思いがけず、浴室の壁を殴った。それは硬く、ちょっとやそっとの力では崩れない。当たり前だ。コンクリートなんて、普通の人間は砕けない。本当なら呪力を込めればなんてことはなかっただろうが、それすらも億劫だった。
シャワーを頭から浴びながら、ぐるぐると渦を巻く排水溝にくそと吐き捨てる。
「そりゃあそうでしょ。いるっしょ、彼氏くらい」
夜の明かりに浮かび上がった彼女のまなざしと、その先に映る男の姿が脳裡に灼きついて、離れない。
バカだなぁ、俺。ひとりで舞い上がって、勝手に一喜一憂して。好きになっちゃっても、知らないっすよ、なんて告げて。
鏡の中に映るずぶ濡れの男を見て唇を噛み締める。成人したとはいえ、まだまだ思い描いていた姿とはかけ離れている。肉体は薄く、盛り上がった筋肉でさえ、あどけなさが残る。割れた腹を撫で、首すじに浮かび上がった筋をたどって、双眸を覆ったあと髪をかきあげる。額の窪みに水滴が溜まる。髪や頬、あごからあふれたそれが滴る。
いい男とは、言えないかもしれない。けれど、見てほしいって思うのは恥知らずか。もっと、もっともっと、俺を見てくれたら。知って、ほしいんだよ、カッコ悪ぃなんてのは、わかってる。それでも、だ。
しかし、知ったところでどうなる。呪術師である俺を? 血生臭い仕事をしている俺を?
背広を着てスタイリッシュな車を乗りこなすあの男のほうが、よっぽど、彼女にはお似合いなんじゃないか。
「……ばっかだな、おれ」
好きなっても、知らない――じゃなくて、もうわかってんだろ?
「くそっ」バルブを閉じて顔に流れる水を手で勢いよく払った。
「どうせ相手の女に捨てられたから戻ってきたんだろ」
任務終わり、うっかりドジをして抉ってしまった傷を治療してもらいに医務室に向かうとめずらしくそんな話し声が聞こえてきた。いつもの淡々とした家入サンの声とはちがう、やや感情を載せた音色。怒りだろうか、呆れだろうか、それはなんとも判別しがたい。
取り込み中か、ドアにかけた手を思わず止めた。
「ひどければ警察に頼んだら。って言っても、そうしないんだろ結局。ああ……おまえの頑固さはわかってるからな、何年一緒にいると思ってんだ。……はぁ? まあ、もしダメなら、協力してやらなくもないけど……ああ、うまくやれよ」
なんの話をしているのだろう。聞き耳を立てていると、「入ってこいよ」とだしぬけに声をかけられた。
「気づいてたんスか」
「靴の音でな。ところで、今日はまた血だらけになったもんだな」
ドアを開けて入ると、家入サンはデスクに座っていた。右腕は動かないので、無事な左手で、やっちゃいました、と頭を掻く。
「座りな」と彼女は診察台をあごでしゃくり示した。
「七海との任務か」
「や、今日は単独ッス。七海サンの前じゃこんな無様な姿見せられないですよ」
「あいかわらずだな」
腕を捲って、呪いによって抉られた上腕部を差し出す。家入サンは手首を左手で持ち上げたあと、軽く裂傷部を清潔にし、右手を当てて治療を行った。じわじわと熱が宿り、体内を循環する流れが強く早くなる。やがて痛みが薄れた。
「家入サンこそあいかわらずスゴイですね」
「そうか?」
「ぜんっぜん、反転術式の感覚わかんねーすけど、肉が再生する感覚はわかるでしょ。それがすごい」
「そんなに複雑なことじゃない」
「いやいや……」
傷が塞がったところで血を完全に拭う。新しく再生した皮膚は周囲と色が異なった。異様にも思えたが、しばらくしたらそれも元どおりになる。
「曲げて」指示されたとおり力を込めて筋肉を動かした。
「いいだろう。二、三日は痛みや引き攣りがあると思っといて。薬、出しとくか」
「いや、いいっす。これくらいなら」
腕の曲げ伸ばしをしたのち、肩をぐるんと回してみる。後方へ引いた際にズキン、と刺すような痛みが襲い顔をしかめたが、声を上げるのはどうにかこらえた。
「そういや、お隣サンとはどうだ」
あー、と頭を掻く。家入サンは消毒器具を片していた手を止めずに視線だけこちらにもたげた。
「撃沈か」
「やっ、そんなこともないですケド……いや撃沈してんのかな」
