いつもどおり、ひとつのベッドに入る。ころん、とふかふかのシーツに身を預けた彼女の髪を撫でながら、ボンベロは上半身をヘッドボードに預け、眠りに就く前のバーボンを嗜んでいた。菊千代は気を遣ってか、このごろはリビングのカウチで眠っていることがしばしば。今日もきっとその例に漏れず、というところだろう。
淡い月光が照らす寝室には二人だけ。ぬるい海風が、静かにカーテンを揺らすのを眺めながらバーボンに口をつける。
「ねえ、ボンベロ」
ジュリアが子猫のように鼻を擦り寄せてきた。
「まだ寝てなかったのか」
その子猫の額をやさしく撫で、髪の毛を耳にかける。その髪は絹のようにすべらかで、いつまでも指を通していたくなる。
子猫は心地好さそうに、今度は頬をぴったりくっつけてきた。
「なんだか、寝るのがもったいない気がして」
たしかに、風のそよぐ音しか聞こえず、赤ん坊を包むガーゼケットのようなしっとりとした夜の空気は、朝を迎えるのがいささか惜しくなる。これまで、自分たちが過ごしてきた滔々と続く闇とは違う。日は昇り、新たな一日がまたやってくる。目映い日射しに満ちた日々を待ち受ける、そんな夜だった。
「ボンベロは、怖くなることがない?」
ジュリアがシーツの中で、ぎゅう、とボンベロに抱きついた。
「なにをだ」ボンベロはゆっくり髪を撫で続けながら、訊ねる。
「ありふれた日常が。血の滲まない毎日が」
ジュリアは言った。彼は、そっと手を止めた。
「お前も、すっかりあの世界に染まっちまったもんだな」
月光に照らされた頬が、薄っすらと濡れている。それを親指で拭うと、彼女は長い睫毛をゆるりと揺らして瞳を伏せた。
彼女の気持ちがわからなくもない。こうして誰かの命を奪うことなく、また、奪うのを目の当たりにすることもなく、普通の生活を送るのが、殺し屋にとってどれだけ特異なことか。願ったとしても叶うことはない、それこそ夢の遥か先の世界だ。
かつてはその世界をたしかに知っていたはずなのに、ひとたび人を殺めてしまえば、途端にそこには戻れなくなる。次々と手を血で染め、気がつけば全身どす黒い赤で染まり、深い沼へとはまりこんでいた。周りには数多の屍。抜け出そうとしてもかえって深みにはまるだけ。だが、それが殺し屋たちにとっては救いでもあった。
その世界から足を洗った今、ボンベロとて、この生活を享受しておきながら、心のどこかで自問し続けている。
「わたし、本当に、幸せになっていいの?」
静かに海風が入り込んできたあと、ジュリアが揺らいだ声で言った。
ボンベロはそれをそっと抱きとめる。彼女のこめかみをなぞり、耳の裏、頬、そして、震える唇へと指先を滑らせた。
「……お前はどう思う」
訊くと、腰を抱きしめる力が強くなった。
「こわい」今にも、消えてしまいそうな声だ。
「またこの手を誰かの血で染めるんじゃないかって。いつか、誰かの手まで染めてしまうんじゃないかって、そう思うの」
そう、幸せすぎるあまり、その幸せを手にするのが恐ろしくなる。銃声も悲鳴も、かつて自分を苛んだすべてが、聞こえることのないこの世界が、あの日以来、心の奥にしまい込んだはずの魔物を駆り立てる。この生活が、この幸せが、どうしようもなく愛しくありながら、この手からすり抜けていく瞬間が頭をよぎる。体中の傷や刻み込まれた狂気が、ときおり酷く疼いて、どうしようもなくなる。一度自らの内に飼った獣は、一生消えることはない、そう物語るかのごとく。
――それでも、思うのだ。彼女だけは、離すまい、と。彼女を、この腕の温もりを、知らなかったころには、到底、戻れないのだから。
「そのときは、俺がお前を殺してやる」
彼女の頭を自分の胸に押しつける。とくり、とくり、ちょっとやそっとじゃ止まりそうにない心臓の音を聞かせる。
「ボンに、なすりつけてばかりでごめんなさい」
「一応、自覚はあるんだな」
「そりゃね」
苦しげにみじろぎをしたジュリアに、ふっと笑みを零し、ボンベロは彼女の額をやさしく撫でた。それから頬を滑り、首すじ、肩、二の腕をなぞって、彼女の手を取った。
「ジュリア」
彼女の指に自分のそれを絡ませながら、彼は囁く。
「安心しろ。お前となら、楽園でも、奈落でも、どこへでも行ってやる」
絶対に、この手を離しはしない。
――絶対に。
「ボン、ありがとう」
潤んだ声が胸元に滲んだ。どこまでも、自分に光を宿してくれる、愛しい声だった。
こみ上げる熱い想いを抱きしめながら、なめらかな絹の肌を親指でなぞり、ぎゅう、と小さな手を握りしめる。彼女となら、このままどこまでもともにゆける。
「だが、その前に」彼はふっと眦を緩めた。
ずるり、ヘッドボードに預けていた背中をずらして、シーツに潜り込む。彼女の額に自らのそれをこつんと合わせると、彼はじっと彼女を見つめた。
「朝日を、見ないか」
「朝日?」
見つめた瞳の中で宝石が揺らぐ。
「そうだ。シーツにくるまって一杯のコーヒーを飲みながら、東の空が白んでいくのを眺めるんだ」
きっと、美しいことだろう。窓の向こう、グラデーションの空に浮かぶ、目を灼くほどの目映い真珠。なにもないこの部屋に、たっぷり瑞々しい光が射し込む。白いレースのカーテンが、さっぱりと洗われた風にひらりひらりはためき、シーツに影が踊る。香ばしい香りに包まれ、互いの呼吸で世界が満ちる。なにも、怖いものなどない。
「一緒に、見てくれるの」
「ああ。ジュリア、お前と見たい」
ぎゅっと手を握る力を強めて、彼女の瞼に口づけを落とす。
「それで、美味い飯を作ってやる」
「とろとろのスクランブルエッグに、焼き立てのカンパーニュ」
「それから、カリカリに焼いたベーコンもだ」
最高、腕の中でジュリアが言った。
夜明けまではまだ時間がある。ずっと、ずっと、こうしていよう。ボンベロはやわい微笑みとともに、そう心に誓った。
それからも二人は旅を続けた。大陸を渡り、さまざまな土地へ。約束を巡る旅の果て、カナコに再会するのも、そう遠くはない話である。
