epipode.14

 まろやかな陽射しがそっとまぶたを撫でている。洋梨のコンポートをさらに煮詰めたやさしい光だ。からだをとろりと包み込んで、幼な子のゆりかごとなる。
 もう少し寝ていたい。だって、ここはとても心地がいいんだもの。
 でも、そろそろ起きなくては――……。
 ゆっくりと目を醒ますと、見慣れない天井が飛び込んだ。
「起きたか」
 輪郭のぼやけた視界に影が入り込む。何度かまばたきを繰り返し、それが人の形を成す。
「硝子」
「そうだ。わかる?」
「うん、わかるよ。でも、どうしてこんなところに?」
「どうしてって、ここ、私の職場」
 職場? 思わず重たいまぶたをすばやく瞬く。否や、勢いよく起き上がり、ピキッと筋だか骨だかが軋む音がして、そのままシーツに二つ折りになった。
「丸二日寝てたんだ。急に動くと体がビビるぞ」
「それ、先に言って……」
 声にならない悲鳴を上げるわたしに、親友はやれやれと息をついた。
 二日前の午後、穏やかな昼下がりの銀座で大規模なガス漏れ事故にわたしは巻き込まれた。ガス管の経年劣化により漏れ出したLPガスが何らかの要因で不完全燃焼を起こし、銀座ルミエール第一ビル内に一酸化炭素が充満。人々は失神を伴う強い中毒症状を発症。
 なぜ真昼の大都会でそのような事故が起きたのか。ビルの安全管理に一体どんな問題があったのか。現在も原因解明が進んでいる。
 ――というのが、外聞的な流れらしい。怪物があのビルにいたことも、人々が薬物中毒者のごとく精神を錯乱させ、夢想に取り憑かれていたことも、すべては幻の中に消えた。
「あの女の子は?」
「無事だよ。PTSD治療でまだ入院してるけど、かすり傷すらない」
 ならよかった、肩の力を抜いて身につけていたガウンの前を開く。
 東京都立呪術高等専門学校――それが、硝子の職場だった。
 わたしが巻き込まれたのは呪いを一般人にばら撒き危害を与える呪詛師の起こした無差別テロ事件で、その事件を解決したのが硝子の所属する呪術高専の呪術師。呪いを祓うことを生業としたひとたちだ。
 起き抜けの頭には驚くほど悪影響な内容であったが、はっきりと記憶に刻まれた異形の化け物――呪霊の姿は消えることはない。守秘義務が多いだろう中、説明責任を果たしてくれた彼女たちには感謝しかなかった。
「猪野くんは?」
 ベッドの上で診察を受けながら、そういえば、と訊ねる。
「あれも、私の後輩」
「世界って狭いものね」
「そうだな」聴診器を胸もとに当てながら硝子はカルテになにかを書き込んだ。
「まさか、友人の毒牙にかかったやつが近くにいるとは、思いもよらなかった」
「ねえ、毒牙っていうのやめてよ」
 聴診器を耳から外して、彼女はやや唇を引く。いつもどおりの親友の姿だった。
「しかしまあ、硝子が学校で働いているとはねぇ」
 ガウンの前を閉めて、今度はベッドから降りる。二日ぶりに地に足をつけるともあって、視界がぐらりと揺らついたが、すぐに硝子が腕を掴んで支えてくれた。
「意外か」
「そりゃあもう。外科医って聞いてたから、大学病院とかでバンバン切ってるのかと思った」
「バンバン切ってるよ」硝子はこともなげに言う。
「え、生徒?」
「生徒」
「法律的に大丈夫なの?」
「さあ、知らない。大丈夫なんじゃない」
 大丈夫なんじゃない、って。そんな軽いなあ、ついぼやくと、短く息をついて硝子は「腕、上げて」と指示を出した。肘を伸ばしたり、曲げたり、それから肩を回し前屈。上体を起こしたあとは首を左右に倒す。
「首の傷は術で治した」
「さっき言ってた、反転術式ってやつ?」
「そう、さほどひどくはなかったから、痕も残らないはずだけど。痛みは?」
「ないよ」軽く、首を捻ってみる。
「ならいい。ほかにおかしなところは?」
