YOU ARE THE WORLD TO ME

 長い、長い旅を終えてからも、夜明け前に目が覚める癖はちっとも治らなかった。
 夜のしじまに包み込まれたベッドの上で、ボンベロは葉巻に火をつける。小さな窓からは、レースのカーテン越しに、ほのかな月明かりが注いでいる。真暗までとはいかない、どこになにがあるのか判別できるほどの暗さ。窓際のサボテンは淡い光に小さな蕾を浮かび上がらせていた。
 役目を終えたマッチ棒を丁寧にベッドサイドの灰皿へ落として、ボンベロは深く葉巻を吸う。
 寝たばこはよくない、と何度も言われるものだが、月明かりのみが照らす世界で、愛しい寝息を聞きながら吸う葉巻というのは、彼にとってこの上ない慰みだった。
 銃声も、悲鳴も、思考を揺さぶる騒音はなにひとつ聞こえない。だが、かえって、世界に溶け込んでいく感覚に狂気が頭をもたげそうになる。いくら経っても、体に刻み込まれた性質というのは、そう簡単には変わらないらしい。そんな気が狂いそうなほど静かな夜に、彼女の寝息が耳を撫で、吸い慣れた香りに肺が満たされると、彼は生きた心地をどこかで感じながら、ゆっくりと息を吐き出すことができるのだ。
 だが、それは、以前の話。すべてを終えて、メキシコで暮らし始めた今は、夜明け前の一際暗い世界で、温かなシーツに包まれたまま葉巻を吸うのが、彼にとっての幸福でもあった。
 愛しい女の寝息をいつまでも独り占めできる、この上ない大切な時間。
 だからきっと、この癖が一向に治らないのだろう。
 ヤキが回ったもんだな。ボンベロは内心自嘲しながら、紫煙をくゆらせる。その左半身には、ジュリアの体がぴったりとくっついている。じんわり温かい。
 ベッドの中に自分以外の存在があるというのに、慣れるのは苦労した。それこそ旅を始めた最初のころは、壁を隔てた向こうに人の気配がするのですら、気が気でなく、連日浅い眠りを繰り返したものだ。
 それが、もうなくてはならない存在になっているのだから、人間とは不思議なものである。すっかりうなされることのなくなった、安らかな寝顔をボンベロは目で撫でる。月明かりのみの暗い世界で、その睫毛のささやかな揺れまでもを眺められないのがなんとももどかしい。
 そんなことを考えながら、長く吸い込んだ煙をゆっくり吐き出した。
「ん……ボン……」
 と、ジュリアがみじろぎをした。
「起こしたか」
 腰のあたりに手が伸びてきて、ボンベロは空いた手でそれをそっと包んだ。
「ん、いまなんじ?」
「まだ夜明け前だ。大人しく寝ていろ」
 ほとんど夢の中に浸っているのだろう、たどたどしい声に苦笑を滲ませながら、ボンベロは手の甲をやさしく撫でる。
 ぎゅう、と彼女が抱きついてきた。
「ボンベロ」
「なんだ」
 ボンベロはゆったりとした声で訊き返す。
 寝惚けているときの彼女は、まるで子猫みたいだ。頬を擦り寄せて、いつになくゆるりとした輪郭のない声で甘えてくる。
「さむいから、抱きしめて」
「またお前はそうやって……」
 夜に浸ったままの体が、彼女の仕草に敏感に反応しそうになってしまう。どれだけ自分が彼女を愛しく思い、その存在がどれほど寝起きの男に脅威かということを、彼女はまだわかっていないらしい。呆れに任せて口の中で言葉を転がすと、彼女は悪びれた様子もなく、ふふ、と笑って腹の上へと頭を載せてきた。
「はやく、ボンベロ」
「一人で寝られないのか、お前は」
 葉巻を指先にとって、紫煙をくゆらせながら彼は言った。
「ボンベロが甘やかしたから、もう一人じゃ生きられない」
「……とんだ殺し文句だな」
 本当に、彼女は彼の澄まし顔を殺す天才だろう。寝ている彼女を組み敷いて、すべてを奪いたくなる衝動をなんとかこらえていたというのに、
「ねえ、キスして」
 と、ジュリアは甘えた声を出して、指先を頬に伸ばしてきた。するりと輪郭を辿り、薬指と小指で唇をなぞられる。思わず背すじが震えそうになり、ぐっと表情を引きしめた。
「苦いぞ」
「ん、いいから」
