久々に、夕食を外で食べようということになった。それも、いつものラフな格好で入れるような下町の食堂ではなく、ドレスコードの必要なレストランに。なぜだかはわからないが、そういう気分になったのだ。
旅の本来の目的もそぞろに、彼らは昼間から繁華街へと足を伸ばす。有名なブランドの路面店が立ち並ぶ通りまでやってくると、ジュリアはボンベロを気遣ってか、一時間後にカフェで集合、という形にしようと提案した。が、ボンベロはそれに反対した。
「本当にいいの? 女の長い買い物にうんざりするタイプでしょ、ボンは」
訝るジュリアに、ボンベロは、ふん、と鼻息を荒くする。
「たしかに、無駄な買い物は好まないが、それとこれとは話が別だ」
「それとこれ? 変なボンベロ」
どういうことかさっぱり、という顔つきだったが、ボンベロが言うなら、とジュリアも異論はないようで、一緒にディナーのドレスやらなにやらを見て回ることになった。
「ボンはこれがいい」
店員が持ってきたいくつかのスーツの中から、純黒のタキシードを手にするジュリア。頬は上気し、瞳には力が込められている。かつてない興奮具合だ。
その様子に内心呆れるものの、彼女の選んだタキシードをじっくり舐めるように眺めると、ボンベロは、「悪くないな」と手を伸ばした。
しっとりと吸いつくようなシルクの触り心地。コックコートほどとは言わないが、きっと満足できるだろうその着心地を想像して、ボンベロは思わず口元を緩める。
「必ず、サッシュベルトとサスペンダーは着けてちょうだいね」
ジュリアは、専属スタイリストさながらに捲し立ててくる。
「ボンベロには、きっとオールドスタイルが似合うから」
「やけに饒舌だな。言われなくともそうするつもりだ」
とは言いつつ、彼女が自分の服を見繕ってくれるのが、うれしくて堪らない、といった調子だ。ボンベロはジュリアの言葉どおり、つややかなサッシュベルトとサスペンダーを揃え、それから白シャツ、ボウタイ、革靴や胸元のハンカチまで、申し分のないものを選んだ。
そのあとは、ジュリアのドレス選びだった。
彼女に似合うドレスを店中からかき集めようとした店員を止めて、ボンベロは形と色を伝え、一着のドレスを持ってこさせた。
「どう?」
カーテンの向こうから、とろりとしたなめらかな質感のドレスを纏ったジュリアが姿を現した。腕を組み、その瞬間を待ち侘びていたボンベロは、彼女を足のつま先からてっぺんまで、舐めるようにじっくり眺めた。
「悪くない」
ふっと、彼の頬に笑みが浮かび上がる。
「そう? 露出が多いと思ったけれど、いいの?」
鏡をふり返りながら、ぱっくりと大きく開いた背中に視線を遣るジュリア。それから、鏡越しに睫毛をゆるり瞬かせると、ボンベロを見た。まるで乙女のように無垢な仕草。だが、彼のタキシードに合わせた黒いオフショルダーのイブニングドレスとの絶妙なアンバランスさが、彼女をやけに妖艶に見せる。
これに、ぷるんと熟れた柘榴色のルージュを載せれば――自分の見立ては間違ってなかった。そう確信し、ごくり、生唾を飲み下す。
ボンベロはジュリアに歩み寄った。肩にかかった髪を繊細な指先でよける。白い肩が露わになった。
南の国の燦然と輝く砂浜か、それとも、つるんとシャンデリアの光を纏うレアチーズムースか。彼はまじまじと眺めながら、指先で、つ、となぞった。
「今日ばかりは、見せつけても構わんだろう」
「なにそれ、男って本当わかんない」
唇をちょん、と突き出すジュリアに、ふっと不敵な笑みを残す。ゆるり、鏡の中で長い睫毛が揺れる。彼はその瞳を一目したあと、店員を呼び寄せた。
「これに合う、そうだな、ダイヤのネックレスと、ピアス、それから指輪も」
「待って、そんなに要らないわ」
この先も長い旅だ。そういった高価な装飾品を手元に置くのは気が引けるのだろう。ジュリアが慌てて店員と恋人の間に割って入ろうとしたが、ボンベロはちらりと一瞥を返しただけで、一切、取り合わなかった。
宿に帰り、ひと息ついたころには、もうすでに西陽が強く射し始めていた。ぽってりと洋梨のコンポートのような陽射しに、部屋中が浸かっている。
「もう、ボンベロってばどうしちゃったの?」
留守番をしていた菊千代が、ハッハッと駆け寄ってくるのを受け止めながら、ジュリアはやや釈然としない顔で、ボンベロを見上げた。
「どうもしない」
相変わらず、ボンベロは澄まし顔だ。
「うそ。だって、あんなに買い物するなんて、ボンベロらしくない」
「俺だって、そうしたいときはあるもんだ」
「……それなら、ボンのももっと選べばよかった」
豪勢に買い物をしたのを根に持っているのだろう、頬を膨らませるジュリアの腰に、ボンベロは腕を絡ませる。
「そうむくれるな。お前に似合うと思ったから全部買ったんだ」
