episode.11

 ――もう一回、しても、いいですか
 唇にかかる吐息がひどく熱かった。
 冷えた空気が頬を撫でるのに、まるで今にも逆上せてしまいそうな温度で。しとしとと雨滴が音を奏でる中、あえかな明かりに照らされた彼の瞳に吸い込まれていく。
 離れた熱が名残惜しくて、もっとその熱を味わっていたくて、あんなことがあった後だからと頭ではわかっていても、彼を求めずにはいられなくて。唇から濡れた吐息を洩らしながら、小さくうなずいて彼を受け容れた。
 躊躇いがちに唇がふれて音も立てずに熱がほどけていく。そっと目を閉じると、全身に彼を感じて、ただ互いのそれを重ねただけのあどけないキスなのに、心地好さにからだが震えてどうしようもなくなる。
「好きです」
 もうどこにも行けなくなったらいいのに。
 彼とふたり、この雨に溶けてしまえたらいいのに。
「大好き。あなたのことが、すげえ、すき」
 触れあうだけのキスが次第に深くなっていく。子どもの衣を脱いで、大人になっていくように。たどたどしく下唇をついばみ、薄く開いたそこからねっとりと舌が入りこんで。
 頭蓋を撫でる大きな手に背すじが震える。やがてそれは耳朶をなぞり、頬を包み、全身に込み上げる。
 愛しさか、切なさか、それとも、これはなんなのだろう。
「すきです」
「いのくん」
「俺だけのものになって」
 思考が溶けていく。雨音に溶けて、熱に溶けて、吐息に溶けて、わたしはどこへいってしまうのだろう。
 けれど、無情にもからだの奥深くで固くきつく結ばれた糸はほどけてはくれない。

 じゅう、じゅう、油が弾ける音が響いている。鶏肉はひと口大に切って、塩コショウをふったあと冷蔵庫へ。トマトはサイの目に切り、ニンニクとショウガはすりおろして。それから、たまねぎを刻む。
 料理はいいよなあ、まな板に向かいながら思う。だって、余計なことを考えなくて済むから。壊れたノートパソコンの金額とか、中に入っていたデータだとか、幸いにもすべてクラウドにバックアップはとってあったからよかったけれど。あとは、元カレのこととか、明日の会議のこととか。
 それから、猪野くんとのキスのこととか。
「ッ……」
 そこで、不意に訪れた痛みに思いがけず包丁を放り出した。重々しい音が響くのを耳に流しながら手もとを見やる。白いまな板が真っ赤に染まって、思わず、あぁ、と情けない声が洩れた。
 まさか自分の手まで切り刻んでしまうとは。途端、感覚が冴えわたり、人差し指の第二関節が張り裂けるように痛みだす。人間の感覚っていうのは、実に不思議なものだ。
 血塗れの玉ねぎを放って、わたしは流水で指を綺麗にするとよろよろと簡易イスに座り込んだ。
 家に帰ってきて、一時間も経っていなかった。乾いて少しだけマシになったパンプスで五階ぶんの階段を上り切ったあと、わたしはそれらを放り出して、呆然と立ち尽くす前にシャワーを浴びた。烏の行水並みのスピードで、頭を洗い体を洗い、メイクを落として出ると、それから濡れた洋服を急いで洗濯機にかけて髪も乾かさずにキッチンに立った。