 かぶりを振ると、硝子は満足げに眉を上げてまたもやカルテに書き込んだ。それから、「もういいよ」とわたしをベッドに座らせた。
「二、三日は様子見でここに泊まってもらうことになるけど、平気?」
「もちろん。でも、職場に連絡はしたいかな」
「それならもうしてある。心配はしなくていい」
「そっか」
 ならいいか、と脚をぶらんと振る。仕事のことくらいしか浮かばないのもどうかと思うが、まあ人生そんなものだ。これで上司からの追随も免れられると胸を撫で下ろす。
 カーテンから射し込む陽射しが、二日前のことなどうそのように穏やかに部屋にそそがれていた。
 まだ夢の中にいるみたいだ。しかし頭は冷静で、確かにここに存在している。鼻につくのは消毒液の香り。腕には点滴を抜いた痕。硝子が棚に並んだファイルを漁る音がする。
 世界が分断されていたことすら知らなかった。だが、交わるのも存外呆気がないものだ。整然とした硝子の城を眺め、そんなことを思う。
「今日、このあと、事件についてウチの職員が聞きにくる。私も一応同席するけど、大丈夫?」
「うん、事情聴取ってやつ?」
「そんな感じ。あとは、明日軽いリハビリと、明後日また諸々の検査。んで、経過良好なら帰宅」
 無駄のない言葉に、了解、と返事をしてリクライニングしたベッドに上体を預ける。学校内とはいえ、なかなか設備が揃ったものだった。
 長く寝ていたのに、いや、長く寝ていたからかまだ体が重くて、ぼんやりカーテンの隙間から外を眺める。
 緑の生い茂った豊かな場所。学校というより、清水寺とか明治神宮みたいだろうか。寺社仏閣それぞれの知識がごちゃまぜになってはいるが、とにかく厳かな感じだろうか。空には鳥さえ飛ばない。
「なんか言いたいことは?」
 硝子の声に視線を戻す。いつもどおりの、でもいろんなことを受け容れてくれる彼女の深淵の瞳に頬をゆるめる。
「お腹すいた」
 硝子はやれやれと肩をすくめた。
「元気な証拠だな」
「硝子と前に行ったもつ鍋屋あるじゃない、恵比寿の。あれ、食べたい」
「怪我人は黙ってろ」
「ひどい」
 手元のファイルへ視線を落とした彼女に唇を尖らせる。
「ほかには」
「ほかに? ほかには……」
 点滴の名残か、浮腫んだ手のひらを閉じたり開いたり。爪先をいじって、指のはらを擦り合わせて、左手人差し指に歪な皮膚の盛り上がりを見つける。
「猪野くんに、会いたいかな」
 ぽつりつぶやくと、硝子が顔を上げた。
「お熱いことで」
「と、思うじゃん? わたしたち、恋人同士でもなんでもないの」
「知ってる。残念だけど、猪野は今泊まり込みで地方出張の最中だな」
 そっかあ、がっくり肩を落として息をつく。携帯もまだ会社だし、しばらくお預けだな。そう思い、天井を仰いだ。
 西へ渡る陽射しが瞬く。ゆっくりとそこへ手をかざしてみる。閉じたり開いたり。まだ違和感は残るが、輪郭が光に透けて桃色に染まっている。
「とことん振り回してやれよ」
 親友の言葉に、わたしは「了解」と笑った。

 その後事情聴取といくつかのリハビリ、身体的・また精神的検査を終えて無事退院の運びとなった。だが、事情が事情のため、今後も定期的に硝子ないし高専関係者による診療を受けることになるだろうとのことだった。
 真っ白な絵の具に黒いそれを垂らしたように、一度混じり合ったものはその後、一生元には戻らない。いくらいい歳をした大人であれど、いつどこでなにをきっかけにトラウマの引き金を引くかわからない。ましてや、通常ならば死んでいてもおかしくない事態に遭ったのだからなおさらだ。
 そして現に、わたしの中に一滴の絵の具は落ちその色をにじませていた。
「もう体はいいのか」
 なにはともあれ、伊地知さんという男性に送り届けてもらい、わたしは職場にたどり着いた。菓子折り片手にオフィスに顔を出して、わらわらと同僚に声をかけられたあと、パソコンでメールを確認するわたしに先輩が声をかけてくる。
