬いた。
(勘弁してくれ)
フロアに、青いダイヤのネックレスが落ちている。
無惨にもチェーンがちぎれ、血痕が残っていた。
*
「パンケーキ、食べたい」
薄暗がりに身をひそめながらつぶやく。
「あと、お寿司に焼き肉に、それから硝子と食べたもつ鍋も」
腕の温もりを抱き寄せて、思いつくがままつらつらと食べ物を並べる。
「ハンバーグ、親子丼、とんかつ、パスタ、ピザ、それから、パルメザンチーズのリゾットにジョエル・ロブションのディナーコース……クレープ・シュゼットを目の前でフランベしてくれるお店にも行ってみたかったなあ……」
抱きしめた少女の体がぐったりと重い。かろうじて呼吸はあるようだった。あまりに酷い光景に気を失ったのだろう。それも無理はない。
ぎゅうと身を縮め、ひりひり痛む首を手で拭う。あえかな明かりに手のひらをかざすとべっとりと赤く濡れていた。
「ほんと、なんで、わたしがこんな目に……」
うしろを振り返った瞬間、目の前が真っ赤に染まっていた。狭まる視界の中で蠢いていたのは、ひと際大きな怪物。足元に向けて中世ヨーロッパの貴族が着るようなパニエの立派なドレスの裾が広がる。そこだけ見れば優雅な貴婦人、しかし上半身は焼け爛れた異形の者。あらゆる動物を模し、身を破壊した合成獣のような……。
何本も生やした腕で小さな仲間を捕らえては大きく裂けた口へ運んで。血のような液を撒き散らしながら、ぐちゃ、ねちゃ、と咀嚼して、ときおり口の中から触手を伸ばしまた遠くの仲間を捕食する。
最後にそれが――そうだ、その触手がとてつもない勢いで首を掠めたのだ。
しかし、ねっとりついた赤いそれが自分のものなのかあの怪物のものなのか、もはや判別がつかない。体じゅうに腐臭に似た臭気が残り、いまにも鼻が曲がりそうだった。
どうにか脚に鞭を打って非常階段に逃げ込んで、それでも、下までおりる気力はなくて、どうにか一階だけ下りて、すぐそばにあった部屋に飛び込んだ。
ぐっと息をひそめて、時を待つ。時って? いつかだれが助けに来てくれるの? それとも、終わり?
こんなはずじゃなかったのに。今ごろきっと会社でプレゼンをして、上司をギャフンと言わせて、夜には大勝利のビールくらいあおっていたかった。今何時なのだろう。夜だろうか、朝だろうか、体内時計は狂っていて役に立たない。途方もない時間が前にも後ろにもあるような気がする。
ああ、会議、すっぽかしてしまった。仕事、放り出してしまった。
気が重くなって、ため息をつく。あっという間に暗がりにほどけて、跡形もなく消えていく。
「重慶飯店……たいめいけん……赤羽……おでんもいいな……鯖の味噌煮、からあげ、それから……」
うわごとのようにつぶやく。
「豚汁、ミネストローネ、スパイスの効いたチキンカレー……」
大きく息を吸って、仄暗い天を仰ぐ。
「いのくんに、会いたい……」
そうだ。猪野くんに会いたい。会って、一緒にご飯を食べて、あの「うんま……」とこぼれる声を聞きたい。がしがし頭を掻いて、へへっと笑って、照れ臭そうに頬をもぞつかせて……。考え始めたら止まらなくて、彼の顔ばかり浮かんできた。
本当に夢を見ているような幸せな時間だった。一緒にいるとなぜだかホッとして、彼の笑う顔も困った顔も、真剣な表情も、すべてが愛しかった。
知り合ったのはたった二ヶ月前のことなのに、ずっとそばにいたような安心感と永遠に続くときめきと。
けれど、今はもうさわやかな香りが遠い。唇の温もりも、もはや薄れてしまった。
「ちゃんと、すきって、言っておけばよかったなぁ」
携帯さえ手元にないから、最期の言葉を告げることすら叶わない。
会いたい。今すぐ。
――猪野くんに、会いたい。
