「身体は、どう?」
目が覚めた先は、コトブキムラのギンガ団本部であった。医務室の白熱電灯が瞬いて、その明るさにしばらく目を細めていると、声を掛けてきたのは医療隊の長――キネさんだ。久方ぶりに見るその姿に、とっさに唇を開くが、なにかを発しようとしてただはくはくとコイキングのように口を動かしただけになった。
なぜ、こんなところにいるのだろう。いまは、はたして……。求めるように手を伸ばすわたしに、「まだ安静にしていないといけませんよ」とやわらかな威厳をもって、彼女はその手を握り返した。
「凍土地帯で倒れたと文が届いたときは、それは心の臓が止まるかと思いました」
ただひたすらに、いつかどこかにいたであろう母に似た手でわたしの存在を確かめ、彼女は寝台のすぐそばで手ぬぐいを桶から上げてきつくしぼった。額に当てられたぬくもりは、手のひらよりもあたたかい。閉じ込められていた思考をじっくりときほぐすのに十分すぎる温度だった。
第三の試練でエイチ湖へ向かったこと、先陣を切って向かった少女たちを追い、湖の近くに天幕を張り拠点を作る算段であったこと。しかし、猛吹雪の中わたしは再度意識を失い、ウォロさんとともにやむなく下山を余儀なくされた。銀のたてがみの向こうで抱えられぐったりするわたしを見て、キネさんは生きた心地がしなかったという。その上、それから何晩か、酷い熱にうなされながら昏睡し続けたのだ。
「……ごめんなさい」優しい介抱を受けながら、凝り固まった唇をどうにか動かすと、キネさんは、「ええほんとうに」と子どもを窘めるように言った。
「あなたは、無茶をするたちだとよくわかりました」
けれど、咎めるような物言いでなかったのは、救いだったか。
額や首を拭いてもらったあと、彼女の肩を借りて上体を起こした。ふと視線を転じれば、窓の向こうに広がる景色から、今が昼間だと知る。見えるのは裏手に広がる丘と、青い空。
「……あの子が、成し遂げたのですか」
キネさんは手ぬぐいを桶のお湯に晒しながら、「ええ」と答えた。
「……あの子は、無事ですか」
またしても、答えは、「ええ」だった。
「無事に、すべてを終えました」
――無事に、すべてを。その言葉を受け取った瞬間つうんと込み上げるものがあった。とっさに掛け布団をにぎる。呼吸を整えようと息を吸うが、やわらかいはずのそれらが塊となって喉に痞えた。
「なにも、できませんでした」
ああ、あまりに穏やかな昼下がりであった。声すらも遠く、周囲には静寂がただ横たわっている。これまで感じてきたもの、見てきたことが、すべてまぼろしだったのではないかというように。信じられないほどの平和が、そこには広がっていた。
わたしの声を受け止めるのは、弛緩した空気だ。どこまでもとけていく気がして、掴むべきものが見つからなくなる。勇み足で前へ進んだくせに、結局、最後までわたしは役立たずであった。それどころか、周囲の足を引っ張ってばかりだった。わたしは無力なのだと、この平穏がひしと実感させる。
すみませんでした、掠れ声で告げるわたしに、そうですか、とキネさんは淡々とこたえた。ぴちゃんと水の鳴る音がして、彼女は後始末を終えたようだった。そばに用意していた新たな手ぬぐいで水気を拭い、寝台のふちに腰かけたあと、わたしのほつれた髪を梳かし始めた。ゆっくり、ゆっくりと……。
「あなたのしたことは、ギンガ団として、ゆるされることではありません。勝手に団を脱け出し、任務を放棄したのですから」
でも、キネさんは続ける。
「あなたはいのちを救いました。ひとりだけではない、何人もの。それは、人として、医療にたずさわる者として、立派なことだったと言えるでしょう」
込み上げるものを、堪えきれずに嗚咽を漏らす。それでもこの静寂にそんな情けのないものをこぼすなんて耐えられずに手の甲を唇へ押しつければ、彼女の指がやさしく耳に触れた。大丈夫、と。わたしの感情を、大きな揺りかごで受け止めるかのように。
