「なんっで、こんなことに……」
わたしがいるのは、弊社オフィス八階の女子トイレだ。
一番奥の個室に陣取って、便器に座り込むや頭を抱える。膝の上にはぐしゃぐしゃになったA4用紙。そこにはおどろおどろしい赤いインクで「泥棒猫」と書かれていた。
事は遡ること一時間前、オフィスで部内のミーティングをしているときだった。
繁忙期は過ぎたが、もちろん仕事がなくなるわけでもなく、次のプロジェクトだとかなんとか、いつもどおり手に余るほどあふれていた真昼。微睡の午後を吹き飛ばすような、重要な会議の真最中だった。
会社に入って数年、中堅になりつつあるわたしは、パワーポイントを使って同僚や上司を前にミーティングの進行を務めていた。
「離しなさいよ! ここにいるのはわかっているんだから!」
そんなとき、落ち着いたオフィスに響いた不釣り合いな金切り声。それはどんどん近づいて、やがてガラス張りの会議室のすぐそばまでやってきた。
社員に取り押さえられているひとりの女性。パッと見たところ三十代半ば、とてもきれいなひとだった。
「お待ちください、奥さま、どうか落ち着いて!」
奥さま、その言葉に、向かいに座っていた同僚の顔がサアッと青褪めていくのが見えたのは、気のせいだったか。そして、隠れた。いや、隠れないでよ、絶対あれアナタの彼氏の奥さんでしょう。
しかしそんな突っ込みも虚しく、女性は会議室に飛び込んでくる。そして、スクリーン横に立つわたしを見るや、ビシィッと効果音がつきそうなほど指を指してきた。
「アンタね、私の主人をたぶらかしたのは」
バッと集まる視線。すまなそうに手を合わせる同僚。
は? え、ちょっと待って、は? と動揺したのもつかの間、女性がドスドスと歩いてきてわたしの頬めがけて手のひらを振りかぶった。
「覚えておきなさいよ、泥棒猫」
パシン、と響いた音と、頬に訪れた張り裂けるような衝撃に、わたしはしばらく愕然としていた。
「本当にさぁ、今年厄年? ちがうよね、なんか憑いてんのかな、お祓い行こうかな」
そんなこんなで、真っ赤な紅葉ができた頬を押さえて、わたしはトイレに籠っていたのである。
完全なる冤罪。あんたの旦那なんか知らないわ、と思うも、しかし、真実を知る者は黙りを決め込んでいるので、激昂した女性には伝わるはずもなく。張り手に加えて、「泥棒猫」という不名誉な称号をたたえる貼り紙までデスクにもらってしまった。
なんとか上司や同僚たちには、「誤解だ、自分は完全なる無実。不倫なんてしていない。天に誓って言える」とは伝えたが、哀れみと蔑みと好奇心の混じった視線に堪えられずここにいるわけだ。
「なんでわたしがこんな……」
ひりひりと叩かれた頬が痛い。生まれてこの方二十数年、親父にだって殴られたことないのに。……って、古いか。
いやしかし本当に、一体全体どういうことだ。説明してくれないと困る本当に。
くそ、なんて汚い言葉を吐き捨てたくなるほど、まさしくわたしの立っている状況は最悪だ。末代まで呪ってやるぞ同僚。もちろん不倫した男も、その奥さんも。お前らみんな同じ穴のムジナだ! と、どす黒い感情が湧き上がってきたところで、携帯が鳴る。
硝子からのメールだった。
「聞きたいことがあるんだけど?」
いきなりなんだそりゃ。頬をさすりながら、すぐにいいよと返事を打つ。一分もせず返ってきたのは、《男からもらうとしたらなにがいいか》という質問だった。
《ケンズカフェのガトーショコラ》
間髪入れずに、今一番食べたいものを挙げる。あそこのガトーショコラは絶品なのだ。一度、友人と食べに行ったことがあるが、外はカリッと中はとろとろ、カカオの味が濃厚で、ひと口食べただけで憂鬱が吹き飛ぶ。そうだ、そんなものがほしい。
でも、べつに男のひとからじゃなくても構わないんだよなぁ。自分で買えちゃうし。
そんなことを考えていると、彼女も似たようなことを思ったのか、「そんだけ?」とすぐに返事が届いた。
《ハリー・ウィンストンの指輪》と躊躇なく付け加える。
あーあ、結婚したらこの職場ともおさらばできるのに。って、結婚しなくても辞められるか。夢うつつの中、転職までカウントダウンを切ろうとしたところで、ハッと我にかえる。
「やばい、仕事戻らなきゃ」
だが、しまいかけた携帯にまたもやメールが届いた。今度は、件の同僚からだった。
《ごめん、本当助かった! 今度スタバ奢るね》
スタバ。わたしの頬と名誉はスタバ程度。
キャラメルフラペチーノ、ブラベミルクで生クリーム増し増し。おまけにシロップ追加でチョコソースを足すくらいまったく甘いんじゃないの。人生、そんなに甘くないんだから。
「舐めやがって」
携帯の代わりに、手にしていた紙をぐしゃぐしゃにして丸めて床へ叩きつける。
「今日は絶対ミネストローネ作ってやる」
これほどにも心が震えたのは久しぶりだった。
ミネストローネとは、イタリア語で「具だくさんスープ」を示すその名のとおり野菜をたっぷり使ったスープのことだ。使う野菜は地域や家庭によって様々で、決まったレシピもなく、イタリア本土では田舎の家庭料理という認識らしい。
