客間の襖を締め切ると、雨の音は一瞬にして遠のいた。
口の中のザラつきを感じながら、座布団の上に正座をして、背筋を伸ばす。
目の前には、三人の男が控えている。近藤さんと土方副長に、松平様――この場合は松平長官と言った方が正しいかもしれない。揃いも揃って真っ黒な幹部服に、幕府重鎮の証である黒のロングコート、物々しい雰囲気だ。
「凛子ちゃん、忙しいところ悪いな」
松平長官はお店とは違ってどこか威風堂々とした佇まいで言った。相変わらず警察官とは思えない様相だが、その雰囲気に飲まれて、とんでもございませんと返す声は微かに掠れてしまった。
「店にいる時のファビュってるドレスも艶やかで堪んねェが、その着物も似合うってもんだ。いやぁ、いい女は違ぇなァ」
中身は、彼のままだ。ほんの少しホッとする。
「ありがとうございます。松平長官もこうしてお会いすると、より一層男前でいらっしゃいますね」
「長官なんて堅苦しいのやめてくれや、仕事してるみてぇじゃねぇか」
口からするすると出てきた言葉に内心頬を抓りたくなったが、松平様の目元がだらしなく緩んだので胸を撫で下ろした。
その間も片側からは鋭い視線が向けられている。肌がヒリヒリ、焼けてしまいそうな、突き刺さるような。情けないことに、それにわたしは怖気付いてしまう。
鬼と謳われる土方十四郎の名は伊達ではない。いつものように笑みを浮かべるが、きっと引き攣っているだろう。
知ってか知らずか、その後も松平様は呑気に他愛もない話を続けてくれた。
「とまあ、世間話もこの辺にしておいて、本題に入るとしよう」
暫くして、煙草の煙をふう、と細く長く吐き出すと、一瞬にして彼の纏う空気が変わった。
さすが長官というだけある。今でもきゅ、と締め付けられるような心地がするのに、これがもし敵と見なされてしまった時には、一瞬で気圧されてしまうだろう。
「近藤から話は聞いた。勝手に聞いておいて話を持ち出したのは済まねぇとは思っている」
「いえ、事情が事情でしたから。その節は本当にお世話になりました」
三つ指ついて頭を下げると、松平長官は止してくれ、とでも言うように、手をひらひらと振って「構わねェさ」とひと言。それから、吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「単刀直入に言う。凛子ちゃん、俺のところに来る気は無ェか」
ごくり、生唾を飲み込んだ。易々と言葉を口にするのは躊躇われ、わたしはただ瞬きを繰り返すので精一杯だった。
「女一人で生きていくにゃ、この世は厳しい。男女の平等が謳われるようになったと言え、まだまだ真っさらな田んぼに苗植えどころか種を蒔いたしたようなモンだ。それに加えて……」
「わたしは身分を証明するものがなにもありませんから」
言い淀んだ言葉を補うように続ければ、彼は一度複雑そうに眉根を寄せたが、のちに神妙に頷いた。
思い出されるのは、仕事を探してかぶき町を練り歩いた時のこと。かぶき町で人生の再スタートを切る人も多いが、やはり、それが成功するのなんて、ごく僅かな一握りなのだ。アルバイトに就くのでさえ、あれほど苦労して、嘘を並べ立てて経歴を作っても、そうは上手くはいかないよう、世の中できているのかもしれない。
もしかすると、単にわたしが嘘を吐くことが、この世界の住人である〝東雲凛子〟を演じるのが、下手なだけかもしれないが。
ともかく、松平様の言う通り、世は斯くも厳しい。
「むしろ、ここまで一人でよく頑張ったモンだ」
だが、松平様が続けた言葉に、思いがけず、胸を突かれた。
――なんで、どうして。
どうしてこんなわけもわからぬ女に、そんな言葉を掛けてやれるのだろう。
どうして。
――どうして?
