すっかり静けさを取り戻した街並みをゆっくり進んでいく。つい頬を撫でるこごえるかぜに急ぎ足をしたくなるところだが、粉雪の舞うキルクスの景色を味わいながら私は高台にあるスタジアムを目指していた。
冬も深まり、まもなく寒さも尽きてくるころ。しかしホワイトヒルのふもと、この街ではまだまだ春は訪れる気配がない。今年度のリーグが終わり、街はしばらく眠りについている。実際には、白い吐息をこぼしながら人々がポケモンを連れて行き交うのだが、話し声よりもザクザクと積もった雪を踏みしめる音のほうがよく響く。
こんなにもじっくりキルクスの街を眺めるのは久しぶりかもしれない。チャレンジャー時代、初めて訪れたこの街は絵本で見た風景にそっくりで、幻想の中に紛れ込んでしまったのだとどこか胸を弾ませたものだ。頬を真っ赤に染めて、マフラーに顔をうずめて、滑らないよう慎重に勾配を上がっていく。そんな少女の姿を先に見つけ、ふと白い息を止めその場にたたずむ。
未来を信じてやまなかった少女時代、早く大人になりたいと願っていた。大人の世界はきらびやかで、まぶしくて、そこに存在する大人はどこか空想の住人なのではないかと思うこともあった。しかし描いていた未来と現実は、残念ながら完全に一致することはない。今の自分はあのころ想像していた大人とは、大きくかけ離れているだろう。
少女の背が小さくなる。温泉に向かうのだろうか、ジムスタジアムに向かうのだろうか。ホテルイオニアの壮麗な石造りや閉ざされたフラットの窓や扉に囲まれ、吹き抜ける風に髪を預けながら私は息を吸い込む。冷たい。胸がちくりとする。それからしずかに瞑目し、長く息を吐き出してから再び坂を上がり始める。
「おや、ローラ。ずいぶん外にいたんだね」
応接室に現れたメロンさんに、私は情けなく眉をさげた。室内は温かく上着もいらぬほどだが、すっかり冷え切った体はまだ寒さで悴んでいた。頬もきっとりんごのように赤いのだろう。立ち上がった私に、そういうのいいから、とメロンさんは前に座る。お礼を告げて私もソファに戻り、ジムトレーナーの方に出してもらったハーブティーを飲んだ。
「それで、急にどうしたんだい。しみったれた顔して、美人が台無しだよ」
その言葉に曖昧に笑う。切り出すのは勇気が要ったが、私は二の足を踏む前に続けた。
「仕事、辞めようと思って。その前にあいさつをしに来ました」
メロンさんは驚いたようだった。しかしすぐに彼女もティーカップに口をつけると、そっか、と小さく口にした。
「お忙しいところ、すみません」
「忙しいなんて、正直、今が一番落ち着いてるよ。忙しいのはアンタのほうじゃないのかい、ローラ」
今度は、苦笑する。
「そんなこともなくて、ウチも、やっと落ち着いてきたところです」
数日前、上司に辞めることを告げた。突然のことだったためやはり驚かれたが、仔細を話すと素直にも受け容れてくれた。リーグの仕事がひと息ついたこと、ソニア博士と行なっていた各ジムやその他パワースポットの調査をほぼ終えていたこと、その他のプロジェクトに関しても途中で下りるという形にはなるが、引き継ぎを滞りなく済ませられる状態にしていること、その条件が揃っていて部下の背中を押さずにいられるわけがない、と彼は言ってくれた。もったいなき言葉だった。
「メロンさんには研究員になりたてのころから、たくさんお世話になりました。久々にきちんとお話するのが、こんな場になってしまってすみません」
メロンさんは小さくため息をついた。
「そんなこと……。そりゃさみしいけど、ローラの選んだ道だからね」
優しくて、立派な人たちばかりだ、ほんとうに。すみません、もう一度謝ると、「ばかだね、アンタも」メロンさんは言った。
「辛かっただろうに」
笑おうとするが、うまく顔を作れない。
「ホウエンに行くのかい」
「それは、決まっていません。すこし、世界を見てみようかなと思って」