 シャバに出たその足で向かう場所じゃないと思うも、家に帰ったって連絡すらロクにとれないのだから仕方がない。何通も溜まっていた仕事のメールにうんざりしつつ、「大丈夫ですよ」と答えた。
「ガス漏れ事故だったか、ツいてないな」
 先輩は言う。
「本当ですよね。ちょっと用があって銀座に向かったら巻き込まれちゃうなんて」
 まあ銀座まで仕事しに向かった記憶なんてないのだけれど。肩をすくめると、先輩はわたしの顔をじっと見つめてきたが、やがてひとつ息をついた。
「ひどい顔をして出て行くから心配だったんだ。そうしたら案の定だ」
「その節は、どうも……」
 マスクをして風邪だなんだと嘯いた挙句、行方をくらますなんて。とんだ後輩だ。深々と頭を下げる私にやれやれと首を捻って、先輩は傍に抱えていた封筒を差し出してきた。
「これ、君のだろ」
 サイズとしては、長三だ。もしや請求書だろうか。いや、始末書? それにしても、なかなかの厚みだ。
「なんです?」
「開けたらわかる」
 開けたくない、と眉根を寄せながらそれを受け取る。カサっと音を立てて中身が揺れて、あ、と合点がいった。
「携帯! そう、これを取りに来たんです」
「ないと困るだろうなと思っていたよ」
 まったくその通りだ。今のわたしはほぼ着のみ着のままといった状態だ。財布も職場に来てやっと取り戻したほど。
「この間ノートパソコンも壊れちゃったし、本当連絡手段がなくて」
「今どき、ひとり暮らしで家電(いえでん)なんか引かないしな」
「そうそう」
 ああ、愛しのマイ・スマートフォン! 早速取り出したそれを両手で掲げると、先輩は呆れ気味に笑った。
 とりあえず充電しないと、と思いなんの気なしにホームボタンを押す。
「あれ?」
 ぱちり、画面が点灯。さらには、バッテリー百パーセント。あの日すら朝のうちに半分までは減っていたのに。
「使いたいだろうなと思って、充電しておいた」
 不思議に思っていると、上から声が降ってきた。
「先輩……」
「なんだよ」
 どこまで地で西島秀俊をゆくつもりなのだろう。本物がどんな人かは知らないが、よくある完璧上司のそれだ。さすがは若くして出世しただけある。突如射した後光に思わず手を合わせると、「拝むな」と一蹴された。
「やっぱり西島先輩はちがいますね」
「西島?」
「あ、こっちの話」
 そこで、ちょうど部長――犬猿の仲である上司が横を通った。重要な会議をすっぽかしたので、文句のひとつやふたつ言われるだろうとつい身構えたわたしだったが、彼は視線すら合わせずに自分のデスクへ戻っていった。
「というか、あのひと、あんなの飼ってましたっけ?」
 ギョッとするどころか、意外すぎてかえって反応が薄くなることはままある。が、それ以上に、猫背気味にオフィスチェアへ座る彼の頭部に、カエルのような生物がしがみついているのに釘づけになってしまった。
「しばらく前からな。あのくらいなら放っておいたほうがいいぞ」
 一瞥もせず背を向けた先輩に、はあ、とうつけた返事をしながらわたしも視線を手もとに戻す。
「早く連絡してやれよ」
「……はい?」
「猪野くん。何件、不在入っているか知らないけど」
 ボッと沸騰したヤカン並みに顔に熱がこもる。なんでそれを、唇をはむっと隠して涼しげな顔を見つめるわたしに先輩はおどけるように肩をすくめた。
「旅の終わりに恋人たちは出会う、ってね」
 慎重なのは仕事くらいにしとけ、彼は後ろ手に手を振ってその場をあとにした。
「もしかして、隠れポエマー?」
 とんちんかんな言葉が賑やかなオフィスに溶ける。

 総務へ行って保険やらなにやら諸々の手続きをしたあとは、職場不倫をしていた同僚からお詫びと景気づけを込めてデザートサービス券をもらい、近くのカフェに向かった。昼休憩ともあって、中もテラスも社員証をブラウスの中に隠したようなOLの姿ばかりだったが、それがなんだか懐かしくてつい気分が弾んだ。