小さな体をぎゅうと抱きしめて。気を抜けば涙がこぼれてしまいそうだった。いっそのこと、泣いて、泣いて、泣いて……。
しかし、ぐっと目を閉じて、かぶりを振る。
「行かないと」
力を振り絞り、立ち上がる。こんなところで死ぬわけにはいかない。死んだらおいしいものだって食べられないし、なにより、猪野くんに会えなくなってしまう。
まだ死ねない。まだ、死にたくない。だって、伝えないといけないことがあるのだ。好きって言って、抱きしめて、ごめんねって言って、キスをしよう。
会えないなんて絶対にいやだ。
会いたい。今すぐにでも。そうだ、わたし、猪野くんに会いたいんだ。
落ちそうになった女の子を抱えなおして出口へ向かう。出たら、すぐに階段を下りよう。あと五階ぶん、毎朝仕事に行く要領で考えたらいい。いや余計脚が重くなるから、もはや猪野くんのこと以外なにも考えないでいるべきだ。
動揺と混乱と駆け巡る戦慄から目の前がぼやける。脚が全身が震える。それでもしっかりと足の裏に力を込めて室内灯が鈍く瞬く廊下へ向かう。
下りた光のヴェールをくぐる……。
しかし、大きな影がわたしを呑み込んだ。
およそ人とは言えない、おどろおどろしい異形の者。テラテラと体液をにじませ、ギギッ、ギギッと異音を響かせ、腕を奇怪に動かしながら、大きな口が開く――。
(あ、死ぬ)
刹那、すさまじい勢いで目の前を青い竜が駆けた。
淡々と、高専に上げる事務報告を補助監督が読み上げている。襟足を攫うエンジン音、のんきな小学生のおしゃべり。樹々はそよぎ、アスファルトでは働きアリがうろうろと行き場を探している。太陽が照りつける。錆びた遊具が鈍くそれを撥ね返す。黄色いゴムボールが放物線を描き、一羽のツバメが羽根を広げ一直線に空を切る。
「では、以上内容にてこちらからは高専に提出したいと思います。猪野さんは一度戻られますか? それとも、このままご自宅へ?」
塗装の剥げた車止めに腰を預けながら、だらしなくポケットへ突っ込んだ指先を擦り合わせていた。
「猪野さん? ……猪野さん!」
大声で呼ばれて、意識を取り戻す。
「えっと、なんすか?」
「なんすか、って。このまま高専に戻られますか、それともご自宅にお送りしますか」
やや急き立てるような声だった。いつもよりワントーン低いそれに頭を掻いて、「ええと、高専、戻ります」と歯切れ悪く返す。
「わかりました。では、すぐに車を持ってきますのでこのままお待ちください」
「ハイ。あ、帰る前に、一箇所、寄りたいところがあるんですケド、いいですか」
彼は一度胡乱げに視線を寄越したが、ええ、とうなずき歩いていった。
高専に戻り正門で補助監督と別れたあと、ひとり参道へ向かった。空高い木洩れ日を進み、階段を上がると歴史を感じさせる権現造の建築が現れる。
ギィと木組みの広縁を軋ませながら俺は歩き続ける。
やがてひとつの部屋にたどり着き、ノックをして中へ入る。そこには家入サンとともに五条サンの姿があった。
流れるように俺の姿を確認するや、人類最強と名実ともに謳われる男は、「まあそんな感じで」と話を終えてソファから立ち上がり、「この間はご苦労サマ」と俺の肩を叩いて医務室から出ていく。
「なんだ、怪我でもしたのか」
相変わらずの色濃い隈だった。「いや、そっちのひとに用があって」と、彼女の視線から静かに流れるように、リネンのカーテンが下りた一角を見やる。
「この間の、テロの被害者のひとり」
俺がそう言うと、家入サンはあからさまに警戒の色を見せた。
「寝てるけど、なに」
あまりのすげなさに頭を掻く。
「そのひと、俺の大事な女性(ひと)なんです」