 ボンベロは葉巻を灰皿に押しつけると、ジュリアの頬を捕らえ、勢いよく体を反転させた。シーツに埋まった彼女の体を、チョコレートを塗るような繊細な仕草でなぞり、潤んだ吐息を逃すまいと彼女の唇に噛みつく。
「ぁ……ん、はぁ……」
「もっと、口開けろ」
 朝一番の彼女を味わう特権に、ボンベロは胸が満たされていくのを感じながら、自分もまた、彼女なしでは生きられないのだろう、と頭のどこかで考えた。彼女は、喩えるならば、彼にとっての世界そのものだった。
 口の中を激しく犯し、彼女のマシュマロのような肌を手で愛撫する。びくり、びくり、とわななく彼女の体に、ぴったりと自分の熱の塊を押しつけると、全身に駆け抜ける稲妻に頭がくらくらした。どうやらそれは彼女も同じだったようで、
「ボン、朝からはげしっ……」
 溺れかけたように息を荒くしながら、脚を絡ませてくる。
「その気にさせたのは誰だ」
「んっ……ね、もっと……」
「っ、俺の気も知らないで……いやらしい奴だな、本当に」
 月光に浮かぶ白いシーツは踊り、荒い吐息とあでやかなささやきが夜明け前の世界を美しく彩る。
 ぷっくりと膨れたサボテンの蕾が花開くのは、果たしていつだろうか。

 

 メキシコでの生活は賑やかだ。カナコの店に顔を出せば、必ずといって、遊びにくる子どもたちに絡まれ、街を歩けば、家々の窓や軒先から大人たちに声をかけられる。最初は戸惑いも多かったが、今ではもう慣れたものだ。
 子どもたちを真顔であしらい、和やかに飛んできた声には、にこやかに笑みを浮かべることなどは決してないが、できるだけ真摯に挨拶を返す。その様子を見るたび、ジュリアとカナコに笑われることは言うまでもないのだが。
「そうそう、そんな感じに空気を含ませるといいよ」
 今日も今日とて、店では暇になった午後の時間に料理を習うジュリアの姿が見られた。ボンベロはいつものように店の奥、太陽の光がまったりと差し込む席から、彼女を横目で眺めている。
 このとき、たいていボンベロは口を出さないようにしている。というのも、女同士のやりとりに口を挟むのは無粋だというのもあるが、ジュリアの集中を切らさないよう、チワワのごとく威嚇をしてくるカナコがそばについているからだった。
「メレンゲを作るってこんなに大変なの?」
「そうだね、ちょっと手間はかかるかな。でも、これさえ作れれば、あとはほかの材料を混ぜるだけだよ。頑張って、ジュリア」
 泡立て器を手にうんざりとした様子を見せるジュリアだったが、カナコの激励を受けては、唇をむっと結び合せて再び腕を動かし始めるのだった。
 今日はどうやらガトー・ショコラ・クラシックを作るらしい。カウンターに置かれたもうひとつのボウルから、ほのかにカカオの香ばしい香りがしている。
 一見、溶かしたチョコレートと卵や砂糖、小麦粉などの材料を混ぜ合わせればできると思われがちなケーキではあるが、コツを見落とすと、食感が損なわれ、残念な出来栄えになってしまう。菓子作りとはそういう繊細なものだ。材料の量、作る手順、すべてに意味がある。
 それで、そのガトー・ショコラを作るコツのひとつが、ジュリアの苦戦しているメレンゲだ。卵白に砂糖を加えて泡立てると、もったりと白いホイップ状になり、それをメレンゲという。メレンゲ作りは、ハンドミキサーなどで行えばものの一分ほどでできるさほど難しくない工程ではあるが、手で泡立てるとなると気力がいるものだ。メレンゲの元となる卵白は十分冷やしておかないとならないし、ちんたら混ぜていると泡立つものも泡立たない。
 不器用ながらも、なるべく手作業で基礎から丁寧に、とこだわるカナコの教えに倣って、真剣な表情でメレンゲを泡立てるジュリアの姿は、ボンベロのみぞおちのあたりを花びらで撫でるようにくすぐる。
 微笑ましくもありながら、どこか見ていられない、そんな感じだ。
「そうそう、その調子。泡立て器で持ち上げて、ツノがちょっと立つくらいになったら大丈夫だよ」
 よほど真剣なのだろう、カナコの声に唇をはむっと隠してこっくり頷くだけ。引きしめられた頬にはじんわりと汗が滲んで、日差しにつやめいて見えた。