 それが、このザマだ。
 ジン、と痛む指で、おもむろに唇をなぞる。ひどく熱かった。熱くて、熱くて、火傷してしまいそうだった。こんなにも胸が張り裂けそうになるのは、いつ以来だろう。切なくて、苦しくて、でも、愛おしい。好きだと言った彼のあのまなざしが、距離を隔ててなおわたしを離してくれない。
 けれど、わたしはなにをした?
 何度も唇を重ねて、彼の呼吸を味わって、そのまま溶けてひとつになれたらよかったのに。それでも、そんなときに限ってやはりこぼれるのは言葉でもなく涙だった。
 わたしも、と応える前に、ほろりとまなじりから滴があふれ頬を伝った。それを見て、彼は体をスッと引いた。酸いも甘いも噛み分けた男の顔をして笑って、「すみません」と咄嗟にそう瞳を伏せて。まもなくタクシーがそばの路肩に停まると、彼はわたしをおぶってそこまで連れていってくれた。
 ――一応、帰ったら連絡してください
 運転手からもらった紙の切れ端に電話番号を書いて、そっとそれを手に握らせて。何枚かのお札を前に差し出して、わたしが口を挟む前にドアを閉めた彼の顔が脳裡にこびりついている。
 わたしはなんて女なのだろう。頑固で、強がりで、可愛げがなくて、とことん救いようがない。コートラックに掛けられた彼のブルゾンを眺めながら思考の海に溺死しようとしたところで、シンクに置いていた携帯が震えわたしは手を伸ばす。
《無事着いたならよかったです。風邪ひかないよう暖かくして寝てください》
 猪野くんからの返信だった。マンションに向かうタクシーの中で、わたしは教えてもらった電話番号にショートメールを打った。本当ならば電話のほうがよかったのかもしれない。しかし、そんな気力もなく、業務的な連絡を彼に届けた。
 だというのに、彼からの返信といったら、簡潔な言葉とともに気遣いが込められているのが、なんとも胸を抉る。
 返信を考えて指を画面にかけると、先に彼からメッセージが届いた。
《明日、迎えに行ける時間わかったら連絡します》
《それと、今日はすみませんでした》
 呼吸が止まる思いだった。
 謝らなくちゃならないのは、わたしだ。彼を傷つけたのは、わたしのほうだ。
 会いたい、今すぐ。
 あなたのことが好き。
 そう伝えてしまえたら……。そう、伝えたいのに。
 猪野くんは悪くない、そこまで書いて指を止める。果たしてそれがいい答えなのかわからない。どうすれば彼をこれ以上傷つけなくて済むのだろう。そんなことを考えるばかりだった。結局先に傷つけたのは自分のくせに。わたしは、勝手な大人だ。
 画面の上に、真っ赤な流線がこぼれる。人差し指から鮮血があふれていた。ぷっくりと傷口から盛りあがっては、丸い珠となって滴っていく。しばらく見つめ、やがてそれを口に含む。
 涙が止まらなくなるほど甘くて苦かった。