銀座での一件はなにごともなく幕を閉じた。呪霊討伐数は数知れず、死亡者ならびに負傷者多数。日下部サンの言葉どおり、年に一度は起こる民間人を複数巻き込んだ呪霊災害の例に洩れなかった。
ダイヤを流通していたと思われる宝石商および関連会社は、調査の結果、事件の首謀者とみられる呪詛師より「幸福を呼ぶめずらしいダイヤ」を掴まされ、それを利用しただけのいわば「白」であり、諸悪の根源である呪詛師は結局その尻尾はおろか存在すら掴ませず行方をくらませた。
呪物は全回収、高専にて五条サンを筆頭に解析。現在は忌庫に保管されているが、然るべき措置をとったあとはアメリカ国立自然史博物館に運ばれるだろう。
すべてが変わらず廻りゆく。民間人を巻き込んだ呪霊災害はめずらしくない。それがテロにしろ事故にしろ、むしろ人間がそこに生きているからこそ呪霊にまつわる事象は起こる。俺たちはいつもどおり寝て起きて、祓って。祓って、祓って、祓って、記憶には留めど、さも当たり前に起こるもののひとつとして据え置き、また歩き続けていく。
「猪野だったのか」
ややあってうなるように響いた言葉に俺は顔を上げた。
「なにが、ですか」
「ママ活男子」
「は?」思わず素っ頓狂な声が出た。
「間違えた、お隣さん」
「いやいや、フツー間違えないでしょ。……って、まさか、家入サンの友だちって」
ごくり固唾を呑む。
「そいつ」
気だるくカーテンの向こうへ投げかけられた視線に、花束を手に持ったまま俺はその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「マジかぁああ」
家入サンの数々の挙動を振り返る。ガトーショコラ、不穏な内容の電話、忙しなくジッポーをいじる姿。部屋の片隅にバラバラに散らばっていたパズルが、不意にピースを組み合わせたようだった。
家入サンは胡乱に目を細めたあと、やれやれとデスクチェアから立ち上がる。コツ、コツ、と均一な音を響かせて間仕切りとなっているカーテンまで近づくと、おもむろにそれを引いた。
「薬で眠らせているだけだ。それも、精神的ショックの緩和のため。たいした怪我じゃない」
真っ白いシーツの中で、あのひとが安らかに目を閉じている。腕から伸びる点滴が痛々しいが、胸部と指先に繋がれた電極は規則的な音を示していた。
「そ、すか」
ホッと胸を撫で下ろして、よろよろ立ち上がる。音を盗んで歩み寄ると、「そっちの椅子、使ったらいい」と家入サンが言った。
頭を下げてベッドの傍に入る。花屋で見繕ってもらったブリザーブドフラワーのブーケをサイドキャビネットに置いて簡易椅子に座る。キィと思いがけず軋んだ。
窓辺からは淡い陽射しがそそぎ、花びらがやわくそれを撥ね返す。やさしくあたたかな色彩が辺りを照らし、眠りについてなお彼女にとてもよく似合っていた。
「で、一応聞くけど、どこがよかったんだ」
まったく、藪から棒すぎる。いまだ刺々しさを感じる視線に内心泣き顔を晒しつつ、帽子をとって、息をつきながら髪を乱雑に掻き上げた。
「正直、わっかんないんですよね。気がついたら、このひとが俺の生活にするりと溶け込んでたっていうか。おなか空いてませんか、なんて、やさしく笑って。猪野くん、って、うれしそうに手を振って。でも、いつしか放っておけなくなって。気づいたときにはもう手放せなくなってました」
豊かな胸もとが上下している。唇や頬は青白いが、それでもその下に血が通っている。きちんと、生きている人間のそれだった。
すべらかな肌を撫でたくなりきつく拳を握る。
「同じだな」家入サンは言った。
「大学に編入したばかりのときだ」
静かに続ける。
「つまんねえと思いながらひとりでたばこを吸おうとして、けど、運悪くライターを忘れてな。うんざりしていたところにジッポーを差し出してきた」
