第一幕 一

 なんで俺が土曜の夜まで残業せなあかんねん。紫紺の制服を来た男たちによって持ち上げられた黄色いテープをくぐりながら、禪院直哉はあくびを噛み殺していた。
 現場は東京二十三区、閑静な住宅地に建っている施工管理会社の所有する三階建てのビルである。その二階で変死体が見つかったと通報を受け、直哉は六本木で請け負っていた現場から直行していた。東京なら高専もあるし、ほかにも術師はおったやろと思うが、「一級以上の術師に限る」と指定が入ってはやむを得ず。気だるい体に鞭を打ち泣く泣くここまでやってきたわけだ。今、彼のまなじりに浮かんでいるのは、紛れもなくあくびによる産物であるが。
 それはさておき、集まり始めた野次馬を背に直哉は住居部分への階段をあがる。
「遺体は損壊が激しいものの二〇一号室に住む大学生、《ナルミユウヤ》さんだと判明。胸部から腹部にかけての裂傷と、それから……」後ろで黒いスーツの男が告げる。
「それからなんや」階段をあがりながら直哉は言った。
「いえ」男は言いづらそうに言葉を止める。しかし一度歩みそのものを止めたものの、すぐにそれを再開させた。「とにかく見てもらえばわかるかと」
 二十段ほどの階段を上がり切ったところで鼻腔に凄まじい異臭が襲いかかってきた。
「ひどいな」直哉がつぶやくと背後でも同じだったのだろう、息を止める音が続く。まもなく、二〇一と札のついたドアが開き、それはさらに強くなった。部屋は全部で三部屋。二〇二、二〇三はいずれも空室であった。
「本郷先輩……っと、こちらは」
 出てきた若い男が直哉を見て足先から頭までを訝るように眺めた。撫でつけた黒い短髪は横を刈り上げており、反撥的な光が眼の奥に宿るさまはいかにも新人風情を感じさせる。
「ここから先は、俺たちの領分じゃない」背後で男が答える。
「でも、先月も先々月も起きているんですよ」
「だからだ」直哉が鼻をつまんで、早よしろと顔を顰めるあいだ男たちはそんな会話を繰り広げる。「見ただろ、あのホトケさんを」
 ごくりと若者が唾を飲み込んだ。悔しげな顔をしたあと、彼は直哉を睨みつけて道を譲った。「ほなご苦労さん」さもそうするのが当たり前といった調子で眉をあげると、直哉は場違いな袴の裾を翻し渦中の二〇一号室へ足を踏み入れる。
 一瞬で立ち込めたのはおぞましい臭気だった。否、廊下にまで漏れ出していたが、それをはるかに凌駕するナマモノのにおいだった。血と言えばいいのか、それとも臓物のにおいと言ったらいいのか。しかも腐敗がはじまりだしている。
 土曜の夜に嗅ぐもんやないで、こんなもん。直哉は顔を歪め舌打ちを拵え突き進む。数メートルほどのフローリングの廊下の先にキッチンがあった。間取りはねずみの住処のような1Kだったが、キッチンと部屋は磨りガラスのスライドドアで仕切られている。その奥に、それは横たわっていた。
 ペンキをぶち撒けたような鮮烈な色彩。赤、赤、赤――。こちらに足を向け大の字に四肢を投げだしている。腹は裂かれそこから中身が飛び出し、顔の判別もつかぬほど頭部は崩壊、脳髄が漏出。争ったのか辺りは荷物が散乱しており、血痕が無尽蔵に残されていた。
 呪霊に遭遇して腕一本でも残れば御の字とはよく言うが、果たしてこれは感謝できるものもできないだろう。直哉ですらしかめ面をする有様だ。
 だが、そこに一人の男が立っている。
「だれや」
 それこそ場違いなグレーのジャケットに黒いタートルネックセーター。センターパートのシルバーヘアを額に垂らし、顎に手を当て血海の水際にて、其れを眺めていた。