昨晩のことを思い出して口内に苦味が広がる。
濡れたアスファルトににじむ光。伸びた影。アズライトブルーの車と儚く照らされた彼女の頬。運転席にはひとりの男。彼女が薄く笑って、男は手を挙げエンジンをかける。遠ざかっていくランプ。彼女が小さく手を振る。いつまでも、いつまでも。
「だーっ、思い出したらムカムカしてきた」
「元気だな」
急に頭を掻き乱した俺に驚くこともなく家入サンは片付けを終えた。白衣のポケットに片手を突っ込んで、カルテにすばやくなにかを記入する。
「ハリー・ウィンストンの指輪はやったのか」
「いやいやアレ何百万……さすがに無理でしょ……」
五条サンくらいなら痛くも痒くもないだろうが。って、お礼にそんなのをもらっても女の子はドン引きだ。
脚を開いて、ふうとため息をつく。
「無難に、ガトーショコラあげましたよ」
「喜んでた?」
「そうっすね、かなり」
「ならよかった」
――これ、食べたいと思ってたんだ。ブラウンの袋を見た途端の目の輝きといったら。思い出して喉の奥がむずがゆくなる。
からかわれてんのかな、俺。相手にされてないんだろうな。
なにはともあれ、目の前の恩人に頭を下げる。
「まあ、その節は助かりました。オトモダチにも、お礼言っといてくれますか」
家入サンは再び重たくまつ毛をもたげる。
「ん、伝えとく」
「お願いします。てか、さっきの、そのひとですか」
動きが止まった。が、すぐに彼女はきびすを返しデスクへ戻る。
「よくわかったな」
「まあ、いつもより感情こもってたじゃないですか、それで」
先輩になんてこと言ってんだ。帽子を整えて立ち上がる。靴紐が解けていたので、しゃがんでそれを結び直した。
「長い付き合いだからな。なんで一緒にいるのかもわかんねーほど、共通点は少ないけど」
長いから、そんな言葉では語り尽くせない言外の感情を汲み取り、口もとがもぞもぞした。
「大切、なんすね、そのひとのこと」
家入サンは躊躇うことなく、まあな、と言った。
「彼女は特別」
コーヒーを飲んで、気だるくひとつ息を吐き出して。
家入サンにそんなことを言わせる人間がいるとは、驚きだ。しかし、なぜだか、妙に心が共鳴したような気がした。
(……トクベツ、か)
浮かぶのは、あのひとの色んな顔だった。消してしまえれば楽なのに。相手には、恋人がいるかもしれないのに。とっくに俺の中にはあのひとだけの場所があって、無駄になるかもしれないとしても、そこを大事に形作ろうとしている自分がいる。
あーあ、俺だけのものにできたらいいのに。
そんなの、無理か。
*
人生とは、実にうまくできているものだ。
目の前で閉まった扉を眺めながら、わたしはひとつため息をついた。時間を見ながらきたつもりがどうやらどこかで計算が狂ったらしい。
(いいけど、次でも間に合うから)
轟々と音を立てながら去っていく電車にふわり髪の毛が遊ぶ。腕時計をちらりと確認して点字線のこちら側に立つと、いつもの癖で携帯を取りだした。
しばらく続いた雨は上がり、久々の晴れ間が広がっている。しかし、なんだかすっきりとしない気持ちをあの夜から引きずっていた。
今日のスケジュールを確認したのち、SNSをチェックする。やれ高校の同級生が結婚しただ、第一子が生まれただ、あるいは恋人とのツーショット。生まれて四半世紀を過ぎてからはずっとこんな感じだ。結婚出産のラッシュが年に一度は訪れる。だから、ときおり料理の写真とかペットの写真があるとホッとしてしまう。
ひととおり「いいね」を押して、首をひねる。
(最近、やけに肩が凝るんだよね)
携帯のやりすぎか、あるいはパソコンか。たぶん仕事のやりすぎだなあと結論づけて指にネックレスを引っかけた。
(そういえば、これもあるのか)
硝子に言われたとおり、そう頻繁につけないようにしているが、どうなのだろう。携帯をしまって、チェーンの留め具を外す。
(かわいいんだけどなあ)
小さなひと粒ダイヤというシンプルなデザインは飽きがこなくていい。仕事にもつけられるし、派手すぎず、しかし地味すぎず、それだけで存在感がある。