「おいしぃ」
「だよねぇ」
 特製パフェを頬張りながら、続いた声に隣の席を見る。
「……奇遇ですね、また会うなんて。しかも隣」
「あ、おぼえてた?」
「覚えるもなにも、その風貌じゃ忘れようがありませんからね」
 太陽の光に透ける白髪と、丸いサングラス。いつぞやの職業不詳のお兄さんだ。前はふたりともパンケーキだったが、今日は揃いも揃って新作のデラックスパフェだ。いつのまに、と思ったが、気がついたら隣にいたわけだ。
 長いスプーン片手にぱくぱくと食べ進める姿に、思わず、おお、と感嘆の声をもらす。
「最近さあ、また上のひとに怒られちゃって」
 彼は構わず話しだす。
「仕事の話ですか?」
「そうそう。どうやらおじいちゃんたち、僕のこと目の上のたんこぶに思ってるみたいでね、ちょーっとミスっていうかまあとにかくなんかあるとすぐカンカンになって呼び出してくんの。ホント困っちゃうんだよねえ」
「ありますよねえ、そういうの。管理職ってお堅いひとが多いから」
「そそそそ」
 この際、なんで普通に会話をしているかはスルーだ。パフェを突つきつつ、相づちを打ちつつ、六十センチほどの距離を隔てて肩を並べている。
「おまけに万年人手不足らしくてね、部下にはいい加減どうにかしてくれって泣きつかれるし。そんなの僕の知ったことじゃないんだけどさぁ」
「あー、なかなかブラックだ」
「そー、ブラックブラック。外も中も真っ黒。パフェでも食べないとやってらんないよ」
 どこもそんな感じですねとコーンフレークまでたどり着いたところで、しゃくしゃくグラスをかき混ぜていると、お兄さんの携帯が鳴りだした。
「鳴ってますけど」
「ん? あ、いいの、いいの。ほっといて、今パフェタイムだから」
「そうですか」
 とはいえ、全く鳴り止まない。振動音を耳に流しつつグラスの底に残った至福ポイントを堪能していると、お兄さんは携帯をサイレントモードにしてポケットにしまった。その時間わずか五秒。手慣れている。
「ところで、なんか困ったことない?」
 なんとも藪から棒だ。脈絡という言葉を気にしてはならないのかもしれない。
「困ったこと?」
「高い壺を売りつけられたとか、妙に親切にしてくる人間がいるとか」
 思案する間もなく、横から手が伸びてくる。右手にはスプーンを握り口へ運びながら、目の前には二つ折りになった紙。
「なんでもいいよ。あったらここに連絡してくれていい」
「はぁ……」
 受け取りあぐねていると、ちょいちょい、と指先が催促するように動いた。
「宗教とかネズミ講とかそういうのはお断りしてるんですけど」
「ウーン、なきにしもあらず」
「捨てます」
「待って、ご利益ご利益。その番号ご利益あるから」
「ご利益とかそういうの、一番胡散臭いって学んだばかりなので」
 ひとは見た目で判断してはいけないとは言うが、まあ、そういう感じに見えなくもない。仕方なしに受け取ってみるが、なんだか厄介に巻き込まれそうで今にも返したかった。
「ツれないね」と、お兄さんはまったく意に介すことなくパフェを食べ進める。
「ま、あとは、そうだね。変なものが〝視えた〟とか」
 やや冷淡さをにじませた声に、ちらり、彼を一瞥する。一瞬だけ青白色の虹彩と視線が絡んだ。
 ――まるで、この世のものじゃないみたい。
 息を呑んだその隙に、彼はさっさと最後のひと口を食べ終えて、ごちそうさま、と手を合わせると、鼻歌混じりにレジへと消えていった。

 妙な邂逅を終えたあとは、青空の下をふらりふらりと駅まで歩いて、電車で代官山へ向かった。あまり動きすぎんなよ、と硝子には言われていたものの、どうしても終えてしまいたい用事があった。