「ああ、いらっしゃいましたか」
 にっこり、笑みを浮かべて男は直哉に視線を向けた。刑事だろうか。それにしては、なよなよしい。そんなふうに思っていると、男は薄い唇に弧を描き、「心理分析官です」と先手を打った。
「心理分析官っていうと、アレか」
「よくプロファイラーって言われるやつですね。犯罪者の行動を予測したり、または分析して犯人そのものの特徴を割り出したり」
 目や鼻は小ぶりだが口が大きく横に張っているため、爬虫類寄りの印象を受ける。しかし男は柔和といえる笑みでわらうと、茶色い革靴に血がつくのも厭わず真っ赤な海原を渡ってきた。
「瀬古です。ときおりこうして警察のお手伝いをさせていただいております」
 名刺には《医学博士/臨床心理士》と書いてあった。港区にクリニックを持っているようだ。
「……てことは、こっち関係か?」
「ご名答。世に言う難事件や怪奇的殺人、呪いが裏に潜んでいるであろう特殊犯罪のプロファイリングを主に担当しています」
 直哉が目を眇めると瀬古はにっと不釣り合いな笑みをかえし、カードケースを胸もとへしまった。「それでこの事件のあらましですが」と瀬古が言ったところで、直哉はあるものに気がついた。
「……残穢か」
 死体のすぐ傍、フローリングへ直敷きの布団の端に足跡のようなものが見えた。血痕ではない。それは正面にある窓の向こうへと続いていた。窓は臭気が逃げないようにか、それとも現場保存のためか固く閉ざされている。
 残穢――残されし穢れ、あるいは呪力の残り香とも呼ばれる。つまりは痕跡だ。これほどまでの凶悪殺人とあれば、一体全体どんな狂人が犯人なのか見えぬ怪物に刑事たちも焦燥にかられることだろう。だが、こうともあれば答えは存外期待外れなものだ。
「先ほど外を確認してみた限り、しばらく続いているようです。追ってみましょうか」
 そこで、ちょうど高専補助監督の伊地知潔高が現場に上がってきて、その痕跡を追うことになった。
「瀬古さんには大変お世話になりまして」
 伊地知が胃の悪そうな顔で車を走らせる。夕飯刻を過ぎた住宅地はすでに物静かだった。
「いえ、自分にできることはこれくらいですから」
 手本のような返答をし、瀬古はまたもや唇を引く。
 主に呪霊や呪詛師による怪事件を専門に担当しており、警察から相談を受けて高専術師にバトンを渡す橋渡しの役もしている。いわば双方の協力者なのだと男は言った。今回も警察から連絡があり、瀬古が現場に直行、状況を鑑みて高専へ繋いだ。
「でも、あんな遺体ばっかりやと頭おかしくなりそうやな」
 涼やかな瀬古と違い、まだ悪臭が鼻の奥にこびりついているようだった。伊地知の顔すら青褪めてばかり。行きも冴えない顔をしていたが、いっそう内臓が悲鳴をあげていそうな面持ちをしていた。サイドミラー越しに見えたそれに軽く舌打ちをすると、直哉は強く鼻をこすったあと窓を開けた。風が入り込みやや空気が整った。
「仕事ですから」と瀬古は答える。頬には相変わらず微笑が浮かんでいた。
「……仕事、ねえ」
 直哉は繰り返し窓に頬杖を突いた。
 事件現場から続いていた残穢はしばらく住宅地をさまよい歩いたようだった。通常、呪霊は生まれた場所に身を据えるが、ごく稀に不特定範囲を移動する者もいる。広域徘徊呪霊というが、もしかするとそうなのかもしれない。
 目が合った者あるいは通りかかった者、大抵は無作為に襲いかかるが、《ナルミユウヤ》の一件以降――体腔に残された直腸の温度によるとおよそ死後半日は経っている。その死亡推定時刻とされる明け方以降だ――近隣で妙な通報や不審者等の目撃情報はあがっていないという。と、なれば、ある程度知能のある呪霊か、そうした呪霊を携えた人間か。いずれにせよ自分が呼ばれた所以はそこなのだろう。
