第一幕 第七話

 運命の日となった。
 隊士の一人に連れられて、屯所内を進む。二度目だと言うのに、ひと足ひと足踏み締める度に緊張が増して、みぞおちのあたりが気持ち悪い。何回か廊下を曲がったところで、隊士は足を止めた。
「副長、連れてきました」
 襖の向こうから「ああ」と一言返ってくる。声が聞こえてきただけだと言うのに、ピリッと肌を刺すように空気が凍てついた。
「山崎か、入れ」
「ハイ」
 山崎と呼ばれた彼は、そっと襖に手を掛ける。
 ここは、副長室だろうか。いや、こんな怪しい女をそこに通す訳がないだろう。どこか、応接間のようなところか。
 考えているうちに、ザッと視界が変わる。山崎さんは中も確かめずこちらに視線を寄越すと「どうぞ」と先を譲った。
「失礼致します」
 足を踏み入れる前に、ごくり、唾を飲んだ音は聞かれなかっただろうか。
 瞳を閉じ、こうべを垂れて、鬼のいる間に入る。
「山崎から話は聞いている」
 瞼を上げると、あの男が座っていた。十畳ほどの畳の間に、彼一人。胡座をかいて座る横には、刀が置かれている。
「恐れ入ります」
「座れ」
 隙のない声が響く度に、背筋が伸びる。
 はい、と頷いて、指先がピリピリと痺れるような感覚を堪えながら、土方副長の目の前の座布団に腰を据え、真っ直ぐに彼を見た。
「言っておくが、テメェの疑いも完全に晴れたわけじゃねぇ」
 前置きもなく切り出されて、口元を強張らせる。
 彼の声は敵に対してのそれであり、慈悲も情けもない、低く唸るような声だ。
「はい、存じております」
 対して、わたしの声は、蛇に睨まれた蛙と言えばいいか。思いがけず震え掠れてしまった。彼を目の前にして、喉が上手く動かない。きゅ、と膝の上で拳を握り締めると、土方副長は凄むようにして続ける。
「なにかあれば、その時は――」
 瞳を鋭く細めて、わたしを射抜いた。
 ――覚悟はできているんだろうな。
 言葉にならずとも、眼が物語る。空白の本意は突き刺さるようにして胸に届いた。
 側に控えていた山崎さんが、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえる。わたしは、その視線に臆することなく、ただ静かに頷く。
「なにかあれば、ひと思いに斬って頂いて構いません」
 迷いのない声で告げると、副長は眉をピンと跳ねた。それから、鼻で遇らうように息を吐き出して、山崎さんに「連れてけ」と命令した。
「せいぜい、近藤さんととっつぁんに感謝するんだな」
 胸元から取り出したライターが、シュボッと音を立てた。
 ある攘夷志士の粛清が執りなされるのは、明日。だが、幸運にも、警察庁長官である松平片栗虎の恩情によって、特別に今日一日だけ、その男が真選組の地下牢に連れて来られることになったのだ。
 銀さんが掛け合ってくれたのだろう。彼は一言もそんなことを口にはしなかったが、ここに連れてきてくれたのは他でもない彼だった。
「ええ。感謝してもしきれません。このご恩は必ず」
「恩を仇で返されないことを祈ってるぜ」
「本当に、ありがとうございます」
 頭を下げて礼を述べるが、目の前の男は紫煙を燻らせるだけ。
 山崎さんがどうぞこちらへ、と側に立ったので、わたしは彼を見上げて頷くと、着物の裾を整えながら、立ち上がった。
「ハンカチ、新しいものを必ず、お返ししますから」
 思い出したように疼く指先の傷を手のひらにしまい込みながら、たおやかに笑みを浮かべる。
 部屋を出る時には、もうその笑みは消え去ってはいたが、それでももう一度頭を下げて山崎さんの後について行った。

 

 

