父親の顔は知らない。だが、とんでもないロクデナシだということだけは知っていた。白金色の髪と碧い眼を持つ外国の男だった。語学留学中にそいつと出会った母は持ち前の情の深さで男を愛した。やがて、〝私〟を妊娠し、永遠の愛を誓うだろうに思えた。だが、そいつは、ろくでもないクソ野郎は、母を棄ててさっさと国へ帰った。
あなたはあの人に似ている――慈しみのこもった声で母は言う。そいつのせいで母は何度も苦渋をのむことになったというのに、母は天元様の名の元、男を赦したのだ。
まだ学生だった母が子を抱えて国へ戻り、どんな思いをしたかも男は知らない。実親に棄てられ、帰る場所もなく、女手ひとつで私を育てることになった。腹が大きくなってもビルの清掃員として働き続け、自宅のリビングで私を出産した。母にとって私は希望だった。しかし現実は母と私に牙を剥いた。私を産んで間もなく、それまで勤めていた会社から追い出された。家賃を払う余裕もなく、母子二人路頭に迷うことになった。そこで出会ったのが、天元様だった。
失意の底に手を差し伸べた男の顔は、果たしてよくは憶えていない。大きくなってからも何度も何度も家にきたと言うが、彼は私の眼を一度も真っ直ぐに見ることはなかったので、いつものっぺらぼうが母としゃべっているようだった。母はそこから「時の器の会」の信者となり、その男を通じて職を手に入れ、真っ当な生活を取り戻した。私は教団の手により育まれ、すくすくと育っていった。
あれはたしか五つのときだった。母についていった集会で私は変な生き物を見た。屋敷の裏庭の隅にじっと佇み、こちらを見つめていた。電灯のような形だった。すうと細長く伸びて、花のような頭を垂れさせていた。ふしぎと眼と思しき二つのオニキスがきらきらと輝いて見え、いつか読んだ御伽噺の中の生き物のように思えた。カタカタと喉を鳴らすが、だれも気づいていないようだった。説法や世間話などの大人の付き合いに飽きた私はそれに近づき、母が探しにくるまで遊んでいようと思った。
だが、それは私が近づくや否や、大きく口を開き、喉から伸ばした触手で私の左眼を抉った。甲高い悲鳴に気づいた大人たちがやってくると、彼らは私をバケモノを見るような目で見てきた。私は血だらけで、其れと戯れていたのだ。自分の眼を飴玉のように与えながら、其れを懐柔していた。母は気が狂ったように泣き叫んでいた。かなしんでいたのか、おこっていたのか、それともおそれていたのか。私にはちっともわからなかった。やがてやってきた瘤の男によって、私は医者のもとへ連れていかれた。後に私は、そのときできたトモダチが、人から生まれる「呪い」というものだと知ることになる。
さて、治療を受けた私はすっかり見た目には元どおりであった。抉られた左眼は嵌められ、傷もひとつ残らず治癒した。その魔法のような力を反転術式とある人は言った。だが、視力は戻らなかった。母はその一件以来、ほんとうに気が狂ってしまったようだった。必死に男たちのもとへ通い、「息子から呪いを取り除いてほしい」と懇願した。男たちは、私の其れは治らないものとし、しかし症状をよくすることができると母にまやかしを繰り返した。そのためには今よりも深い信仰心を抱かねばならない、御心を捧げよ、と言い、なけなしの金を毟り取った。もちろん、私の中に巣食う〝呪い〟が良くなることはなく、学校に通い始めた私は子どもたちに恐れられ、それはおろかロクデナシ譲りの容姿も相まり大人たちからもいっそう忌避されるようになった。母は仕事をなくし、またあの泥水を啜るような生活に戻っていくことになった。
だが、幸いにしてまた別の男が母に近寄ってきたのだ。今度はたいそう見た目の好い男だった。学校の帰り道にみかける、店の窓にかかったポスターの男たちによく似ていた。男は母を愛し、私にも多くのものを与えてくれた。当時流行っていたテレビゲームを与えてくれたのも彼だった。左眼が見えない私に、サッカーを教えてくれたのも彼だった。父親という存在を知らない私にとって、その経験は遠い昔に母がくれた飴玉のように甘く、そしていつか見た海原のように輝いていた。幸せだとおもった。母も次第に気を安らげ、幸福そうな顔をしていた。たしかに私たちは幸せだった。
しかし、運命とは残酷なもの。男は母に新たな「教え」を植えつけたのだ。
「あなたの眼は悪魔にとられてしまったらしいの。でも、それはね、あなたが唯一無二の存在になるための儀式の途中なのよ」