 木製ドアを押し開けて、アメリカの西海岸をイメージしたようなカントリー風の店内を見渡す。最後の記憶とまったく同じ席にその姿があって、ぐっと深呼吸をしてからまっすぐにそちらへ向かう。
「お待たせ」声をかけると、彼はぎこちないロボットのように顔を上げた。いまだ顔はくたびれ、付き合っていた当初のような覇気が感じられない。だが、あの夜のギラついた光は瞳から抜け落ちていた。
「ごめん、来てくれてありがとう」
「うん」
「飲み物は、なににする」
「要らない、すぐ行くから」
 相変わらず、このカフェは昼間からコールドプレイの「YELLOW」が流れているようだ。大切なひとへの賛美と感謝と、たゆまぬ愛と、そんな曲を歌うクリス・マーティンの声は甘くとろけている。
 入り口には安い星のオーナメントがぶら下がって、木や壁はハリボテ。なんともおあつらえ向き。昔はここが楽園のようにも思えたのに、時間の経過とは無情なものだ。
 穏やかな雰囲気の店内で唯一重たい空気が流れる。カップルや子ども連れや、大学生たちのおしゃべりを耳に流して、またひとつ深呼吸をする。
「好きなひとがいる。結婚できるかとか将来はとか、そんなのは全然わからないけど、一緒に幸せになりたいひと」
 彼は悲しそうに瞳を薄い膜の中で泳がせて顔を伏せた。
「だから、本当に、会うのもこれきりにする」
「わかった」小さくうなずいた。
「一応訊くけど、あの女の子とは籍入れたんだよね?」
 こくり、頭が揺れる。
「相手にほかに男の子がいた? それとも、逃げられた?」
 責めるような口調になっているのに気がついて、すぐにごめんと謝った。彼は、いや、とかぶりを振った。
「おれの子どもじゃないらしい」
「あっ、そう……」
 同じ穴のムジナってやつね。冷めた気持ちで目を回したくなる。だからって籍入れてすぐ元恋人にすがる男があるか。
 自分は浮気したくせに相手の浮気が許せないなんて、ムシがよすぎる。いつから付き合っていたかは知らないし、その子どもがその前にできた子なのか浮気でできた子なのかは知らないが、あんまりじゃないだろうか。
 彼はそれを感じとったのか、肩をぎゅっとすくめて震える手でコーヒーを飲んだ。
「でも、結婚したんでしょ」
「うん」
「それで、その子はそっちの男のひとがいいっていうの」
 なんで人生相談みたいなことしているのだか。ほとほと自分に呆れてしまう。本当なら、そんなことしている余裕なんかないはずなのに。でも、放っておけないのは、何年も付き合っていたという関係の名残か。
 弱々しくかぶりを振った彼にハァァァと盛大なため息をつく。
「あのねぇ」
 思いがけず低い声がこぼれた。
「べつにいい大人がくっつこうが離れようがどうでもいいのよ。人間、最悪ひとりで生きていけるし、そのほうが楽なこともあるし。これは男に限らず女だって。切れた電球だって変えられるし、ゴキブリが出たってなんとかできる。たいていのことは、自分ひとりでできるのよ」
 でも、とわたしは続ける。
「子どもを育てるって、そうじゃないんじゃない」
 子どもなんて産んだことはないし、結婚すらしたことはない。しかし、生命をはぐくむというのは、わたしたちの想像が及ばぬほど心底大変なことだ。
 ひとりでもできるかもしれない。きっとそうやって頑張っているひとはたくさんいる。でも、そばにだれかがいてくれたら、そのぶん心強いのではないか。それはパートナーに限らず、友人や親戚、それから近所の人とかなんでもいい。多ければ多いほど、いいことだって世の中たくさんある。
 とはいえ、子どもに悪影響だとか心底愛想を尽かしたとか、どうしようもないDVパートナー、ギャンブラー、とかだったら無理しないで縁を切っていいと思うけれども。
 とにかく、と、苦虫を噛みつぶしたような心地で繋ぐ。
