まるで、それまで積み重なった幸福が、ほろほろと崩れるように不幸とは訪れるものだ。
少しずつ少しずつ、黄金色の山を削って、そのときにでた破片がきらきら瞬きながら鼻や口から入って喉や肺を犯していく。落ちる前は輝いていたのに、やがてそれはくすんで、灰色になり、積もりに積もってどす黒く色を変えていく。
幸福が重なると崩れて不幸に変わっていくのに、反対には際限がないのだから困ってしまう。体の裡に溜まって、溜まって、溜まって、やがて毒として体外に出ればいいが、たいていは澱となり血液や細胞にまで不幸ってものは溶け込んでいくのだろう。
そんなことを、目の前にかかる雨のカーテンを眺めながら考えていた。
空から無数の滴が落ちる。それは幾重にも重なりレースとなって辺りを覆う。ザァザァ音を奏で、猥雑な夜の香りを包み込み、瞬くネオンが亡霊のようにゆらゆらとにじむ。雨は嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、こんな日は、憂鬱だ。
夕方から降り出した雨はすっかり東京の街を濡らしていた。アスファルトにできた水溜りには無数の波紋が立ち、あっという間に溶けて消えていく。
おおよそ終業時間ともあってか、雨のカーテンの間には人々が行き交う。そこに咲いた花の色は黒や紺、はたまた透明。ブルーな気分、とは言い切れない。
テレビではパラつく程度と告げていたのに、まったく天気とは読めないものだ。
今日に限って少し高いヒールを履いてきてしまったし、かばんの中にはノートパソコン。幸い折りたたみ傘は持っているが、ほんの慰みにしかならない。少し弱まってから帰ろうか、にじんだ景色を眺めて思う。
早く帰って、明日使用する資料を作ってしまいたかったのに。こんなときに限って、足留めをくらう。
少し前まで好調だったぶん、どんどん幸福の山が削られている心地だ。そんなに蓄えたつもりはないけれど、キャパが小さいのかもしれない。もっと幸せを集めさせてくれ、なんて思うが、そううまくいくものではない。
猪野くんにも避けられているような気がするし……。って、どうしてここで猪野くんが出てくるんだか。
(ばかだなぁ、わたし)
右耳に髪を掛け直す。頬はいつのまにか冷えていた。そのまま唇をなぞると指のはらにカサついた皮がひっかかる。かばんからグロスを出してちょん、ちょん、とそこへ宛てた。ン、と重ね合わせて、今度は少し尖らせる。
かすかなミントの香り。いい冷却期間だ。一気に燃える恋は疲れるだけ。自分を見失わない恋愛のほうが、身の丈に合っている。性に多感なティーンじゃないのだから、燃え尽きて灰になりたくない。ああでも灰になったらこの雨に消えてしまえるのか。それも捨てがたい。
でも、このくらいがちょうどいい。このくらいが……。
そう言い聞かせながらもむしゃくしゃして、もはや雨の中を全力で走りたくなる気分だった。傘なんて差さないで、スキップをして歌をくちずさみながら華麗にターンなんて決めちゃって。憂鬱な気分を吹き飛ばす。生憎、脚はまったく動きださないけれど。
帰ったら、キッチンに篭ってしまおうか。冷蔵庫に眠る食材を使って、スープでも作ろうか。それともカレー? 今日はひとりぶん。作っても、二日で食べきれるぶんだけ。
いつまでもぐずぐずしていられない。ひとつ息をついて、空を仰ぐ。
暮れた空から降りしきる雨粒。ネオンに瞬いて、視界が潤む。
まいっか。あと少しだけ。少しだけ……。
会社のエントランスで二の足を踏んでいるわたしは、すっかり大事なことを忘れていた。
黒い傘が近づいてくる。びちゃん、びちゃん、雨音にかき消された不恰好な足音。
「――やっと会えた」
*
「七海サン、ウマい鉄板焼きの店見つけたんですよ」
最後の見廻りを終えて、本日の任務は終了となった。午前中はミッドタウン近くの六本木トンネルの呪霊一体、午後は日比谷にほど近い霊園にて複数体。いずれも等級は高くなかったが、呪霊発生警戒区域、いわゆる心霊スポットツアーはなかなか骨の折れるものだった。