目線の高さまで上げて、青空にそれをかざすと、きらきらと光を反射した。
きらり、ゆらり、青白い瞬き。
一瞬の、霞み。
(だめだな。本格的に疲れてる)
はあとため息をついて目頭に手を当てる。しばらくもみほぐすと、少しだけ楽になった。それでも首を二、三ひねりながらネックレスをアクセサリーケースにしまう。
(温泉とか行きたいなぁ、熱海、伊豆、箱根……。行っちゃおうかなぁ)
電車の到着を告げるアナウンスが頭上で響いた。
「え、先輩、事故ったんですか」
お昼ごろ、ようやく現れた上司の姿に唖然とした。
ああ、と神妙に肯く額には、痛々しく包帯が巻かれている。顔には常と変わらぬ鉄仮面をかぶっているが、目もとには色濃く疲労がにじんでいた。
「朝な、こっちくる途中に大黒の近くで」
「ああ、あそこ、年一回は大きな事故ありますもんね。去年もポルシェが突っ込んだってニュースやってましたね」
どうやら運悪く首都高の渋滞に捕まっていたところ、後続車にぶつかられたらしい。その衝撃で玉突き事故になり、頭部を窓ガラスに強打したようだ。
朝からそんな災難に見舞われるとは、しかし、なにより命に別状はなくてホッとする。それを告げると彼はようやく難しい顔をほぐした。
「こんな日くらい、休んだらいいのに」
頭に包帯なんて痛々しすぎる。頭部を見つめて言うと、彼は肩をすくめた。
「やらなきゃいけない仕事もあったし、見た目よりそんなひどくないからな」
「でも、病院なり警察なり、あとは保険対応とか、大変だったでしょう? できる仕事はわたしも請け負いますから、どうかむりしないでくださいね」
奥さまもお嬢さんも心配していらっしゃるでしょうから。そこまでいうと、彼は不承不承ながらもああとうなずき、デスクに向かった。
その日の仕事を終えて帰宅すると、ちょうど階段から降りてくる猪野くんとばったり遭遇した。
「あ」重なった声に、どきりと胸が跳ねる。
まさかこんなところで彼に会えるとは。
「今から仕事?」
郵便受けを開きながら訊ねると、彼は、「そうっす。ちょっと呼び出されちゃって」とポケットに手を突っ込んだままゆっくり階段を下りてきた。
「そっか、こんな時間からご苦労さま。朝までかからないといいね」
「どうだろ。もう慣れっこだからいいんすけどね」
なかなかブラックだなぁ心の中で苦く笑う。
彼は隣で郵便受けを開いて、なにも入ってないことを確認するとおもむろにこちらを向いた。
「どうかした?」
一瞬、動きを止めた猪野くんの顔をうかがうが、彼は、「いえ」と珍しく小さな声でつぶやいた。
疲れているのかもしれない。そりゃそうだ、昼間はわからないけれどこんな時間から仕事だなんて、それだけで気持ちが疲れる。労いをこめてなにも言わずやわく微笑んで自分の郵便物を確認することにした。
腕をあげるのが、少々しんどいのに気づいたのはそのときだ。ずっしり、とまではいかないが、軽く石が載っているような感覚。四十肩ならぬ、三十肩か? 恐ろしくなって口もとをもごつかせて、バレないようダイレクトメールをかばんにしまった。
「猪野くん?」
じっとわたしの肩口を見つめて彼は黙りこんでいた。心配になって下から顔をのぞき込むと、彼は一点を凝視したまま重い口を開いた。
「ちょっと、すみません。目、閉じててもらえますか」
いつもの飄々とした明るい表情ではなく、一切の感情が抜け落ちた神妙な顔。言い方はいつもの猪野くんのものだが、有無を言わさぬ声だった。
「いいけど……」
わたしは少したじろぎながらうなずく。
「いいって言うまで、そのままで」
ぎゅっとまぶたを下ろして、唇を噛んだ。
視界が真っ暗になると、やけに聴覚や触覚が冴えてしまうものだ。ひんやりとしたエントランス。聴こえるのは車のエンジン音や通行人の声。まだまだ眠らぬ街。しかし、そのどれもが遠い。その中で、コツン。足音がひとつ。
なにを、するのだろう。噛み締めた唇を舐めると、ふっと耳の横の髪を掬われた。その感覚に、思いがけず体が跳ねた。驚きと、こそばゆさと、心地よさと、それらが入り混じって吐息が震える。猪野くんは、なにをしているの?