なんてのは、皆が知っていることだろう。わたしが作るミネストローネもおそらく、一般的な具材がゴロゴロと入ったそれと相違はない。しかし、お肉はひき肉、野菜はキャベツ、タマネギ、セロリなどなど。それらをとことんみじん切りにして作る、具だくさんを越えたもはや食べるスープに近い、太陽の恵みをふんだんに盛り込んだ栄養満点たっぷり野菜のミネストローネだ。
作り方は至ってシンプル。材料をニンニクで炒めて、トマト缶と水とブイヨンで煮込むだけ。しかし、仕上げにシェル型のマカロニ――プロはコンキリエと言うらしい――を入れるのを忘れてはならない。
とにかく、そのミネストローネを作らなくてはならない気分だった。
仕事を定時で終えたわたしは急いでスーパーに寄るや、ひき肉と野菜、それからちょっと奮発していいワインを買い込んでマンションまで帰った。そして、シャワーも浴びずにキッチンへ籠城。一心不乱に包丁を握った。
ニンジン、タマネギ、じゃがいも、キャベツ、それからセロリ。切って、切って、切って。切り刻んで、ニンニクを熱したホーロー鍋に入れて、炒める。
なんとも馥郁たる香りと、ジュウジュウという音を五感で感じながら、ワインを飲みたくなるところをぐっとこらえる。飲むと舌が鈍るから、終わってから楽しむといつも決めていた。
野菜とひき肉を炒めたあとは、トマト缶、それからブイヨンを加えて煮詰めて、適宜水を足す。粗方火が通ったところで、仕上げにマカロニだ。
「できた」
大鍋いっぱいに出来上がった赤い太陽の恵みに、盛大な達成感を抱く。昼間までは肩に地球三個ほどの重圧がかかっていたが、今や不思議とすっきりしていた。
料理はいい。余計なことを忘れられるから。すべて鍋に刻んで入れて、最後にはお腹の底に落とし込める。今日もこれのおかげで生きられた。
なんてことを考えながら、ふうと額の汗を拭って、よろよろとキッチンの簡易椅子に腰掛ける。ぼう、と目の前の景色を眺めて、いつもここで気がつくのだ。
「作り過ぎた」
だから、ウチは四人家族か。思わず突っ込みたくなるほどの量だ。
気がすむまで材料をみじん切りするには、ひとり分の分量では足りない。とはいえ、毎度毎度学習しない人間だ。
このあいだの豚汁だって、猪野くんがいなくちゃひとりで食べきれなかったというのに。
「そっか、猪野くん」
ここで、彼の家のインターホンを鳴らして、特製ミネストローネを押しつける計画を思い立つが、いやいやいやとすぐにかぶりを振る。
「さすがにそれはアウトでしょう」
これまで、偶然にも作りすぎた日に顔を合わせたから渡せただけで、わざわざ家に押しかけるのはわけが違う。結局どっちも同じだと悪魔が囁くが、脳内の大御所芸人が、「ええ加減目ぇ覚まし」とわたしを叱咤する。
しかも、二、三ヶ月に一回とかならまだしも、まだ一月も経っていないうちにすでに二回も料理を押しつけている。
これが恋愛ドラマで、いずれふたりが結ばれる運命ならば許されたかもしれない。だけど、ただ隣に越してきた若い男の子を勝手にわたしの人生に引きずり込んではならない。
いい大人なんだから、自分の人生の舵くらいきちんとこの手でとらないと。
「ワイン、飲も」
とりあえず、大量のスープの消費に関しては置いておくとして、わたしは立ち上がり冷やしていた白ワインを開けることにした。だが、オープナーをキリキリと差し込んだところで、包丁を握りすぎた手にうまく力が入らない。どうにか両手両脚を使って引き抜こうとするとコルクが折れてしまった。
うそじゃん。こぼれた声が静寂にほどける。
ついてないなぁ、ホント。心底ツいてない。厄年のほうがまだまだ健全な一年だった。ワインボトルを抱き抱えて、椅子の上に縮こまる。叩かれた頬がひりりと疼く。やおら指を伸ばすと、応急処置でつけたガーゼが中指のはらを撫でた。
やわらかくて、頼りなくて、ざらりとしていて。触れられない心の傷に、強く殻を閉ざした先の繊細な部分に、ふれてしまった心地になる。
ああ、本当に、心底いやになる。夜の空気がわたしをひとり閉じ込めて、一生抜け出せない箱庭を作り上げるのだ。目の奥がじんわりと熱くなって、唇が震えて、指先から熱が喪われて。
そこで、インターホンが鳴った。
「いけない、宅急便頼んでいたんだっけ」
ハッとして、ワインボトルをキッチンに置くといつもの癖で真っ先に玄関に向かう。ぱたぱたとスリッパをはためかせながら、身につけていたエプロンをほどいて。
適当なサンダルをつっかけ、重たいドアを押し開ける。
そこには――。
「スミマセン、こんな時間に。でも、今日じゅうにコレ、渡したかったんで」
――まさか。
まさか、まさか、まさか。
いつもの真っ黒の洋服に、これまた黒い帽子を被って。でも、手には珍しくブラウンのシックな紙袋を手に掲げた、お隣の猪野くん。
すぐに扉が開いたことすら、彼はもう驚かないらしい。
「えっと、どうか、しました?」
ぼうっと物言わぬわたしに、猪野くんはきゅるんとした瞳を瞬かせる。
「猪野くん」
「はい?」
不思議そうな彼を見上げて、わたしは唇を舐める。
「おなか、空いてないですか」
かすかに、その声は震えていた。