とはいえ、尊敬する七海サンとのタッグを組んでの仕事なので、予定よりもずいぶん早く終えることができたのは僥倖だ。
前日のうちに夜メシ食い行きませんかと交わしていた約束を早速実行に移す。携帯の画面を見せると、七海サンはいいですねとサングラスを外してうなずいた。
「虎ノ門周辺のオフィス街の中にあるみたいで」
「ああ、あのあたりはなかなかいい店が並んでいますからね」
「そっす! 予約しちゃっていいすか?」
「ええ、頼みます」
後処理を終えた補助監督とは、その場で解散し目星をつけていた店へ電話をかける。
せっかくのメシだというのに、外はあいにくの雨模様。ザァーッと音を立てるほど、わりとどしゃ降りだ。正直大雨はダルいが、まあ店までタクシーで向かう予定のため、そう濡れはしないだろう。若干の肌寒さに、ブルゾンを羽織ってきてよかったな、と頭の片隅で思う。
電話が繋がり、白くくゆる景色を眺める七海サンの隣で席を予約した。
それから間もなく「送迎」の文字を掲げたタクシーがやってきて、もちろん七海サンが慣れないよう傘を差し出しながらそれに乗り込んだ。
車は雨の東京を進む。あれやこれやと他愛のない、しかし常どおり充実した会話を交わしながら目的地へと向かっていた。窓を雨滴が打ちつけ、いくつもの小さな飛沫を上げてあっけなく滴っていく。
こうして見ていると雨も悪くないモンだ。洋服も濡れるし、髪も湿気でまとまんねーし、降ったら降ったで厄介なのはたしかだが、人間に疎ましがられようが大地にそそぐ姿はまさに慈雨だろう。
それに、汚れを洗いざらい流してくれる。雨の日は呪いの匂いが薄まっていい。
「あ、ホームページに書いてあったビルってアレですかね」
フロントガラスの向こうにデッカいオフィスビルが聳え、運転手にこのあたりでと指示を出す。路肩に停まり、七海サンに傘を差し出してタクシーを降りた。
「雨、ちょっと弱まりました?」
「若干でしょうか。お店はどちらに?」
「アッチっす。すべらないよう気をつけてくださいね」
互いに黒いコウモリのような傘を差して、ニューヨークが舞台の映画なんかに出てきそうな高級なオフィスビルのエントランスを左手に、頭の中で地図を描きながら歩き出す。
「――はなして!」
雨音の狭間、聞こえてきた声にハッとした。
「穏やかじゃありませんね」
隣で七海サンも眉をかすかにひそめている。
その女性の叫びが聞こえたのはオフィスのほうだ。
――まさか。
「……猪野くん?」
家路かはたまた飲み屋へか、急ぐ会社員たちが行き交う中、石張りのガーデンエントランスの奥にその姿を見つけた。
傘も差さず、雨に濡れながら男に腕を掴まれている。
「スミマセン、七海サン。店、先に行っててもらえますか」
*
出会ったのは社会人になりたてのころだった。仕事に少し慣れてきた夏、友人の紹介で飲みに行ったのがキッカケだった。とあるアパレルブランドの路面店で働く、同い年のひと。くしゃっと笑う顔がかわいかった。いつしかふたりで飲みに行くようになり、何回かデートを重ね、告白されて付き合うことになった。
最初のころはなにもかも新鮮で、どこへ行くにもなにをするにも、すべてがきらきら輝いて見えた。それから一年、仕事が本格的に忙しくなると、だんだんと会う頻度が減っていった。それでも好きだったし、顔を合わせれば楽しいと思えたから一緒にいた。
週に一度は顔を合わせていたのが二週間、三週間、一ヶ月に一度となり、デートはだいたいホテルかわたしの部屋。社会人のカップルなんてそんなものだと思っていた。でも、できるだけ彼と長く一緒にいられるように、会いたいと言われたら喜んで飛んで行ったし、忙しいときには負担にならないように会いたいと言わないようにもしていた。
