怒涛の三日間が幕を閉じた。ウインターホリデーもクリスマスホリデーもこのためにあるのではないかというほどガラル全土は熱狂に包まれ、ジムチャレンジをのし上がってきたチャレンジャーとマスターリーグに所属する気鋭のトレーナーたち、そしてチャンピオンの烈しいバトルが繰り広げられた。
結果としては、チャンピオンの防衛成功。キョダイマックスエースバーンのすさまじいキョダイカキュウがシュートスタジアムを震撼させた。こうしてまた一年歴史が刻まれたガラルは、その熱を裡に滾らせたまま新たな年を迎えた。
「少年惜しかったね」
「まさか、あそこでダイマックスさせるとは思わなかったよな」
「本当、ホップに負けて悔しそうにしてた子が、今や立派なトレーナーだもんね」
香ばしい匂いがポケモン研究所に漂っている。アーモンドとバター、それからダージリン。陽射しのたっぷりそそぐテーブルの上にはリーフ模様のタルト菓子。カロス地方で有名なガレット・デ・ロワだ。
手のひらサイズのミアレガレットとちがって、それはソニア博士の顔よりも大きい。中にはアーモンドクリームがたっぷりと詰められており、フェーブという人形を忍ばせて新年の門出を祝う。最近エンジンシティにできたばかりのパティスリーで見つけ、「食べてみたかった」からと買ってきたらしい。ちなみにホップくんとチャンピオンが。ソニア博士はそのガレット・デ・ロワを前に自慢の腕で紅茶を淹れてくれる。
忙しかった日々を終え、お疲れ様の慰労と新年のあいさつを兼ねて、ささやかなパーティーをしようとソニア博士の提案だった。パーティーとはいえど、ソニア博士、ホップくん、マグノリア博士と私という本当に小さなものだ。チャンピオンも参加予定だったのだけれど、ダンデに捕まり今ごろは雑誌のインタビューを受けている。
のどかなブラッシータウン。冬の晴れ間に流れるおだやかな空気は、ようやく訪れたオアシスのようだった。
「ありがとう、ソニア博士」
なんともかぐわしい香気の立つティーカップを受け取り、本日のホストに笑みを向ける。いいえ、と彼女は朗らかに笑った。
「忙しいかなと思ったけど、時間とれてよかったよ。というか、ローラさんやつれた?」
「わかる? 激務で五キロ痩せたの、前はあれだけ頑張っても落ちなかったのに!」
「あるある。でも顔色悪いよ、大丈夫?」
たしかに、とホップくんが私の顔をのぞきこんでくる。しっかり色みがよく見えるようメイクをしてきたつもりだったけれど、普段からポケモンたちの様子をつぶさに観察している人たちだ。「休む間もなく次の仕事だから、疲れがとれなくて」と肩をすくめると、瞳をゆるゆると揺らしたあと、今日は思う存分休んでって! とソニア博士がガレット・デ・ロワを切り分けてくれる。
「フェーブが入っていたら、その人は今日の王様ね」
「ソニア、オレにも」
「はいはい」
そこで、来客を報せるベルが鳴った。
「だれだろ?」
ホップくんが立ち上がり、エントランスへ向かう。「訪問販売だったら断ってよ」という声に、わかってるって、と彼は返事をする。
「でも、無事終わってよかったね。去年色々あったじゃん? またなにかあったらどうしようと思っててさ」
ソニア博士がふうと息を吹きかけ紅茶に口をつける。そうね、と私もそれに倣った。
ブラックナイトから一年、長いようで短い一年だった。それまで当たり前に行なってきたことが崩れ、新たに構築するしていくのは簡単なことではなく、ダンデ新委員長のもとリーグ関係者も、このポケモン研究所も大変な日々を過ごしてきたことだろう。
「って、ローラさんは、無事じゃなかったか」
「私っていうより、ラボね」カップをつつみこみ、肩をすくめる。
「けど、ニュースで見たとき、めっちゃひやひやしたんだよ。そのときちょうど、ホップと一緒にナックルシティに行ってて、キバナさんなんて、ちょー怖い顔してたもん」
ラボが荒らされたとき、ソニア博士からも連絡があった。「ニュース見たよ! ローラさん、怪我はない?」と、彼女がよく使う泣き顔の絵文字つきで、しばらくして大丈夫だったと返事を送ると、すぐに電話がかかってきた。
でも、まさかキバナと一緒だったとは。思わずそっかと苦笑する私に、「ローラさん愛されてるぅ」ソニア博士はしたり顔をして、待ちきれなかったのかガレット・デ・ロワをフォークでつつき始める。
「ああっ! ソニア、先食うなよ!」
