店を出ると、二人はこの数日間で慣れた道のりを歩いた。裏世界を生きてきた彼らのことだ、たとえ組織が壊滅したとニュースやラジオで耳にしていたとしても、行き先のわかりやすい大通りを堂々と歩くわけにはいかない。いつどこで追っ手に尻尾を掴まれるかわかったものではないのだ。
とはいえ、彼らは青空の下、静かな住宅地を進んでいく。ゆったりと、行く末を案ずることもなく。小鳥がさえずり、家々の窓から子どもが顔を出すのをのどかに眺めたりしながら、太陽に燦々と照らされた石畳を踏みしめていく。
しばらくすると、少し開けた広場のような場所に辿り着いた。そこでは、小さな市場が催されていた。
「菊千代の苺を買っていかないとね」
パン屋に肉屋に、骨董屋、珍しい風景なのだろう、ジュリアはぐるりと周囲を見回しながら言った。
「……少しは落ち着けないのか」
隣で歩きながら、ボンベロは呆れの色をその瞳に載せる。こういうふとした仕草が彼女を年相応、あるいはそれよりも幼く見せる。彼女が本当に殺し屋だったのか疑いたくなるものだ。
「いいじゃない、なんだか楽しそうなんだもの」
「俺たちは遊びにきたわけじゃない」
子どものようにきょろきょろと視線を動かすジュリアに、ボンベロは釘を刺す。
「もう、子どもじゃないんだから、わかってるわよ」
ムッと唇を尖らせたのもつかの間、次の瞬間には、「あ、見てボンベロ、平たい桃よ」とジュリアははしゃぎ声を上げた。
言ったそばからなんとやら、である。青果売りの荷台に積まれた平べったい桃へと飛びついたジュリアに、ボンベロはやれやれと息をついた。
「ったく……子守は嫌いなんだが」
そんなことをぼやくも、店主と話すジュリアの横顔に屈服して、彼も静かにその横で目当ての苺の籠に手を伸ばした。
「ドーナツピーチとも言うらしいの、すごく甘いんですって」
店主との会話を遮り、ジュリアはボンベロをふり返った。その顔は爛々としており、雲ひとつない晴れた空によく似合う。ボンベロは嫌味を言う気にもならず、籠を抱えたまま、彼女の言う平たい桃に視線を向けた。
「日本じゃ、蟠桃と言う。中国が発祥らしい」
「ふうん、日本にも一応あるんだ」
「ほとんど見かけないがな」
孫悟空と猪八戒が食べた不老不死の実などのさまざまな逸話はあるが、今の彼女にはそんなもの右から左だろう。興味津々、といった様子で身を乗り出して桃を眺めるジュリアに、ボンベロは、「食うか?」と視線を投げかけた。
「いいの?」
ジュリアは期待のまなざしでボンベロを見上げる。
「ああ、構わん」
ボンベロは積まれた桃を指差して、店主に流暢な英語で話しかけた。少々無骨そうな面持ちの店主ではあったが、ボンベロの注文を聞くや否や、職人気質の顔にたっぷりとしわを刻んだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ、とはかりに載せたあと、店主は気前よく注文より多めの桃を紙袋に入れてボンベロに差し出す。ふわり、甘い香りが鼻孔をくすぐって、この桃をどう調理しようか、という考えが脳裏を過(よぎ)ったが、すぐにポケットからポンド紙幣を取り出して桃と交換に店主の手に握らせた。
「ボンベロありがとう」
うれしそうに破顔するジュリアに、彼はいつものごとく、ああ、と素っ気なく返す。二人の気の置けないやりとりに、「ハネムーンかい」などと、店主がいかにもな言葉を投げかけてくるが、ジュリアはただにこにことボンベロの隣で笑っていた。店主が意味ありげな表情を向けてくるのに見かねて、「そんな感じだ」とボンベロがぼやかして答える。ハア、とため息つきの言葉ではあったが、やはり、彼女の緩んだ頬を撫でるようなやわらかな声だった。
「ん、美味しい」
二人が過ごしているモーテルまで戻ると、カウチで桃に齧りつくジュリアの横で、窓枠に腰を預けながらボンベロは葉巻に火をつけた。
「そうか、それならよかった」
「ボンも食べる?」
優雅に紫煙を吐き出す彼に、彼女は桃を差し出してくる。
先ほど食べたステーキ肉で胃もたれを起こしかけていたところだ。ボンベロは唇から葉巻を離すと、返事をする前にジュリアの手を受け入れた。