赤々とした唇で、母はそう告げた。頬は桃色に染まり、瞳は潤んでいた。隣に男が寄り添い、母の肩を抱き寄せていた。細くひしゃげた枝のような、悪魔の手だった。
それから日に数回、儀式のためのハーブティーを飲まされた。眼をうつくしく保つために、目薬を何度も何度も差した。食事は菜食中心になり、山ほど果実を喰わされた。奇妙ではあったが、苦ではなかった。母がしあわせそうに笑っているからだ。あの場所にいる母はいつも微笑んでいた。いつも陽だまりの中にいた。照り輝くその顔は、聖母に違いなかった。花がほころぶように頬をゆるめ、恍惚に似た色を載せた瞳で私をまなざした。あたたかな手のひらで、頬や頭を撫でてくれた。母は私のすべてだった。気味の悪い髪や眼をしている私を愛してくれたのは、母だけであった。
しばらくして、残された右眼も霞んでいくようになると、母は手を叩いて喜んだ。かつて涙や鼻水で顔をいっぱいに濡らしながら、私の眼を取り戻すように懇願していた母の姿はすでにそこにはなかった。そうしていつしか私は、光と影のみを認識するようになった。私の世界から穢れが消えていったのだと思った。
そのあいだにも、私はバケモノたちと遊ぶことをやめなかった。ただ唯一の友であったからだ。暴れることもあるが、言って聞かせれば彼らは驚くほどにおとなしくなった。彼らは私を恐れなかった。ある日、私は彼らとともに教団の中を歩いていた。いつもそこは静かであった。やがてひとつの部屋にたどり着くと、とんでもないものを見てしまった。
ろうそくが五芒星を描く、その中心に、少女がいる。横たわり、両手を広げ、生まれたままの姿で目を閉じている。そしてその少女に覆い被さる影……。目の底に灼きついていた。その光と影が……。
私は男たちの計画に気づいた。私の体や眼を使い、母の金を毟りとり、挙句、男たちは私を喰らうつもりだったのだ。その後、母を殺すかそれとも新たな子を宿させるか、それはわからない。
私が彼らを、最愛なる母を殺し、そしてその血肉を悉く味わい尽くしてしまったのだから……。
「目が覚めたようですね」
ゆったりとした声に香織は全身が震え出すのを感じた。まるで実体のない、幽霊のような声だった。明かりの中に浮かび上がる影は膨張し、とてつもない怪物に思える。
ろうそくを手にした男は静かに近づいてきた。コツン、コツン、靴底の音が、暗闇に、冷ややかなコンクリートに滔々と響き渡っていく。永遠にも思われる時間であった。男は更家のもとまで歩み寄るとスンと息を吸い込み、すぐそばに膝を折った。ろうそくの燈火が男の頬を照らし、やがてその容貌を映し出す。
引き攣ったいくつもの傷痕、頬に突き刺さる大きな口。ノートルダム大聖堂のガーゴイルのように牙を剥く……。
更家の顎を掴み、男はしばらく人形を眺めるようにして注視し、それを放りだした。銀糸をあえかに金色に染め上げると、男は再び立ち上がり香織へと向かってきた。香織の全身に戦慄がひた走る。彼に捕まってはならない。囚われてはならない。しかし、すでになにもかもが遅いのだ。気がついたときには、いつだって。
後ろ手に縛られた手をどうにか握りしめ、香織は身をよじる。
「ああ、愛しき人……どうか、怖がらないで……」
足音が止んだ。男は跪き、香織の頬に手を伸ばした。形を確かめるその手つきで輪郭をなぞり、唇、鼻、そして眼をかたどる。男は香織を見てはいなかった。空虚を眺め、恍惚の笑みを浮かべていた。その指先は冷たく、凍てついた水面のようだった。皮膚は乾燥し、香織の肌を甚振った。
「ここは……ここはどこ……」
その声は震え、掠れていた。
「想い出の場所と言ったらいいかな、私のね」
「あなたは、だれなの」
男は答えることなく、ニイと唇を引き攣らせ、その顔に奇妙な笑みを浮かべた。
「ずっと探していた、ずっと、貴女を」
耳をなぞり、髪を一房その手にとる。口許に寄せ、彼はそれに口づけた。そうして息を吸い込み、天を仰いだ。
「実に馨しい、きっとその肌の下の肉も、とてつもなく甘いに決まっている」
陶酔の吐息がこぼれる。香織の全身は凍りついた。
「なぜ、なぜこんなことを」
「なぜ? それは、なぜだろう」
色のない瞳がろうそくの燈火に蠢く。
「貴女のせいだ、貴女のせいでおれの人生は狂ってしまった……ああ、あんなつもりじゃなかったのに……」
悔恨の表情を浮かべ、男はかぶりを振った。そうして、ピタ、と風が止んだようにうごきをとめると、今度はニイと頬を引きつらせてわらってみせた。