ぎゅう、と抱き寄せ囁くと、彼女はくすぐったそうに身をよじらせた。
「だからって、やりすぎ。これから先も長いのに」
「なに、心配することはない」
まだ不満げな顔のジュリアの瞼に、頬に、そして唇にキスを落とす。
買い物に付き合うと言ったとき、いや、それよりも前、レストランで食事をしようという話になったときから、彼女に贈り物をするつもりだったのだ。
「そろそろ、支度の時間だ」
ジュリアの瞳がとろけてきたところで、ボンベロは耳元で甘く囁いた。
「どう?」
髪をブローして、いつもよりもあでやかにメイクを施した彼女は、まるでアフロディーテのようだった。一瞬でも気を抜けば、その美しさにすべてを奪われかねない。
バスルームからリビングに顔を出した彼女に、タキシードのボウタイを整えていたボンベロは、「たまげたな」と小さく声を漏らした。
「最高に、似合っている」
「ボンに言われるとくすぐったいわね」
「なんだ、前に全部教えてほしいと言ったのはお前だろ」
「そうだけど」
ちょん、と尖った唇は、ぽってりと赤い。その熟れた果実を味わってみたくなって、ボンベロは歩み寄ってきたジュリアの顎を捕らえ、キスをしようとした。
「だめ、せっかく塗ったんだから」
が、ジュリアにガードされてしまった。口元にあてられた手から、ふわり、甘いオードトワレの香りが掠める。がつん、と脳髄を揺さぶられた。
「また、塗ればいい。なんなら塗ってやる」
「もう、ボンったら」
お預けなんてごめんだ。その美しさはさることながら、愛する女が自分色に染まっているのが堪らない。ねだるように、じっとりと熱い視線を落とすと、彼女は吐息を潤ませた。
なんだかんだ、彼女も今に俺が欲しくて堪らなくなる――タキシード姿に目を取られていたことに、彼が気づかぬはずがない。ボンベロはふっと唇を歪めた。
なめらかなドレスの腰に手を添えて、きゅっと自分に抱き寄せる。それから、スッと通った鼻先で、彼女の頬や鼻すじをなぞった。
「だめか」甘く、低い声で言う。
ジュリアはこれに弱いのだ。普段は絶対に出さないような、熱を孕んだ男の声。彼女が断らないだろうと知っていて、ボンベロは悪魔の囁きをしている。
考えるようにみじろぎをするジュリアだったが、やがて観念したのか、長い睫毛をそっと下ろした。それを合図に、ボンベロは熟れた果実に噛みついた。
「……ん、ボンベロ……」
「……ったく、見せつけるのが惜しくなってきた」
長いキスを終えて、ボンベロはきつく体を抱きしめたあと、彼女のことをもう一度眺めた。
「見せつけても構わん、って言ったのはだあれ?」
「俺だな」
白い肌にダイヤの煌めきがちりばめられている。なんて目映い体だろう。もはやどこに視線を向けたらいいのか、迷ってしまう。と、ジュリアが濡れた彼の唇を指先でなぞった。
「ボンの唇が美味しそうになっちゃった」
ちゅ、とそのまま掠めるだけの口づけが贈られて、ボンベロは動きを止める。
「本当に、お前は……」
「し・か・え・し」
にやり、したり顔の彼女にため息をつく。そんな可愛い仕返しをされてしまっては、黙っているわけにもいくまい。
「にしても、ボンベロ、とっても素敵ね」
「お前が選んでくれたからな」
そんな褒め言葉を受け止めながら、ヒールを履いて、ピン、と伸びた彼女の背を撫でる。もう、と呆れた声が聞こえるが、それを無視して、ボンベロは露わになった肌の上に、手のひらを滑らせた。
「そういえば知ってるか」
耳元で囁く。
「なにを?」
「服を贈るってことは、その服を脱がせたいって意味だ」
低く掠れた吐息を吹きかけると、彼女の体がぴくりと跳ねた。背すじをなぞり、肩を愛撫する。それから再び翼をなぞるように手を下ろしていく。と、小さなファスナーを見つけて、ボンベロは指を掛けた。
「ね、予約の時間まで、そんなにないわよ」
焦ったジュリアが、胸を押して、柱時計を見遣る。ちらり、視線を向けると、たしかに時計の針が一周とちょっとすれば、取り決めた時間になってしまうところだった。だが、その少し前に迎えを呼んである。ここから、レストランまではそうかかるまい。万が一、出るのが遅れてもなんとかなるだろう。
はだけた衣服を直すのに五分、ジュリアのルージュを塗り直すのに五分。それを含めても、針がひと回りするほどはある。十分だ。
咄嗟に計算して、フッと笑みを深める。
「……一時間、みっちり愛してやる」
とびきりのディナーに向けて、ひと汗かこうじゃないか。
その夜、街のとあるレストランで、やけに上機嫌なボンベロの姿が見られたとか、そうでないとか。
Faire un exercise aperitif:食事前の(食欲を促す)運動をする
aperitif(仏):(名)食前酒(形)食欲を促進させる