ダイゴにはもう伝えてある。向かうべき道がわからなくなってしまったこと、一度、心を整理したいこと。彼は、「いいとおもうよ」と受け止めてくれた。ボクのところにおいでよ、と彼が言わないでいてくれたのが、救いだったか。ダイゴはそうやって、肝心なとき、いつも人の気持ちを尊重しようとしてくれる。
リーグ中の一件が決め手となったといえば、そうかもしれない。けれど、ずっと複雑な問題だった。急に目の前に広がっていたはずの道すじが見えなくなって、どこに行くべきかもわからなくなって。自分がなんのために、なにをするために研究を続けているかはっきりと答えを見いだせなくなってしまった。それほど、自分が器用なタイプではないことは知っている。やるべきことにも次第に手がつかなくなって、ほかのことに逃げ始めている自分がいやで、ああ、限界ってこういうことなんだと思った。限界を自分で決めたくはなかった、決めるべきではないとも思っていた。けれど、そんな自分の考えに反して心や体がついてこなくなった。
「本当に、ばかだね、ローラ」
ぎゅっと膝の上で手のひらを握りしめた私の心を、メロンさんはまあるい声で撫でる。
「私の手をとって! って言や、だれだってアンタの手をとるよ」
視線をあげると、メロンさんは子どもを見るようにして、困ったように、でも慈しむように笑っていた。
「男も女も関係ない。アタシだって、カブだって、キバナだって、アンタの周りにはたくさんの人間がいるんだから。ポケモンもそうさ、アンタのことを助けたいヤツらが、山ほどね」
唇を噛み締める。息を止める。こぼれそうになって、懸命に押しとどめる。
「でも、アンタが手をとってほしいのは、きっと決まってる」
そうだろう? 訊ねられ、私はただうつむいた。その瞬間、こぼれてしまった。一度緩んでしまうと、どうしてなかなか厄介なもので、そう簡単には戻ってくれない。よわむし、いくじなし、そうして息を吸い込む。
「本当に手のかかる子だよ、アンタは」
メロンさんは言う。
「だれかを求めることは、悪いことじゃない。情けないことでもない。人間はひとりじゃ生きていけないんだから。頭でっかち、パートナーに似てイシヘンジンにでもなっちまったのかい」
おいで、とメロンさんは隣を叩く。気後れしながら立ち上がり、そっと横に座ると、彼女は豊かな髪を揺らして、唇にやさしく弧を描いた。そして、あたたかな手で私の頬にハンカチを添えた。
「一人で心細いなら、二人になればいい。二人でも、三人でも、支えあいながら、迷惑をかけて、かけられて、それでも一緒に生きていくのが、愛ってもんだよ」
止めたいのに止まらなくて、返事をしたいのに声が出ない。ただ嗚咽の合間うなずき、メロンさんの手に自分の手のひらを重ねる。
「ローラ、いくらでも道は広がってる。アンタはまたきっとそれを見つけられる」
それからの日々はあっという間に過ぎた。仕事の引き継ぎや関係者のあいさつ回りに追われる毎日。やっと忙しさを抜け出したはずだったのに、またニャースの手も借りたい日々に逆戻りだった。だが、身動きがとれずうずくまっていたのが、やっと立ち上がり顔を上げられるようになった気がした。
怒涛の仕事納めを迎えるころには月をまたぎ、こごえるかぜがようせいのかぜに変わり始めていたある日のこと。私はブラッシータウンのポケモン研究所を訪れていた。すでに退職することは告げてあるため、最後のあいさつといったところだった。
やめると伝えたとき、もちろんソニア博士たちは動揺していた。それまで悩んでいたことなど、ひと言も口にしていなかったのもあるだろう。どうして、と訊きたい気持ちと、でも、引き留めるべきではないと思う気持ちと、さまざまな気持ちが入り混じった表情だった。調査が一段落ついたとはいえ、途中でチームをおりること、なにも相談なしに決めてしまったこと、これからしばらく迷惑をかけることを謝罪し、しかし今後に滞りのないよう引継ぎはすることを告げると、「そんなことはいいから」とソニア博士は言った。そのあとに続いた言葉は、「でも、やっぱり、さみしすぎる!」だった。
