「好きになっちゃっても、知らないっすよ」
何度も何度も、彼の声が繰り返される。
自分でも驚くくらい、胸がきゅうと締めつけられた。どんな切ない曲を聴いたときよりも、甘いラブストーリーを読んだときよりも、たしかな胸の疼き。痛いほどに心臓が跳ねて、しかし、どこか心地がよくて。蝶がしきりに羽ばたいているみたいだった。
その言葉を呑み込んだ胸からじんわり熱がほどけて、全身をめぐる。目の奥が熱く、指先がちりちりする。唇は震え、ぎゅっと結んでいないとあられもない吐息がもれてしまう。
初恋なんか、とうの昔に終えた。それでも、そのくらい久々に感じた烈しくも初々しい感情だった。せっかくナイトキャップのおかげですんなり入眠できるかと思ったのに、結局あのあとは眠るどころではなくなってしまって。ベッドの中で丸まりながらどうしようどうしようと散々つぶやいては、枕に顔をうずめて夜明けを待った。
昨晩の余韻を残しながらカフェ・オ・レをすする。
テレビから、朝一番元気な天気予報士の声が響いていた。
《今日の東京は晴れのち雨。昼間は青空が広がりますが、夕方ごろからぐずつく天気となるでしょう。心配な方は折りたたみ傘を持ってでかけてください》
淡々と移り変わっていく映像を、見るともなしに眺めて朝の陽射しに溶ける。
「好きになっちゃっても、知らないっすよ、かあ……」
それって、そういうことなのかな。意識、してもらえているってことでいいのだろうか。甘く苦い残り香の間を行ったりきたりしながらカップのはらを撫でる。
つい数時間前のことを思い出すだけで、顔が緩んでしまう。やわらかな電灯に照らされた、猪野くんの横顔。頬はほんのり紅に染まり、こぶりな鼻がそっぽを向いて、男らしい手がグラスを掴む。
だらしない頬を手のひらでぐっと撫でつけて、けれどやっぱりどうにもならなくて、カップを持ったまま抱えた膝に顔をうずめる。
「好きなって、くれたら、いいのに」
もう自分の感情を止められないかもしれない。彼と出会ってまだ二ヶ月も経っていないのに、数えられるほどの月日の中で確実に彼に惹かれている。
気がついていた。知っていたんだよ、心が猪野くんを求めてしまっていること。
気持ち悪いかな。七つも離れている子を、それも隣に越してきた男の子を好きになるなんて。
男の子、男の子なんて思ってきたけれど、実際、彼は大人の男のひとでもあって。あの筋張った手にふれられたら、どんな心地なのだろうと考えずにはいられない。
手のひらはやわらかいのかな。指先は硬いのか、それともなめらかなのか。手相はどんななのだろう、ゆっくりと生命線をたどって、手のひらに頬ずりをして、その温もりを味わってみたい。
《では、次は本日の誕生月占いです。十一位は……》
「って、ゆっくりしてる場合じゃない!」
勢いよくカフェ・オ・レを飲み干して、唇についたそれを拭いながらわたしは立ち上がった。
いいことがあると、それとなく吉兆が続くものだ。
数ヶ月前からこつこつと進めていた仕事の成果が認められ、次のボーナスがちょっぴり上乗せされることになった。もしかすると、たいした金額ではないかもしれないが、それはともかく、頑張りがきちんと形になり評価されるのはなにより嬉しい。死に物狂いでパソコンに向かい、電話をとり、何度も顧客のもとに出向いて会議を繰り返した甲斐があったというもの。結果、恋人には逃げられたが、その徒労さえも報われる。
休憩にはオフィスの外に出て、お気に入りのカフェでランチを摂ることにした。
「おいしそう」
頼んだのはリコッタチーズのスフレパンケーキ。街路樹のそよぐスタイリッシュなテラス席のあるこのカフェは、もっぱらランチプレートがお手ごろでおいしいと評判だが、一度はこのパンケーキを食べてみたかったのだ。
白砂糖のかかったスフレ生地にふんわりホイップされたバターがとろける。香ばしさとほのかな甘みの絡まった絶妙な香りが食欲をくすぐって、思わず顔がふやけてしまう。
一日五十食のこのケーキ、いつもならランチ前には終了してしまっていることが多いのに、とんだ幸運に恵まれたものだ。少し早めに休憩に送り出してくれた我が社の西島(仮名)センパイに感謝をしながら、ナイフとフォークを握ってパンケーキにありつく。
力を込めなくてもふわっとほどけて、まずはなにもかけずにそのまま口へ運ぶ。
「んぅ」と声をもらさずにはいられないほど、なんとも言えない美味しさだった。
しゅわっと溶ける食感はもちろんのこと、リコッタチーズの奥深い味わいとしつこすぎない甘さと。次はメープルシロップをかけて。
