第五幕 八

 すっかり辺りは薄暮に染まっていた。いつもより仕事を早く終えた香織は、足早に校舎をあとにした。
「香織センセ?」
 待ち合わせである大学側の裏門へ向かうため、芸術科目の特別棟を通りすぎようとしたとき、I組の篠宮に声をかけられた。
「篠宮くん」
「どうした? すっげー顔色悪いけど」
 スケッチブックを脇にかかえ、顔を覗き込んでくる。ヒールを履いているとはいえ篠宮のほうが背が高い。にゅっと背を曲げてすぐそばにやってきた犬のような無垢な顔に、香織ははっと頬に手を当てた。さっき、化粧は直したはずなのに。それも、いつもよりしっかりと。依然不思議そうに目を丸くしている篠宮に、香織はなんでもないとぎこちなく笑ってみせた。
「それより、篠宮くんは、部活?」
 そ、と彼は上体を起こした。
「禪院にデッサンモデル頼んでんだけど、断られちゃってさ。だから、泣く泣く外でニンゲンカンサツ!」
 禪院、その名に胸が軋む。篠宮は知らずと鉛筆を握り、宙に立てて片目を閉じた。
「熱心ね」
「そーなの、オレ未来のピカソになってるかもしれないから」
「このあいだはモネになるって言ってたわ」
 しまった、というふうに彼は額に手を当てて舌を出した。
「で、香織センセーはこのあとデート?」
 香織は肩をすくめる。この手の質問は厄介だ。今は、特に。
「ちがうわ、今日はこのあと大学時代の友だちと会うの」
「なるほど、それなら禪院も安心するわ」
「なぜ、そこに禪院くんが?」
 胸がまたひとつ軋む。喉になにかが迫り上げてくるようだった。
「だってアイツ、最初っから香織センセーのこと、目で追ってたから」
 その言葉を、顔を、どう受け止めればよいのか、香織はわからなかった。慈愛に満ちたようにも、哀しみを湛えるようにも見える。篠宮はいつだってそうだ。なにも見ていないようで、常にその目の奥でなにかを見つめている。
「禪院、クセ強いけどさ、根は、本当は悪いやつじゃないと思うんだよオレ」
 それは、どうだろうか。彼の眼や頬、固く閉ざされた唇、そして、たゆたう低い音を思い返す。心臓をヤスリで削られるような、そんなひりつくなにかが彼にはあった。気のせいだと思いたかったが、そのただならぬ感覚は、正しかったとも言えた。
 だが、光に佇む彼の消えそうな横顔や切ない瞳が、ふとした瞬間しつこく脳裡に蘇る。この先、きっと彼を思い出すたびに浮かんでくるのは、その光景ばかりなのだろう。
「……どうだろうね」
 そうね、と言いたかった。だって彼は私の生徒だったから。
 ――ひとつ読んでくれへん。
 あの瞬間を思い出し、私はいつか泣くのだろう。ふと思った。その瞬間、目の奥が熱くなり目の前がチカチカした。
「大丈夫、先生?」
「……だいじょうぶ」
 なぜ、そんなことを思うのだろう。彼は生徒ではない。正義の味方でもない。でも、彼の目が、髪が、手が、影が、重なり合いもつれあい、とけた瞬間、永遠を感じた。
 ――また、見つけたぞ!
 ――なにを?
 ――永遠を。
 ランボーの詩の一節が脳裡にほどける。だが、今はそれどころではない。これから、私は怪物を誘い出さなければならないのだ。香織は胸の痛みを抱えながら微笑う。
 目の前の少年を守るためだった。もう二度と、喪わないためだった。
 たとえ、この身を喪おうとも。香織はわかっていた。直哉は自分を助けようとも思っていないことを。ただひたすら自己実現のための糧にするつもりだと。唇をそっと指先でなぞり、「それじゃあ、私、行くね」と篠宮に別れを告げる。
「篠宮くん、あなたならきっと偉大な画家になれるのでしょうね」
「エッ? なに、いきなり」
 笑みだけを残し、香織は腕時計を確認し、先を急ぐ。
「あっ、待って、センセー! 奈津子! 松崎奈津子、目が覚めたって!」
 その声に涙をこぼしながら。
「香織先生」
 待ち合わせであった裏門へ向かうと、すでに更家が立っていた。急いだのだろう、ところどころぴょんと髪が跳ねている。いつもどおりの更家の様子に、思いがけずふっと笑いそうになったが、彼女はたおやかにはにかむにとどめた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか」
「いえ、僕も今きたところで。って、二人とも、待ち合わせより、三十分も早いですけど」
 ご飯をたべに行きませんか――それが更家への誘い文句であった。更家はきょとんと目を丸くし、手にしていた眼鏡を落とすほどの動揺だったが、それでも頬を染めて、「行きます」と答えてくれた。これが演技だとするならば、香織は人間不信になるだろうとすぐに思った。
 更家は香織の恩人であった。幼いころから、持て余すことのあった不可思議な自分の体を、唯一知る人間であった。
 こんなことをするのはよくない。そう思うが、震える指先で、「今日ね、ずっと行ってみたかったお店に行こうとおもうんです。フランス料理なんですけど」と肩にかけていた鞄を開き、手帳を取り出すふりをして、紺色のハードカバーの本を地面へ落とした。
「大丈夫ですか?」すかさず更家が長い体躯を折り曲げてそれを拾い上げ、繊細な指先でついた汚れを丁寧に払ってくれる。
「ありがとうございます、これ、私の好きな本で」
 不自然に言葉が詰まっていなかっただろうか。香織は更家の手もとを見つめるので精一杯だった。
「へえ、ポール・エリュアール。フランスの詩人ですよね。悲しみよこんにちは、の人」
「ご存知ですか」
「もちろん。って言っても、前に話したとおり大学のときに少しフランス語をかじってたくらいなので、お恥ずかしいくらい無知ですけど」
 どうぞ、と更家はそれを差し出してくれた。香織は震える手で受け取った。
「あとで、ゆっくり教えてくれますか。いつも、研究のこととか、授業のことばかりでしたから。香織先生の気になるお店で、きっとおいしいワインと一緒に。いろんなことを二人で話したいです」
 おもむろに息を溜め、はい、とうなずき顔を上げた。
 その瞬間、香織は目を見開いた。