episode.14

連れてこられたのは、人気のない奥まった場所にある部屋だった。
「控え室前にはすでに何人か記者が待機していてね」
 彼はそう言ってカードキーをノブに当てドアを押し開ける。中はさすがデボン所有の会館――とでもいうような瀟洒なつくりの部屋だった。きっとこれも控え室のひとつなのだろうに、先ほど逃げ込んだ部屋とも最初過ごしていた部屋ともちがう。もしかすると、こうなることを見越してここを用意していたのかもしれないとさえ思うような一室だった。
 座って、と促されるが、私はドアの前で立ち尽くし副社長を睨んだ。
「余計なことをしないでください」
 そう言う私に、タイをゆるめながら、「余計なことって?」と彼はふり返る。こともなげないつもの態度が目の奥を突き刺すようで、私は感情に衣を被せぬまま歪で不恰好なままそれをぶつけた。
「キバナに、勘違いされた」
 自分でも、なにを言っているのかよくわからなかった。けれど、それしか言うことができなかった。彼の瞳がす、と細まり、ぬくもりが欠けていくのがわかった。
「もう別れているんだろう?」
 ――別れている。
 その言葉に、ぐ、と唇を噛む。
「それは、そうですけど」
「じゃあ、どうしてそんなに焦るんだい。まだ、キミは彼のことが好きとでも?」
 そのうちに彼は歩み寄って、私のそのかたくなな唇をほどこうと指を添えてくる。ふわり触れるくせに抗えないなにかがそこにあって、「ちが、そんなんじゃ」と逃れようとするが、ちっともかなわない。かなしばりにあったようにプラチナの瞳にとらわれ、ただ私は拳を握ることしかできずにいた。
「まあ、それもそうだよね」
 無抵抗の私を見下ろして、彼は平然と刃を突き刺してくる。優しさの上面を言葉にその瞳に載せるのに、その裏には鋭利なはがねの錐があって。呆れのような蔑みのような、はたまた怒りのような、けれど声に色はないのだ。
「だって、キミが結婚したいって思うほどの人間だったのだから」
 驚くほど冷たくて、おそろしくて。このひとは私を傷つけようとしているのだとすぐにわかった。その瞬間、突き抜けたのは重くて激しい感情だった。それが怒りなのかも、哀しみなのかも、不安や畏れなのかもわからない。ただ握った拳をほどき、開いたそれをふりかぶろうとして、銀色の瞳に思いとどまった。
「ボク、キミのそういうところ、本当に好きだよ」
「私は、だいきらい」
 涙があふれてくる。止まれ、止まれ、と思うのに、だくりゅうに飲み込まれたみたいに堰き止められない。ぽろぽろとこぼれては頬を伝い、目の奥をじゅっと灼きつけて氷をとかしてはまた熱を落とし、やがて冷ややかな温度を残す。
「ローラちゃん」
 こんな顔見られたくなくて、そっぽを向く。しかし彼の手がそれを阻んだ。
「ローラちゃん」
「うるさい」
「ねえ、ローラちゃん」
 さっきはさん付けで呼んだくせに、結局そうやっていつもいつも私を振り回して。
「……なんなの、そんなにからかうのが面白い? 欠けた女を惨めでみっともない女を、そんなふうにいい女だってうそぶいて、もてあそぶのがそんなに楽しい?」
 こんなこと、言いたいわけじゃなかった。だってこんなのまるでそうされるのが嫌みたいだから。私はただの秘書で、ただの気まぐれに付き合わされた一社員で、はいはいとわがままを聞いていればいいだけの人間なのだから。
 ……それなのに。
「女避けに使うなら、もっとほかのひとにして。私をこれ以上惨めにさせないで。私をかき乱さないで! あなたなんか、あなたなんか……」
 ――出会わなければよかった。
「ローラ」
 最後にこぼれた涙を合図に、呼吸が奪われる。すべてを貪り尽くすような、すべてを自分のものにするような自分勝手で強引なキスだった。
「ローラ、好きだよ」
 離れた唇から、喘ぐように息をする私を彼は決して離してはくれない。
「キミがボクを嫌いでも、ボクは、キミが好きだ。好きで好きで好きで、どうしようもないんだ」