疲れたと言われたらたくさん励まして、腹減ったとメールがきたら、何時だろうとあたたかいご飯を用意し、健気で可愛らしい彼女であろうとした。嫌われるのが、怖かった。
しかし、付き合い始めて二年を過ぎ、彼の火遊びが発覚した。
「つい魔がさして。本気じゃなかったんだ」
「おれにはおまえしかいない」
「やりなおしたい」
「なんでもするから」
そうしきりに謝られて、わたしはそれを許した。
その前からわかっていた。彼は寂しいとダメなひとで、自立した女が嫌いだったこと。女の子に頼られるのが好きなこと。
付き合いたてのまだ初々しい時期、おしゃれで、顔も整っていて、女の子が周りにたくさんいた彼によく不安になるわたしを見て、
「おまえはおれがいないとダメだもんなぁ」
と言うのが口ぐせだったこと。
一度目のやり直しを経て、わたしたちは関係を改めた。少しだけ、付き合いたてのころを思い出せて楽しかった。浮気がわかってからよく不安になったけれど、それでも幸せなことも多かった。きっとこの試練を乗り越えた暁には、わたしたちは結婚するのだろうな、などと漠然と思うようになっていた。
しかし、実際には薄氷の上を渡っているようなものだった。いつからか本音は胸の裡にしまい込むようになり、どこに行きたい、なにをしたい、今日は疲れたから会いに行けない、会いたい、会いにきて、などという簡単な言葉まで思うように口に出せなくなり、尽くせば尽くすほど虚しくなり、虚しさは悲しみになり、怒りになり、やがて透明になり、自分が消耗しているのがわかった。
一方で、仕事では周囲に認められ、一定の成果も出せるようになっていた。わたしは、次第に仕事を優先するようになり――実際にはそうする余裕しかなくなったといったほうが正しいかもしれないが――仕事にやりがいを見つけ、彼の理想の《かわいくて甲斐甲斐しくて従順な女の子》ではなくなっていった。
それでも、幸せになるのだとどこかで思っていた。頑張ったら、きっと結婚できる。結婚して、子どもを産んで、あたたかい家庭を築くんだ。それが、幸福なのだと思っていた。わたしには彼でなくちゃ、彼はわたしでなくちゃ。
今思えば、ほとんど呪いのようなものだ。
そうしていびつな関係のまま、双方の忙しさにかまけて本質的な問題に目を向けず、一年、二年と年月が過ぎ、交際して五年目、あの夜別れを切り出された。
酸いも甘いも噛み分けた五年が、まさに呆気なくたまねぎのみじん切りと化したのだ。
それなのに、目の前に現れた彼は、「やり直したい」と言う。
「本当に悪かった。今さらこんなふうに謝っても、遅いってわかってる。でも、大切なものに気づいたんだ」
雨のカーテンの向こうからやってきた男は、話すことはないと拒絶を示すわたしの言葉すら聞き入れず、一方的に捲し立ててくる。
傘の下で落ち窪んだ瞳がギラギラと光っていた。それが雨のせいなのか、涙なのか、それとも別のなにかかよくわからないが、とにかくゾッとした。
「それは、なにに対する謝罪? なにに対する弁解?」
他人に振り回されるのはもうこりごりだ。おいしくカレーを作りたい。ミネストローネだって、豚汁だって、弾んだ気持ちでつくりたい。そして、それを冷めないうちに食べてしまえるようになりたい。
愛は冷める。そうして形を変え、別のものになる。二度と同じ形なんてない。きっと、おそらく、ずっとわたしたちの間にあったはずの愛は冷え切っていた。否、果たしてそこにあったのが本当に愛だったのか。それすらも危ういところだ。
一体、わたしたちの間に五年もの歳月の中、横たわっていたものはなんだったのだろう。
「おれにはおまえしかいないんだ、わかってほしい。こんなにも、あいしているのに……」
彼はうわごとのように繰り返す。
付き合っているときから思っていた。ときおり、話が噛み合わなくなること。同じ言語を話しているはずなのに、通じない、彼には届かない。不毛な会話。
わたしはばかな女だったから、それに気づかぬふりをして必死に笑顔を浮かべて数歩うしろから彼を追いかけていた。
