episode.3

 お隣の猪野くんはいい子だ。パッと見はとっつきにくそうな今どきの子なのに、顔を合わせると必ずあいさつをしてくれる。それに、騒音だって立てないし、なにより作りすぎた料理を押しつけても一切嫌な顔をしない。
 このあいだだって、理不尽な上司に対する苛立ちをぶつけた、わたし特製具沢山豚汁を文句も言わずに受けとってくれた。
「い、いいんすか」
 なんて、目を少し輝かせる姿は、なんだか従順なコーギーみたいで。
「いや、でもそう何度もお世話になるわけにはいかないですし」
 と、遠慮を見せるところも好印象だったのは言うまでもないだろう。
 少し歳の離れたカワイイ弟って感じ? いや、勝手にそんなこと言われても迷惑か。
 とにかく、隣に越してきた子が彼でよかったな、と思う日々であった。
「へえ、あの男と別れたんだ?」
 そんなわたしの前で白磁の徳利を傾けるのは、大学時代からの友人だ。卒業して数年、意外と長い付き合い。といっても、学部はおろか授業でさえ一度も一緒に受けたことのない、共通点といえば目と鼻の数くらいの不思議な仲ではあるが。
「別れた。ってか、向こうが勝手に子どもつくって、明日入籍しますって言うから、お幸せに、だけ言って帰ったの」
「だは、意味わかんねぇ」
「そう、意味わかんないんだよ、硝子もそう思うよね?」
 わたしの失恋話を酒の肴に、彼女――家入硝子は熱燗をふたつのお猪口にそそいで、まあまあ飲みなよ、とやや愉しげな声色で勧めてくる。
 どうして仲良くなったのか、いまだにわたしの人生七不思議のひとつでもあるそんな彼女と、今日は一ヶ月ぶりに居酒屋に来ていた。
「一応訊くけど、付き合ってたんだよね?」
「五年ね」
 五、と左手を突き出してから、お猪口を手にとって硝子のそれと重ね合わせる。そのあとはぐっとあおった。
「はぁ、思い出すだけでむしゃくしゃしてきた」
 ガンッと勢いよくテーブルに腕を下ろす。
「お、カレーでも作るか」
「硝子が食べてくれるなら」
「ウチまで届けてくれるならいいよ」
「えぇ、硝子んち地味に遠いんだもん……」
 先述したとおり、彼女との関係はかれこれ数年に渡る。頻繁に遊ぶわけではないが、付かず離れずのさっぱりとした付き合いはとても気楽だった。
「しかし、学生のころといい、ホンット男運ないよな」
 歯に衣着せぬ物言いも、もはや慣れたもの。しかし、わたしは唇を尖らせる。
「……そんなこと、ないモン」
「モンって」
「笑うなぁ」
 アラサーがなにを、と言わんばかりの薄笑いに、「おかわり!」と空いたお猪口を突き出す。彼女ははいはいと日本酒を注ぎ足してくれた。
「でも、出会ったときも、そうだったろ。ジッポーならあるけどって取り出してきたと思えば、ラッピングされた新品で。なんなんだこいつって思ったよ」
「そんなこともあったね……」思わず遠い目をする。
 彼女と出会ったのは、大学三年のとき。たまたまキャンパス内の喫煙スペースで火を求めていた彼女に、ジッポーを差し出したのだ。
 わたし自身タバコは吸わないけれど、たまたま当時付き合っていた彼氏に贈ろうとして、見事不要になったものだった。そんなものを、と今となっては思うが、なぜだか、だだっ広いキャンパスの中で、ぽつんとひとりなにかを探している仕草の硝子にわたしは思い切って声をかけた。
 そこからだ。なんだかんだとその時間に落ち合って、タバコを吸う硝子と他愛もない会話をするようになり、やがて連絡先を交換して、ときおり飲みに行く仲になった。
 わたしたちの関係も、今となってはもはや片手にあふれる年月になった。苦い思い出もつきまとうが、そのころの不可思議な勇気がなければ、今、彼女とこうならなかったのだと思うと、人生というのは偶然の連続でできている。
「アレはなんだっけ、彼氏の浮気?」
「そう、誕生日だからって奮発したのにさ、女の子と腕組んで歩いてるの見かけて萎えて、そのまま硝子に渡した」
「すげえ怨念のこもったジッポーだったよ」
「なにそれ、ぜんっぜん笑えない」
 話は戻るが、こうも浮気され続けると、自分にも原因があるのではないかと思えてくる。
 そのとき然り、今回然り。そのあいだの恋人もなんやかんやあった。
「今度こそはなかなかいい感じだと思ってたんだけどなぁ」
 つぶやくと、硝子もしみじみと日本酒を舐める。
「まあ、五年だもんな」
「そう、五年。大学卒業してからずっと。なにがいけなかったんだと思う?」