いいとは言われていないから、まだ目は開けてはいけない。熱を帯びた呼吸をぐっとこらえて、速まった鼓動を数える。
くちびるがもどかしい。指先がじんわり湿る。隠すようにそれを握りしめると、前方からかすかな衣擦れが鳴り、ひゅっとなにかが髪を掠めた。刹那、ぱん、と小さな破裂音が遠くに弾けた。
「……あの、猪野くん?」
彼はなにも言わない。
「もう、いいかな?」
そこで、ようやく彼は、「スミマセン、もう、いいっすよ」と口にした。
ゆっくりと目を開けると、視界がぼやける。目の前には猪野くんがいて、まばたきを繰り返した。
「虫、ついてたんで」
彼は帽子を引っ張って、眉下までずり下げる。
「あ、ありがとう」
「いえ、勝手に髪触っちゃって、すみませんでした」
視線が重ならぬまま、へらり笑みを浮かべた猪野くんが、ひどく遠く感じたのは気のせいだろうか。
もしかして、避けられてる?
じゃあ、と律儀に頭を下げて彼は横をすり抜ける。
「猪野くん!」
少し丸まった背を呼び止めると、彼は体をひねった。きょとんとした瞳がこちらを向いて、ごくりと唾を飲んだ。
「えっと、なんすか」
しかし、ぎこちない顔つきに、途端に言葉が出てこない。
「……ううん、なんでもない。ありがとう、気をつけてね」
かろうじて告げると、彼はなぜだかいつもよりも大人びた笑みを残して、「あざす」とマンションから出ていった。
*
首都高速湾岸線。大黒ふ頭JCTから羽田に向かって少し進んだ工場地帯に、厚い帳が下りている。夜間ともあってさほどそれに違和感はないが、いつもならば製鉄所の白煙が上がり淀んだ空気が一帯を占めているのに、この日は妙に冴え冴えとした空気であった。
「近隣二キロ圏内、一般人立ち入り禁止としています。しかし、製鉄所の稼働を止めるわけにはいかず、複数名が工場内部に残留。いずれも高専の監督付きです」
補助監督の伊地知サンの言葉に、うす、と返事をして左腕で右の肘を抱きこみストレッチをする。
「できるかぎり、羽田寄りに誘き寄せたほうがよさそうっすね」
「ええ、できれば、ですが。ちょうど雑木林が見えるあたりから向こうは製鉄所の熱延場はありません。そちらは市民の避難が済んでいます」
「んじゃ、そこまで誘導します」
時刻は午後二十三時。よい子はとっくに寝静まった時間だ。本来ならば、俺も昼間すでに終えた任務のみで今日の仕事は終了のはずだったが、該当術師の負傷によりこの湾岸道路での呪霊討伐に急遽駆り出されることとなった。
場所は先述したとおり、神奈川県横浜市。大黒ふ頭にほど近い、首都高速湾岸線。どうやら一年前に起きた衝突事故による仮想怨霊が発生していたようだった。
周辺が一般人には嫌煙されがちな工場地帯ともあってか余計に呪いは吹き溜まり、やがて二級呪霊に変体。今朝起きた玉突き事故により、偶然居合わせた高専関係者によってその姿がはっきり視認された。
おそらく、数はその一体。真っ直ぐに伸びたアスファルトの先に今なお待ち受ける。
「あなたの力量ならば問題はないと思われますが、なにかあったらすぐにこちらに戻ってきてください。至急、援護を呼ぶ手はずは整っています」
生まれてさほど経っていないことと、場所が開けており戦闘にはうってつけなこと、また日中の監視によりおよそ戦闘力に長けていない種の呪いともあって、任務は単独だ。
いつものとおりにやればいい。目標は一時間。だが、決して驕らず、焦らず、だ。
「ッス!」
伊地知サンの言葉に気前よくうなずいて、軽く伸脚を終えると、俺は頬を叩いた。
「では、ご武運を」
しかし、帳内部へ入って目を疑った。
「なんじゃこりゃ」
二級とまではいかないが、三級や四級の呪霊がうじゃうじゃと周囲を徘徊している。報告によると二級一体のはずだったが、それらは道路の遮音壁を超えてまだまだ集まってくる。
「なんだよ、工場からの呪霊が集まってんのか」
通常、呪霊とは生まれた場所に強く根付くものだ。学校なら学校、踏切なら踏切、トンネルならトンネル、あるいは人間の肩ならば肩。たまに、広域徘徊怨霊というのも現れると聞くに及ぶが、そんなのは滅多にない例と言ってもいい。工場の中で蠅頭が発生しているというのは存分にあり得ることだが、そこからこの湾岸線に移動してくるのは普通ならば考えがたかった。