「ごめーん、ホップが遅いから」
「せっかくソニアの代わりに、業者の相手したっていうのに!」
「はいはい、ありがとう。あとでもうひとつ切ってあげるから!」
ホップくんが戻ってきて和やかな空気が戻ってくる。それにホッとしながら、私もタルトを口にする。
結局三人ともフェーブは当たらず、遅れてやってきたチャンピオンのピースに潜んでいた。やはり持っているな、と初防衛戦を制した王者を讃えて、それからいつものとおり研究の話へ。ソニア博士は新たにガラルのムゲンダイナとザシアン、ザマゼンタにまつわる論文を書いているらしく、春の国際学会へ向けて本格的に準備を始めるようだ。以前、ダイゴがお土産に渡した古文書から新たな発見があり、他地方の伝説ポケモンとのかかわりに論文のテーマを広げていくという。
ホップくんとチャンピオンは、新たにカンムリせつげんへの調査をリーグ委員長のダンデから頼まれたとのことで、メディア関係の仕事が落ち着き次第向かうと言っていた。
その話の流れから、ヨロイじまから連れてきたウーラオスを見ないか、キョダイマックスするからぜひ見てほしい、ワイルドエリアにレイドバトルしにいこうなどと誘われたが、やらなければならない持ち帰りの仕事があるからと断った。ソニア博士は徹夜で論文を進める気持ちを思い出したのか最初はどこか遠い目をしたものの、「来週休暇を取る予定で、その引き継ぎのため」と私から聞いて目を輝かせた。
「どこ行くの? アローラ?」
寒さから逃れるため、この季節にアローラへ向かうのはよくあること。ううん、と笑って、「ホウエン」と私は答えた。
「ダイゴに会いにいこうと思って」
そう、ダイゴに。早く行きたい気持ちと、気後れする気持ち。どちらも胸の中にあって、どう笑ったらいいかわからなくなっていた。たぶん、怖いのだ。目を瞑ってきたことと対峙することが。それでもソニア博士はダイゴの名にうんうんと頬を弛めていた。
「愛だねえ。ダイゴさんも幸せ者だ」
――愛。その言葉に、眉がさがったものだ。
「幸せでいてくれるといいんだけどね」
そうして、私はポケモン研究所をあとにした。
数日はニャースの手を借りたいほどに忙しかった。ラボ全体がリーグのために休日返上で仕事をしていたのもある。ガラルにクリスマスホリデーもニューイヤーホリデーもない。一般企業はわからないが、リーグに関連する諸企業はこぞって繁忙期のその期間をギャロップのごとく働く。否、もはやバンバドロだろうか。あるいはブレーキの壊れたトロッゴン。リーグが閉幕しそれらが一段落したとはいえ、研究に用いている装置を長く止めるわけにはいかず、デボンダイマックスラボでは交代に休みを回していくことになっていた。したがって、いつもよりイレギュラーな仕事なども舞い込むことになった。
一週間を終えた私はボストンバッグ片手にホウエンへ。仕事終わりの飛行機に飛び乗ったので、眠っているうちにカナズミ空港までたどり着いていた。
「あけましておめでとう」
そのやりとりはすでにしたはずなのに、迎えに来ていたダイゴは私を見るなり告げてきた。「おめでとう」とかえすと、彼は私の手からバッグを預かった。
「遅いのに、ごめんね」
ホウエンはガラルよりも何時間も進んでいる。その関係から、ガラルを出たときは夜八時だったのに、十時間以上のフライトを終え、カナズミに到着したのもほぼ同じ時刻だ。ダイゴも仕事があっただろうに、スーツ姿のままの彼に眉をさげると彼はかまわないよとさわやかに笑った。
「それより、快適に来られたかい」
「それはもう。また、チェックインカウンターで別室に連れていかれちゃった」
よかった、そんなふうにまなじりを緩めて、ダイゴは空いたほうの指を絡ませてくる。
「でも、これから向かうのがシダケではなくてよかったのかい」
うん、と私はうなずいた。
「わがまま言ってごめんね」
「とんでもない。ただ、ウチは想像以上に狭いよ」
ふれあい、深く繋がれたそのぬくもりに声を震わせながら、ダイゴについていく。
「いいの、トクサネ、行ってみたかったから」
トクサネシティに着いたころにはすでに日付けを超えていた。町は寝静まり、ただ潮騒が辺りに響いている。瓦屋根を背負った家々は月光を浴びてあえかに艶めき、バウタウンともちがうふしぎな雰囲気がそこにはあった。ひたすら静かで、賑わいや喧騒からは程遠い。丘の上にそびえる宇宙センターの白い建物がすこし不気味にみえる。ソワソワした。かと思えば甘い海の香りが鼻腔をくすぐって、やさしい夜風が頬を撫でる。町はずれにあるダイゴの家についたとき、落ち着きよりも泣きたい気持ちのほうがまさっていた。