隣の席に男性がやってきた。
「ねえ、それおいしい?」
そのひとは店員が下がるやいなやメニュー片手に話しかけてきた。
「とっても」
「マジか。やっぱそれにしようかな。こっちのプロフィットロールと迷ってたんだけど、どう思う?」
「それはいつでも食べられるので、まだ数が余っているならパンケーキにしたほうが絶対いいですよ」
「やっぱり、だよね」
普通に喋ってしまったが、全然知らないひとだ。白シャツに黒のスラックス。ぱっと見はサラリーマンっぽいが、太陽の光に透きとおる白銀の髪となによりかけたサングラスが特徴的だった。
「すみませーん、このリコッタチーズのスフレパンケーキひとつ」
手を挙げて、店員に告げる。どうやらまだ注文できたらしく、ホッとしながらパンケーキを食べ進めた。
休憩終わりまで残り十五分となったところで、腕時計を見て席を立つと、隣の男性がふたたび声をかけてきた。
「そういえば、お姉さん、最近不思議なこと起きてない?」
彼はサングラスの下からそっと瞳をのぞかせて言う。そういえば、って言われたが、とんだ脈略のない話しかけ方だ。
「不思議なこと?」
伝票片手に彼を見下ろすと、彼は、「そう」と小さく唇を引いた。
「周囲の人間でもいいよ、宝くじが当たったり、スピード結婚したり、はたまた事故が起きて怪我をしたり。……あとは、妙なお守りを勧めてきたり」
「妙なお守り。宗教ですか?」
「ンー、そんな感じかな」
ちょうどそこにお兄さんのパンケーキがやってきた。
「お、きたきた」
なにごともなかったように彼は携帯で写真を撮り始める。
一体どういうことか。首をかしげるわたしに、彼は、「なければいいんだ。ゴメンね」と言ってフォークとナイフを手に取った。
オフィスに戻るとそのあとはいつもどおりキーボードを打ち鳴らし、電話をとり、会議会議、会議からの資料制作が待ち受けていた。午前が好調だったぶん、午後もその調子で仕事をさばくことができた。
しかし、思いがけないところで調子は崩れるものだ。
いつのまにか降り出した雨が窓を打ちつける午後八時。どんどん同僚たちが帰っていく中、うっかり明日使用する会議資料のミスを見つけてしまい、わたしはひとりオフィスに残っていた。
資料の文献を洗いざらい見直して、情報を訂正し、それからプリントアウトをしてホチキス留め。詰めが甘いんだから、と自分にうんざりしつつ、なんとか定時から二時間経ったところで残業を終えることができた。
十部ごとにまとめて山にし、そろそろ帰るか、と薄暗がりの中で伸びをしたところで、うしろからトントンと肩を叩かれた。
ひっ、と飛び上がったわたしに、はあ、とため息が落ちてくる。
「驚きすぎだ」と声をかけてきたのは我が社の西島(仮名)さんだ。
「すみません、だれもいないと思っていて」
「いや、こっちも悪かった」
「いえ。ところで、先輩はなにしているんですか?」
記憶では、先にオフィスを去る彼に、「おつかれさまです」と投げかけた気がする。
見上げたスーツの肩口にはきらきら雨の滴が落ちていた。
「パーキングまで行ったんだけど、忘れ物をして戻ってきたんだ。そうしたら、君のこと探しているやつが入り口に突っ立っているもんで」
ティッシュを差し出すと彼は、どうも、と水滴を拭った。
「わたしを?」
「そう。話したいことがあるって言っていたな」
慌てて立ち上がり、窓から下を眺める。暗いのと高さがあって、ここからでは確認できない。
「……どんな感じのひとでした?」
なんだか、嫌な予感がするのは気のせいか。
「やさしそうな子だったよ。背はおれと同じくらい、あとは髪の色が黒。体型はやや筋肉質だったかな」
「オロビアンコの紺バッグ、背負っていました?」
彼は、ああ、と手を打った。
「よくわかったな」
鈍器で殴られたような鈍い衝撃が走った。頭を抱えたわたしに、「知り合いか」と先輩は訊ねてくる。
「元カレです」
「元カレ、五年付き合ったとかなんとかの」
「そう、それです」
「会いたくないやつ?」
表情は変わらないが深淵をのぞくような瞳に、ごくりと唾を飲み下す。
「……できれば、会いたくないやつです」
まあ、そんなわけにもいかないだろうが。はあと視線を落とすと、じゃらりと金属の擦れる音がした。
「んじゃ、十分後に裏口集合。青のセダンね」
彼はくすりとも笑わずキーを鳴らしてあごをしゃくった。
黒歴史からの逃避行を終え、車は首都高を抜けて見慣れた街に入っていった。
「へえ、この辺りに住んでいるのか」