「人は、悔しさによって大きく育てられるのです」
時は廻る。時代は、変わる。異変は少女によって鎮められ、ヒスイに平和が呼び戻された。ムラはひとびとの笑い声で活気づき、ソノオ通りにはコイキング売りや風鈴売りが練り歩く。本部の前には大きなやぐらが組まれ、その天辺からいくつもの提灯が吊るされていた。きっと、夜になれば皓々とコトブキムラを照らすのだろう。
忙しく動き回る建築隊や製造隊のもとへ握り飯を用意して回り、汚れた手拭いを回収しては本部へ戻る。異変を無事治めたとはいえ、今日とて調査へ出ていたラベン博士とテルくんに出会い、他愛のない会話を交わす。
「もう動いて大丈夫なのですか」
そんなふうに、集めた手拭いのたらいを受け取ろうとするテルくんにわらって、「ええ、もう大丈夫」とかえせば、彼はむっと唇を突き出した。
「まだ、三日も経っていないじゃないですか。無理はなさらないほうがいいですよ」
「無理はしていないわ。身体だってもうこのようにどこも悪くないのだし、じっと座っているほうが毒よ」
それでも心優しい少年は、釈然としない様子で腕組みをする。「ラベン博士もなにか言ってやってください」とつつかれ、隣立っていた博士は愉快そうに大きく肩を揺らした。
「ナナセさんは無理の達人だと、ウォロさんが言っていましたからねえ」
「ええ、ええ! あの人のことをよく見張っておいてくださいと、ウォロさんに言われたんですからね!」
「まあ、あまりの言われようですね」
苦笑した拍子に手拭いが一枚落ちて、ラベン博士がそれを拾い上げてくれる。調査後だからかあの毛糸の帽子をかぶっていない彼は、「学者先生」という呼び名がとても似合う気がした。
紳士な仕草で手拭いの山にそれを一枚足して、「しっかり滋養と睡眠をとり、適度に働いてください」と双方をなだめるように言った。博士に言われては降参するしかない。
「そういえば、ウォロさんは……」
ちょこんと首をすくめてたらいを抱え直したあと、軽く周囲に視線を向けてみれば、彼らはああと目を見合わせた。
「お祭りでたんまり商品が必要になるからと、ヒスイじゅうを回るそうですよ」
ほんの一瞬だが、おだやかなやりとりだった。まさにその場面を思い浮かべて、和やかに微笑む。
「いかにも、ウォロさんという感じがしますよね」語るのはテルくんだ。ラベン博士もふむとうなずいて一笑を浮かべた。
「ナナセさんが目覚める前に、出て行かれましたからね。あの方もひとつの場所にはとどまれない質なのでしょう」
やれやれといった口ぶりだが、呆れよりも親しみを深く感じさせる。
そうですか、とわたしは視線を目の前の手拭いの山へ転じていた。
ウォロさん……。脳裡によぎるのは、真っ白な世界。かすかに揺らぐ、こんじき――。それきりなにも言わないものだから、訳ありといった態度を慮ってか、ラベン博士が白衣の隠しから懐中時計を取り出し、「そろそろでしょうかね」と告げる。
「なにがですか、ラベン博士」
「テルくん、大陸から船がくるとカイさんがおっしゃっていたでしょう」
ああ、とテルくんは手を打った。
「そういえば、言っていましたね。シンジュ集落の人たちが交易しているという、ウォロさんはそれによく顔を出しているとかなんとか」
「ええ。ですから、いまごろ、舶来品に目を輝かせているに違いありません」
そうして安心させるように、「お祭りの夜には、おそらく山ほどそれらを持って戻られると思いますよ」とラベン博士はやわらかくまなじりをゆるめた。
楽しみですね、そう続いた言葉に、わたしもそうですねとぎこちなく表情を崩して、仕事に戻る。
黄昏刻、空が淡くこんじきに染まるヒスイは美しい。何度、一日の終わりに安らぎを得たことだろう。時にはその悠然たる様に呆気にとられ、世界の大きさにひれ伏し、その美しさに胸を震わせた。穏やかに流れる時の、慈しみと切なさの籠った腕にたっぷりといだかれる。そうして、わたしは長屋へと足を進める。