今思うと、どうしてそんなことができたのだろうと不思議になる。
「勝手なこと言わないで。子どもは? 女の子は?」
雨の降り頻る中、行く手をはばみ、迫ってくる男に恐怖心さえ覚える。あれほど身なりに気を遣っていたのに、今やくたびれたシャツとチノパンと、そしてわたしがかつて贈ったショルダーバッグと。
硝子の言うとおり、結婚を約束した女の子に捨てられでもしたのだろうか。あるいは、騙されたか。じゃなきゃ、今ごろバラ色の結婚生活だろうに。
「なんでもする。本当に、今度こそ大事にするから。おれにはおまえしかいないし、おまえだって、おれしかいないだろ?」
ただ会話をするのに、これほどまでエネルギーを消耗することがあるだろうか。
こんなことになるなら、逃げ回る前に硝子の力を借りて、第三者を入れて話し合っておくべきだった。平和的解決をしたほうがいいという上司の言葉が、今さら身に染みるとは。なにより、待ち伏せの事実を忘れて油断した自分に、ほとほとウンザリする。
助けを求めようにも、周囲はただの痴情のもつれだと思っているだろう。雨の中、彼女を取り戻そうとやってくる。なんという純愛。あら映画みたいな真実の愛ね、なんて。
ああ、くそくらえ。
「なあ、なんでもするよ。もう一度、やり直してくれないか、チャンスをくれないか、失ってから、おまえの大切さに気がついたんだ」
昔からそうだ。なんでも、の、なんでもがわからない。具体性が見えてこない。ただの言葉を並べただけ。それでわたしが言うことを聞くと思っている。
反論の余地すら与えず、幸せな顔をして去っていった男が、今さら、ムシがよすぎる。
「……ばかにしないで」
しかし、声は震えうまくしゃべることができない。それは怒りかそれとも呆れか、恐怖か、一体なんなのだろう。
「とにかく、話そう。話せばわかるよ」
「やっ……」
びちゃん、スニーカーが水たまりを弾く。咄嗟に一歩後ずさるが、腕を掴まれてしまった。
「やめて、はなして」
すごい力だ。ふりほどこうにも、ぐいぐい引っ張られて雨の中に連れ出されてしまう。ザァザァ降り頻る雨が冷たい。髪の毛が肌に張りつく。パンプスのつま先に冷たい水が染み込んでくる。
「まって」
「なあどこにする。どの店がいいかな。代官山のあのカフェはどうだろう? ああ、それとも、家のほうが落ち着くかな。まだあそこのマンション住んでるよね。五階建ての、エレベーターがなくて大変なとこ」
どんどん彼は進んでいく。どんなに踏ん張っても止まってくれなくて、こっちの話なんか一切聞き入れやしない。
パンプスが脱げる、抗うこともできず水たまりに飛び込む、カバンだってぐしゃぐしゃだ。もういやだ。どうしてわたしがこんな目に。
「はなして」
「ほら、早くいこう」
「はなして!」
力をふり絞り腕を振り切ると、彼が脚を止めて振り返った。淀んだ瞳の奥がギラギラと光っている。
「なんでそんなこと言うんだよ、おれとおまえの仲なのに。ほら、そんなに濡れて、早く家に帰ろう、風邪をひくだろ」
「帰らない! わたしとあなたはもう終わったの!」
一瞬、なにかに取り憑かれたように目を見開き、そして、阿修羅のような顔で腕を振り上げた。
――殴られる。
そう覚悟をして目を閉じると、あろうことに、その衝撃は訪れなかった。
「……なにが理由でも、女の子に乱暴しちゃダメでしょ」
彼との間に割り込み、大きな背でわたしを隠してくれたのは猪野くんだった。
男の拳を掴み、右手で傘を差したまま立ちはだかる。
「だれ」
「だれとか、別にどうでもよくないすか。やめましょうよ、彼女いやがってるでしょ」
「部外者は黙ってろよ」
「部外者じゃなければいいんすか」
猪野くんは淡々とした口調で続ける。
「このひと、俺の恋人です」
雨に紛れぬ、はっきりとした声だった。
「そんなの……」
「なんか、文句ありますか」
