「……あさ」
ぽたり、生クリームを垂らしたように、辺りを覆っていた闇が白く染まって、わたしはゆっくりと目を覚ました。
リネンのカーテンから陽光がそそいでいる。部屋はまったりと目映いそれに照らされて、宙を舞う埃がダイヤモンドダストみたいに輝いて見えた。
ああ、なんてうつくしいのだろう。ルーベンスの絵の前にいるみたいだ。パトラッシュぼくはもうだめだ……なあんて、天使のお迎えがきちゃうのは困るけど、それほど神秘的で、きれいな光。
なんだか、このままこの陽だまりでずっとたたずんでいたい気分……。
「って、朝!」
ないないない。やばいから。
絵画的情景とはうらはらに、勢いよく身を起こしたと同時に、肩からぱさりとなにかが落ちた。
「……ブランケット?」
いつも映画を観るときにソファで使っているやつだ。どうして? というか、なんでこんなところで寝ているのだろう。ベッドでもソファでもなく、ラグの上。そりゃ、ふかふかでお気に入りだけど。
ぼんやり覚めきらぬ頭で考えたところで、卓上のメモを見つけた。
「ごちそうさまでした、すっげぇウマかったです……あああ、やっちゃった」
最後まで読む前に、全身から血の気が引いた。
(ほんっと、ありえない。ありえない、ありえない。ありえない! わざわざ自分から招き入れて、挙句飲みすぎて寝落ちって、本当に信じらんない!)
心の中で自分への罵声を並べながら、がつんと力をこめてドアに鍵をかける。時刻は午前七時半、すっかり出勤の時間だった。
昨晩を思い出し、本当ならばそのままシーツの海に溺死してしまいたいところだったが、社畜には今日も今日とて仕事が待ち受けている。大急ぎでシャワーを浴びて、身なりを整えたあとは、流しの食器や並んだ缶はそのままにパンプスを引っ掛けたわけだ。
まさか、朝まで眠ってしまうとは。しかも、猪野くんを放って、だ。メモを見る限り、ブランケットをかけてくれたのも、テーブルや空き缶の片付けや施錠をしてくれたのも猪野くんに間違いはなかった。
本当に、これぞ天下一大反省会の時間だ、と肩を落として鍵をしまう。せっかく買ってきてくれたのに、ケーキだって食べられていないし。今も準備に手一杯で食べる余裕がなかった。
帰ってから食べよう、ゼッタイ。一センチくらいに切って、十秒チンするんだ。それが最高に美味しいんだから。心に決めて、自宅に背を向ける。
ガチャ、扉が開いた。
「あ」声が重なった。
「……はよう、ございます」
どうしよう、猪野くんだ。見慣れた黒いトレーナーと同色のゆったりとしたズボン、それから編み上げのブーツ。頭にはすっかりトレードマークの帽子をかぶっている。
普段、朝、出勤の時間が重なることは滅多にないのだが、こんなときに限って偶然は訪れてしまうものだ。「おはよう」とややぎこちなく眉を下げると、猪野くんはうなじを掻きながら部屋に鍵をかけた。
「よく眠れました?」
立ち止まっているわけにもいかないからと歩き出し、猪野くんはいつもの調子でのらりくらり訊ねてくる。
「それはもうぐっすり。テーブルで突っ伏したまま、目が覚めたら朝でびっくりしちゃった」
えっ、と猪野くんは目を丸くする。
「まさかあのままずっと寝ちゃったんスか」
「そう、あのまま。ほんと、信じられないよね」
起きたら体バキバキだったもの、と言うと、おばあちゃんじゃないんですから、と猪野くんは苦笑する。
「でも、二十五過ぎて、急に歳を感じるようになったというかさ。朝一番立ち上がるのしんどいもん」
「えぇ、マジでおばあちゃんじゃないスか。でも、大家さんに怒られますよ、そんなことばっか言ってると」
ふと、このマンションの管理をしてくれている女の人の顔を思い出して肩を揺らす。魔女の宅急便に出てくるおそのさんに彼女は似ている。そのおそのさんがいい感じに歳を重ねたようなひとで、おおらかさがなんとも心地よいのだ。
「たしかに」と顔をしかめると猪野くんはへへっと白い歯をのぞかせた。
「そんなことより、本当、昨日はごめんね。変なこと言ってなかった?」
