猪野琢真は困惑していた。
「猪野くん、テキトーにそのへん座ってね」
そう、まさにその猪野琢真である俺は、なぜだか今お隣サンのリビングにいる。間取りはウチとそう変わらない。そりゃ、同じマンションの同じ階なのだからそうだろう。
だが、シンプルで整頓された部屋はどことなく広く思える。さすがは女のひとの部屋ってカンジだろうか。
じゃなくて、だ。仕事柄並大抵のことでは動揺しないと思ってはいたが、これは一体どういう状況なのだろう。とにかく俺は大慌てで脳みそを回転させていた。
(考えろ、俺。どうする? どうすりゃいいんだ? こんなとき七海サンならどうする? って、七海サンはたぶん簡単に女の子の部屋に上がんねぇわ、それはわかる)
「そうだ、猪野くん、お酒飲める?」
(いや、ここはもしもそういうことがあってと仮定しよう。論議をかますにはまずは仮定が大事だってたしか有名な哲学者が言ってたからな。そうだそうだ。……って、やっぱり七海サンは、なにがなんでも丁重にオコトワリするだろ。そういうのねぇから。ほんっと、なにやっちゃってんだ俺!)
「おーい、猪野くん?」
ラグの上に正座をしてひとり問答を繰り広げていた俺は、その声にハッと我にかえった。
「っ、ハイ! なんスか!」
勢いよく背すじを伸ばしてキッチンを見遣ると、カウンター越しに笑う彼女と目が合う。
「お酒。猪野くん二十歳越えてる?」
恥ずかしいわ、マジで。そんなことを思いながら前髪を撫でつけて、「越えて、ます」と情けない声で答えた。
料理のお礼にと新宿御苑のガトーショコラ片手にインターホンを押した俺は、「おなか、空いてませんか」という彼女の言葉に流されるがまま、シャワーを浴びたあと部屋にお呼ばれしてしまった。
なんでも今日はミネストローネを作りすぎたらしく、出来立てだからよかったら食べていったらいいと誘いをうけたのだ。
断るべきかとも思ったが、部屋からこぼれるなんとも旨そうな香りに、俺の胃のほうが反応してしまった。何度目になるだろうか、腹の音を聞かれてしまうのは。あまりの羞恥に、帽子をずり下げるのも忘れるほどだった。
しかし、そんな俺の気持ちとはうらはらに、彼女はかえって安心したように微笑んで、「よければ上がってください」と言った。
とりあえず、呪霊討伐に向かった格好のまま上がるわけには……と急いでシャワーを浴びて、寝間着よりかはちょっとキレイなスウェットとジョガーパンツを着てやってきたわけだが、思いがけない展開に少々混乱していた。
だって、お隣サンの部屋だ。上の名前くらいしか知らない、出会ったばかりの。それも、ちょっとカワイイなーなんて思っていたお姉サン。
マジで俺、漫画の主人公になっちゃったんじゃないか? 口もとを撫でつけては、ハッと姿勢を正してキッチンで動き回る彼女の姿を追いかける。
スーツとまではいかないが、白いブラウスにレースのタイトスカート。それにエプロンをつけて、結んだ髪がうなじで揺れる。
いやいやいや、俺ってばどこ見てんだ。テレビに集中しろ集中って、いや、やっぱりじっとしているのが耐えられんねえ!
「あの、俺も、手伝います……」
立ち上がると、彼女は目をきょとんと瞬いたが、すぐに、「じゃあ」とグラスを手渡してくれた。
「お客さんなんだから座ってていいんですよ」
「やっ、ホント、そういうの性に合わないっていうか、むしろあごで使われるくらいのほうが気遣わなくて助かるっていうか」
「なにそれ」
ふはっと笑う顔に、頬を掻く。いつもどおりやわらかい雰囲気の彼女だが、その左頬には白いガーゼが貼り付けられておりなんとも痛々しかった。
タイミングがなくて、どうしてそうなったのかは訊けていないのだが、態度が柔和なぶんその布が余計に仰々しく見えた。
「ほかに、なんか、ありますかね」
グラスをテーブルに運んだあとキッチンに戻る。パチパチと軽快な音が鳴り出していた。
「ええと、冷蔵庫から好きなお酒出してもらおうかな。あとは、お箸、ないからこれになっちゃうんですけど、大丈夫ですか?」
長い菜箸片手に、彼女は器用にも棚から割り箸を取りだす。どうやら赤い大鍋の横で彼女は揚げ物をしているようだった。
「全然、構わないです。つうか、ホント、なにからなにまで、すみません」
「いいんですよ、わたしが無理やり呼んだんですから。あ、この時間からからあげいけます? 若いから大丈夫かなって、作っちゃったんですけど」
「若いって、そう変わらないと思いますけど」
割り箸を受け取って、ちょこんと手もとのフライパンを覗きこむ。そこにはきつね色にこんがり揚がった、鶏のからあげが油にぷかぷか泳いでいた。
「うお、ウマそう」
思わずつぶやくと、彼女はふふっと目もとをゆるめる。
「たぶん、おいしいよ」
育ち盛りにはミネストローネだけでは足りないからと、追加でおかずを作ってくれるなんて、どんな女神だろう。おそらく彼女も仕事で、その上野菜をギッタギタに刻むミネストローネを作るくらい「むしゃくしゃ」していたはずなのに。
むずがゆい気持ちを抱えて、俺は菜箸を扱う彼女をこっそり横から眺める。
隣に並ぶと、彼女は俺よりもだいぶ背が低かった。うわ、まつ毛なが。耳も小さくないか。首、細……。つうか、こんなふうにしていると、なんだかカップルみたいだ。
って、なに考えてんだ俺!