「スミマセン、七海サン。お待たせした上に払ってもらって」
 小気味いい店員の声を後ろに聞きながら、俺は七海サンに頭を下げた。
「気にすることじゃありません。せっかくいい店を探してもらいましたから」
「いやいや。でも、奢ってもらうために誘ったわけじゃないんですけどね」
「では、美味かったから、ということで」
「またまた! すーぐそうやって!」
 すっかり雨は上がっていた。七海サンは外していたサングラスをかけるや、「行きますよ」と店先の階段を下りる。その背中は、なんとも洗練された大人のそれだった。
 ――七海サンなら、どうしますか。
 以前だったら投げかけていたかもしれない言葉は、自然と腹に落としていた。ほぞを噛む思いで七海サンの後を追いかけ、大通りまで水溜りを弾いていく。
「七海サン、今日はありがとうございました!」
 捕まえたタクシーに先に七海サンを乗せて、深く頭を下げて見送る。「声が大きい」と言いながらも今日と明日の労いをしてくれるあたりが七海サンだ。
 タクシーが完全に交差点を曲がるのを待って、ポケットに手を突っ込む。夜風が冷たく、つい体を縮こめた。
 ブルゾンは彼女に預けてしまったので、このまま帰るしかない。雨が止んでいてよかった、と皓々と瞬くネオンを眺めながら思う。
 その光の間を酔っ払ったサラリーマンたちが千鳥足で歩いている。まだ宵も早い時間だ、二軒目にいくのだろう。
 平和な世界だ。濡れたアスファルトがそれを映し出して、不思議な心地になる。手持ち無沙汰に携帯を取り出すと彼女にメッセージを返した。
 すみません、自分で打った文言に焦燥と虚しさが襲う。
「……ばかだなぁ、俺」
 猥雑な夜の空気に立ち尽くし、思わず情けない声がこぼれた。どんなに酒をあおっても、どんなにウマいメシを食っても、満たされない穴が開いてしまった。七海サンとのせっかくの時間だったのに、脳裡には彼女の影がずっとチラついていた。最低だ、と吐き捨てた言葉は、どちらのことに対してか。どちらにせよ、俺は大馬鹿野郎だ。
 近くにあった車止めポールに腰を落として、じっと目の前に行き交うヘッドライトを茫然と視界に流す。
 彼女が男に腕を引かれるのを見た瞬間のあの血潮の巡り。背に乗る小さな体と、こぼれると吐息と、あふれた滴。そして、唇のやわらかさ、すべてがまだこの体に渦巻いている。
 勝手にキスしちゃって、まあ……中学生かよ。思わず吐き捨てて天を仰ぐ。
 何度も何度も交わした口づけのあと彼女は泣いた。驚くほど透明な涙だった。そこに含まれる感情がなんなのかすぐに俺にはわからないほど、静かに頬を伝ってやがて溶けていった光景はまるで映画みたいだと思った。街灯に照らされて濡れた瞳が涙の軌跡が流れ星のように光るのだ。けれど、それが拒絶だと気づくのにそう時間はかからなかった。
 やってしまった、という後悔が湧き上がりどうしていいかわからなくなって結局逃げた。なんて意気地なしだ。そっとしておいたほうがいいなんて判断を下して、タクシーを見送ったあとあられもない罵声を吐き捨てて。そうするくらいなら、あのまま彼女がなにもかもどうでもよくなるくらい、そばにいてやればよかったのに。
(なにしてんだか)
 自嘲はエンジン音にほどける。
 今ごろ、泣いてなきゃいいのに。そこまで思って、唇をムッと引き結ぶ。あのひとのことだ、きっとひとりで泣いているに決まっている。
 大人ってやつがこうも難しいとは、大人になった今、それを実感して喉がザラつく。帽子をずり下げて双眸を手のひらで覆う。溜め込んだ吐息を深く吐き出す。複雑に絡まった感情の糸口が見つからない。ああ、自分の不甲斐なさにはらわたが煮え繰り返る。
 それでも、好きだという気持ちを取り下げるつもりはなかった。今さら、引き下がることもできない。
 そうだ、彼女を離すことだってできやしない。
 どうせ俺はそんなできた大人じゃないのだ。
 夜が明けたら朝はやってくる。明日を守るために、進まなければならない。ポールから地面へ飛び降りて、路肩へ踏み出す。空車の文字がゆっくりと目の前で停まり、開いた後部座席に乗り込んだ。
 宵に身を委ねながら、彼女のいるあの家へ。
 降りそそいだ雨がうそみたいに静けさが当たりを包んでいた。まるで、嵐の前の静謐のように。