「あのジッポーすか」
思わず口を挟んだ俺に、そう、と家入サンは咎めることもなく白衣のポケットからそれを取りだして見せた。
銀色の、家入サンの不健康な手にはやや仰々しさの残るジッポー。カチッ、と音を立てて、彼女は慣れた手つきでそれを開ける。
「見たことも、話したこともなかった。ああ、多分文系のヤツだなってパッと見思った。量産的で、世俗的で、能天気で楽天的。悩みごとなんてなくて、勉強よりサークルだなんだと謳歌してそうな女」
カチッ、カチッ、乾いた音が響く。
「第一印象、散々じゃないすか」
「本当のこと。こいつも、ときどき自分でネタにしてるよ」
鼻で笑うが、その表情はこれまで見たどの顔よりも遥かにやわらかかった。
「でも、仰々しくラッピングされたジッポーを押し付けられて、それは変わった。いらなくなったから今だけでも使って、なんて、やけに据わった目で言うモンだから」
目を瞬いた俺に、家入サンは眉を上げる。
「新品。そんとき、付き合ってた恋人にやろうとしたんだと」
「いや、それはどういう反応をすれば」
「笑ってやれ。誕生日をサプライズで祝おうとして、浮気現場を見かけたらしい。そんで、やるのが馬鹿馬鹿しくなったんだと。本当、つくづく男運のない女だよ」
笑っていいものか、唇をへの字にしたところで家入サンは俺を一瞥する。それから、なにごともなかったかのようにジッポーを見つめ、おもむろにホイールを擦った。
ジュッと小さくも大きな音を立てて火が灯る。
「それが、おもしろかった。同時に呪いに窶されそうな危うさもあって、最初は暇つぶしくらいになるかって好奇心だよ。でも、気づいたら毎週、その時間、その場所で、なんとなしに顔を合わせるようになってた」
共通点なんかいくらもないのに、彼女がすんなりと溶け込んだのだという。
ゆらり、ゆらり、燈火は揺れる。
「つまんねー毎日に、光が宿った。そんな感じだな。太陽なんてものでもなくて、月なんて神秘的なものでもない。ま、見てのとおりそんな柄じゃないしね」
いつか家入サンが言った「特別」という言葉が、より大きく明確な形となって俺に転がってくる。蓋を閉じて家入サンは火を消した。それでも、まぶたの裏にあたたかな光がこびりついている。すべてを悟り、俺は口もとをもぞつかせる。
「礼を言わないとな」
気だるい瞳がゆっくりと下り、ふ、と息をついた。
「なにが、すか」
「こいつのこと、助けてくれてありがとう」
不意に、本当に思いがけず、じんと目の奥が熱くなった。
「ちがうんです」
俺は言う。
「ちがうんですよ」
――そうだ、俺は、家入サンに感謝されるような大それた人間じゃない。
「本当だったら、俺はこのひとが傷つくのを防げたはずだった。このひとは、傷つかないで済むはずだった。なのに、恋愛にかまけて、慢心して、結果、あんなことに巻き込んだ」
脳裡に蘇る――ビル六階、大型の呪霊が今にも彼女を呑み込もうとする。少女を抱き、血だらけの姿で立ち尽くす。その姿は、対峙した呪いと比べると驚くほどに小さかった。
竜を下ろし、裡に沸き上がる呪力をそのまま呪霊にぶつけた。無我夢中だった。安全など微塵も気を遣わず、ただ目の前の呪霊を祓うことでいっぱいだった。肉片が弾け飛び、彼女の体にかかったとき、やっと意識が戻ってきた。力なく崩れ落ちた彼女のもとに駆け寄り、大丈夫ですか、と声をかけた。
「でも、このひと、笑ったんですよ」
どろどろの顔で、震えるからだで。
顔を隠した俺を見て、猪野くんだ――と。
「おかしいんすよ。怖かったはずなのに、死ぬかもしれなかったのに、独りで、たったひとりで、なんでも赦すように笑うから」