「どうしてあの女子おなごにあそこまでしてやるのだ」
 銀時が橋の欄干に手を掛けて、川を眺めていると、大きな傘を被った僧がやって来て隣に立った。
 それがだれだか確認するまでもなく、銀時はちらりと横目で一瞥を送っただけで、じい、と川の流れを見つめている。
「さァな」
 ぽつり呟いた声は川のせせらぎに消えて行く。
「自分たちと重ね合わせていたからではないか」
 僧姿の男は続けた。
「まさか。ヅラ、それはお前じゃねぇの」
「そうだと言ったらどうする」
「どうもしねぇけど」
 咽び泣く女の姿を思い浮かべながら、銀時は橋桁に載っていた木の葉を手に取ると、視線を鼻先によせあわせて、ひらひらと指先で転がす。
「俺ァ、ただ美味い飯が食いたいだけだ」
 そして、ゆったりと静かに流れる川面に、そうっと投げ入た。
 ――なにかあったら、あの子の助けになってやってくれないか。
 木の葉は水面に揺蕩い、どこまでも流れて行く。銀時はふ、と口元に弧を描いた。

 

 

「先生」
 ミシ、と不快な音を立てながら階段を降りて行くと、暗澹たる闇が身を包む。山崎さんたちが手元の明かりを宙に掲げると、ぼんやりと人影が浮かび上がった。
 なんのゆえんか、わたしが以前過ごしたのと同じ場所。そこに、あの人が立っていた。
 両手を後ろ手に縛られ、足にも重石がつけられている。清潔感のあった髪は解れ、藍鼠色の着物は煤を被り、色が褪せてしまっていた。ひとつの時代に幕が下りたかのようだった。
 わたしの情けのない声が響き、彼は下ろしていた瞼をそっと擡げた。
「凛子さん」
 どうしてここに。そう言いたげに、瞳が揺れた。落ち窪んではいたが、それでも澄んだ瞳だった。
「どうしても貴方に会いたいと、万事屋にわがままを言わせてもらいました」
「そうか、アイツが」
 そう言う先生の顔は、安堵するような、それでいてなにかを懐かしむような柔らかいものだった。
「先生」
 呼びかけると、彼は、ふ、と息を漏らす。
「ずっと思っていたんだが、君に先生と言われると、なんだかむず痒いな」
 悪戯を思い付いた子どものように、あまりに呑気に笑みを頬に浮かべるので、わたしは眉を下げた。
 そして、なにも言えぬまま、代わりに彼が言葉を続ける。
「この老いぼれの戯言たわごとを聞いてくれるか」
「老いぼれだなんて、先生が言ったら怒られますよ」
「なに、見た目はそうかもしれないが、心の中はとっくのとうに時代に取り残されて、一気に老いてしまったようなものだ。浦島太郎が玉手箱を開けたようにね」
 皮肉だと笑えども、その顔には一切の翳りもない。
「これが俺の最期の願いだ。いいね」
 その言葉に、大きく息を吸いこくりと頷く。
「まずは、そうだな……。君に謝らないといけない」
 彼は言う。
「俺は散々君に偉いことを言ってきたが、到底そんなことを言える人間じゃなかった。俺は、〝真〟ではなかった」
 すまない、と瞳を伏せる彼を、わたしは黙って見つめていた。
「とんでもない裏切りをしていたことは、わかっている。だが、風の心地よいあの夜、俺の目の前にやってきた君がこの世界で一人だとわかった時、どうしようもない気持ちが湧き出た」
 まるで昨日のことのように思い返しながら、懐かしむように、慈しむように、彼が話す言葉をひとつひとつ受け止める。

「君が身売りをすると言った時は、内心度肝を抜かれたものだ。だが、だからこそ、守ってやりたい、居場所になってやりたい、とも強く思った。そんな器ではないと言うのに、一度そう感じたら、いても立ってもいられず、君を引き留めてしまった。君を思えば、そうすべきではなかった。それなのに……すまない。身勝手な俺を許してくれ」

 目に薄っすらと膜が張っていくのを感じながら、それを溢れさせぬようにゆっくり首を横に振る。
「身勝手だなんて、そんな、貴方は……」
 彼はやんわりと笑みを口元に讃えた。
 あの夏と同じ。子どもたちが「せんせい」と喜び駆け寄っていく、あの笑みを。

「気が付いたら、後に引けぬほど色んなものを背負いこんでいた。そんなもの、持っていてはいけないとわかっていながら、今更捨てることはできなかった。でも、それが、不思議なほどに心地良かった」

 記憶に残るものとは違う、砕けた物言いが、本当の先生の姿なのだろう。彼の言葉に、凍て付いた氷が溶け出していく。心の奥で、冷んやりと冷え切っていた氷が。
 喉の奥から熱が込み上げてくる。鼻の奥が、目頭がツン、と熱くて、痛い。