一階を目指しながらゆっくり階段を下りていく。記憶がないわけではないが、人間お酒を飲むとなにをしでかすかわからないものだ。もしかすると存在しない記憶もあったりなんだり。切り出すのにも胃がキリキリして、落ち着きなく髪を耳にかけなおす。
「べつに、とくにないっスよ」
猪野くんはズボンのポケットに手を突っ込みながら答えた。
「本当に?」
「ホントです。全然、悪酔いしてなかったし、トイレから帰ったら、びっくりするくらいスッと寝てましたね」
それはそれで、ズゴン、と鈍器で小突かれた衝撃だ。わかってはいたものの、事実を突きつけられると胸が痛いものである。
年下の男の子に無様な寝姿を晒すなんて。
今にも地面に崩れたい気持ちだ。弟だったら許されるかもしれないが、相手はお隣の男の子。脳内で■■アウト~のブザーが鳴り響く。今日は大晦日じゃない。思わず脳内で突っ込んだ。
しかし、だ。本当に、彼が未成年ならわたしはお縄にかかっていた。
「それより」彼はぷらりぷらりと段を下りる。
「そのしゃべり方」
「え? ……あ、ごめん、馴れ馴れしいよね」
そういえば、すっかり丁寧語が抜けていた。ないわー、ホンットないわー、オトモダチじゃないんだからと肩をすくめてすぐに元に戻そうとする。
「いや、そっちのがいいです。敬語、堅苦しいんで」
先に猪野くんが階段を下り切って地面にトンっと足をついた。
「行かないんすか?」
「……行く」
不思議そうに振り返った彼を追いかけて、地上に降り立つ。
「じゃあ、俺、車なんで」
「そっか、頑張ってね」
「ッス。オネーさんも」
エントランスを出て、二手に分かれる。わたしは右に、猪野くんは左に。空から注ぐ朝陽が眩しくてうまく目を開けられない。
案外時間がないかも、と腕時計を見やる。しかし、わたしはすぐに振り返った。
「猪野くん!」
彼も立ち止まり体をひねる。
「ケーキ、ありがとう!」
しばし唖然とした顔をしていたが、やがてポケットに突っ込んでいた手を挙げて、彼はゆるりと手を振った。
なんだか、いい一日になりそうな予感。
*
(いやいやいや、反則でしょあれ)
彼女が駅へ消えていったあと、天を仰ぎながら俺は口もとを覆った。まったく、太陽のせいにしたくなるほど、顔が熱い。
世の中綺麗なひとなんて山ほどいる。モデルだって、一般人だって、歩いていて「カワイイ」と思う女の子はこれまでたくさんいた。それなのに。
「なんなんだあのひと」
なぜだか、洗われた陽射しに照らされて、自分に手を振る彼女がそのすべてを凌駕するくらい、特別な存在に思えてしまった。
大人っぽい顔をしてみせたり、切ない顔をしてみせたり、無防備な寝顔や、やれやれと呆れた顔、そして、無邪気な笑顔。
「……すっげぇ、カワイイじゃん」
今、鏡を見たらきっととんだ情けない顔をしているのだろう。そんなの、考えなくてもわかる。帽子を眉下までずり下ろして、その場についしゃがみ込んで。だって、やってらんないでしょ、マジで。こんなの、どうすんだ。
プッと小さくクラクションが鳴って、黒塗りの車が滑らかに停まった。
「どうしました、猪野くん」
窓が開いて、顔を出したのは伊地知サンだ。
「や、なんでもないっす。スミマセン、今、乗ります」
スッと立ち上がり居住まいを正すが全身にたぎる熱は抑えられない。ドアに手をかけながら振り返ってそこをたしかめる。
家々の間から射し込む朝陽が目を灼く。当然ながらとっくに彼女の姿はないのに、目映い光のカーテンをたぐり、いつまでも探し続けてしまいそうだった。
*
先週までの不運がうそみたいに平和な日が続いていた。
朝、電車に乗れば偶然にも椅子に座れたり、昼には近くのカフェの限定メニューにありつけたり、なんといっても会社で理不尽な目に遭っていない。
いつもなら、「今暇でしょ。これやっといて」と自分の仕事を回してくる上司がいるのだが、出張で一週間ほど姿を見かけていない。おかげで、休憩と称してトイレに籠城する時間も日に五分程度に抑えられている。
理不尽がないって素敵。抗わなければならない不条理がないって最高。われ反抗す、ゆえに我あり、と、かつてとある文豪は言ったけれど、反抗しなくてすむのならできるだけ事を荒立てたくないのが人間だ。それってもしや現代的生き方?
