episode.12

 東京都中央区銀座。大手百貨店松屋銀座から南西に五百メートル。銀座ルミエール第一ビルを中心に突如重々しい帳が下ろされた。規模、直径五十余メートル。中程度の帳ではあったが真昼の大都会を混乱に巻き込むのは造作のないことだった。
 都立呪術高専は安全のため、帳内外含め周辺百メートル区域の住民を緊急避難。加え、交通車両も遮断。当該ビルには呪霊が複数視認されており、また従業員含め民間人複数名が取り残されている模様。高専所属の呪術師には呪霊殲滅および関連呪詛師の捕縛、ならびに呪物「ホープ・ダイヤモンド」の回収が命じられた。
「以上、五条さんからの報告となります」
 静まり返ったホテルの一室に見慣れた顔が揃っている。現場を取り仕切る補助監督の伊地知サンが調査報告書を読み終えると、静かに口を開いたのは七海サンだった。
「ホープ・ダイヤモンドとおっしゃいましたか」
「はい」伊地知サンは眼鏡を押し上げる。
「先日猪野くんが湾岸道路にて回収した装飾品を鑑定したところ、そのような結果が出ました」
 俺たちは今、五条サンの命令で高専の傘下にあるビジネスホテルに集められていた。メンバーは七海サン、伊地知サン、それから俺とめずらしく校医の家入サンだ。ここを本部Aとして、別所にはほかにも何班か術師が待機しているらしい。
 その五条サンの報告によれば、なんでも近ごろ奇妙な貴金属が出回っているうわさを聞きつけて水面下で調査を進めてみたところ、見事に大物を引き当ててしまったとのことだった。
 歴史上名を残す曰く付きのダイヤを用いて、それを「幸福を呼ぶ石」として一般人にばら撒いている宝石商が件のビルに拠点を構えている。
 俺も七海サンも、本来ならばそれぞれ別の任務を請け負っていたはずだが、何者かによって帳が下された今、急遽この現場に招集されたわけだった。
「しかし、本物のホープ・ダイヤであれば、今この瞬間もスミソニアン博物館にあるはずでは。一般人がそうやすやすと手に入れられる代物ではない」
 七海サンは言う。
 ホープ・ダイヤモンドといえば、先述したとおり歴史にも名を刻むほどの「呪われた宝石」のひとつである。銀行家のヘンリー・ホープ一族が所有したことからその名がつけられ、持ち主を次々と破滅に追い込んでは、また次の人間の手に渡ると言われている伝説級の呪物。おおよそ呪術界でその名を知らない者はいないだろう。
 しかし、七海サンの言うとおり、そのダイヤはアメリカの国立博物館で保管されているはずだ。
「七海の言うことも正しいよ」
 音もなく現れたのは五条サンだった。揚々と俺たちの前を横切ると、「やあやあ」と場違いなあいさつを寄越して奥の硬いソファチェアに座る。
「十七世紀にインドからヨーロッパに運ばれ、以来たびたび持ち主を変えて人々を呪ってきたとする至高のブルーダイヤ。ここでいうホープ・ダイヤモンド、だね。そのホープ・ダイヤは、一九五八年、ハリー・ウィンストンがスミソニアン自然史博物館に寄贈して以来、アメリカ本国で厳重に保管されている。もちろん、今もなおそこにあるはずだ」
「なら、今回、回収されたものは?」
 やや眉をしかめた七海サンに、五条サンは、「まあまあそう焦るなよ」と茶化すように言った。
「長い歴史を持つ呪いの宝石だ。表向きに知られる事実だけが真実とは限らない」
 伊地知やっちゃって、彼が指をクイッと動かして指示を出す。伊地知サンは足もとに置いていたアタッシュケースから厳重に保護された印刷物を取り出した。
「アメリカ国立自然史博物館と連絡をとりあい、然るべき鑑定所にて件の宝石の鑑定を行った結果です。それと、こちらが博物館に展示されているダイヤとダイヤ原石の推定大の比較となります」
 伊地知サンから受け取った書類には三種類のダイヤが描かれていた。
