「ジュリア、ここは弱火で沸騰させないように火をかけるの」
「……沸騰させちゃいけないの?」
「そうなの」
「どうして?」
「牛乳は沸騰させると膜が張るでしょ」
難しい顔をしたジュリアに丁寧に説明を加えていると、店のカウンターで新聞を読んでいたボンベロが、小馬鹿にするように鼻で笑うのが聞こえてきた。
もう、一生懸命やっているんだから邪魔するなら出てってよ。と、ばかりに、真剣なジュリアの代わりに睨みを効かせる。
やれやれ、ボンベロは肩をすくめると、カウンターの上に置かれていたシガレットケースを手に席を立った。
「ボンベロってば、一日中ジュリアから目を離さないのね」
ため息とともにわたしは呟いた。ジュリアは火にかけた牛乳を降ろして、そう? なんて呑気にバニラビーンズを手で割いて入れている。
「そう。気がつけばずっと、ずうっと、ジュリアを見てる」
店先に出て、葉巻を吸うボンベロの背中を眺める。
気のないふりをしているが、あの様子は気になって仕方がない、ってところだろう。さっきだってそう、見ていられないなら最初からどこかに行けばいいのに、わざわざあんなところで新聞なんて読んで。これじゃ、まるで我が子に過保護な父親だ。とはいえ、彼の熱を持った瞳がそんなんじゃないって物語っているから、わたしは少し、いや、結構むしゃくしゃするのだけれど。
「なんか、ちょっと妬けちゃうかも」
言うと、ジュリアはわけがわからないと間抜けな顔をした。
かつて憧れてやまなかった街メキシコ、グアナファト。そこで、小さなダイナーを営んでしばらく経ったころ、彼らはわたしの元へと辿り着いた。
忘れもしない、何度目かの死者の日。色とりどりに飾られた街を、骸骨をあしらったドレスやタキシードに身を包んだ人々が彩る。無邪気に子どもは走り回り、年に一度の死者の帰りを賑やかに待ち受ける。
その日も、店はうれしいことに大盛況だった。
ボンベロから教わったやり方で、次々とやってくる客にハンバーガーを提供する。まだまだ彼の作るメルティ・リッチにはほど遠いかもしれないけれど、わたしの店はこの街ではちょっとした有名なダイナーになっていた。
祝祭ともあって、忙しさは息つく暇もないほど。それでも、手を抜くことはなく、ひたすら料理を振る舞い、客をもてなした。
自分の進みたい道をこの足で歩いている。そう思うと、どれほど忙しくても、足は羽が生えたように軽かった。
長い間掲げられた《reserved》の札が淡い西陽を浴び始めたころ、ひと息ついたホールで、バウッ、と犬の鳴き声がした。
振り向くと、そこには彼らの姿があった。
遅くなっちゃった、花が風そよぐように笑う彼女と、その横には、ふっとあの呆れを含んだ瞳をほんのり細める彼が。
「ジュリア、ボンベロ」
たっぷりとした陽射しをその背に浴びていた。
足元で、自分もいるぞ、とばかりに菊千代がもうひと鳴きした。
それから、ジュリアとボンベロはこの街で過ごすようになった。美味しい料理を食べながら、くだらないことで笑い合い、いろんなものを見て、感じて、それから、時にはボンベロに呆れられながら、たくさん料理をした。
いまだにジュリアは不器用だけれど、少しは上達してきているはずだ。今日だって、食後のデザートに、とろとろのプリンを二人で完成させたのだ。今は、冷蔵庫の中で眠っている。きっと、食べたらあまりの美味しさに、ボンベロは開いた口が塞がらなくなるにちがいない。
「わたし、二人が幸せになってくれて、うれしい」
彼らが、再びわたしの前に現れた日のことを脳裏に鮮明に思い浮かべながら、わたしは口にした。
ほんのちょっぴり悔しいような、寂しいような気もするけれど、彼の視線や想いが、彼女のものと重なり合ったのが本当にうれしかった。だって、ジュリアが彼のそばだと、安心したようにあどけなく笑うから。
彼女にとってスキンが目映い光であったとしても、ずっと、ずっと、ボンベロはジュリアを見つめていた。彼は、どんなときでも彼女に居場所を示すやさしい蝋燭の灯りだった。
ボンベロの背を二人で眺めながら、隣でジュリアは笑う。
「ばかね、カナコも一緒に幸せになるのよ」
そっと繋がれた手が、あたたかい。
「あなたを探して、ここまで来たんだから」
「ジュリア、ボンベロに怒られちゃうよ」
澄ましたように、くだらん、だとか、どうでもいいって顔をするくせに、人一倍強い独占欲を胸の奥で滾らせている。彼も、そういうただの男のなのだ。ホッとするような、ゾッとするような、複雑な気持ちを抱きながら、わたしは彼女の温もりをただ感じる。
「怒らせておけばいいのよ。でも、ボンもボンよ。私が寄り道しようとすると、あいつが待ち草臥れちまうぞ、って、口うるさかったんだから」
ちょん、と唇を尖らせる彼女が胸の奥をくすぐって。本当はその唇を掠め取りたいところだけど、今はぐっとこらえて彼女の手をぎゅっと握り返す。
「探し出してくれて、ありがとう」
やっと、この手が彼女に届いた。閉じかかったあの朧げな瞳が、今はやさしく細められている。青白かった唇も、ぽってりと色づきのいい苺のように赤い。
震えるわたしの声に、彼女がふっと笑みを漏らした。
「だって、約束、したじゃない」
「……うん」
熱く、熱く、胸が膨らむのを感じながら、わたしは彼女の言葉を噛みしめた。
わたしたちを見たボンベロが、苦い顔をして大股で歩いてくるまであと少し。
こんなありふれた日々が愛しくて。いつまで続くかはわからないけれど、いつまでも、いつまでも続けばいいって、思った。