とはいえ、たまにはこんな人生だっていいじゃないか。パソコンに向かって、必死にキーボードを打ち鳴らしながら思う。
今日、定時で上がれたら、帰りに百貨店に寄って好きなブランドの新作リップを見るんだ。それから、七時半になったら美容院を予約している。どのくらいに切ろうか。パーマをかけてもいいし、トリートメントとヘッドスパだってつけてもいいかもしれない。あぁ、マツエクもしたいな。
半ば浮かれた気持ちでタンッとエンターキーを叩くと、「ちょっといい」と声をかけられた。
振り返ると理不尽ではないほうの上司が立っていた。ストライプのスーツに撫でつけた髪。顔は俳優の西島ナントカさんに似ているだろうか。
すらりとした体躯と落ち着いた雰囲気から女性社員の間では人気も高いが、愛妻家で二歳の娘を溺愛しているともっぱらのうわさだった。
「なんでしょうか」と見上げるわたしに、彼は咳払いをして、「君に客。ホラ、常務の奥さん」と声をひそめた。
途端、うげ、と顔をしかめるわたしに、彼はため息をつく。
「おれも行くから、安心しろよ。なんでも、先日のことを謝りたいらしい」
常務の奥さんとは、先日の「泥棒猫」事件の女性だ。
同僚の彼氏だった不倫男が、まさか弊社の人間だったとは思いもよらなかったが、よもや常務などという役職に就いていたとは知ったときには驚きを越えてゾッとしたものだ。それに、あのおかげで数日間非常に肩身の狭い思いをしたことは忘れない。今はもう紅葉痕は癒えているが、それでもかすかにうずく気がした。
上司に連れられ応接間に着くと、先日とは打って変わって落ち着いた淑女がソファに腰掛けていた。部屋に入るや立ち上がり、わざわざこちらへ寄ってくる。その所作の美しさといったら、もう、そこにランウェイが広がっているのかと見紛ったものだ。
まさに和製アン・ハサウェイ。プラダを着た悪魔だって目じゃない。
「先日はごめんなさい。事実も確認せず、取り乱したうえに、貴女を叩いてしまって。最低なことをしたわ」
ええ本当にね、という言葉は呑み込んで、ぎこちなく、いえ、と唇を引く。すぐに隣にいた上司に肘で小突かれ、慌ててにっこりと笑みも貼り付けた。
彼女はそれすらも想定内だったのか、薄く微笑むと、「立ち話もなんだから、こちらへ」とわたしたちをソファへ誘った。
「これ、よかったら受け取って」
なんでも、詫びをしたかったのは本当らしく、菓子折りとさらには高級そうなベルベットの箱を差し出してきた。
思わず上司と目を見合わせてしまったが、その箱をたしかめてくれと頼まれ、素直に開ける。そこには薄く青みがかった宝石のついた華奢なネックレスが納まっていた。
「きれい」
つぶやいたわたしに彼女は言う。
「至高だと言われているホープ・ダイヤモンドにも負けない、最高品質のブルーダイヤを使っているの」
おそらく0・1カラットにも満たないが、華奢なシルバーのチェーンに繋がれたそれは空の色のようにも海の色にも見えるとても美しい輝きを示している。
なんでも、彼女は自身のジュエリーブランドをもっており、そこで手がけているネックレスのようだった。ちなみに、常務とは離婚して完全に新たな人生を切ることに決めたという。できる女の決断はちがう。人生の師匠と崇めようか。
「ちょっとお世話になっている知人が、偶然いい石をくれて。でも、小さいから商品にするか迷っていたのよ」
「すごい……。でも、こんなの、いただけません」
同僚はいまだスタバすら奢ってくれていないというのに、まさか、ここまでしてくれるとは思わず、ベルベットの箱を返そうとする。しかし、彼女はどうしてもと譲らなかった。
「私たちの問題に巻き込んだうえ、勘違いでとんでもないことをしてしまったの。本当ならばこれでも足りないくらいだわ」
そこまで言われては、受け取らないわけにもいかず。わたしはふっと沸いて出た宝石を受け取った。
きらきらと光に輝くブルーダイヤがうつくしい。なかなかどうして、満更でもないものだ。きれい、うっとりつぶやくと、彼女は薄く微笑む。
「ブルーダイヤは幸運の象徴とも言われているの。あなたに幸福が訪れますように」
無事、定時で仕事を終えて、百貨店からの美容院を終えた帰り、久々に軽い足取りで家に帰った。新作のコスメも買えたし、美容院でヘッドスパとトリートメントも施してもらったから、髪の毛もうるうるつやつや、なんとも気分がいい。
首もとには早速、ブルーダイヤのネックレス。こんな幸せな夜は久しぶりだ。たとえ雨が降っていても、傘を片手に踊り出せるんじゃないかというくらい。もしかしてもしかして、これぞネックレスの効果? などとスキップをしながら、マンションのエントランスをくぐる。