本丸が呼び寄せているのか、はたまた別にトリックがあるのか。
(いずれにせよ、時間はさほど与えられてないってワケね)
手近にいる呪霊を呪力のみで祓いながら道路を進む。いくつか照明灯を数えたところで、ひときわ大きな呪霊がいるのが見えた。
呼吸を整え、目出し帽をあごまで下げ獬豸を降ろす。そのまま地面を踏み込み、大黒側から東扇島方面に向けてアスファルトを滑る。
(なんじゃこりゃ、まるで虫じゃねーか)
その途中、何匹かの蠅頭が地面に群がっているのを見つけた。樹液に集う甲虫のようにジジッ、ジジジッと奇怪な音を立てながら地面を這いつくばっている。周辺にはガラスの破片。
(朝の事故現場か)
数台の玉突き事故があったと言ったか。その遺痕が残っているのだろう。
蠅頭を蹴散らして標的の二級呪霊を誘導しようとすると、ガラス片の中に禍々しく呪力を発する物体を見つけた。
(あれは……)
シルバーのネクタイピン。なんてことのない形状のそれには、爪先にも満たない青白色の結晶がついている。
――どこかで、見たことがあるような。
(わかんねーけど、とりあえず持ち帰りだな)
駆ける勢いを緩めず、地面に落ちたそれを拾い上げ照明灯を飛び移る呪霊を見据えた。
「おつかれさまでした」
難なく任務を終えて帳外に戻ると、伊地知サンが迎えてくれた。時刻は夜半を越えているというのに、疲れた表情すらにじませない。このひと、本当にいつ寝てんだって不思議に思う。
あざす、と帽子を脱いで頭を下げると、伊地知サンは淡々と事後処理について話を始める。それを聞き終えたあと、ズボンのポケットから先ほど回収したネクタイピンを差し出した。
「低級呪霊が何十と?」
「ハイ。壁をよじ登って、外からこっちに移動しているようでした。あと、そのネクタイピンに群がってたんスよね」
伊地知サンの手に載ったそれからは、はっきりと呪力を感じる。蠅頭が我先にと集まっていた時分よりかは薄れたが、なんらかの呪物である可能性は否めないだろう。
古今東西、人びとの我欲の象徴である貴金属が、とんでもない呪いと転じることはままある。
「こちらは預からせていただきます。それと、急で申し訳ないのですがこのまま工場内の調査をお願いしてもよいでしょうか」
「やっぱ、そうなるよねぇ……」
「すみません、お疲れのところ」
「いえ、しゃーなしです。明日はまあオフなんで、そのぶんゆっくりします」
一度地面にしゃがみ込んで、使い込んだ足腰をほぐす。伊地知サンが携帯でなにやら連絡をとるのを横目に、緩みかけた糸をふたたびたぐり寄せる。
しかし――朝までかからないといいね。
脳裡で声がよみがえり、ため息をついた。
「間違いなく朝までコースだなこりゃ」
そして、彼女の髪の感触がふいに指先に宿り、俺はしゃがんだまま腕をだらんと落としてアスファルトの目を数えた。
憂いを帯びたまぶたに、宵に湿ったまつ毛。あんな時間にもばっちり化粧の施された頬はほんのり桃色で、なにが起こるのか構えたようにちょんと唇を噛んで……。
(なんっで、今、思い出すかね)
目を閉じて自分を待ち受ける顔にみぞおちがうずく。
(考えるな、俺! まだ仕事中だぜ? そもそも、あのひとには彼氏がいるんだ。そうだよ、彼氏。彼氏持ち、なんだよタブン)
ずっしり肩や胃に重みがのしかかる。はあ、と再三ため息をついて、がくんと項垂れる。
しかし、同時に、彼女の肩口にいた蠅頭のことを思い返した。
肩にかかった髪をよけて、うなじに隠れていた二十センチほどの小さな呪霊。ジジッと羽音を立ててそいつは嗤っていた。
(……その前は、いなかったよな。少しの間になにがあった?)
「次の任務は、七海さんとご一緒ですね」
落ちてきた声に、バッと顔を上げる。
「マジすか!」
「はい。明後日、七海さんとともに都内の呪霊警戒区域をいくつか回ってもらう予定です」
「うおお、教えてくれてあざっす! いいメシ屋探しとこ」
なにはともあれ、勢いよく立ち上がり俺は一切の雑念を振り払った。