 月夜に浮かぶ彼女の淫らに上気した頬と不意に重なって、ボンベロはごくりと生唾を飲み下す。が、気を散らすように、すぐに店に置いている酒のリストを手にした。
 ボンベロはカナコの店で基本的に調理場に立つことはない。一日の営業が終わりにサッと賄いを振る舞うことはあるが、ここはあくまでカナコの城だった。主に食材の仕入れ先の確保や、酒の調達、それから経理など、いわゆる経営側に立ち、オーナーという形でカナコに協力している。かつてのダイナーの客たちが見たらこぞって自分の目を疑うことだろうが、さすがあのダイナーを一人で――時にウェイトレスがいることもあったが――切り盛りしていただけはある。ボンベロには十分経営者としての素質が備わっていた。カナコもそのボンベロを信頼した上で、店のさまざまなことを彼に一任していた。
 カシャカシャと泡立て器がボウルを擦る音の合間、店の外からのどかにも子どもたちの笑い声が聞こえてくる。足元で居眠りをしていた菊千代が短い尻尾をひと振り。ボンベロはそれを見つけると、行ってこい、と相棒を送り出した。
「ボンも菊千代と一緒に行ってきたら?」
 カウンターの向こうから、ジュリアがにこにこと笑って言ってきた。
「勘弁してくれ」
 ボンベロは酒のリストをテーブルに置いて、あからさまにため息を漏らした。
「あら、ここの子どもたちはボンベロが来たら大喜びじゃない?」
「お前は、俺があいつらに混ざって走り回る姿が想像できるか?」
 間髪入れずに、ジュリアは、「できないわね」と答えた。横でカナコがぷっと吹き出すと、ボンベロはもう一度大きく息をついた。
「それで、できたのか」
「うん。カナコのおかげで完璧」
「と、言っているが、本当かカナコ」
 意地悪く眉を上げてカナコに視線を遣ると、「できてからのお楽しみ」と苦笑いを返された。
「あとは生クリームを泡立てて、と」
「あっ、ジュリア、それは砂糖じゃなくて塩」
「……そうみたいね」
 カウンターの向こうで繰り広げられる漫画のようなやり取りに、ボンベロは額に手をあてて笑いを噛み殺す。
「……本当に間違える奴がいるとは」
 恥ずかしそうに、もうやだ、と手で顔を隠すジュリアを、カナコが励ましている。とうとうこらえきれずにふっと鼻で笑うと、カナコがじっとりと睨みを利かせてきたので、ボンベロは常の澄まし顔でリストを再び手にした。
 追い出される前に、新たに仕入れる酒を考えてしまおう。
 メキシコならではの強いリキュールのほかに、シャンパンとワインとウォッカと、それから。
「ねえ、ボン、生クリームに合うお酒って?」
「ブランデーだろうな」
 オーブンからは香ばしい香りが漂い始めていた。
 間髪入れずに返した声に、ジュリアは、そうこなくちゃとうれしそうに微笑み、カナコはおかしそうに肩をすくめていた。

 夜になると、すっかり帳が下りた街は静けさに包まれる。宝石箱をひっくり返したような街並みが見事に紺色に染まり、そこからひとつ、ふたつ、と淡い光が漏れだす光景は、昼間と違って幻想的な雰囲気を醸しだしている。
 ボンベロはジュリアと菊千代と三人で暮らすアパートメントの一室で、一枚の紙切れと向き合っていた。電気もつけず、テーブルの上の蝋燭に火を灯しただけ。ゆらりゆらりと揺れる明かりの中で、ボンベロは手にしたペンを静かにテーブルへと打ちつけていた。
「ボン、目を悪くするわよ」
 そこへ、夜着のガウンを抱き込んだジュリアがやってきた。難しい顔をして、テーブルと向き合う男の姿を認めると、するりするりと音も立てずに近寄ってくる。
「これ、お店の?」
「ああ、来週末に広場で大きな祭りがあるだろう。その日になにを揃えるか考えていたんだ」
 自らの城であれば、ふんだんに材料を買い込んで自由に贅沢をできたものだが、今は違う。あそこはカナコの店であり、きちんとこの街に見合うように料理を提供しなければならない。かといって、妥協しておざなりな食材を集めることを彼が許すわけもなく、普段から、ボンベロはこうして店の帳簿や、材料調達のリストと睨み合いをすることもしばしばだった。
「ボンは、すごいわね」