きっと未来のためを考えての辞職だから応援したい気持ちがあるのに、博士になってからずっと共に励まし、支え、刺激し合いながらやってきたから、近い将来それがなくなるとぽっかり心に穴が開いたみたいになる。わかってる、わかってはいるけれど、すごくさみしい、彼女らしい素直な言葉だった。ホップくんも、マグノリア博士も、ワンパチも、本当に私を心から受け容れそして優しく包んでくれた。またとない拠り所のひとつだった。そんな場所を自ら手放すのは、とずっと悩んでいたし、今でもこれでよかったのかと思うことはある。でも、彼らがまた、「いつでもオリエンテーリングの参加、待っているから」と言ってくれたのは本当に勇気と力になった。
さて、ポケモン研究所につくと、早速ワンパチが出迎えてくれた。飛びついてきたその子を抱き上げて、ほっぺすりすり攻撃をうまくかわす。次はホップくんのバイウールーだ。いつもはボールにしまっているのに、今日は庭に放していたらしく、ワンパチとともにとっしんしてきた。カビゴンじゃなくてよかった。ウッウはぼうっとこちらを見ていたが、やがて地面を這っていたバチュルを追いかけはじめた。それから、「ローラさん」とホップくん。「お待ちしてましたよ」とマグノリア博士。そして、「とびきりのスコーンと紅茶、用意したから」とソニア博士。
思わず泣きそうになりながら、私は大きくうなずいた。
「それで、少年ってばなんて言ったと思う? それでもおれはローラがいい、だって!」
まったくこれはどんな罰ゲームだろうとおもいながら、ソニア博士の話に苦く笑う。今日のラインナップはプレーンスコーンとハニーミツとりんごを使ったスペシャルスコーン、紅茶はエンジンシティの有名なパーラーから取り寄せたダージリン。どれもかぐわしいにおいがして、幸せに包まれている。
「あれは将来すごい男になるわ。ローラさん、どうする?」
どうするもなにも、と降参の構えを示すと、ソニア博士はにやり、ネイルのきれいな指先で器用にスコーンを割って口へ運んだ。
少年というのは、オリエンテーリングで出会い、推薦状をめぐりホップくんとの怒涛の特訓を繰り広げた彼のことだ。キョダイマックスマホイップをたずさえジムチャレンジ最難関のナックルジムを突破、チャレンジカップに出場後ファイナルトーナメントまで勝ち進んだ。ガラルリーグのきらびやかなドラマを手にした期待の新星として、彼はその名をガラルに知らしめた。
たしかに、この子はなにか成し遂げるかもしれないと思ったものだ。だが、あのアーマーガアポロシャツのあどけない少年がいまやスタジアムを沸かせる凄腕トレーナーの一人になるとは、実に人生というものは自分が想像するよりもはるか先にあるもの。
さて、その少年がどうしたかというと、先日研究所へ顔を出したらしく、そこで私に恋人がいることをソニア博士から聞いたとのこと。そしてあのセリフに至るわけだ。
「まさかあそこまで本気とは」
ソニア博士はしみじみといった顔をする。
「てか、ローラさんも言ってなかったんだな」とホップくん。
「言うタイミングがなくて、本当それは悪いことをしたと思う」
「ダイゴさんに預けたカジッチュ、かえってきた?」
「……まだ」
なんともいたたまらない気持ちになり顔を覆うと、まあまあ、と励まされる。非常に複雑だ。少年にはエンジンシティで遭遇して以来、まともに顔を合わせていない。忙しかったのもあるし、ことごとくタイミングが合わなかった。彼も彼で、聞くところによると取材やスポンサー協力の話などが度々舞い込んでいるという。
しかし、今考えても、なにが少年の琴線に触れたのかはわからない。十代のころを思うとほんのすこしの衝撃で恋に落ちることもあれば、ささいな感情の機微を恋だと勘違いすることもある。ただ、彼の気持ちを蔑ろにするのはよくないとその考えを押しやる。観念して紅茶に口をつけると、ちょうどそこで呼び鈴が鳴った。
「ホップ!」
「はいはい」