目頭がじわり熱くなるが、眉を下げて情けなく笑ってどうにか堪える。
「とっつぁん、俺は反対だ」
そこで初めて、副長さんが声を上げた。
低く、そして粒の揃った凛とした声だった。
ぴくりと肩を揺らして、恐る恐るその声の元に視線を向けるわたしとはうらはらに、松平様はサングラスの奥で遠慮なく顔を顰める。
「うるせェトシ。てめぇにゃ聞いてねェ。これはな、俺と凛子ちゃんの問題なんだよ。パパ呼びはパパ呼びでも、違うパパか、それとも本当のパパになるかで違ってくんだろーが」
「まあまあ、とっつぁん、俺は背徳感のあるパパ呼びも好きだ」
追い討ちをかけるような近藤さんのとぼけた言葉に、溜め息を吐くのが聞こえる。だが、それも束の間のことで、副長さんはすぐに元の威嚇するような様相に戻った。黒い真っ直ぐな髪の合間から、瞳孔の開いた鋭い瞳がゆっくりとこちらに向けられる。整った顔立ちも相まり、なんとも冷ややかで迫力があった。
でも、彼の言い分が尤もだ。
かえって、安心するくらいに。
わたしは、唇を固く結び、膝の上で拳を握る。
「俺はなぁ」
松平様はいう。
「凛子ちゃんと一緒に呉服屋に行きてぇんだ。それでな、やれこっちが似合うだあっちが格好良いだ、着物とか洋服を選んでもらうのが夢なんだよ」
「いや、アンタもう既に一人、娘がいるだろ」
「想像してみろ、栗子と凛子ちゃんが二人で一緒にいるところを。可愛いの二乗だ。控えめに言って最高。いや、最高オブ最高じゃねぇか」
目の前の気難しい顔がさらに歪められる。
「しょうもねェことに付き合わせないでくれ、とっつぁん。第一あの女もいい歳だろ、妾を取るんじゃあるまいし」
「トォォォシィィィ?」
松平様は腹の底から地響きのような激昂の声を上げると、立ち上がり腰元に手を遣った。
「テメェ、俺の凛子ちゃんになんて口聞いてやがんだ。今すぐその頭ぶち抜いてやる、そこへ直れ。それとも天国のババアの元へ連れて行ってやろうか、えぇ?」
黒光りするなにかが見えるが、横の鬼の副長は動じない。
「あの、松平様」
おろおろしながら声をかける。
「その……副長さんの仰ることも尤もです」
松平様はホルスターから拳銃を取り出そうとした手を止めて、だけどよォ、とぶつぶつ呟きながら座り直した。
「わたしも、いい齢です。正直なところ、養女だなんてお受けしていいような歳でもないんです」
「本人がわかってるんなら、もう良いじゃねぇか」
ハン、と鼻で嘲けながら唸るような声で言われ、奥歯をグッと噛み締めるとわたしは目を伏せた。
「トシ、俺たちが今、口を挟むべきじゃない」
「しかし近藤さん」
なにを考えているか読めないような面持ちの松平様の隣で、近藤さんがそれ以上はなにも言わずに首を横に振る。
「この先、どう生きていくつもりだ」
「それは……」
松平様に問われて、歯切れ悪く口を閉ざす。
「無理して、茨の道を行く必要なんかねェんじゃねえか」
茨の道――客間が、静まり返る。
雨の音が微かに、はるか遠くに聞こえ、まるで、この一瞬時が止まったかのようだった。
遠くて、遠くて、――近い。
わたしは、浅く呼吸を繰り返し、下唇を噛み締めた。
「……少し考える時間を頂いても、よろしいでしょうか」
――水商売をする女を夜の蝶とはよく言うけれど。
今のわたしはきっと、そんな綺麗なものなんかではない。
甘い蜜に吸い寄せられた蛾だ。
膝の上で握った拳は、力を込めすぎて色を失っている。松平様はそんなわたしに声色を柔らかくして、勿論だ、と頷き、続けた。
「昨日今日で決められる話じゃねぇことはわかってる。ゆっくり考えてくれ」
頭を下げたあと、わたしは唇を結んだままやんわりと目を細めて、頬を上げた。そうして曖昧な笑みを浮かべて松平様を見れば、彼は全て見透かすかのように真っ直ぐに、それはそれは真っ直ぐに、わたしを射抜いた。
「凛子ちゃん」
サングラスの奥で鋭い瞳が微かに丸みを帯びる。そして、唇を薄くして、思わず見惚れそうなるような、深い想いを抱いていると言わんばかりの強くて優しい男の顔をした。マフィアの首領のように、見えなくもないが。
「俺は惚れた女にゃ、不自由させたくねェ。ただそれだけだ」
――君は“真”だ。
先生の声がどこかに聞こえた気がした。
心、体、全てに沁み渡り、あれほどに嬉しかった言葉が、生きる糧になった言葉が、なぜか今は苦しいような、そんな気がする。
喉の奥がザラザラする。なにかが痞えて気持ちが悪い。取り除きたくて、喉元を掻きむしってしまいたくなるほどに。でも、できない。