「先生、貴方がいたから、わたしは……わたしはここで生きてこれた。攘夷だろうがなんだろうが、先生は、わたしの光でした。あたたかくて、眩しくて。いつも先を照らしてくれた。本当はもっと、色んなことを教えて欲しかった」

「可笑しいな。君は門下生ではないはずなのに。まるで大きな子どもだな」
 ふっと鼻で笑う先生の、少し草臥れた目元に親指を添わせる。指先に触れる熱。彼が生きていることを、強く、確かに感じさせる。
「本当に……本当に、ありがとうございました」
 息を大きく吸い込んで、思いの丈を唇から唱えると、先生は目を細めて口元を緩めた。
「礼を言うのは、俺のほうだ」
 彼はゆっくりと紡ぐ。
「あの日、俺の前に現れてくれてありがとう」
 それは、透き通るような、心の奥まで染み渡るような声だった。
 これが本当に最期なのだと実感して、思わず鼻の奥がツン、と痛む。目の奥は、もう砕けて、ほどけて、ぽろぽろと崩れて、溶けていく。
 本当はいつまでも聞いていたいのに。もう二度と、聞けなくなってしまう。

「オイ。山崎、出るぞ」
「でも、副長、いいんですか」
「ああ。しばらく二人にしてやれ」
 重い扉が開かれる音がする。いつの間にか、後ろに感じていた気配がなくなって、わたしたちはなにもない、薄暗い牢屋に二人きりになっていた。

「ああ、真面目な話をしたら、腹が減ったな」
「奇遇ですね、わたしもです」
「君の作った、あのふわふわのおむらいすが食べたいな」
「また、作りますから。いつでも」
「そりゃあいい。楽しみにしてるさ」
 ついに目の端から零れ落ちた雫を拭うこともせず、わたしはただただ、彼の声を、ニッと太陽のように笑うその姿を、脳裡に焼き付けていた。

 

 

「良かったのか、これで」
 真選組屯所の立て看板を背にして、歩いていく。足を進めるたびに、ザッザッとこなれた砂利の音が鳴る。原付バイクのヘルメットを手にしながら、わたしの顔を伺い見る銀さんに、ゆっくりと首を縦に振った。
「いいんです。あの人が天命を受け入れると言うのだから、わたしはなにも言うべきことはありません」
「あっそ。言いたいことは全部言えたのか」
「ええ」
 銀さんの言葉に頬を持ち上げて、唇で弧を描きながら、わたしは迷うこともなく頷いて、空を仰いだ。
「もう、すっかり秋ですね」
 空が高い。青空に透き通るような雲が泳いでいる。
 時折吹く風はどこか冷たくも、夏の残滓を辺りに散りばめて、ほんのりと優しい気持ちを齎らしてくれる。
「ああ。あっという間に夏が終わっちまったよ」
 銀さんも同じように空を仰いだ。
「食べ物の美味しい季節ですね」
「お前さァ、その色気より食い気なところ、どうにかした方がいいんじゃね?」
「あら、いいじゃないですか。美味しいものを美味しいと言う。楽しいことを楽しい。幸せを、幸せと言う。そんな贅沢なことはありませんよ」
「そーかよ」
 胸を張って、からからと笑うわたしに、銀さんは呆れたように息を吐いた。
「帰ぇるぞ」
 彼は原付のエンジンを入れると、それに跨り、ヘルメットを手渡してきた。両手で受け取りながら、目線が同じ高さになった銀さんを見つめる。
「どこに?」
俺ら・・んち」

 死んだ魚のような目は、いつものように気だるい。けれどそれがどこかまあるいような気がして、「言っておきますけど、わたしは居候ですからね」とぼやきながらも、わたしはヘルメットを被って、彼の後ろに跨った。
「アー、いけね、忘れてたわ」
 そうだわそうだわ。下手に惚けたあと、銀さんはハンドルを握りしめる。
「お給料払ってもらえない職場はちょっとねぇ」
「ウワァ、この子辛辣なんですけどォ」
 棒読みの台詞にけらけら笑いながら、銀さんが手首を捻ったのを合図に二人を乗せたバイクはゆっくりと動き出す。
「ま、職は気長に探しゃいいんじゃねェの」
「そうですね。いいところが見つかることを願っておきます」
 少しだけ夏を恋しく思いながら、赤く腫れぼったい目尻を撫でるやさしい秋風に、わたしは目を細めてそうっと身を委ねた。