「別れたいなら止めない。止める権利もないしね。でも、離縁していないなら、結婚したのなら、ぐじぐじ悩む前に、とりあえず奥さんと一緒に子どもの検診行ってきなよ」
 そこまで告げたところで、カランカランッ、とドアベルが猛烈な勢いで鳴り響いた。
「――くん!」
 なんと言えばいいのだろう、アレだ、まさにすずらんがそよぐ声、だろうか。純愛映画のワンシーンのような、それはもう大層可愛らしい声だ。少女に近いあどけない女性が息を切らしてこちらを見ている。パッと見はそのへんの女性と変わりがないが、着心地のよさそうな、ゆったりとしたワンピースを着ている。
 目の前の元カレが立ち上がって、椅子が倒れるのも厭わず駆け寄る。BGMはコールドプレイからブルーノ・マーズに変わっていた。テーテテテー! テテテテッテテッテテー! そんな感じの歌が流れる。きつく抱き合ったふたりに拍手が贈られる。
 いやいやいやいや、わたしは? わたしはなんでここにいるの? え、まさか、アレじゃないよね? いきなり店員が踊り出したりしないよね? 隣のお姉さん……あ、踊り出さない。よかった、フラッシュモブじゃなかった。
 しかし、いつまでも抱き合う男女を眺めながら、結局、最後までわたしは他人の茶番に巻き込まれたのかと白目を剥いた。

 ほんっとに疲れた、と肩を回しながら滞在時間およそ五分でカフェを出たところで、携帯が鳴った。
 画面に浮かび上がっていたのは、猪野くんの名前だった。
「もしも――」
「すみません、仕事で出られなくて!」
 突如響いた大声に慌てて携帯を耳から離す。心なしか息が上がっているだろうか。その必死さに思わず笑ってしまった。
「うん、おつかれさま」
 もう一度携帯を耳に当てなおして言う。
「スミマセン、ホント! てか、退院したんですね」
「うん。無事退院です。退院って言うのかはわからないけど、でも帰っていいって」
「よかった」
 長く息をつく音がきこえて、その姿を想像できる気がした。頭を掻いているだろうか、それともしゃがみ込んでいるだろうか、とにかく、なんでもいい。なんでもいいから、愛おしい。
「でも、じゃあ、いろいろ聞きましたよね」
「そうだね」
「っす、よね」
 それはこのあいだの事件に限らず、彼の仕事について、や、それこそ呪いや呪術師の世界にまつわること、ひっくるめて「いろいろ」だろう。
 急に沈んだ声にわたしは口もとを緩める。
「ありがとう、助けてくれて」
 はい、小さく相づちが聞こえる。
「猪野くんがいなかったら、死んでた」
「……はい」かすかに、震える。「助けられて、よかった」
 ああもう、こんなのってない。そんな子犬みたいな声を出すなんて、ズルい。
 シュンと耳を垂らした彼の姿が思い浮かび、胸がぎゅうと熱くなる。
「あのね、猪野くん」
「はい」神妙な返事がかえってくる。
 ひとつ、深呼吸をしてわたしは言う。
「会いたい」
「え?」
「猪野くんに今すぐ会いたい。会いにきて」
 畳みかけるわたしに、彼は動揺しているようだった。ちょ、え、ん? としどろもどろな言葉に頬をもぞつかせながら、青空の下を歩き出す。
「猪野くんにね、話したいことがあるの」
 電話口の向こうで、ああもう、と焦れったそうな声がした。
「ほんと、あの、ちょっと待ってくださいね。今すぐは無理なんですけど、今夜なら空いてるんで」
「夜まで待てない」
「ちょ、そんな」
 猪野くんが言葉に詰まる。
「あの、俺、その、困ってます」
「うん」
「いや、めっちゃうれしいんですけど。でも、これから、帰りの新幹線乗るとこで」
「うん」
 どうしよう、ニヤニヤが止まらない。自然とほころんだ口もとを撫でて、軽くスキップをしながら歩き続ける。足もとなんて気にせず、前ばかりを見つめていた。
「あー、くそ、ほんとは俺だって今すぐ会いたいのに。わかる? この気持ち。すげー会いたい。今すぐ飛んでいきたいんですよ俺も」