 ジュリアはボンベロの肩に腕を回して、ぴったりと彼の首すじに頬をくっつけてくる。ふわり、彼女の風呂上がりの甘い香りが掠めた。
「すごい? 大したことはしていない」
「カナコが、ボンベロは手を抜かないから、いつもいいものを揃えてくれる、って」
「当たり前だ。俺の目の前で、妙な料理を出されちゃ困るからな」
 謙遜することもなく、さらりと言ってのけるボンベロにジュリアはくすりと笑った。
「そんなこと言いながら、ボンはいつもほかの誰かのことを思ってるくせに」
「お前のことか?」
 ペンを置いて、ボンベロは横を向く。そのまま彼女の顎を捕らえて、ほんのり湿った唇を探り当てた。
「そうやって、すぐはぐらかすところ、嫌いじゃないわ」
「はぐらかす? なんのことだか」
 ゆらり揺れる蝋燭の灯火のもと、何度も何度も彼女の唇を啄む。
 そうやって、自分の信念のようなものを言葉にされるとこそばゆくて堪らない。できれば誰にも気づかれずに、ただ澄まし顔でなにごとも卒なくこなしていたいものだ。だが、同時に、彼女が理解していてくれていると思うと、ボンベロは胸の内がぽうっと温かくなるのを感じた。
 彼女の唇をまさぐりながら、自分が彼女を欲してしまう理由を考える。
 理屈じゃない。だが、それでいて、彼女が自分を受け止めて包み込んでくれるからも少なからずあるのだろう。
 料理において、譲れないことは数多くある。命をゴミのように扱う世界にいたとしても、決して、料理を通して誰かに真摯に向き合うということを彼は譲らなかった。そして、今も。たとえ、包丁を握り、客の前に立たなかったとしても、彼が料理と、その向こうにいる人々と向き合うことは変わらない。
「ボン、あなたは最高の料理人だわ」
 キスの合間、彼女は言う。
 ボンベロは熱く膨れ上がった胸に、堪らず彼女の口の中に舌をねじ込んだ。後ろから抱きついていたジュリアの体を自分の前に引き寄せて、膝の上に座らせる。激しく舌を絡ませながら彼女の肩を愛撫し、ガウンの前をはだけさせた。大きく開いたシルクのキャミソールの胸元から、白い肌が蝋燭の明かりに浮かび上がる。なんとも馨しい色香を放っていた。
「元、だがな」
 息継ぎのために離れた唇からは銀糸が伝い、名残惜しいまなざしで見つめられる。ボンベロは見せつけるように舌で糸を舐めとると、神秘的な丘陵に指先を這わせた。
「元、じゃな……っ……」長い睫毛が白鳥の羽ばたきのように揺れ、天に向けて今にも飛び立たんと、ジュリアが体をのけぞらせる。
 顎から鎖骨にかけて、なめらかなカーブのなんと美しいことだろう。火照った肌が金色に染まり、彼の視線のみならず、思考までもを奪っていく。ごくり、喉を鳴らすと、ボンベロは迷うことなく、そこへ噛みついた。
「なんだって?」彼女の肌にやわく歯を立てながら、ボンベロは問う。
「ゃ、そこでしゃべんないで……ぁっ」
 甘い悲鳴とともに大きく肩が跳ねた。彼は満足げに唇を離した。
「それで?」
 ふっと悪戯に目を細めて笑うと、ばか、と掠れ声が彼を咎めた。
「元、じゃない、って。だって、今でも私に作ってくれてるから」
 呼吸を整えながら、ジュリアは言う。
「そりゃ、作らないと誰かさんが飢え死にしちまうんでな」
「いじわる。これでも少しは上達したのよ。今日のケーキも美味しかったでしょ?」
「ああ。だが、食い足りなかった」
 膝の上で彼女が笑った。
「まさか、あの菊千代が、子どもたちを引き連れて帰ってくるとは思わなかったものね。あの得意げな彼の顔、ギャングの頭(かしら)みたいだったわ」
「あいつはさすが俺の相棒だ」
 今でも、あの薄暗い調理場を、極彩色豊かな自らの城を懐かしく思うことはある。だが、誰かのために自分が料理をするのは、きっと、この先たった一人だけでいいのだ。
 死ぬまでその最高の料理人を独り占めさせてやる、などという言葉は口にせず、ボンベロは彼女のガウンをするりと脱がせた。淡い橙色の灯火が、彼女の白い肌をいっそうつやめかせる。たっぷりと生クリームを載せて、ブランデーを垂らしたら、この世で一番美味いデザートのできあがりだ。