 直哉は窓の外を睨めつける。だが、いくらか不可解な点もあった。
「先月も先々月も、あの刑事どもはそう言うてたな」
 瀬古は隣で重ね合わせた指先を小刻みに動かしながら、ええ、と答えた。
「いずれも東京二十三区、被害者はおそらく十代から二十代の男女」
「おそらくって」
「いずれも遺体が発見されたのは廃工場や空きテナント。その上損壊が激しく、身元判別が不可能な状態でした。こうした場合には行方不明者一覧から跡をたどるのが通例ですが、生憎、該当者すら今のところあがっていません」
 ふつう、現場に残された被害者の慰留物や遺体の顔そのものから人物を割り出すが、そうしたものが一切ないとなると捜査が複雑になるのは想像にたやすい。近隣住民への聞き込みや、近隣区域にある歯科医師を呼び出して歯列の確認をしてもらうなど、よくテレビドラマなどに出てくるヤツだ。それはまだいいほうで、それでも手がかりが見つからないとなると、管轄区域の警察署のホームページなどで身元不明者として情報提供が求められる。とにかく、ご愁傷様といったところか。今回、わずかに形状を留めていた臓器と手脚、あるいは皮膚から年齢を割りだしたという。
 ニュースにもなっていましたが、と瀬古は言うが、直哉は知らんなとすげなく答えた。普段は京都が活動拠点なのもあるが、世間一般のニュースなど彼にはその日の夕飯を考えるより、どうでもいいことだった。連続猟奇殺人とみて捜査が進んでいたが、今回、警察による捜査は打ち切りとなるだろう。
「で、それもこっち側のヤツらの仕業なん?」嘲笑するように直哉は言う。
「推定ですが、なにせ残穢が見つかったのは今回が初めてです」
 止めてください、と瀬古は伊地知に指示を出した。一同は車を降り、ペン型の小型ライトで瀬古はアスファルトを照らした。
 住宅地をまっすぐ、点々と続いていた残穢はある地点を境に途切れていた。
 スン、と瀬古は鼻を鳴らし、深く息を吐き出す。
「こうして現場に残穢を残すということは、どういうことでしょうか」
「そんなもん、決まっとるやろ」直哉は言う。「ソイツがよほどの阿保か、あるいは……」
 瀬古は手首を捻りライトを持ち上げた。
「我々が誘いこまれているか、ですね」
 ――S英館大学附属高等学校。
「すぐに帳の手配をします。特別一級は中で呪霊の捜索を。至急、応援として手の空いた猪野くんをこちらへ」
 切羽詰まった調子で伊地知がジャケットの内側に手を差し込む。「いらんわ」直哉は息をつき、首を鳴らした。そうして引き分け門扉を跳び越え、中へ踏み込もうとした。
「その必要はないかと」
 ――瀬古だ。
「なんやねん」
 訝る直哉に微塵も狼狽えることなく瀬古は続ける。
「おそらく、今日はもう活動しません」
 お得意の分析とやらか。直哉は目を細めた。「で、その根拠は」
「人がいないからです」
 ふむとあごを撫でたあと腰を折り曲げ、瀬古は荘厳な門扉の向こうを眺めた。
「これまでの傾向により、狙っているのは十代から二十代の若者。健康で非常にエネルギッシュ、できれば喫煙歴はないほうがいい。それから既往症も。若ければ若いほうがいいのではなく、ほどよい成熟。したがって……」
「早急に手配いたします」伊地知が青ざめた顔をして電話をかけ始めた。
 ちらと瀬古の細い眼と目が合い、直哉はその瞬間、こんな仕事受けるんやなかったと心底後悔した。