 早口でもごもごと捲したてる彼に吹き出して、「笑わないでくださいよ」と怒られて。携帯を反対の耳に当てなおしながら続ける。
「ねえ、夜、なに食べたい?」
 彼は少しだけ黙り込んだあと言った。
「カレー、ですかね」
 めちゃくちゃウマいやつ。その言葉に唇に大きく弧を描く。
「じゃあ、待ってる」
 はい、と耳もとでこぼれた吐息を抱きしめながら空を仰いで電話を切った。

 どうしよう、俺の好きなひとがめちゃくちゃカワイイ。
 会いたい。会いにきて、夜まで待てない。その言葉を反芻させ思わず目頭を押さえていたところで、うしろから声をかけられた。
「猪野くん」
 七海サンだ。スッと足音のない歩みに一瞬のうちに背すじが伸びる。ハイ! と帽子をずり上げると、「補助監督からです」と新幹線のチケットを差し出された。
「すみません! 俺が先に預かって七海サンに渡さなきゃいけないところを」
「こういうのは近くにいた人間がやればいいものです。お気になさらず」
 相変わらずスマートな対応に頭を掻いてチケットを受けとる。
 三十分後発、東京行き特別特急だ。向こうに着くのはおよそ二時間後か。時計を見上げて唇がむずがゆくなる。新幹線の中で報告書仕上げて、東京ついて、在来線に乗って、うまくいけば三時間後には会えるかもしれない。たった三時間。されど、三時間。果てしない。でも、やっと、会えるのだ。緊張がほどけて、もはや全身を流れる血液や細胞が小刻みに躍っているみたいだった。
 七海サンたちと改札を抜けて、ホームのベンチに座る。七海サンは新聞、補助監督は座るどころか立ったままどこかへ電話。どこかといっても、ぺこぺこと頭を下げている様子を見るにおそらく高専だろうが。
 静かにベンチに座っているべきなのに、じっとなどしていられなくて。全身がむずむずしてたまらない。早く会いたい。早く、抱きしめたい。でも、落ち着け。七海サンを見ろ、このスタイリッシュさだぞ。とかなんとか、言い聞かせるがちっとも体は言うことを聞いてくれない。
 あぁと緩む口もとを撫でつけて、キュッと引き締める。腹の前で指先を合わせ、じっと行き交う人々を観察する。しかし、やはり落ち着かない。
「そうだ」と俺はいっそのこと顔を上げた。
「七海サンなんか飲み物のみます? 買ってきますけど」
「いえ、結構です」
「そんなこと言わずに、俺いっちょ走って買ってきますから」
「ホームは走らない」
 七海サンは新聞をめくった。
「……まあ、ブラックコーヒーくらいなら、君の奢りで飲んであげても構いませんけど」
 ぱぁっと天啓が下った気分だった。
「よっしきた!」
 そうとなったら、こっちのものだ。ベンチから飛び上がって、はやる気持ちをできるだけ抑えて。
 走る、走る――走る。
「まったく、走るなと言ったそばから」 

 

 Journeys end in lovers’ meeting,

 ――旅の終わりに恋人たちは出会う。シェイクスピアは言った。
 果たして、旅とはいったいなんなのだろう。それは古代イリリア国までの航海かもしれないし、ロスとロンドン間のホリデイかもしれない。あるいは、多少の波乱に揉まれたわたしの二十数年かもしれない。「人生は旅路である」とはよく言ったものだ。
 愛との出会いによって旅を終えるのか、あるいは、旅の終わりに愛が芽生えるのか。
 さてそれはどっちなのだろう。

 

 鶏肉はひと口大にぶつ切り。塩コショウを揉み込んで冷蔵庫へ。トマトは一センチほどのサイの目に、ニンニクとショウガはすりおろす。それからたまねぎを細かく刻む。
 じゅう、じゅう、油が跳ねる音が心地よい。香ばしいクミンとコリアンダーのマリアージュが鼻腔を艶やかに撫でる。
 料理って、なんでこんなに楽しいのだろう。これからの食材たちがわたしのお腹も心も満たしてくれるのだと思うと自然と胸がワクワクしてくる。