「うまそうだな」
 味見程度に、ひと口食べることしか叶わなかったガトー・ショコラ・クラシックを偲びながら、ボンベロは彼女の肌を指先でなぞる。
「お仕事はいいのかしら、オーナー」
「お前が邪魔するのが悪い」
「人のせいにしないで。私はただ、温かいカフェオレでも淹れようかなと思って」
 ムッと頬を膨らませた彼女に見せつけるように、彼は彼女の指先をとって、一本一本、口に含んだ。
「へえ、じゃあとびきりのデザートのあとにいただくことにしよう」

 翌朝、ボンベロがシャワーを浴びてリビングに顔を出すと、なにやら甘い香りが漂っていた。
「珍しいな、朝からお前がそこに立つとは」
「あら、ボンベロ、髪の毛乾かした?」
 ふり返りながら母親のようなことを言ってくるジュリアに、言われなくても、と呆れを見せつつ、ボンベロは彼女にふらりと歩み寄る。
 肩越しに手元を覗き込むと、銀色のボウルの中でたっぷりとしたホイップクリームを泡立てているところだった。
「昨日、ボンベロ、子どもたちにケーキを奪われちゃったでしょう? だから、代わりにカナコから教わった簡単なやつを作ってみようと思って」
「だから甘い匂いがしているのか」
 オーブンに目を向けると、橙色のライトが灯っていた。カカオの香りと、バターのいい匂いがしている。嗅いでいるだけでも腹が空きそうだ。
「メレンゲを泡立てるのは大変だから、メレンゲを使わないやつ。でも、美味しいから安心して」
 そう言いながら、ジュリアは片手にボウル、もう片方に泡立て器を手にし、ホイップを続けた。ガウンが肩からずり落ちて、白い肌が露わになっても彼女は手を止めない。
 ボンベロはその姿をまじまじと眺め、ひとりでに唇を舐めた。
「うまそうだ」
「そう?」
「ああ」後ろから彼女を抱きすくめるようにして、ふっと耳元で囁いた。
 ぴくり、彼女が体を揺らしたのを見て、唇を弓なりに引く。それから、ボウルのふちについたホイップクリームを人差し指にとると、彼女の唇に押しあてた。
「味、みてみろ」
 ジュリアは、恐る恐る赤い舌を出してそれを舐める。
「ん、甘い」
「ちゃんと、砂糖を使っているな」
 ボンベロはなおも指を押しつけて、彼女に自分のそれを咥えさせた。小さな口の中に入り込むと、ねっとりと甘美な温かさが指を包んだ。
 耳に息を吹きかけながら、ちゃんと舐めろ、と指で舌をなぞる。
 懸命に口の中でボンベロの太い指を転がすジュリア。ちゅぷ、ちゅぷ、と淫靡な音がキッチンに響き始めている。ボンベロは、いいぞ、と耳元で囁いた。だが、夢中になりすぎてジュリアのホイップする手が止まると、止まってるぞ、と意地悪く耳たぶを食んだ。
「ボン、続きが、できない」
 彼の指を咥えたまま、ジュリアが必死に告げる。その快感をこらえるような声に、彼女がどんな顔をしているのか、ボンベロは想像して唇の緩みが止まらなかった。
 指を抜き去ると、今度は小指でクリームをすくい、自らの口に運んだ。
「うまい」
 まったりとした甘さが口に広がる。だが、甘すぎず、実にちょうどいい。ブランデーがあったら最高だ。彼の呟きに、ジュリアがホッと息を零すのが聞こえた。
「ジュリア」
 彼女を後ろから抱きすくめたまま、クリームを冷やしにかかろうとする彼女の手を捕らえる。
「ケーキより先に、お前を食いたくなっちまった」
 甘いクリームに火をつけられて、耳元で熱を込めて囁けば、彼女は、「……ばか」とうっとりとした声を上げた。
 勢いよく彼女を自分のほうへ向かせて、ボンベロはぷるんと潤んだ唇に噛みつく。クリームよりも甘く、そしてブランデーよりも芳醇な香りが突き抜ける。
 ああ、やっぱり。これ・・を知ってしまっては、もうほかに優るものなど見つけられないだろう。きっと、永遠に。
 ジュリアの腕が自分の首に絡みついたのを確認すると、ボンベロは軽々と腰を抱き上げ、そのままキッチンから去っていった。
 さわやかな朝の光が注ぐ寝室。嫋やかに風に踊るカーテンのそばで、サボテンの花が美しく花開いていた。

サボテン:花言葉「燃えるような愛」

かけがえのないひと