「かつてインドで採掘された原石は120カラット。やがてフランス国王に買い取られ、67カラットのフレンチ・ブルー・ダイヤへ。ハリー・ウィンストン氏の所持を経た現在、45・52カラット。いずれも、近年の最新分析技術により同一物なのではないかとされています」
 それぞれ大きさと形が異なっている。最小のものでも45カラット、それは今まで生で見たこともないサイズのダイヤだった。
「つまり、この世界には件の呪いの至宝が60カラット以上存在していてもおかしくないってわけだ」
「マジすか」
 軽薄にも明るく言ってのけた五条サンに、思わず情けのない吐息がこぼれた。
 それが本当ならば、世界的に大問題になってもおかしくない。伝説のダイヤがほかにも現存した事実はもちろんのこと、呪い的にもなかなかのスキャンダルだ。
 所在および保管所有権が海外のため正確な等級は与えられていないが、それでも何百年と呪いを溜め込んだ厄介な代物である。
 ただ、湾岸道路にて発見したあの小さな宝石がホープ・ダイヤだと言うのならば、たしかにあの夜、呪霊の呼び水となっていたのを説明できる。
「60カラットのうちすべてが呪われているとは限りませんが、フランス革命の混乱に乗じてフレンチ・ブルーは一時紛失」
 七海サンのあとに俺は腕組みをして続ける。
「と、なると、そのとき確認されていたのは、67カラット、現行は45……少なくとも20カラットは現在も所在不明。それならありえなくもない話、ッスね」
「ええ。それに、信じたくありませんが見事な鑑定結果です」
 伊地知サンに鑑定書類を戻した七海サンを見て、五条サンは、「そういうこと」と口もとを愉しげに歪めた。
 まさか、呪術界も海外における呪いの遺産をこの時世に持ち込まれているとは思いもよらないだろう。緊急招集された任務ともあり、余計肝が冷える。
「それに、すでに回収済みのダイヤを調べてみたところ、複雑な術がかけられていてね」
 五条サンは続けた。
「呪霊を呼び寄せるのみならず、どうやら持っている人間の呪力を吸い上げているみたいなんだ。そして、一定の呪力が溜まると新たな術が発動する」
「新たな、術?」
「強い幻覚系の術。いわゆるまあとっても厄介なやつだね」
「ってことは……」
 したり顔で五条サンはパチンと指を鳴らす。
「おそらく、下された帳はそれによるもの。このあとなんらかの計画が実行されようとしているのはたしかだ。一般人の呪力といってもバカにはならない。現に、冥さん情報だとビル内にいくらか呪霊が発露しているって聞いたでしょ? それと、伊地知、あの情報は?」
 伊地知サンがバインダーを開き胃痛をこしらえた顔でうなずく。
「はい。ビル関係者のみならず、複数の一般人がすでにビル内部に消え消息不明との報告を受けています。彼らの保護はこのあと作戦を前倒しして、B地点にて待機中の日下部一級たちが行う予定です」
 そのために家入サンが呼ばれていたわけか。淡々と仕事道具を広げ受け入れ体制に入る家入サンの姿をちらりと盗み見る。その横顔はいつもどおり青白く、目の下には色濃い隈が刻まれている。
 客室の外でもぞくぞくと集まる高専専属の救急隊員の声が響いていた。いよいよ緊張感が増強した。
「本当はこうなる前に拠点を突く予定だったけど、ちょっとアメリカとの連絡に手間取っちゃってね、伊地知が」
「……すみません、なかなか向こうが協力要請を受理してくれなくて」
「そこをナントカするのがオマエの仕事でしょうが。ま、あとで伊地知はビンタするとして」
 顔を引き攣らせた高専の要をよそに五条サンは、「と、いうわけで」軽やかに手を叩く。
「ふたりにはちゃっちゃか敵のアジトに踏み込んで呪霊を祓ってもらうのと、ホープ・ダイヤその他もろもろ怪しいものを回収してきてもらうよ」