よく見慣れたやりとりでホップくんが玄関へ向かう。「でもさぁ」とソニア博士が話を進めようとして、名前を呼ばれた。
「ローラさん、お客さんだぞ!」
だれ? と訊くまでもなかった。ドアの向こうに、すっかり甘さを削ぎ落とした顔つきの少年が立っていた。太陽を見るように瞬くヘリオライトの瞳には、今は確固たる強い光が宿っている。出会ったころのウールーみたいな無垢なひとみではない。それこそアーマーガアの静謐で堂々たる鋭さに似ている。
少年が大人になるのは早い。少女のほうがより早いと言われてきたが、もはや男と女の隔たり関係なしに、大人が思っているよりも子どもというのは気がついたときにはすでにその皮を破っている。
「すばらしいバトルをありがとう」
けれど、破ったとはいえ、純真さはきちんと残っているもの。歩み寄り、手を差し出すと、彼は一瞬瞳を揺らして、悔しそうな、はたまた泣きそうな顔をした。すぐに、ぐっと表情を引き締めて私の手をとった。
「おれは諦めないからな」
「うん」
「ぜったいにチャンピオンになって、だれよりもつよくてすげえ男になって、ローラに会いにいく」
あれ、そっちだった……? という言葉は慌てて飲み込む。
「でもね」私は君の気持ちに応えられない、そう続けようとして、ぐっと腕を引き寄せられた。
「ありがとう、ローラ」
一瞬の出来事に唖然としているあいだに、「またな!」と残し少年は勢いよく駆け出していく。ふり向かず、全速力で。青い風を巻き起こしながら。もしかすると、私たちが思っているより、はるかにずっと彼はおとななのかもしれない。
「やっるぅ、少年」
ソニア博士が口笛を吹く。ホップくんはいまだまばたきを繰り返し、マグノリア博士はやれやれといった顔で、見せ物じゃありませんよ、と孫とその助手を窘める。
さらにもうひとり、あたたかいような暑いような春酔いの空気をかき乱す人間が。
「おい、今オレさま、アイツにすっげえ睨まれたんだけど」
キバナさんがわるいです、いろんな意味で、とソニア博士が言った。
それからはなぜだかアラベスクタウンに移動して、ポプラさんの主催する《シュシュプを超えろ! 怒涛のポプリ大会!》なるものに参加することになった。まさか、お世話になったジムリーダーたちと、シュシュプの放つにおいを卓越したポプリを作ろうと切磋琢磨することになるとは思いもよらなかった。
本当はホップくんだけをキバナが連れていく予定だったが、私もいるのを見て、みんなで行きゃいいか、とマグノリア博士をのぞく三人でアラベスクに向かうことになったのだった。そして見事ポケモン研究所チームとして参戦。
結果は、ヤローさん率いるビートくん、サイトウちゃんチームが優勝。マクワくん、ルリナ、マリィちゃんチームはあと一歩のところでヤローチームに及ばず。カブさんとネズさん、オニオンくんチームはシュシュプのお気に入りに、これはある意味優勝だったかもしれない。
キバナ、ダンデ、チャンピオンという最強チームは個々が強すぎて鼻が曲がるというポプラさんの講評をもらっていた。ちなみにメロンさんは残念ながら所用で不在。マクワくんは終始ホッとしていたようだった。
それが終わったあとはポプラさんたちアラベスクジムの用意したケーキや焼き菓子でちょっとしたパーティーを。ただの会社員が存在しているにはかなり場違いな印象だったが、「アンタも食べてきな」というポプラさんのありがたいひと言に甘えることにした。
「キバナが巻き込むから」
「いいだろ、あのばーさん手製のうまいもん食えたんだし」
そうだけど、とシャンパンに口をつける。すでにそれぞれ心地よくなっているのか、しゃべる音量が大きくなっている。その中で自然とやってきたキバナになにやらネズさんがちょうはつのまなざしを見せたらしいが、キバナは大きな手でそれを一蹴した。一時は不仲説も出ていたが、あいかわらずの仲らしい。
「そういや聞いたか」
ふとキバナが切り出した。なにを、と訊くと、「おまえにカラマネロけしかけた奴の話」と彼は続けた。