まだもぎたてなのだろう、齧りつくと絶妙な固さが歯に伝わってくる。それなのにじゅわっと口に広がる甘みは、日本の桃とはまたひと味違う豊かさだった。
「ここに来て一番の食い物だ」
「そうね、ボンの眉間からしわが取れなくなる前に出会えてよかった」
ふっといたずらに笑ったかと思うと、ジュリアはそのまま桃にかぶりついた。ボンベロは葉巻を口に運びながら、横目でそれを眺めた。
あの日から数カ月。
白さの目立っていた彼女の肌が、今はほんのりと小麦色になっている。目元には軽く化粧が施されてはいるが、あどけなくも煌びやかにパールが舞い、彼女が桃に齧りつくたびに唇は濡れ、ぷるんと艶めいていた。
そのまま視線を逸らせなくなりそうで、ボンベロは長く深く葉巻を吸い、それからゆっくりとそれを吐き出した。
どうにも、調子が狂う。
とっぷり体を預けていた木製の古びた窓枠が、ミシ、と背後でいびつな音を立てる。
何度も何度も、彼女が口の中をいっぱいにして食べ物を味わう姿は見てきたものだ。だが、実のところ、店にいたころから、彼にとっては、まるで官能的な映像を見せられているかのように脳髄が揺さぶられて堪らなかった。
開け放った窓の向こうに、視線を逃す。彼の気持ちを知らずして、空は青く染まっていた。
ハッハッと息を荒くして、主人たちがなにかを食べていることに気がついた菊千代が、勢いよく駆け寄ってくるのが視界の端に映る。ジュリアは待ってました、とばかりに熟れた苺を放ってやる。と、彼は嬉々としてキャッチした。実に、穏やかな昼下がりだ。
「なんだか、変ね、なにもすることがないって」
桃を食べ終えた指先を備えつけられたティッシュで拭って、ジュリアもボンベロと同じく窓の向こうを見遣った。
「すっかりお前も、こちら側に染まっちまったようだな」
「そうね。でも、いざこんな日が来るとは思ってもみなかったから」
「それは同感だ」
組織から離れた彼らを縛りつけるものは、そう多くない。互いの存在と、あの日に交わした、ある女との約束。その二つだ。
銃やナイフを握り、血の匂いが鼻にこびりつくほどの日常は、もうここにはない。人間とは不思議なもので、何年も失われていた本当の日常が戻ってきたとなると、かえって落ち着かないのだ。
ボンベロはここぞとばかりに、ゆったりと葉巻を吸う。すると、
「ボンの作るご飯が食べたい」
ジュリアがぽつりと呟いた。白いワンピースの裾を撫でつけながら、カウチの上に脚を載せ体育座りのような形をとっている。唇をちょこんと尖らせる様は、まるで拗ねた子どもだ。
「……キッチンがないんじゃ、どうにもできんな」
ボンベロが呆れて返すも、それもそうね、とジュリアはいつもの調子で意に介さない。
「次はキッチンつきのコンドミニアムでも探しましょう」
膝に顎を載せてゆらゆら揺れる女の姿は、カウンターテーブル越しに頬杖をつく彼女の姿と重なった。一瞬、目を細めたが、なんでもなかったように、ああ、と短く言葉を返すと、ボンベロは灰皿に灰を落とした。
腹拵えを終えた菊千代が、心地好さそうに絨毯の上に寝そべっている。
モーテルは埃っぽく、決していい部屋構えとは言えない。だが、なんてことのない一日を過ごすには十分だった。
背中には燦々と太陽の光が注ぎ、熱を帯びた体をときおり、風が撫でる。空には白い雲が穏やかに流れていく。
雲の行方を眺めるジュリアを、ボンベロは見守った。視線を向けなくとも、その体で、醸す空気で、ずっとずっとそうしてきたように彼女を包んでいた。
「カナコ、どうしているかしら」
やがて、ジュリアがぽつり呟いた。開け放たれた窓の向こうから、ちゅん、ちゅん、と鳥のさえずりがしてくる。銃声や悲鳴は、一切聞こえない。
「さあな」ボンベロは素っ気なく返した。
が、伏せた瞼をもたげてアンニュイなジュリアの横顔をちらりと盗み見ると、
「あいつのことだ。どこかで図太くやっているに決まっている」
と言い添えてゆっくりと葉巻を吸った。
互いの存在を除いて、二人を唯一縛るもの――それは、〝カナコ〟との約束だった。
