しのびよるヨノワール

 刻一刻と季節が深まり、吹く風がどこか寂しさに似た切なさを感じさせる。しかし情緒あふれる風のにおいとはうらはらに、ガラルじゅうは静かな熱気に包まれていた。
 名物、ジムチャレンジ。十二月に開催されるチャンピオンカップに向けて、今年もまたこの季節がやってきた。各リーグ関係者から推薦されたトレーナーたちが八つのジムに挑み、シュートスタジアムでのトーナメント出場権を目指して奮闘する。この世界においてポケモンバトルはなによりのスポーツであり、そして娯楽でもあるが、ガラルではとくにどのスポーツより娯楽より、このジムチャレンジとチャンピオンカップこそが最大のエンターテイメントだ。
 チャレンジの始まる秋から本当のガラルが始まると言う人もいるほど、街は活気づき、リーグ一色に染まる。そして、今年はチャンピオン、そしてリーグ委員長が代替わりして初のリーグ開催。例年よりも皆気合いが入っていた。
 それは我がデボンコーポレーションも同じであり、特にダイマックスラボはガラルじゅうを東奔西走する日々が続いている。ワイルドエリアでの巣穴調査に始まり、担当スタジアムのメンテナンス、それから実際のバトルにおけるガラル粒子測定、主にマクロコスモス・ガラルリーグとの協働ではあるが、今やデボンはガラルにおいても欠かせない一企業になりつつあった。
 そんなある日、事件は起こる。

「ローラさん、ダイマックスラボの部長からお電話です!」
「待って、今、いいところなの!」
 ミロカロ湖周辺で発生した強大なダイマックス反応を調査していたときのこと、ラボ長から一本の電話が入った。現場調査員に電話をしても調査に夢中で電話に出ないことがままある。この日もそれを見越して、リーグスタッフに連絡をよこしたのだと思っていた。
 私は手にしていた測定器のデータを素早く記録すると、連れ添っていたリーグスタッフから携帯を預かった。
「はい、ローラです。今ちょうどガラル粒子の高濃度反応を見つけたところで」
 声を上ずらせる私とちがい、上司の言葉は予想だにしない重々しさを放った。
 ――ラボが大変なことになった。
 リーグ本戦に関する会議のさなかの出来事である。部長やリーグ担当研究員が席を外したすきに、何者かがラボに侵入し、室内を荒らしたのだ。一人、留守番役としてラボ員が残っていたものの、発見された際には催眠状態にあり、散らばった研究資料の下敷きになって床に倒れていたという。
 まさかのひと言だった。この忙しいときに、一体、なにが起きたのかと思考が停止した心地だった。実際、手にした携帯を落としそうになり慌てて握りなおしたが、気がついたときには全身が震えていた。しかし、茫然と立ち尽くしている暇もなく、瞬く間に研究員一同に一斉招集がかかり、現場はリーグスタッフに任せ私はシュートシティへ飛んだ。
 報道陣、そして数多くの警察車両が集まるエントランスをどうにか抜けてラボへ向かうと、目に飛び込んできたのは酷い有様であった。
「……なに、これ」
 書類はもちろん、パソコンや装置、あらゆるものが倒され荒らされている。まるで、手負いのバンギラスが暴れたかのような惨状だ。スタッフたちは立ち尽くし、黒と黄色の立ち入り禁止線の向こうを眺めていた。
 許せない、だとか、信じられない、だとか、それらの烈しい感情はついてこない。ただひたすらなにが起こったのか、どういうことなのかと答えを求めることしかできないでいた。そんな中、禁止線の向こうで、白衣姿の部長が鑑識とおぼしき女性と話しているのが見えた。「部長」声をかけると、ふり返ったささいな動きで、部長の手にしている紙が目に飛び込んできた。
 ――ツワブキダイゴと別れろ。
 たしかにそう書かれていた。意地汚いクスネが、とも。「ローラくん」そう部長がかぶりを振るが、頭が真っ白になった。それを向けた相手は、一人しかいない。押し寄せる野次馬から隠すように部長が紙を折りたたみ、すばやく鑑識へ渡す。
 しばらくして茫然と魂を失った研究員たちの前に、部長がやってきた。
「室内はこのとおりです。しかし、幸運なことに、怪我人はゼロ。倒れていたラボ員一名も、処置を受けて意識を取り戻しました。そして大切な資料、ならびにデータは一切破損、流出はしていません」
 ホッと息をつくものもいた。だが、私の心には深い霧が立ち込め、どこか一人取り残されてしまったみたいだった。