「おまえのカレシのこと、崇拝しすぎてぜんぶやったんだと」
やけに腑に落ちた心地だった。グラスに口をつけたまま動きを止めた私に、キバナは気を害したのだと思ったようで顔をのぞきこんできた。
「大丈夫か」
「あ……うん、大丈夫。ぜんぜん、大丈夫」
「全然大丈夫ってなんだよ」
「ほんとうに、大丈夫」
本当かよ、とでも言いたげにキバナは大きな口にケーキを押しこんだ。
マクロコスモスからデボンに出向したのもツワブキダイゴのため、そしてラボを荒らしたのもツワブキダイゴのため。初めは憧れのトレーナーへの純真な思慕と献身だったが、やがて感情はエスカレートしてしまう。
「なんだか、すごくしっくりきた」
「なにが」
「動機。うやむやになったままだったから、ああやっぱり、って納得したの」
「あからさまに、自分を狙った犯行だったってわかったのに?」
「うん。あの人がそれほど強く慕われる人だって知ってたつもりだったけど、思ってた以上ね。さすがツワブキダイゴ」
教えてくれてありがとうと告げると、彼はおーとまたもやケーキをほおばる。
「ヤケ食いはみっともねえですよ」
「るせー、あっち行ってろ。オトナの会話してんだよ」
「おまえが変な気を起こさないか、ソニア博士に見張れって言われたんでね」
「あのねーちゃんはそんなこと言わねーだろ」
「じゃあマリィが見てんですよ」
「じゃあってなんだよ、そっちが本音だろ」
ふっと吹き出すとネズさんがネックレスに指を絡ませたまま目を細めた。
「ごめん、おかしくて」
至極不名誉そうに、「それはなによりです」と白と黒の髪が揺れた。
それから記念写真タイムに移り、まずはチームごと、つぎに全体で写真を撮った。それぞれのポプリを持ってポーズを決めるさまはなんともいえず、終始忍び笑いがスマホロトムの裏で響いていた。
「ああ、楽しかった!」
すっかりアラベスクタウンを出るころには日が傾いていた。ほろ酔いのソニア博士が光るきのこに腰掛けて伸びをすると、うしろからベロバーが飛び出て草陰に一目散に駆けていった。
「ホップくん、ソニア博士任せてもへいき?」
「もちろんだぜ! 今日はアニキも、アイツもいるし、みんなで帰るから」
若干一名、もっと不安なひともいるけど。本当に大丈夫かな、苦笑しながらソニア博士を見やる。
「ソニア博士?」
「名前」
「え?」
「だって、もうわたしたち、博士と研究者の仲じゃないじゃん?」
だから、と彼女が唇を尖らせる前に口にする。
「ソニア」
パァッと花が開いたみたいだった。
「なーに、ローラさん!」
「また、スコーンと紅茶ご馳走してね」
「もちろん! ローラさんもオリエンテーリング、また来てよね! いつでも助手募集してるから!」
「それはありがたい」
彼女はふふっと今一度オレンジ色の髪を揺らしたあと立ち上がる。「最後にひとつ」彼女は言った。
「ローラさん、もう後悔してない?」
ずっと、気づいていたのだろう。彼女は聡い女性だ。そしてだれかの心の機微に寄り添うことができる人だった。そう思うと眉がさがり、くしゃくしゃに顔を歪めて笑いたくなった。私はソニアの目を見つめかえして応えた。
「ずっと、いろいろと情けないな、不甲斐ないなって悩んだの。けれど、ああこれは未来のためなんだ、自分の人生のためなんだって、今はもうそう思えるようになった」
未来をよりよくするために、人生を楽しむために、私は数あるうちのまた別のひとつを選びとる。
「私はガラルが好き。ダイマックスが大好き。だから、寄り道してみようと思う」
そっか、とソニアはわらった。
「でも」私は続けた。「本当のきもちはまた別のところにあるのかもね」
肩をすくめた私をソニアが抱きしめる。優しいポプリの香りが鼻を掠めて、私はその背に手を伸ばす。
「楽しんでね、ローラさん」
その言葉に、うんと私はうなずいた。
ガラル地方中部、ワイルドエリア。キバ湖の瞳は雲ひとつない快晴だ。バウタウンの海に落ちた日も、たしかこんな鮮やかな青空だった。
「カイリキー、そっちおねがい」