遠くでパトカーのサイレンが鳴り始めた。ハッと慄いた男は踵を返し去っていく。
ザァザァ、雨は降り続ける。
茫然と立ち尽くしていると、猪野くんがしゃがみこみ、水たまりの中に転がっていたパンプスを拾い上げた。
「あーあ、これじゃ、履けないっすね」
最後の凄んだ声が、うそみたいにやさしい声だった。
「ごめんね、重いよね」
「全然。たぶんあと五人くらい乗せられますよ」
黒い傘を手に、猪野くんの背中にしがみついて降りそそぐ雨の中を進んでいく。
かばんは猪野くんが。それから、ぐしゃぐしゃになったパンプスも、わたしを背負いながら後ろ手に持ってくれている。
「寒くないすか」
「うん、大丈夫」
「なら、よかった」
猪野くんはそっとつぶやく。
でも、とわたしは続けた。
「わたしのせいで、猪野くんまで濡れちゃう」
「べつにいいっすよ。男は濡れてナンボみたいなとこあるんで」
先ほどの喧騒がうそみたいに静かだった。滴の織りなすカーテンの中に、ふたりでそっと包まれる。猪野くんの背中は思っているよりも大きくて、触れる体温がとても心地よい。ふわりふわりと歩くたびに彼のさわやかな香りが鼻を掠めて、なぜだか胸があたたかく、苦しくなる。
「あのね、猪野くん」
「なんすか」
「わたしね……」
どこかへ歩いて行くあいだ、ぽつり、ぽつり、わたしは話した。
五年付き合った恋人がいたこと、子どもができたからと別れたこと、さっきの男がその彼だったこと。一週間前から、待ち伏せされていたこと。
「情けないよねえ」
すべて彼が悪いわけじゃない。わたしだって、独りよがりで勝手に被害者ぶるだめな女だった。よき彼女でいること、健気でいることに我ながら酔っていた。
自嘲するわたしに、猪野くんは静かに言った。
「明日から、できるかぎり迎えにいきます」
そうしてゆっくり歩きながら続ける。
「行けない日は、タクシー乗って。俺がお金出すから」
「なんで……」
言葉を詰まらせると、猪野くんはいっとうやわらかな声を出した。
「俺が、したいだけなんですよ。年上なのに、見ていて危なっかしいっていうか、放っておけないっていうか。放っておきたくなくて。もっと頼ってほしいし、もっと甘えてほしいし、いろんなこと、あなたのためにしたい」
彼がどんな顔をしているかはわからない。けれど、心臓の音を感じる。とくり、とくり、あたたかくて、強くて、たしかな鼓動。
「って、これ、カレシの仕事か」
戯けた彼に、「……いないよ」と小さく囁く。
「いないんすか」
「うん、傷心中」
「青い車の男は?」
「青い車?」
「夜、送ってもらってたでしょ」
「あれは、上司」
元カレに刺されそうだからって助けてもらったの、妻子持ちだよ。そう言うと、猪野くんは、「そっか」とつぶやいた。
人目のつかないところまで進み、オフィスの裏手、屋根のある場所までやってくると猪野くんはわたしをベンチに下ろした。
「今、タクシー呼びますんで」
着ていたブルゾンジャケットを脱いで肩にかけてくれる。大きくて、あたたかくて、彼のにおいがする。
濡れて気持ち悪い足先をアスファルトの上でもぞつかせながら、背を向けて携帯を耳に当てる猪野くんをぼんやり眺める。
「はい、オフィスビルの、ええと、裏口です。はい、お願いします」
そんな声でさえ、わたしの惨めな心臓をやさしく撫でて。
「五分くらいでくるそうです……って」
振り返った猪野くんが顔を見てギョッとした。
頬を伝うのは雨ではない。猪野くんの顔がゆらゆらとにじむのも、唇が情けなく震えるのも、すべては収拾がつかなくなった感情の欠片だ。
「ごめん、猪野くんの姿みてたら、ホッとしちゃって」
あはは、なにやってんだろうね。慌てて指先でそれを拭うと、猪野くんはわたしの腕をつかんだ。
じっと黒曜石の瞳がわたしを捕らえて、やさしくがんじがらめにしていく。笑いもせず、呆れもせず、慈しみの光を携えながら。
小さく洩れた吐息を、やがて、分けあうように唇が重なった。