 会議室に集められ今後の取り調べに関する説明を受けたあと、その日は家に帰されることになった。ひとり帰る気にもなれず、川沿いのベンチに座って皓々と光の宿るバトルタワーを眺めながら帰り際上司から言われた言葉を思い返していた。
 もとより、デボンのガラル進出には賛否両論が起こっていたこと。意地汚い会社、ガラルの伝統と歴史を踏み荒らすな――そこに、この度のダイマックス事業参入。快く思わない人間は山ほどいるだろう。だから、今回の事件はその一端にすぎない、と。――ちがう、そうではない。これは、すべて私のせいだ。そう謝る私に、部長はかぶりを振り、こう続けた。
「君のせいではない」
 仕方ないのだ、と。すべてはじまりはカロスのフロストケイブを登るがごとく、あるいはホウエンのえんとつやまか。とにかくこの先も会社には茨の道が続く。今が踏ん張りどきなのだ。
 本当に、そうなのだろうか。明らかにあのメッセージはただひとりの人間に当てられたものであり、そのだれかは考える余地もない。
「……やんなっちゃう」
 まさか自分のせいでだれかが傷つくなど、ましてや大多数の人間が、同僚が、仲間が、このような事件に巻き込まれるなど、思ってもみなかった。気のせいだと思おうとしても、そうではないと負の連鎖を断ち切ろうとしても、あの一文はまざまざと目の奥に刻み込まれていた。
 ――ツワブキダイゴと別れろ。
 考えるたびに体が重くなる。思考がのまれていく。まるでヨノワールがうしろから手を伸ばしているみたいだ。
 バトルタワーのネオンが揺らぎ、やがて滲んで、そのままそこへ溶けてしまいたくなる。携帯にはいくらか着信が入っていた。その中にはもちろんダイゴもいた。ほかにもソニア博士やルリナ、メロンさん、そしてプラターヌ博士。デボンで起きた事件はニュースとなりガラルはおろか世界に広まっていた。
 やっていられない、本当に。心底、自分がいやになる。けれど、ふしぎと涙は出なかった。それよりもやるせない気持ちが体を支配して、しばらくそこから動けないでいた。
 私は、果たしてなにを守りたかったのだろう。

 現場検証や事情聴取が済んだのはそれから数日後だ。ようやく戻ってきた自分たちの職場は、ガラス片などは除去されていたものの、まるで忘れ去られた過去の遺構のようだった。片づけをする皆の口は、終始重く閉ざされ続けていた。
「参ったね、データが無事とはいえ」
 それぞれのデスク、ならびに電子機器の配線整理など、復旧作業の第一段階を終えたころには太陽も真上に上がっていた。
 同僚たちの言葉にうなずきながらマトマパスタをプレートによそう。
 ガラル支社の五階にはカフェテリアがあり、世界各国の料理が食べられるビュッフェ形式ともあって社員たちで賑わっていた。いつもならエネルギーバーやゼリー片手にラボに篭ってデータ解析、というコースなのだが、さすがに今日はその必要もない。
 さまざまな部署の社員が行き交うカフェテリアの一画に席をとり、浮かないランチタイムを進める。まだ本戦が始まっていなかったからいいものの、次の新製品はリリースを遅らせなくてはならない、だとか、スタジアムに設置予定だった装置の中身をもう一度確認しないと、だとか。おいしいと評判のマトマパスタも味気なく感じるものだ。
「ラボに恨みを持っているヤツのしわざってうわさになってるけど、なら、なんでサーバーにロトムを仕掛けなかったんだろうな」
 情報テクノロジーの世界は日々進歩を続けている。おいそれとデータにアクセスできない、あるいはバグが起きてデータが消失してもすぐにバックアップがとれるようになっているのは、当たり前のことである。そうでなければ、ロトムの気まぐれや癇癪に対応できない。情報管理には徹底して気を遣うのが仕事というもの。だがそれは、このご時世、なにもラボに限ったことではない。今回、壊されていたのは、あくまでラボのパソコンや機器といった内装であり、その中身ではなかった。
「中から壊したほうが確実なのに、オレだったらそうするけど」
 では、なんのためにラボを荒らしたのか。
 結局、その先、ゴムのようなパスタを食べる気は失せ、ほとんどを同僚に食べてもらうことになった。ランチを終えたあとはラボへ戻って黙々と作業を再開した。