「本当になにもないんだ」と、彼がホウエンらしいたたずまいの漆喰と瓦でできた一軒家のドアを開ける。そうして暗いダイゴの部屋を目の当たりにするといてもたってもいられず彼の手を掴んでいた。怖かったのかもしれない。あるいは、本当に泣きだしてしまいそうだったのか。とにかくもうよくわからなくて、ただひたすらダイゴの体温に触れたかった。彼はそれをふしぎに思ったみたいだったが、小さく握りかえすと、「おかえり、ローラ」と電気をつけた。
中は広々としたワンルームだった。部屋の中央にはダイニングテーブル、あとはキッチンとキャビネットと、ベッドと石用のガラスケースがあるくらいだった。
「ほんとうになにもない」
思わず、笑ってしまうほど。
「だから、言っただろう。恥ずかしいな」
「ベッドの横に石を飾るあたり、ダイゴらしいかも」
テレビ通話をするとき、彼はホテルに滞在していることが多かった。仕事が忙しいのもあるが、チャンピオン時代から各地を飛びまわる生活を続けたせいで、そのくせがすっかり抜けないのだといっていた。家に帰るのは最低限の時間だからトクサネに暮らして何年も経っているのに部屋が殺風景。「ミクリにもよく笑われる」と彼は肩をすくめた。
たいていはホテルの整った部屋を背景にしていたからか、ほんのすこし意外さを感じる。でも、なぜだか彼がそこにいるとすっと世界に溶け込んで、ダイゴの暮らしている家なのだとじわじわと実感してくる。
「でも、私、この部屋好きよ」
なにもない。なにもないけれど、なにもかもがある。柱や窓枠にあしらわれた木のにおいの中に、ダイゴの使っているコロンの香りがして、そうっと胸のあたりがすくいあげられたようだった。
ダイゴはダイニングテーブルの椅子にボストンバッグを置いて、「そう?」とはずかしそうに頬をかく。
「だって、なんだかすごくダイゴの部屋って感じがする」
「ボクの部屋って、どんなイメージなのだろうね」
「ごちゃごちゃしてる家に住んでいなさそう、ってところかな」
シダケの別荘は、映画に出てくるような洋館で、いかにも著名人が世を忍んで優雅なひとときを過ごす場所といった感じだった。ここは、本当にダイゴが暮らしている。
ぐるりと部屋じゅうを見渡して最後にダイゴを目に映すと、彼は銀色の髪を揺らしてそっと目を細め私を引き寄せた。
「キミがここにいると思うと、頭がおかしくなりそうだ」
「なにそれ」
「それほど、愛おしいってことさ」
ジャケット越しに心臓の音が伝わる気がする。それを数えながら、その胸に身を委ねる。明日はどこにでかけようか、彼は言う。
「仕事は完全に休みにしたから、飛行機に乗るまでずっと一緒にいられるよ」
どこにも、行きたくないな、と私は答える。
「ダイゴといる」
その言葉にダイゴは私の髪にキスを落としながら小さくささやく。
「やけに甘えんぼうだね」
でも、ボクもそうしたいと思っていた。
彼を感じながら、うん、とうなずき瞳を閉じる。
朝は潮騒とともに目が覚めた。窓からひし形の光が射しこんで、ザザァンザザァンと寄せては返す波がシンフォニーを奏でる。二人で寝るには狭いベッドで、身を寄せ合って眠りから覚める。夢の中にいるみたいだった。
あたたかくて、やわらかくて、やさしくて、おだやかで。私たちを裂くものも傷つけるものもなにもない。背に回されたダイゴの腕や私を受けとめる胸を思うと唇が震える。ここにいていいのだろうか。彼におかえりと言ってもらえるような人間なのだろうか。彼のそばにいてもいいのだろうか。しまいこんでいた感情が、戸惑いが、後悔が押し寄せる。けど、「もうすこし寝ようよ」と抱きしめてくれるから、私はそのまま目を閉じた。
ふたり、ようやく起き上がったころには太陽が真上にのぼっていた。遅い朝食はトーストとコーヒーというありふれたもの。ダイゴはすまなそうにしていたけれど、それでいいと私は言った。むしろ、それがよかった。そのままにしていた荷物を整理して、部屋の奥から海を眺めて。ホウエンは冬だというのにあたたかく、コートは要らないくらいだった。ダイゴがメタグロスやエアームドのメンテナンスをしている横で、私もゲンガーやミミッキュたちにポケフーズをあげた。それから、少し散歩をすることになった。