ちから自慢の相棒にテントの端を持ってもらいうまく組み立てていく。足元をミミッキュがすばやく走り広げたテントの中に我先にと飛び込んでいった。
「あいかわらずね」
中にはすでにゲンガーがあらわれていたようで、ミミッキュとポルカをおどるようにしてじゃれあっている。あの二匹には手伝いをたのめないからそっとしておこうとジュラルドンと目を合わせ焚き火用の木の枝をとりに向かう。
湖にはラプラスが空からそそぐ光を浴びながら優雅に遊泳していた。ぱしゃんと音が立ちやってきたトサキントに顔をほころばせ、なんとも心地がよさそうだ。空を舞うバタフリーに手を伸ばし、手の甲に彼女を乗せてジュラルドンとカイリキーと湖畔をそぞろ歩く。風もぬるみ、すっかりキャンプのしやすい季節だった。
「天気がいいね」
バタフリーが翅を可憐にひるがえしまた空へと飛び立つ。春の陽光に彼女のふりまく鱗粉がきらきらと瞬いた。
すがすがしくて、甘いかおりが気持ちよくて、大きく息を吸い込み天をあおぐ。
「まぶしい」
手ひさしを作るが、それでもあふれんばかりにそそぐ光に目を細める。自然と頬がゆるみ、こらえきれず、笑顔になった。
「さ、急いで木の枝集めて、カレーの準備しちゃお。ハーブがあったら摘んでおいてね」
ほがらかに鳴き声が上がる。
木の枝を集め終わったあとは、火を起こしカレーを作った。熱々のカレーを皆で囲み、はふはふと息を吹きかけながら味わう。食べ終わるころには汗がにじんで、ゲンガーにこごえるかぜを吹かせてもらった。つい威力が強すぎてしばらくその場から動けなくなったものの、その後はからだをあたためるために自転車に乗ってワイルドエリアをめぐることにした。ラプラスの背に乗り対岸へ渡ったあとヘルメットとプロテクターを身につけてペダルに勢いよく足をかける。風が吹く、それをまとうように大地を駆け抜ける。遠く空にあがる紫の光柱を目指しひたすら進む。
「ローラ!」
やがてひと休みに泉のほとりで休んでいると空から声が落ちてきた。すぐにキインと羽音が響き、青空に美しい双翼の影があらわれた。
「ダイゴ?」
銀鳥が降り立つ。優雅に一抹の風を起こし、はがねの翼をしまう。その背からおりてきたのは、スーツ姿のダイゴだった。
「朝から連絡がつかないから、心配したよ」
あ、とウエストポーチを確認する。
「ごめん、ずっと電源オフにしてた」
「まるで洞窟にこもるときのボクみたいだ」
擦り寄ってきたエアームドの首を撫でる。精悍な顔つきがすぐに甘くなり、ムッとしていたダイゴの表情もゆるんだ。
「葉っぱ、ついてる」彼の手が伸びてくる。エアームドもそれを真似して髪をつつく。ちょっと、と言いながらはがねのボディをおさえると、ダイゴの手に緑あざやかな葉が一枚載っていた。
「ほんとだ。さっき林を駆け抜けたから」
「ローラに自転車を与えると、どこまでも行ってしまうから困ったな」
それを、やってきたゲンガーへ差し出してダイゴはわらう。
近くの木陰に腰を据えることにして、泉のほとりであそぶポケモンたちを眺める。木々はそよぎ、ホシガリスが枝葉の間をトトッと駆けていく。
「こっちにつくの、明日になるかと思ってた」
チラーミィが草むらから飛び出してきた。「本当は、そのつもりだったんだけどね」とやってきたチラーミィに手を伸ばして、ダイゴは答えた。
「今日も明日も変わらないと思って、飛行機に飛び乗ったんだ」
人懐こい子なのか、ツンツンとその手をたしかめたあと、チラーミィは水際へ向けて走り去っていく。
「あいかわらず、フットワークが軽いんだから」
「ミクリには笑われたよ」
ミミッキュに興味があるのか、小さな客人はイエローのかぶりものをじっと見つめている。しかしおくびょうを発揮したミミッキュはメタグロスの陰に隠れてしまった。それでも追いかけていこうとするチラーミィのもとに、今度はにゅっとゲンガーが現れかわいい客人をおどろかす。ギョッと飛び退き、チラーミィは慌てて草むらまで戻っていった。