 次の日も、その次の日も、復旧に追われる日々が続いた。しかし、シーズンともあり止まっていられないのが実情で、必要最低限の作業を終えたあとはワイルドエリアやスタジアムなどそれぞれの持ち場を駆け回る毎日に戻っていった。
 ダイゴからは、心配する旨の連絡がいくつも届いていた。もちろんそれに、「大丈夫」だと返し、むしろ他地方へ出張続きの彼を労う。実際、ダイゴのほうが何万マイルもの距離を移動し朝から晩まで動き回っていることもあり、忙しいのはたしかだった。だから詳しくはふれていないし、ダイゴもふれてはこなかった。
「だいじょうぶなら、よかった。でも、なにかあったら、力になるから」
 遠慮なく言ってほしい、その言葉に、ただ私はうんと答えるばかりだった。
 やがて、世間を騒がせた事件もチャレンジャーたちのバトル中継に風化していく。ひとつのことでくよくよしているひまなどない、まさしくこれが世界だというところだろう。
 すこしの慰みは、そのチャレンジャーたちの成長だったか。
「ローラ!」
 エンジンシティに寄った日のこと。昇降機をおりて、メインストリートを歩いているとうしろから声をかけられた。いつかのアーマーガアポロシャツといういでたちではなかったけれど、ライボルトを連れた男の子だった。
「少年! 元気にしてた?」
「まあな!」
 駆け寄ってくる姿は、オリエンテーリングに参加していたときの無邪気さを感じさせる。でも、とっくのとうに甘さを脱ぎ棄てたポケモントレーナーの顔つきだった。
「もしかして、もうカブさんに挑戦?」
「と、思うだろ? さっき勝ってきた!」
 ブイ、と得意顔でピースサインを向けてくる彼に眉がさがる。
「あの歓声は君だったんだ」
 エンジンシティから繋がる橋の上でワイルドエリアに上がる光の写真を撮っていたのだ。そのあいだ、スタジアムからジムチャレンジの声援がかすかに聞こえていた。
「なんだよ、ローラ見てなかったのかよ!」少年はむっとした顔をする。
「大人にはオシゴトがあるのよ」
「見とけよ! おれ、すっげえカッコよかったのに!」
 ソニア博士を通じて、彼がヤローさんから推薦状をもらいチャレンジに参加していたことは知っていた。だが、順調に三つめのジムを制覇していたとは思わなかった。否、それは彼の力が及ばないという侮りではなくて、たしかにエンジンシティのカブさんを突破できるチャレンジャーが限られているとはいえ、彼にもじゅうぶんその素質はあるだろうと思えた。ただ、今はジムチャレンジが始まって一か月も経っていない。例年であればもうしばらくかかってからエンジンシティでの壮行シーンが報道される。
「もしかして、少年がいちばんのりだ」
 くっそうと地団駄を踏んでいた彼が、ぴた、と動きを止めて誇らしげに胸を張る。
「まあね、おれたちにかかれば、こんなのチョロいもんよ!」
 オリエンテーリングでダイマックスに目を輝かせていた子が、一人前のトレーナーになっていく。ホップくんに負けて、悔しがっていた子があのスタジアムに立ちあらゆるものと闘っている。そう思うと、胸にこみあげるものがあった。
「すごいね」
 すっかり背の伸びた、けれどまだ私より低い彼を見つめてわらうと、彼は心地よさそうに目をほそめる。そんな表情まで大人びていた。
「そういえば、おれ、あたらしい相棒つかまえたんだ」
 ローラにはトクベツ、見せてあげるよ! 彼はそう言って、ボールを取りだした。閃光が放たれ中から出てきたのはマホイップだった。
「あら、かわいい」
 ぷるん、とホイップをつやめかせその子はほがらかに笑って飛び跳ねる。
「レイドバトルで昨日つかまえたんだぜ」
「レイドで? やるじゃない、少年」
「しかも、キョダイマックスする!」
「えっ」
 驚きの目で地面を見下ろすと、ライボルトとじゃれていたマホイップがトレーナーを真似するように腰に手を当ててプンと得意げな顔をした。
「うわあ、キョダイマックスマホイップ! すごいね、バトルで勝つのもひと苦労なのに、それを捕まえるなんて!」
「アーマーガアとか、ダイオウドウとか、すっげえ迷ったんだけど、ひと目見た瞬間、おれはこいつがいいなって思ってさ」
 しかし、ふと横を通りがかった青年が彼らを見て口にする。
「あいつ、男のくせにマホイップかよ」
 ちょっと――思わず、食ってかかろうとした。その手を少年が掴んだ。
「いいよ、ローラ」
 マホイップは青年たちの言ったことがわかったのか、少年の足もとに隠れてしまう。彼は私の腕を離し、上体を折り曲げてマホイップの頭を撫でると、去っていった青年たちの背中をただ眺めた。
「ローラがわかってくれればいいし。それに、おれは、こいつがいいって思ったから」
 その瞳には、たしかなほのおが宿っていた。
「こいつと一緒に……こいつらと一緒に、おれはキバナを倒すんだ」
 周囲に転がる石などものともしない、ただ見据えるのは立ちはだかる壁たち。かつて、無名だった少年が最強と謳われたチャンピオンに挑んだその横顔にどこか似ていた。
 ごくり、固唾をのんでいるうちに、少年がふりかえり、ニッと破顔する。
「チャンピオンになってローラを迎えにいくから、待ってろよ!」
 颯爽とワイルドエリアへ駆けていくその背を、彼が打ち破ったジムリーダーたちに送り出されるその大きな背を、私は目映さに目を閉じそうになりながら、ただひたすら眺めていた。