「猪野くん」
と、並んだ郵便ボックスにお隣の男の子の姿があった。全身真っ黒の後ろ姿に、一般人ならば一瞬身構えるだろうが、慣れたわたしは驚きもしない。
ラッキー。
振り返った猪野くんの、帽子からのぞく髪に胸を弾ませて隣に並ぶ。
「おつかれさま」
「ッス。今日は遅いんですね」
「ちょっと寄り道してたからね」
ガコンと音を立てて郵便受けを開ける。中にはピザ屋のチラシと近くにできた接骨院のダイレクトメール。なんだか、この小さな箱の中すら平和だ。荒んだ日々が続いていたから、こういうのって大事。
猪野くんは先にチェックをし終えたのか、まったく同じものをポケットにからのぞかせている。
「……なんか、かわりました?」
彼はまじまじと見つめてきた。それに内心どきっとしながら、素早く瞬きを一回。がっちり目が合うと彼はいつもの調子で首すじを掻いた。
「わかる?」訊ねてみる。
「なんとなく。あー、待って、当てる」
腕組みをして考え始めた彼に思わず微笑む。どうしよう、ちょっと、いや、かなり幸せかもしれない。それは髪を切ったとかリップを変えたとか、ダイヤを身につけたとか、そんな問題ではなくて、そんなの、理由はひとつしかないのだけれど。
「わかった、髪だ」
うんうん、悩んだあと、彼は指を鳴らして言った。合わせて、決め顔。無邪気な少年って、感じだ。
「正解」思わずわたしは眉を下げる。
「美容院寄ってきたんだ。長さはあまり変えてないんだけど、トリートメントとかしてきちゃった」
「へぇ。たしかにつやつやだ」
毛先を指でとってみせると、彼はちょこんとそれをのぞき込んでから、「あ……スミマセン」と距離をとって帽子の位置を直す。
なんだろう、こう、いたずらを見つかったコーギーみたいで、カワイイ。背なんかわたしより大きいし、今どきの子って感じなのに意外と体つきもがっしりしていて。でも、もう、なんだそれは〜! と髪の毛に手を伸ばしてくしゃくしゃにしたくなる。そんなことをしたら変態だけれど。ぐっとこらえて、そっと目を細める。
「そうだ、ごはん、たべてく?」
ピザ屋のチラシって見るとお腹空くよね、戯けながらそれを広げて、なんでもないふうに猪野くんを見上げると彼はエッとわかりやすく目を見開いた。
「いやぁ。でも、いつもお世話になってるし、ねぇ?」
「そんなこと気にしてたの。じゃあ、このあいだのケーキ、最高においしかったからお礼」
「あれもお礼だったんですけどね」
「そうだった。えっと、じゃあ、今日髪の毛切ったの気づいてくれたお礼」
「お礼したがりじゃないすか」
なにげないやりとりも、テンポがよくて楽しい。ただの郵便受けの前でのランデヴーなのに、こんな充実感って、ある?
猪野くん、ちょっといいな、なんて。思う気持ちがなんなのか、初恋だなんだと浮かれる歳じゃないからそれくらい自分でわかる。
ドン底に落ちて、閉じこもろうとしたわたしの殻を思いがけず破ってくれたひと。猪野くんは救世主だ。なんて、そんな重い感情、引くか。
大事に食べたガトーショコラみたいに、とろとろと甘くて、ほのかに苦くて。じんわり、染み渡っていく。ダメダメ、この感情に名前をつけてはならない。だって、猪野くんは、ただのお隣さんなのだから。
脳裡で響くのは、大御所芸人の言葉だ。
――ええ加減、目ぇ覚まし。
そうだ、そうだそうだ。
「あー、猪野くんに振られちゃったな」
チラシをかばんにしまって、がっくり、首を垂らしながらわざとらしくしょげてみる。
「いやいやずるいっしょそれは」
帽子の下で眉が下がって、耳の垂れた犬みたいになる。
「うそうそ、またご飯作りすぎたらもらってやってください。さ、疲れたし、階段だるくなる前に帰ろう」
これ以上はお節介オバサンになっちゃうか。ひとりごちながら階段を上がろうとして、「ちょっと待った!」と呼び止められた。
「どうかした?」
振り返ると、彼は帽子をずり下げて、そのままこめかみを掻いた。
「いや、やっぱ、今日も食べたいなー、なんて。その、ダメだったら、いいんすけど」
ぎゅん、と胸が鷲掴みされる。思わずその音が聞こえなかったか内心焦ってしまうほど。
「ダメじゃ、ないよ」
幸せに思う気持ちくらいは、押し殺さなくても、いいよね?
あーあ、甘酸っぱいな。なんて思いながら、行こっか、とできるだけしとやかに頬をほころばせる。彼はハッとして、「あっ、と、荷物! 持ちます!」と手を出してきた。その姿に不意をつかれて、ぷっと噴き出してしまう。
なんスか、猪野くんはかばんを預かりながら唇をちょっと突き出した。
「ううん、なんでもない」
そんなところが、好きだよ。なんてね。