夜が明けてもトクサネは穏やかだった。広がる繁華街にはたしかに活気があるものの、それでも往来をゆく人々の足はゆったりとしていて明日に急ぐわけでもなくしっかりと地に足をつけている。今日はいちだんと温い、だとか、今朝ホエルコの群れが沖合で見られたらしい、だとか、飛び交うのどかな会話を背に私たちは海岸へ向かう。
マングローブを見るのは初めてだった。潮が満ちて水に埋まった樹々の姿はなんだかおとぎ話を見ている心地になる。波間を泳ぐコイキングの群れを眺めてからは、シャボン玉を吹く少年の七色の珠を追いかけるように浜辺へ歩みを進めた。
そのころには太陽が傾き、まるで透明なシロップの中にたたずんでいるようだった。耳を塞ぎたくなるような雑音もなく、肌を刺すような視線もなく、はやくはやくと背を押す風もない。ただ心臓のゆるやかな律動とともに時が流れる。あまいみつよりもさらりとしていて、水よりもとろりとしている。その中を、手を繋ぎながら歩く。
ダイゴの手はあたたかかった。毛布に包まれているような、繊細なぬくもり。ふれ合ったところからすこしずつ全身に伝って、ここに生きているのだと実感する。
地平線に浮かぶホエルオーを眺め、はるか先ミナモシティに向かう太陽にダイゴが手ひさしをつくる。風がそよぎ、彼のシャツの裾を私のワンピースの裾を無防備にさらっていく。淡く金色に染まった白い頬を見つめていると、胸の裡から沸々と熱が上がってくるような気がした。
「ほんとうはね」沖を眺めるダイゴに私は切り出した。
うん、とダイゴは優しくそれを受けとめた。
「ぜんぜん、へいきじゃなかった」
ラボで起きたこと、ナックルシティで起きたこと、キバナに助けられたこと。パーティーで浴びたワインの痕がずっと心にこびりついていること。ひとつひとつ取り出して慎重に打ち明けていく。ダイゴはじっと私を見つめ、怒りも呆れもしなかった。ただ、「知ってた」と頬にかかった髪をその手でよけた。
「話せなくて、ごめんね」
謝って済むことではないとわかっている。恋人としてあるまじき行為だということも。謝罪を口にした途端押し込めていたものがどっとあふれ、こぼれていく気がした。
ごめんなさい、ひたすら謝る私にダイゴはかぶりを振った。
ひとりで抱え込んで、ダメになって、それでも必死に歩こうとして、周りを傷つけて、私は、いったいなにをしたかったのだろう。
ただ、ダイゴのそばにいたかった。ダイゴの隣で胸を張って立っていられる人間になりたかった。ずっと、ずっとダイゴと一緒にいられるように、負担や重荷にならないように自立していたかった。けれど結局、傷つくのを恐れ自分勝手に生きてきただけだった。
「別れたほうがいいのかもって、何度も思ったの」
今も、そうすべきなのではないかと心のどこかで思っている自分がいる。ダイゴのことを大切にできない、恋人として尊重できないのならば、一緒にいるべきではないと。私は未熟で弱い人間だから。
「でも、どうしても離れられなかった」
離れようと思った。離れるべきだとも思った。けれどそのたびに、離れたくないと叫ぶ小さな自分がいた。諦められたら簡単なのに、手放せたら苦しまなくてすむのに、それでも私はきっとこの道しか選べない。
「ダイゴが好きだから」
好きで、好きで、大好きでたまらない。この人がいい、この人といたい、この人じゃなきゃいやだ。だから、「ねえ、ダイゴ」繋いだ手をすこしゆるめて、それから握り直して。目映い光にたたずむダイゴを見つめる。
「ずっとそばにいて」
「私のこと、好きでいて」
「私から離れていかないで」
みっともなく泣き出した私の頬をダイゴは指のはらでそっと撫でる。
そうして、くちびるに熱が宿る。彼がほほえむ。
「ずっと、ボクのことを好きでいて」
「ボクから離れないで」
「ぜったい、約束だよ」
子どもみたいだとおもった。繋いだ手の中で、小指をしっかりと絡めあって。そこには現実だとか未来だとか、世界などというものはない。無垢な子どもの約束。
潮騒が耳を撫でる。やわらかな風が頬をなぞる。太陽が傾き、とろりとしたやさしい光が私たちを包みこむ。
とめどなく涙をこぼしながら私はうなずいた。
「ほら、あそこ」
ダイゴが指さした先には、ピンクのラブカスが二匹、優雅に波間を漂っていた。