 馬鹿みたいだ。涙がさらに溢れて、このままでは溺死してしまう。
「好きなんて言葉では足りないくらい、きっとキミを愛してる。どうしようもなくキミが欲しくてたまらない。キミしか欲しくない。どうしてくれるの」
「しらないわよ、そんなの」
 ぐずぐずな顔を覆って天を仰ごうとした私の手を、優しくつかんで彼はふたたび唇を落とす。甘くて、しょっぱくて、とろけそうなほど熱い、そんなとびきりのキス。
 彼がわからない。なのに、驚くほどからだが彼を受け入れている。脳がじんじんと熱でぼやけて、うまく考えごとができない。
「かわいい」
 長い口づけのあいだ、苦しくて潤んだ吐息をこぼす私を彼は慈しみの手で撫でる。
 どうして私なのだろう。どうして。
 なんでだろうね、と彼は言った。
「最初は、ただ共犯者が欲しかったんだ」
 彼に興味がなくて、色々融通をきかせてくれる仕事熱心な子――まるでかつての私みたいな。
「男でも女でも、ボクがここで自由に動くために働いてくれる人間が欲しかった」
「さいてい」思わず私は涙声で告げる。
 だろうね、と彼は笑った。
「でも、キミと過ごすうちに、もっといろんなことを知りたくなった。この子はどんなふうに笑うのだろう、どんなふうに泣くのだろう。どうやって、ボクの隣を歩いてくれるんだろうって」
 彼は胸元から白いハンカチを手にとり、私の頬にそっと添える。
「ローラ」
 そうして、優しくまなざす。
「キミじゃなきゃ、いやなんだ」
 ダメだとかムリだとか、そんなふうに言わないのが彼らしいかもしれない。いつも自信家で、自尊心に満ち足りていて、自分の正しさをしっかり持っている人。そして、まっすぐに私を見て、本当の私を見つけ出してくれる人。
「ボクのパートナーとして、隣に立ってくれるかい」
 ああ、早くメイクを直さなくちゃ。このボロボロに乱れた姿をどうにかしなくちゃ。まだパーティーは始まったばかり、新作発表だって残っているし、メインのエキシビションマッチだって。
「高く、つきますよ」
 ハンカチを半ば奪ってマスカラを落とさないように目もとに当てて言うと、彼はきょとんとした顔をした。だが、すぐにそれを崩した。
「上等さ」
 目映いばかりの瞳で彼は笑う。
「キミになら、ボクはいくらでも払うと誓うよ」

 急きょ新作発表までのわずかな時間でメイクや髪を直してもらい、私たちは再び会場に戻った。
 やはりツワブキダイゴという男がその場にいるだけで空気が変わるもので、それはいい意味でも悪い意味でもあるかもしれない。黄色い声援もあれば、畏怖の騒めきもある。にこにこと人好きのする笑みを浮かべて一見物腰が柔らかいように見えるのに――否、実際そうなんだけれど、人々は皆、彼の中のなにかを見いだすのだろう。立っているだけで雰囲気がある。その隣で私も凛と背を伸ばし、堂々と目の前の世界を受け止める。
「やあ、ローラ」
 えんじ色のジャケットと白いパンツ、オーダーメイドの燕尾服姿に身を包んだのはもちろん元チャンピオン・ダンデだ。バトルタワーオーナー兼、リーグ委員長然としたいでたちで、私たちの前にやってきた。
「久しぶりだな!」
 大丈夫だった? も、なにしてたの? も、あるいは、どういうことだと隣の存在を見ることもなく彼は屈託なく笑う。
「うん、久しぶり」
 差し出された手をとると、彼はさらにニッと白い歯を見せた。
「ジムチャレンジ以来だな、キミのバトルを見られるのは」
「そうだったっけ」
「ああ、毎年キバナはリーグの時期になるとよくキミの話をしていてな。いいトレーナーがいる、絶対あいつは勝ち上がってくる、すげぇいい目をしてるんだって」
 ――どういうこと?
 不思議に思ったのと同時に、右肩に触れる空気がどこか固く、冷たくなる。が、そんなこともお構いなしにダンデは続ける。
「キミの本気を見られるのを、心から楽しみにしている!」