ぱちぱち、油が踊る横で、俺は咄嗟に帽子を下ろそうとして部屋に置いてきてしまったことを思いだす。
(やっちまった、マジで。そもそも、邪な感情抱きすぎだろ)
傷痕を隠すようにして、額を掻く。唇をぎゅっと引き結んで、「お酒、用意、シマス」と半ばカタコトで告げると彼女に背を向けた。
冷蔵庫を開けて、適当に酒を選ぶ。発泡酒に、缶チューハイに、それからワイン。このひと、なかなか酒飲みだな、なんてことを思っていると、平常心が戻ってくる。並んだアルコールの中でふと見たことのあるラベルを見つけて俺は声を上げた。
「あ、このワイン、うまいっすよね」
たしか、白だったか。七海サンと前に行ったちょっとお洒落な串焼き店で飲ませてもらったことがある。
ワインなんて柄ではないが、尊敬する七海サンが飲むなら飲むしかないっしょ、と普段は伸ばさないところに手を伸ばしてみたわけだ。そうしたら、予想よりもはるかに飲みやすく、料理とともにどんどんあおってしまった。
「白は魚ってイメージですが、こうしてみると鶏も悪くない」と、七海サンもやきとり串をキレーに食べながらグラスを傾けていたのが懐かしい。
「それ、まだ、飲んだことないんです」彼女は言う。
「飲もうとしたら、コルクが中で折れちゃって」
「そーなんすか。開けます?」
「あ、お願いできます?」
お安い御用、とチューハイ缶と瓶を抱えてテーブルへ運ぶ。黒いラベルにシックな白字のワインは、たしかに折れたコルクで封がされたままだった。まーこれならいけるっしょ、などと思いながら、彼女からワインオープナーを借りて試してみる。
「できそう?」
「余裕ッスよ」
どうやら揚げものも終わったらしい。キャベツとからあげの盛られたお皿を持って彼女はこちらへやってきた。
彼女に見守られながら、コルクを押し出してしまわぬよう慎重にオープナーを刺して、ゆっくりと引き抜く。ギイギイという軋みのあと、ポンッと軽快な音がしてワインが開いた。
「すごい! ありがとう!」
うれしそうに笑う彼女に満更でもなくなる。
「グラス、もらってもいいすか」
「はーい。猪野くんも飲みます?」
「あー……じゃあ、ちょっとだけ」
本当は仕事があるから深酒はやめたいところだが、こういう日があっても悪くないだろう。
そんなこんなで宵も深まって、なんだかんだと夜の十一時を回ってしまった。本当ならばガトーショコラを渡してそれで終わりのはずだったのに、ひとり暮らしの姉貴の家に転がり込んだ弟みたいな感じでまたもや世話になってしまうとは、まったく予想外の展開だった。情けなさすぎだろと息をつきたくなるも、ウマい飯を食って、ふわふわと他愛もないおしゃべりをして、酒を飲んで、そんな時間が心なしか楽しいと思っている自分がいた。
(ひっさびさに、フツーのひとと話したな)
トイレを借りたあと、洗面所で手を洗いながら思う。磨かれた鏡面には、やや赤らんだ顔の男。こっそり、歯ブラシの数を確認して、ホッとしたりなんかして。
ミネストローネも、からあげも、それからワインも最高に美味かった。鬱憤を込めたとかなんとか彼女は苦く笑うが、それでも、ちゃんと気持ちのこもった料理を作るひとだと思う。
料理のことなんて実際よくわからない。ただ、おかわりをよそいながら、
「ドライカレーでもよかったんだけど、猪野くんこのあいだもカレーだったから、ミネストローネにしてよかった」
なんてはにかむ顔を見たら、ただ憂さ晴らしに包丁を握っているんじゃないとわかる。
(ていうか、そういうの、勘違いしちゃうからね)
年上の余裕だろうか。もしかしたら、たぶらかされているのかもしれない。まがりなりにも二十歳を越えた男をこんな時間に部屋に上げて、あまつさえ、酒を飲んでふにゃふにゃと警戒心を解くなんて。そうじゃないとかえって割にあわない。
(女って、よくわかんねぇ……)
乱れた髪をサッと直して、額の傷痕に小さく息をつく。
そこではたと思った。
「そういや、聞かれなかったな」
さほど自分に興味がないのか、否か。しかし、考えれば自分も彼女の頬の傷について訊くことはできなかった。