防げなかったのは自分で、彼女を関わらなくてもいい世界に引き込んでしまったのは、まぎれもない俺で。それなのに、ひとりで立とうとするから、ひとりで歩いていこうとするから、余計に遣る瀬がないのだ。
その後、彼女は糸が切れたように気を失った。間もなく七海サンが到着。救護班に少女と彼女を任せ、俺は彼とともに呪物の回収と件の呪詛師の捕縛のため、速やかに残りの任務に戻った。
喉もとに巻かれた包帯が痛々しい。揺れぬまつ毛が、ピ、ピ、と耳の裏を撫でる音が、心臓を深く重く抉っていく。乱暴に前髪を掻き上げ、彼女の下りたまぶたを見つめながらきつくそれを掴む。
「勘違いするなよ」家入サンは言った。
顔を上げた俺を、鋭い瞳でまなざす。
「今回、お前が呪術師だったから助けられたんだ」
淡々とした声が響く。
「まぎれもない、呪術師の猪野琢真が彼女を助けたんだよ」
血生臭い職業だ。祓って、祓って、祓って、ときには命を奪うこともある。真っ当な職とは言えないだろう。彼女の隣に立つにふさわしいと、胸を張って言えるかもわからない。
それでも、その手を引けたのなら。ほかでもない俺のこの手で、すくいあげられるのなら。ぐっと奥歯を噛み締めて、息をついたあと額の傷を薬指でなぞる。
「敵わないッスね、本当」
家入サンは背を向ける。
「わかったらさっさと報告書を上げにいくんだな。そろそろ伊地知が泣くぞ。ただでさえ、規格外に横暴なやつらに振り回されてるんだ」
そこに何人の人間が含まれているのか。想像して苦渋がほどける。
「そりゃ困るな」笑って帽子を被りなおした。
立ち上がり、眠る彼女の顔をのぞきこんでそっとその頬を撫でる。愛しさが込み上げる。全身が熱くなる。ああこのひとが心底好きなのだと実感する。手放そうとしたって、手放したって、十年、二十年と付き纏うだろうなと確信する。
喉もとにとろりと甘いぬくもりが蘇る。ざまぁねェな、ひとりごちる。
何年経っても、俺はきっとこのひとの料理が食べたいと思ってしまうのだ。
「そうだ、猪野」
よし、と糸を手繰り、きつく胸で結んで背すじを伸ばしたところで声がかかる。
「なんです」
首を捻ると家入サンの読めない瞳とかち合った。
「とりあえず、去勢する覚悟はできてるか?」
ハ? と再び素っ頓狂な声が飛び出た。
「な、は? きょ、去勢?」
「そうだ」
至極真面目な顔で、さもありなんと局部へ視線を落とす彼女に思わず後ずさる。
「これ以上、大事な友人を傷つけられちゃ困るからな」
その目のやけに据わったこと。
――間違いない。マジだ、この人。
「ちょ、ちょ、まっ、待ってくれませんかね⁉︎」
「なんだ、その程度の覚悟か」
かすかに落胆の音色が潜んでいる。いや、なんで、手術したかったわけ? そんなことを思いながら、「いや、まぁ、いいですけど……」ともごもごつぶやくと、家入サンは片眉を上げた。
「いや、やっぱ、ダメです」
「なんで」
「なんでって。……その、いろいろ、このひととしたいんで」
ハァァァ、と聞いたこともない盛大なため息を浴びせ、家入サンは興醒めした顔でデスクに戻っていく。
え、なに、この空気。用は済んださっさと帰れ、と言わんばかりのすげなさだ。
まっじでわかんねぇなこの人、そんなふうに内心ぼやきながら、俺は観念して入り口まで歩いていく。
「猪野」
ドアに手をかけたところで呼び止められた。
振り返る。
「死んだら殺すぞ」
手元の書類から目も離さずに、彼女は紙をめくる。穏やかに時は刻まれる。窓から射し込む光がやわく目を灼く。
ははっ、俺は思いがけず声を上げた。
「すげぇ呪いだ」
――上等。
ポケットに手を突っ込み、俺は医務室をあとにした。