 了承するように静かに息をつく七海サンの横で、俺も深くうなずいた。

「伊地知さん、ひとつお願いがあるんですけど」
 任務に出る直前、本部から廊下へ出て別所へ電話をかけ終えた伊地知サンを捕まえた。
「なんでしょうか」
「その、今から言う場所に車を手配してもらうことって、できますかね」
 彼はレンズの下でやおら目を瞬いた。
「本当スミマセン。私用、なんですケド」すかさず謝る俺に、伊地知サンは眼鏡を親指と人差しでつまんで直す。慇懃な仕草だ。
「公用車ですか、それとも」
「タクシーで。夜六時半から八時くらいの間、もしなにかあれば、今夜からしばらくは手配しておいてほしいんです。支払いは俺の給料から天引きで構わないんで」
「わかりました」
 その返事に俺は帽子をとって深く頭を下げた。場所を告げると伊地知サンはすばやく携帯で手配を済ませる。間もなく五条サンに呼ばれて部屋に戻った。
 喧騒を耳に流しながら俺はその場ですばやく電話をかける。しかし、一向に通話が繋がることはなく、ひとつ息をついて、メールに切り替えた。
《すみません、今日もし迎えが間に合わなかったら、一応裏口に車を手配しておくんでそれに乗ってください》
 宛先は言うまでもなく彼女だ。精神を整えるように瞑目したあと送信完了の文字を見届けて携帯をしまう。
 前髪を掻き上げ帽子をかぶり直していると、ふと、カチ、カチッと音がして俺は振り向いた。
「……家入サン?」
 顔を上げた先には一直線に続く布フロスの壁に背を預け、どこかを見つめている彼女がいた。
 手には銀色のジッポーを握り、それを開けては閉めてを繰り返している。カチッ、カチッ、張り詰めた空気にやけに響く。彼女にしては忙しない仕草だった。
 しばらく眺めていると、やがて俺に気づき一瞬瞳を伏せてそれを白衣のポケットへしまった。
「猪野くん、行きますよ」
 七海サンに声をかけられ、「ハイ」と振り返り俺は勢いよく返事をする。
 もう一度家入サンに視線を戻すと彼女はもうそこにはいなかった。空虚をしばし眺めたあと俺は帽子を整えて地面を蹴った。

 目が醒めると、知らない場所にいた。一面の白が埋め尽くしている。ぼやけた視界を灼く、純白。まるで白昼夢を見ているような心地になる。やがて、影が映り込み、それはよく知る形を成した。
(……人?)
 重い体をどうにか起こして、辺りを見渡す。二、三十畳はあるだろうか、だだっ広い空間に何十人もの人が集まっていた。調度品はなにもなく、壁にもたれていたり、床に横たわっていたり、皆、一様に生気を奪われた人形のように空虚を眺めている。異様な景色だった。なにかの儀式を行うようなその一群の中に紛れもなく自分は存在していて、なにかを待ち侘びている。だが、すぐそばに常務の元奥さんの姿を見つけて、ハッと我にかえった。
「大丈夫ですか、奥さま」
 這いつくばって、彼女に声をかけるが反応がない。フロアカーペットの敷かれた床にへたり込みながら、夢見の瞳が薄い膜の中を泳いでいる。
「なんてすばらしい世界なのかしら、ここにはなにもなくて、なにもかもがある」
 恍惚とした赤い唇に、ゾッとした。その音色と焦点の合わない瞳。まるで、ここではないどこかにいるようで、「泥棒猫」とわたしを罵ったときのほうがよほど人間らしかったと言える。
「しっかりして、奥さま、奥さま!」
 肩を大きく揺らしても視線は交わらない。それどころか突如がっくりこうべを垂れ、糸が切れたように意識を失った。
 思いがけず、背すじが凍る。
(どうしてこんなことに、一体なにが……)
 だらんと脱力した指先が床に散らばって、薬指についた青いダイヤが瞬く。
 ずきり、刺すような痛みが頭部に走った。
「ッ……」
 あまりの衝撃に額を押さえる。目の奥を針で突かれるような、そのまま神経を捻られ、視界がぐちゃぐちゃになるような。