「風邪でも引いたのか」
 マスクを着けて出社したわたしに、某西島センパイが話しかけてきた。額の包帯はいつのまにかカットバンに変わっている。しかし、五センチはあるだろうか。それなりの大きさなので痛々しさはまだ健在だ。
「ちょっと、昨日雨に濡れちゃって」
「ああ、どしゃ降りだったからな」
「そうなんです」
 マスクの鼻すじを直しながら、くしゃくしゃに目を細めて彼の視線から逃れる。
「今日の資料できているか」
「はい。そういえば一点気になる点があったんですけど……」
 スリープモードに入っていたデスクトップを立ち上げて、クラウドから今日の会議で使用するスライドを開いた。スクロールするたびにチカチカする。まぶたが異様に重かったが、悟られぬように口を回し続ける。
「これで大丈夫なんじゃないか」
 気になっていた箇所をすべて確認し終えて、先輩は折り曲げていた上体を起こした。
「それならよかったです。実は昨日雨でノートパソコンやられちゃって、朝一オフィスに来て仕上げたので抜けがないか心配で」
 ようやく肩の荷を半分下ろすと、よくやるよ、とひとつため息が落ちてきた。
「これがないと困るのは自分ですから」
 わたしは苦く笑う。自分の仕事に責任を持つのは社会人として当たり前のことだ。
「まあ、そうだが」先輩も肩をすくめる。
「でも、これならあのひとも文句言わないだろ」
 その言葉にぎこちなく頬を引きつらせて、だといいんですけど、と肩を落とした。
 あのひとというのは、出張で長らく席を空けていたもうひとりの上司。なにかと難癖をつけてくる正直厄介な人物であり、わたしをトイレに追いやる件の上司でもあった。難癖といっても、ときおりはわたしにも非があるし、トイレには自ら篭もるのだがなんともいえないのだが。それでも、どうにも当たりが強くてげんなりするのだ。
 トイレとオトモダチの日々アゲインか、と胃がずっしり重くなったが、腹部をさするだけに留めて、デスクトップと睨めっこを再開した。
 メールソフトを開いて、重要な連絡が来ていないか確認する。一斉送信の社報と、お世話になっている取引先から一件。あとは、通販サイトからのDM。社報とDMは開封して放置、取引先からのメールはじっくり内容を精読。
 仕事も、心の特効薬だ。忙しければ忙しいほど、雑念を削ぎ落とせる。
 三日後に来訪の旨を卓上カレンダーに書き込んで、手帳にも記入しようとかばんに手を伸ばそうとしたところで、デスクに置いていた携帯が振動した。
《生きてるか》
 硝子からの連絡だった。
 ホッとするような心地で、生きてる、と返す。すぐに《どこにいる?》とメッセージが続いた。
《会社だけど、どうかした?》
 返事を送ると、
《そうかならいい》
 とそこでやりとりが終わる。
「へんな硝子」
 つぶやきながら携帯を置こうとして、硝子の下に並んだ名前を見つけてしまった。ずきんと刻んだ傷が痛み、そのまま絆創膏を巻いた人差し指をマスクの上から唇に当てる。
 しばらく魂の抜けた状態でそれを眺めていたが、やがて背もたれにどっぷりもたれかかって壁掛け時計を見上げた。
 時刻は午前十時。午後には会議があって、それを終えたら次の案件にとりかかって。
 そうだ、夜は猪野くんが来るかもしれないから、融通が効くように仕事を終わらせなくちゃ。もう、逃げちゃだめなんだ。
 彼からも、自分の気持ちからも。一晩寝かせて落ち着いたでしょう。
 カチッと分針が動いたのと同時に、溜め込んだ吐息を吐き出して仕事に戻る。
 ピコン、と音を立てて新たに届いたメールを開封し、返事を書く。人差し指がぎこちないとタイピングをするのも違和感があった。それに、曲がるたびにひどく痛む。ずきりずきり、心臓が軋むみたいだ。
 それでもすばやくそれを終えて、スケジュールの確認へ。
 気を取り直しかばんの中に手を突っ込んで手帳を探す。底に埋もれてしまったのだろう。ポーチやハンカチをかき分けていると、指先になにかが絡まった。
 力を入れたら千切れてしまいそうな、華奢なシルバーチェーンのネックレス。ドレッサーにしまったと思ったがどうやら思い違いだったらしい。手の上で青いダイヤが光に瞬く。太陽光だといっそう冴え冴えとするが、室内灯でも悪くはない。
 目線の高さまで持ちあげてうっとり眺めていると、ゆらり、視界が揺らいだ。
(……疲れ?)
 目を閉じてかぶりを振る。しかし、視界の霞みは治らない。
(ああ、やばい、本格的にきてるかも……)
 ゆらり、ゆらり、ブルーダイヤが煌めく。

 カタカタ、キーボードの鳴る音が、
 プルルルル、電話のなる音が、
 チクタクチクタク、秒針の音が
 脳内で撹拌されていく。

(――そうだ)
(――行かなくちゃ)

 キィィンと鳴り出したのは耳鳴りか。しゃべる声はわたしの声か。頭を抱えながら立ち上がる。
(早くしないと)
 ……でも、どこに?
(行けばわかる)
 ……わかるって、なにを?
(なんでもいい。心の赴くままに)
 ……こころの、おもむく、ままに?
(そう、行けば、きっと楽になる)
 ……そうだ、楽になりたい。
 なにもかも忘れて、忘れて、一切考えなくてすむような――。

「おい、どこ行くんだ?」
「ちょっと、出てきます」
「待て、やっぱ顔色悪いぞ、ちょっと休んだほうが……」
「やだなあ、センパイ、だいじょうぶですよ」
「……どういうことだ」

「だって、わたしにはこのネックレスがあるんだから」