のどかでありふれた風景。けれど、満ち足りている。
世界は広く、それでいて美しい。
「仕事、辞めちゃった」
膝を抱えていた腕を地面に放りだす。重々しくなるかと思われた言葉は思いのほか軽く、シャボン玉のようにふわりと陽光にほどけていった。
うん、とダイゴは優しく応えた。
「びっくりするぐらい、なにもなくなっちゃった」
日々を占めていたものがなくなるというのは、とても不思議な感じがした。ぽっかりと穴が開いたようにも、背に抱えていたものが急にふっと消えたようにも感じた。
「でも、そのぶんすごく体が軽くて、どこまでも行ける気がする」
空をあおぐ。大きな影が太陽をさえぎる。あれは、きっとウォーグルだ。目を細めて立派な双翼を眺めていると、そっか、とダイゴが言った。
「たくさん、ありがとうね」
「なにを?」
「辛抱強く、私を見守っていてくれたこと。いじっぱりで、かっこつけで、つよがりでおくびょうな私を見放さずにいてくれたこと」
泉が光を撥ね返し輝いている。目映く、きらきらと光が綾を成す。
「ボクがキミと一緒にいたかったから、キミのそばにいたかったからそうしただけだよ」
「そうやって、本当にダイゴは理性的で大人なんだから」
「そうでもないよ。キミが思うほど、実際ボクはいい人間じゃないから」
「そうかなぁ?」
ふいに右隣をふり向くと、ダイゴと目があった。
「ローラ」
優しい微笑をその端正な顔に載せている。けれど慈愛に満ちた瞳の奥に、喉がうずくような熱が籠っている。
「ボクだけのものになってほしい」
急になにを言い出すかと思えば。
「心配しなくても、もうダイゴのものよ」
今度は私が手を伸ばして、その彼の頬に触れる。すべらかで、吸いつくようで、あたたかくてずっと触れていたくなる。
ダイゴが心地よさそうに目をほそめた。それすらもゆったりとたおやかで、とても綺麗だなと思った。透きとおるまつげを、虹彩を、ひとつひとつ愛でるように親指でなぞる。それをダイゴの手が捕らえる。
「ローラ」
なあに、とこそばゆくなってわらう。彼が手を、左手のくすりゆびをなぞり、そうしてひとつ、くちづけを落とす。
「ボクと結婚しよう」
まるで、おうじさまみたいだとおもった。唖然とする私に、ダイゴは薄くはにかんでジャケットのポケットから指輪をとりだした。
銀色のリングに瞬く、小さな輝き。青や紫、七色のきらめきがその中に宿っている。
「自分勝手とはわかってる。けれど、もう自分の気持ちにうそはつけそうにないんだ」
それをくすりゆびに、まるで私をもう逃げられなくするようにするりとはめて、ダイゴは言った。
「ボクはこれからもキミと一緒にいたい。キミが前を向いて歩くその姿をそばで見つめ、そしてキミが見ているものをボクも見たいんだ。キミの背中を押すのはいつだってボクがいい。キミの頑張りを一番に認めてあげられるのも、悩みや悲しみを理解し喜びを分かち合うのも、わがままだとは思うけれど、すべてボクがいい」
ひやりとした感覚がほどけ、やがてひとつになっていく。なにも言えずにいる私に、ダイゴは微笑む。
「ローラ、ボクと一緒にいて」
――これからも、ずっと。
「仕事はどうするの」
くちびるが震えた。「奇遇だな」とダイゴは子どもっぽく破顔した。
「実はボクも、おやじに新たなメガストーン調査のための休職を願い出ていてね」
「……この、おぼっちゃま! 副社長のくせに!」
また秘書が泣く、副社長という大きなポストを失うなんて、平社員が一人いなくなるのとはわけがちがう。ぱくぱくとトサキントのように口を開いたり閉じたり、今度は忙しない私の手を引いて、ダイゴは立ち上がる。
「世界を見に行こう。キミと一緒なら、どこまでもいける気がする」
そんな顔をされたら、もうなにも言えなくなってしまう。
駆け出した彼とともに踏み出して、ポケモンたちのもとへ。きらきらと目映い太陽の腕が私たちを抱きとめる。
果てしなく続く大地に、どこまでも高く広がる蒼穹に、ゆうかんなウォーグルの声が響き渡る。