鏡に映るのは、紛れもない俺だが、果たしてそれは呪術師としての猪野琢真か。
(……いやぁ、なんか、こっちも緩んじゃうよね、気が。よく、ないんだろうけど)
っし。頬を軽くはたいて、顔を引き締めてからリビングに戻る。
「そろそろケーキ、食べます?」
やっとのこと、本題だ。ブラウンのショップバッグを見るや、「これ! 食べたかったんだよね!」と目を輝かしていた彼女を思い返して声をかける。
しかし、返事がない。
「……おーい」
テーブルに突っ伏す彼女の背中を見て、まさかと思うも、そろりと近づいて声をかけてみる。
「……マジか」
――やっぱり、寝てる。
すうすうと寝息を立てる彼女に、整えたはずの髪を乱して天を仰ぐ。
「まじかぁぁぁ」
この状況で、寝る? 疲れてるのはわかるけど、男がいる状況で、フツー寝る? もはやこれは試されてんじゃないか? おいおいおい、ちょっと待て。これ、もしかして、そういうこと?
そんなことを思うが、上を向いたまま壁紙の編み目を数える。
「たぶん、んなワケねぇけど……。でも、それも逆に癪に障るっつうかなんつうか」
精神を落ち着けたあと、視線を下ろしてため息をひとつ。
(おだやかな寝顔しちゃって、まあ)
そっと足音を盗んで近寄り、頬をつけて眠る顔を覗きこむ。やわい髪の毛がガーゼにかかる。見れば見るほど痛々しいが、下りたまぶたは安らかだった。
「どーすんだ、俺」
起こしたほうがいいのか、それとも、起こさないべきか。すう、すう、と上下する肩を見守る。
――おなか、すいてないですか
そう言った瞬間の、彼女の顔が安堵したように、泣きそうだったのは、気のせいか。今さら思い出す。
あんな顔されたらねぇ、むず痒くなってうなじを掻く。
「……黙って見過ごせないでしょ」
どうしてこうなったんだ。そう困惑はしていたが、流されたのは自分だった。
「ってか、熟睡じゃねーか」
あーあ。何度目かになるため息をついて、ソファの背もたれにかけられたブランケットを手にとる。そっと肩にかけて、じっと横顔を見つめる。
くるんと上を向いたまつ毛、つやがかったまぶた。すっと通った鼻すじと小ぶりな唇。少しだけ、カサついてる、なんて。
髪を耳にかけて、かすかに残ったワインをそっと小指でとって、そこに塗ってみる。瞬時に、潤んだそれに生唾を飲む。
「……キス、しちゃいますよ」
やけに頭の中は冷静で、しかし、熱に浮かされたように神経がにじんで。
やわらかいんだろうな、とか、どんな味がすんのかな、とか、こぼれる声はきっとカワイイんだろうな、とか。
「いやいやいや、なに言ってんだ」
脳裡に七海サンの顔が浮かぶ。猪野くん、咎めるような声に、やれやれと肩を落とす。
「わかってますよ、あなたなら、こうするでしょ」
立ち上がり、ジョガーパンツのポケットに手を突っ込んで、ぐるりと辺りを見渡す。そうして、ペンとメモを見つけるとそこに伝言を書き記した。
《ごちそうさまでした。すっげぇウマかったです。ケーキは冷蔵庫に入ってるんで、好きに食べてください》
「……あとは、片付け、任せてごめんなさい、と」
P.S.と端に書き加えて。そっと、彼女のそばに置く。空いたグラスと皿をシンクに、缶はまとめてカウンターに、それくらいはしておこう。
起こさないように慎重に動いて、電気のスイッチに手をかける。
「あ、やべぇ、鍵か」
もはや真夜中だ。隣に俺が住んでいるとはいえ、ひとり暮らしの女性を施錠をしてない部屋で寝かせるなんて不用心がすぎる。
いそいそと戻って、追伸のさらに先に付け足す。
《鍵、勝手に借りました。ポストに入ってます》
余白の使い方がヘタすぎて、自分でもマジかよと思った。が、まあ、そんなこと気にしちゃいられない。
今度こそ立ち上がり、静かに伸びをして電気を落とす。暗闇を背に玄関へ。だが、心なしか背中があたたかい。
シューズボックスに掛けられた鍵を手に、おやすみなさい、と小さくつぶやいて靴を引っ掛けた。
吸い込んだ夜の空気は甘かった。