 なにより、彼が笑顔になる姿を想像するだけで背中に羽根が生えた心地だった。
 刻んだたまねぎをホーロー鍋に投入して、きつね色になるまで弱火でじっくり炒める。焦がさないように適度に底を返して、頃合いを見てにんにくとしょうが、それから水を少々入れて軽く火を入れる。トマトにスパイス、鶏肉、生乳ヨーグルトを順に加え、ときおりかき混ぜながら煮込む。
 テレビからはにぎやかなバラエティー番組の声がする。お笑い芸人がボケて、大御所がツッコミを入れて、観客が笑う。ありふれた日常の一幕。
 カレーの豊かな香りをまといながら、ガラステーブルの上をセッティング。何日か前から散らかったままのチラシを片して、サッとワイパーでほこりを拭って、ランチョンマットなんか敷いちゃったりして。
 蓋を開けて鍋をかき混ぜる。最高かも、頬を緩めながら洗面所に消える。
 鏡の鱗をとって、手をよく洗って、乱れた髪を整える。それから、唇にルージュをちょん、ちょん、と載せて、ン、と重ね合わせる。
「胃袋を掴まれたらもうお終いですよ」
 いつぞやの芸人がしゃべっている。
「たしかに」とスタジオじゅうがうなずく。
「うちのカミさんもめちゃくちゃカレーがうまくて」
「カレーってだいたい一緒ちゃうか。ほら、結局みんなルー使うやろ」
「いやいやいや」大げさな身振り手振りで否定する。
「うちのはもう愛がこもってますね。隠し味に愛が」
「えー、ここで、奧さんから手紙が。なになに、ルーはバーモンドカレー、隠し味はチョコレートです、やって」
「今、そういう話じゃないじゃないですか!」
 錆びた笑い声を耳に流しながら、鍋の蓋を開けて火を止める。
 いつか、愛は冷めるだろう。それは突然の事故に巻き込まれるようでもあり、また、料理が冷めていくようにゆっくりかもしれない。いつ、どこで、どのようにそうなっていくかなど、だれも知ったことじゃない。
 目を醒ませとだれかが言う。けれど、ぐずぐずしているなと道化は言う。恋は今しかない。未来は当てがない。とろけるような蜜の声で、悪魔にも天使にも似た六ペンスのささやきを宵に載せる。
 ――ピンポン、インターホンが鳴り響いた。
 髪を耳にかけ直して、フローリングにスリッパをはためかせて、外を確認することなく扉を開けた。
「五階ぶん、駆け上がったの?」
 なんてことのない見慣れたマンションの玄関先で、ひとりの男の子が立っている。トレードマークの帽子を手に持って、髪を乱し、大きく肩を揺らしながら。
 やわらかな髪が額にかかり、聡明な瞳がわたしをまなざしている。
「そっす、だって、早く会いたかったから」
 息を荒くして妙に真面目な顔で言うものだから、思わずふはっと顔を崩してしまう。
「笑いごとじゃないからね? めちゃくちゃ頑張って仕事終わらせてきたんだから」
 人生八十年、否、いまや百年時代のこの世の中で、たった二十数年で旅のゴールテープを切るのはいささか物足りないのかもしれない。けれど、海原を渡って見えた景色としては、けっして悪くない。
「ありがとう」
 唇を尖らせて、もごもごとつぶやく彼をわたしも見つめかえす。
 彼は髪を整えて、口もとを撫でつけて、それから顔を引き締めて。
「俺――」
 ああもう、そんなところもかわいいんだから。なにかを言いかけた彼の唇を奪う。ふれるだけのキスをして、それから薄い上唇を食んで。
「カレー、ちょうどできたよ」
 かかとをトンと戻して、唖然とする彼に微笑む。
「……ずるいでしょ」
 彼ははあとため息をついて、ああもう、と目頭を押さえた。
「おとなはね、ずるいんだよ」
「あー、またガキ扱いスか」
「そんなこと、ちゃんと大人の扱いしてるよ」
「どうかな」
 ムッと唇を引き結んだ彼に笑って、「さ、猪野くん」わたしはその手をとる。
「冷めないうちに、食べようよ」