「……さん、お……さん」
 しかし、すすり泣きがわたしを繋ぎ止めた。
 片目を眇めながら辺りを見渡すと部屋の隅にひとりの女の子がいた。年齢は四、五歳だろうか。懸命に隣の女性にしがみついている。
 人形と化した体をゆっくり床へ横たえ、その子のもとへ向かう。途中、なにかを求めるように伸ばされる腕が亡者のそれのようで、必死で避けながら歩く。
「大丈夫?」
「おかあさんが、おかあさんが」
 なんとかそばまでたどりつくと、その子は大粒の涙をこぼしながら仰向けに意識を失った女性の服を掴んでいた。
「あなたのお母さん?」
 こっくり少女はうなずく。またひとつ、雫がこぼれ落ちた。たまらず、指先でそれをすくった。
「どうして、ここにいるかわかる?」
「おかいもの、してたのに、きゅうにおかあさんが」
 その先は言葉にならない。安心させるように抱きしめて、お母さんの脈を測る。
(生きてはいる。けど、常務の奥さんと一緒だ……)
 青白い肌をしているというのに、やけに頬や唇の血色がいい。いわゆる、薬や麻薬を摂取したときみたいだ。よくない考えが脳裡をよぎる。
(わたし、オフィスにいたはずだったよね? でも、どうしてこんなところ、というか、ここはどこ? なにが起きているの。この子は……)
 そのとき、なにかが地を這いずる音がした。
 ズズッ、ズズッ、静謐な空間に重く響いてくる。上か、外か。さほど、遠くはない。どこか、近くにいる。
 咄嗟に女の子の体をきつく自分の体に押しつけた。
(どうしよう、どうしたらいい? だれか、ううん、そんなの待てない。とにかく、この子だけでも逃がしてあげなくちゃ)
 浅い呼吸が繰り返される。だが、懸命に頭を回し、四方を見渡す。
 部屋に窓はない。だが、扉はある。そこしか、逃げ場はない。一か八か。
 女の子を抱き上げて立ち上がると、亡者の海を渡った。数メートル進むのにも、遥かに長い海原に思えた。一面の白が気持ち悪い。視界がやけに霞み、気を抜くとなにかに思考を乗っ取られそうになる。
「おかぁさん……おかぁさん……」
「ごめんね、お母さんはまた助けにきてあげるから、先にお姉ちゃんと一緒にお外に出てようね」
 外に出られるかはわからない、しかし、ここにいたらダメだと脳が警鐘を鳴らしている。消えてしまいそうな弱い警鐘だ。それでもたしかに鳴り響いている。
 消える前に、どこかへ行かなくては。
「大丈夫だよ、あなたはわたしが守るからね、大丈夫」
 言い聞かせるように泣きじゃくる女の子の体を抱え直して、ドアノブに手をかける。
 カチャ、と軽い音を立てたそれに胸が空く思いだった。音を盗みながら慎重に押し開ける。廊下をのぞいて、そこにだれもいないことを確認すると息を小さく吐き出しながら外へ出た。
 どこかオフィスのような作りだった。正面突き当たりはエレベーターホールがある。しかし、エレベーターを待っているなど悠長なことはできない。
 ズッ、ズッ、と這いずる音に耳を澄ましながら、左右に続く廊下を音から反対に進む。
(急げ)
 心臓が炙られる。
(急げ、出口を探さないと)
 ヒールがカーペットのヤワな毛並みに引っかかるが、それでも強く地を蹴る。突き当たりを曲がり、非常階段の扉を見つけて速度を速める。
 しかし、ドアノブに手をかけて唖然とした。
(なに、これ……)
 左右に繋がる壁や床に人とも動物とも言えない異形の生物がうごめいている。赤や青などの色彩では言い表せないような、おどろおどろしい体色。一体、二体、三体……数えたらキリがない。
 ズッ、ズッ、這いずる音が大きくなる。
 グシャッ、ニチャッ、奇妙な音が、すぐそばで響く。
「うあ……うああああああああ」
 腕の女の子が堰を切ったように泣き叫んだ。
 うしろを振り返る。

 ――視界が、赤く染まった。