「そうなんです。かれこれ三年かな、五階建てマンションの一番上に住んでます。エレベーターがないのが玉に瑕なんですけど、いい場所で」
「たしかに治安も雰囲気もいいよな。五階も階段上がるのは勘弁してほしいけど」
そんな他愛もない会話をしながら、次の交差点を左に入ったところだと道案内をする。
「でも、本当に先輩のおかげで助かりました」
慣れた手つきでハンドルをさばきながら、彼はいいえと端的に答える。
「もしも自分の娘がそんな状況になっていたら、って考えただけだ」
「あいかわらずの溺愛っぷりで」
なにはともあれ、頭が上がらない。待ち伏せしているという元カレの目を盗んで、裏口から彼の車に乗せてもらったのだ。
ありがとうございます、と深々とこうべを垂れて謝辞を述べると、彼はふっと目を細めて当たり前だろうという顔をした。
マンションの前でなめらかに車が停車する。
「本当は、彼氏とかに助けを求めるのが一番だったんだろうけど」
「それ、言っちゃいます?」
「セクハラになるからこれ以上はやめとくよ」
「昨今デリケートですからね。でも、五年も付き合ったあとにすぐ彼氏ができたら苦労しないんだろうなぁと思います。こそこそ逃げ隠れる必要なんて、ないし」
「まあ、そうだろうな」
上司となんて話をしているのだか。ひとつ息をついて、シートベルトをはずす。
「でも、気をつけろよ。元カレがなに考えているのか知らないけど、五年の月日は重々しくのしかかってくる。変なことをされる前に、平和的解決できるならすること」
「お父さん……」
「こんなデカい娘はいらんな」
「ひどい」
やれやれと肩をすくめた彼に笑って、ドアを開ける。
「本当にありがとうございました。奥さまとお嬢さまにもよろしくお伝えください」
まだ小雨が降っていた。濡れたアスファルトに降り立って、ドアを閉める前にお辞儀をする。先輩はああとひらり手を挙げた。
「あ、髪の毛、落ちてないですか。叩かれるのは正直もう懲り懲りなので、証拠を完全に隠滅したいのですが」
「普段の行いがいいから大丈夫だ。元カレに刺されそうになっている後輩を助けたって言う」
「キャー、パパカッコいい。って、やめてください本当に刺されそう」
下心がゼロとはいえ、パートナーのいる人の車に乗るのはどことなく後ろめたさがあるもの。普通は、そうだろう。相手に好い人がいるならば、その時点で恋愛対象から外す。
でも、ひと筋縄でいかないのが人間の感情の厄介なところだ。頭では考えていても、もうどうにも止まらないことがある。
「浮気、されてたんです。五年も付き合ったのに。たった三ヶ月、三ヶ月ですよ、忙しくて会えなかっただけで。いや、もっと前から予兆はあったかな」
気づかないふりをしていただけだ。とっくに、愛は冷めていた。冷めていたのに温めもせず、わたしは放っておいた。だから、彼は自分を愛してくれて必要としてくれる新しい若い子のもとへ行った。
「辛くないと言ったらうそですけど、妙に腑に落ちたんですよね。ああ、やっぱり、って。彼には、わたしみたいに弱くも可愛くもなりきれなくて、結局は独りで立とうとする自我の強い女じゃなくて、きちんと彼を頼れる子が似合うんだって」
そこまで話して、なに言っているんだかと戯けて笑った。
小雨が降りそそぐ。しと、しと、音も立てずに空から落ちてくる。
ひとりのほうが楽だ。世の中ひとりでたいていのことはできるように作られている。ひとりは悪くない。ずっとずっと気楽。ふたりのほうが、よっぽど生きづらい。
そんなわたしに、だれかを愛する力はあるのだろうか。きちんと愛を育むことが、できるのだろうか。
――好きになっちゃっても、知らないっすよ
「まあ、だから、なおさら今日なにしにきたんだって、話なんですけどね。引き留めてすみません」
その小さな雨粒でさえまつげに積もって重たくなっていくような気がした。アスファルトに光がにじんで、変に眩しい。
「もっといい男、見つかるよ」
「それを願います」
ドアを閉じて、もう一度礼をする。窓が開いて、それじゃあ、と彼は言う。
「風邪、ひかないように」
「先輩も。帰りお気をつけて」
青いセダンがゆっくりと走り出す。車輪が水溜りを弾き、うつくしいボディが宵に溶けていく。
雨は、嫌いじゃない。いろんな感情を流してくれる気がするから。このまま、流してくれたらいいのに。そんなことを思いさえする。
傘もささず、車のテールランプをいつまでも見送りながら、小さく手を振る。
そんな様子をだれかが見ていたとも知らず。