 硝子は興味なさそうに、知らね、と吐き捨てて徳利を空にした。
「そんなこと言わずにさあ」
「移り気なんて人間の性だから。イヤなら去勢させるしかない」
「でたぁ、お医者サマだったわ硝子さん」
 両手を挙げて降参の構えを示すと、そういうこと、と彼女は気だるく首を捻る。たまらず、わたしは店員を呼んで追加のおつまみを頼んだ。
 イカゲソの唐揚げと、冷奴と、それからエイヒレと、硝子の好きな酒盗。日本酒も忘れてはならない。
「でも、世話焼きすぎるんじゃないの」
 店員が去ったあと、メニューを閉じたわたしに硝子がぽつりともらす。顔を上げると目が合った。
「面倒くさがりに見えて、なんでもかんでもしてやりたくなるタイプでしょ。飯食べたいって言われたら作りに行くし、貢ぎ物もそう、男はそういうのつけ上がんだよ」
 どこか眠たげな、掴みきれない瞳。でも、心地は悪くない。
 いつもならここでタバコを吸いだすところだが、すっかり禁煙に成功したと言っていたことを思い出し一抹の侘しさが掠めた。
「なるほどねえ」
 そんなこんなで、勉強になります、と頭を下げると、
「これに懲りてしばらくは都合のいい女をやめるんだな」
 と厳しい言葉が返ってきた。

 心の痛い飲み会だったな、とふらふらと帰路につくと、すっかり宵が更けていた。
 しんと静まった辺りに、ときおり車のエンジン音が響く。空気は心なしか澄んでいて、青い香りが鼻腔を掠めた。ふわり体を包むような。アスファルトにはぼんやりと光が宿り、紺色の空には少ないけれど一等星が見えて、東京の夜も悪くない、と思う。
 愛するひとのすばらしさを星の輝きに喩える、いつぞやの曲が頭をよぎるが、噛み潰してべつの曲を口ずさむ。
 けれど、またもや長年好きだったことを歌う、そんなもの。あーあ、なんで恋愛ソングばかり浮かんでくるのか。
 もっとロックにいこうよと思うも、世の中大概恋愛の歌ばかりだ。未練があるわけじゃないけれど、こんな夜にまでそんな歌ばかり唄いたくない。
 あんな男にうじうじと悩んで立ち止まっている暇など、アラサー女のわたしにはないのだ! 完全にお酒の勢いのふわふわ浮き足立った足取りで、あえかな街灯に照らされた夜の海を進む。
「そういや、硝子に猪野くんの話するの忘れたな」
 思いがけず元カレの話題になってしまったが、新しいお隣さんがいい子なんだよ、という話もする予定だった。なかなか芯のしっかりしてそうな子で、犬みたいにカワイイ。今どきめずらしいよね、云々。
 でも、二十歳やそこらの男の子を餌づけしているなんて、知られたらドン引きもいいところだろう。
 いやいや、餌づけじゃないし、多分。
 ひとりでに問答をしながら、ンッと伸びをして宵の香りで胸を満たす。
「あぁ、明日はいいことありますように」
 猪野くんに会えたら、ちょっといいなぁ、なんて。なんかいいよね、あの子。不思議だなぁ。そんな思いで見上げたマンションの五階部分。ふたつある部屋のどちらも明かりはついていない。
 こんな時間までお仕事かな。ご苦労さまです。心の中でつぶやく。
「あかん、いい加減目ぇ覚まし! ってね」
 それはお笑い芸人の言葉だ。
「関西弁下手すぎて怒られるか」
 鼻唄をうたいながら、酔っ払いは家に帰る。

「……どうする、俺」
 俺、こと猪野琢真は携帯電話を片手に頭を悩ませていた。
 時刻は午前十時。穏やかな陽気の都立呪術高専の校舎内だ。自動販売機を背に、はあとため息をついてしゃがみ込む。
「なんだ、珍しいな」声をかけてきたのは、校医の家入サンだった。
「あ……おはようございます」
 サッと立ち上がって、帽子をとる。彼女は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、おはよう、と俺の横を通り抜けて自販機の前まで進んだ。
「任務は」
「なんか、予定していた霊園の呪霊、五条サンがたまたま居合わせてすんなり祓っちゃったみたいで」
「待機か」
「ッス」
 ガコン、ガコン、と音が響いて、家入サンは二本取り出したうちの缶コーヒーを一本差し出してきた。
「エッ。いやいや、いいっすよこんな」
「もう買っちゃったからさっさと受けとって」
「……ハイ、あざっす」
 おずおずと頭を下げながらそれを受け取る。家入サンこそ、普段籠城している医務室から出て、こんなところにいるのが珍しいものだ。
 そんなことを考えながらプルを上げて、ブラックコーヒーに口をつけていると、家入サンはだしぬけに言った。