――やっぱり、わたしはなにもない女ですよ、先生。
「俺が行く」のひと言で、帰りはなぜか副長さんが見送ってくれることになった。
行きといい帰りといい、仮にも警察の重鎮に手間を掛けさせていると思うと、どこかいた堪らない心地になる。それと同時に、言い様のない居心地の悪さも。
彼のあとを数歩遅れてついて行く。
淀んだ空気が辺りを包んでいる。ザアザアと降る雨の音が、心なしか強く、重々しい。
――やはり、少し、苦手だな……。
そんなふうに思ってはいけないと言い聞かせるも、ふと胸の内に浮かんだのは正直な言葉であった。だがどうせ、向こうも同じようなものだ。
雨の匂いに混じって、微かに苦い煙草の匂いがする。彼は背を向けていると言うのに、まるで隙がなく、呼吸さえも司るような緊張感を生み出している。思わず、こちらの背筋がピンと伸びてしまうほどだ。
唇がカサつく。静かに舐めとると、空気にふれて冷んやりとする。
――彼が正しいのだ。
息が苦しくなるが、この鋭く重い空気はかえって、腑に落ちるとも言える。
「先日は、ありがとうございました」
スナックすまいるでの件を思い出しながら、わたしは口を開いた。
振り返る事も、足を止める事もなく、低く唸るような声でああ、とだけ返ってくる。
はやく帰りたい。そう心の中で唱えながら、もう一度唇を舐めた。
「あの」
「なんだ」
今度は、足を止めて振り返った。
「ハンカチ、遅くなってしまいましたが、お返しします」
すかさず、手提げの中から包みを取り出して差し出す。
露草色に近い薄い青の包みだ。先日選んだハンカチと、ほんの気持ちだが、茶請けも付けた。
彼は驚いたように包みを一目するも、じい、とわたしの顔を見つめて、それから、流れるような動作で鋭い瞳を外に流した。
「要らねェ」
その言葉にムッとしながら、踵を返そうとする副長さんにわたしは食い下がる。
「それじゃあ、困ります、その、わたしの気が済まないんです」
「ア? 気にすんなと言っただろうが」
「でも、中身をだれかに確認させても構いませんし、煮るなり焼くなり、あるいは捨て下さってもいいです。どうか受け取って頂けませんか」
お願いします、と頭を下げる。
悩みに悩んだ挙句、山崎さんの貴重な休みを頂戴したのだ。押し付けがましいだとか強情だと思われても、はいそうですか、なんて、今更易々引き下がることはできない。
そのまま、「せめて、感謝だけはお伝えしたくて」そう弱々しい声で付け加えると、しばらくして舌打ちが聞こえた。
ゆっくり手が伸びてくる。ゴツゴツとした、男らしい手が。
「これで満足か」
そして、手の中にあった包みがなくなった。
視線をそっとあげる。渋々、といった顔つきで、溜め息がおまけについてはいたものの、その男の手に包みが握られていた。
「っぁ、ありがとうございます!」
わたしは驚きもそこそこに、嬉しくなって途端に笑みを咲かせると、彼は一瞬目を見開いた。だが、すぐに包みを胸元にしまって「行くぞ」と、くるり背を向けてしまった。
はい、と小さく頷いて、その背を追う。先程までの喉のザラつきも、纏う空気の重苦しさも、今だけは薄れたような気がした。
「なにを考えているか知らねぇが、今回の件はなかったことにしてくれ。俺からとっつぁんには上手く言っておく」
――だが、それもザアザア降り続く長雨のほんの少しの晴れ間のようなもので。
屯所を出たところで、彼は胸元から煙草を取り出しながら言った。声色は低く張り詰めたように厳しく、その上咥えた煙草を手で覆い、カチカチとライターを鳴らす。だが、雨が降っているからか、湿気でなかなか火が付かない。
――そういうこと、ね。
なぜ彼がわたしをわざわざ送りに来たのか合点がいって、短く息を漏らす。
やっとの思いでシュボッと勢い良く火が付くと、副長は煙を薫せながら片手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「ご安心ください、最初からそのつもりです」
「それなら、なぜあの場で断らなかった」
「それは……」
不意に、喉の奥が窄まる。薄く開いた唇を閉じて、どうにか息を飲み込もうとするが塊を飲んでいる気分だった。
小さく俯いて、濡れた袖口を眺める。
「失礼のない、断りの言葉を考えたかったからでしょうか」
わかりかねるように眉を顰めた副長さんに、わたしは「お見送りありがとうございました」とぎこちない笑みを浮かべて一礼とすると、ザアザアと降り頻る雨のカーテンへと傘を差しその場を後にした。