「で、悩みごと?」
「は?」思わず素っ頓狂な声が出た。
「どうするかなんだ言ってなかったか」気だるい瞳がチラリと向けられる。
「ああ」
 ぽりぽり、頭を掻いて打ち明けた。
「実は、ご近所さん? にお礼をしなきゃなんすけど、なににしたらいいかわかんなくて」
 あれ、なんで家入サンにこんな話してんだ? と思うも、後の祭りだ。
「女?」
「単刀直入すぎでしょ。……まあ、女性ですケド」
 ふうん、と家入サンは缶コーヒーに口をつける。
「で、なにをそんなに悩んでたんだ」
 まあそうなるよね。密やかに息をついて俺は缶をゆるりと揺らした。
「いや、なんというか、あんまりこういうの慣れてないんで、どんなのあげたらいいのかなぁって」
「なるほど」
「家入サン、もらってうれしいものとかあります?」
 彼女は一瞬遠くを見つめたあと、「金」と言った。
「ンな冥冥さんみたいな」
「か、酒か」
「家入サンに訊いた俺が馬鹿でした」
「まあそう怒るなよ」
「怒ってないですケド」
 五条サン然り、大概掴みづらいひとだよな、と、ひとりごちながら指先でかりかりとこめかみを掻く。
「冗談はさておき。一応訊くけど、なんのお礼?」
 いろいろと突っ込みたいところはあるが、俺は匙を投げると、「まあ、飯、食わせてもらったんで、それの」と答えた。
「飯行ったのか」
「いや、作りすぎたやつ、お裾分けしてくれて」
「へえ、漫画みたいだな」
「ですよね」
 やはり、皆思うことは一緒。きれいなお隣サンから手料理のタッパーが届けられるなど、だれが現実世界で起こると思うだろう。
 ところかどっこい、これが現実なわけだ。もしかして、俺、漫画の主人公になっちゃった? などと自惚れてしまいたくもなる。ンなわけねぇけど。
 それはさておき、前回の豚汁をご馳走になってから少し日が経ってしまっている。早くしなきゃとは思うが、厄介な任務続きで買い物に行く時間がとれずにいた。
 引っ越し挨拶の粗品はテキトーにネットで調べた品物を贈ったが、今回もそうとはいかない。二回も世話になっているし、手元に残るものにするか、それとも食べ物などの消費できるものにするか、トンチンカンなものを渡してドン引かれてもショックがデカい。
「まあ無難なのは菓子折りだろうな」
「ッスよねぇ」
 ここは妙な勝負せずに、安全をとるか。いやいや、勝負ってなんだよ。
 エッ、勝負すんの、俺。などと心中問答を繰り広げつつも、今日の仕事終わりに百貨店でも寄るかと算段を練って飲みきったコーヒーをゴミ箱へ捨てる。
「普通の女にも訊いてみようか?」
 家入サンの言葉に振り向く。
「普通の女?」
「非術師の。まあ本当に普通かどうかはわからないけど」
 彼女の友人とのことだ。たしかに普通ではない可能性のほうが高い、などと言う言葉はもちろん呑み込んだ。
「じゃあ、お願いしても、いいすかね」
 もごもごつぶやくと、家入サンは、「ちょっと待ってて」ポケットから取り出した携帯をいじる。
「お、もう返ってきた」
「早っ……」
「暇人か、こいつ。それか、トイレでサボってたな。上司が面倒な人間らしくて、よくトイレに避難してるって言ってたよ」
「普通、なんすか、それ……」
 どうやら、社会人ではあるらしいが、なんとも心配になってきたぞ。
 無難に菓子折りでいいんじゃないかと思い始めたところで、家入サンがほい、と携帯の画面を見せてくる。
「新宿御苑の……ガトーショコラ?」
「一本三千円。有名なとこのだよ」
「三千円……」
 まじか、という気持ちだった。
「か、ハリー・ウィンストンの指輪だってさ」
 きらきらほわほわ粉砂糖のかかったチョコケーキの次に、頭に浮かんだのはギラッギラのダイヤの指輪。あまりに別次元すぎて、脳内に宇宙が広がった。
 クソだなぁ、家入サンは愉快そうにつぶやいている。
「ちなみに、どうやって訊いたんです」
「ん? 男からもらうとしたらなにがいい? って」
「ちょっと、惜しいんすよね、お礼じゃないじゃないスか」
 しかし、ガトーショコラは有りなのかもしれない。家入サンから訊くと、おそらく日本一おいしいと名高い店なのだそうだ。
 どんな味なのか、ちょっと俺も気になる。仕事終わりに寄ってみる価値は大いにあるかもしれない。
「っし。家入サン、キチョーなご意見ありがとうございました」
「ン、がんばれよ」
 帽子を被り直して、午前十時の救世主に別れを告げた。