家々からは、水の跳ねる音や火の燃え盛る音、あるいはまな板を叩く均一な韻律。あらゆる生活音が漏れ出し、なんともおいしそうな出汁の香りが漂ってくる。軒先で遊んでいた子どもたちはパラスの群れを散らしたようにパッとちりぢりになって、戸口で待ちわびる母や父のもとへ飛び込んでいく。リン、リリィン、と風にのって宵口を彩るのは、チリーンの音。そうして進んだ先、軒先の行燈に火をともし中へ入れば、首すじを撫でたのは、ひやりとした空気だった。懐かしいにおいのする、どこか頼りない空気。ここはもう、わたしの家であった。けれど、腰窓に薄く積もったままの塵や閉じられたままの姿見、火のつくことのない囲炉裏を眺めると、「ああここはわたしの場所ではないな」と漠然とおもうのだった。
目で撫でるようにして部屋じゅうを見渡し、壁や柱を指先でかたどり、わたしは行李を開けて荷を詰め込む。かたん、と背後で音がしたのは、それから間もないころであった。戸を叩くその音色はやや神経質なほど丁寧なもので、「シマボシだ」という声が続いてわたしは腰をあげた。
「シマボシ隊長、このような場所までご足労いただいて……」
如何様な用事かと問う前に、彼女は手にした籠を突き出してきた。
「ショウが山ほど採ってきた。私は料理をしないので、処理に迷っていたところ、ナナセの名前が挙がったため、持ってきた次第だ」
籠一杯に積まれた、ラムの実。製造隊も、医療隊も、喉から手が出るほど重宝しているきのみであった。わざわざ、こんなふうに長屋まで脚を運んでもらうなんて。それだけではない。「調剤ではなく、料理、ですか」と訊ねると、「ナナセのつくるラムのジュースや、ジャムとやらは絶品だと言っていた」とまじめな顔つきのまま続けるので、あまりにシマボシ隊長らしく、わたしはふと眉をさげた。
「あまり、片付いておりませんが、よろしければどうぞ、あがってください」
ジャムは煮詰めるのに時間がかかるが、果汁を絞るくらいはすぐにできる。籠を受け取って板の間に案内しようとするが、シマボシさんはいやとかぶりを振った。急ぎではないということだった。
「時間があるときで構わないので、私と、それからショウにもお願いしたい」
「ショウちゃんに」
「ああ、彼女はシンジュ団とコンゴウ団とあちこちへ忙しく動き回っているからな。ゆっくりナナセと話す時間もないと嘆いていた。これをナナセに渡そうと話したら、泣いて喜んでいた始末だ」
泣くほどだなんて。ショウちゃんはまったく、大げさだ。でも、目が覚めてからあの子と会話を交わすことすらできていないことは、たしかだった。こそばゆさと、そしてほんのすこしの寂寥とを感じながら、「腕によりをかけて作りますね」と言うと、シマボシ隊長はかすかに相好を崩した。
「……なにもかも懐かしいな、ここは」
流しにラムの実を置いて、甕の水を汲んだ桶にそれらを浮かべる。ぽつりと静けさの中でたゆたう隊長の声に、わたしもそうですねとつぶやいた。
ギンガ団にお世話になることが決まり、この長屋へ案内してくれたのが彼女であった。空いている長屋はひとつしかなく、しかも運悪くひとりだと彼女は言ったが、そこには彼女なりの気遣いも隠されていた。困ったことがあればすぐに頼れと隣家の家族にわたしを紹介し、しばらくは本部で顔を合わせるたびに、「住まいはどうだ」と声をかけてくれた。厳しい彼女だからこその、気遣いであった。彼女は、そういう人だった。
ゆっくりと視線を転じた先に行李を見つけたのだろう、シマボシ隊長は小さく息をつく。
「心は、決めているようだな」
彼女はわたしの様子を見にここへやって来たのだろう。そう思うのは傲りだろうか。
「そうですね」ぎこちなく笑い、わたしは水に浮かべたラムの実を手拭いにとって水気をとった。
落ち着いたら、ムラを出るとデンボク団長たちに告げた。そこにはもちろんシマボシ隊長やキネさんたちも含まれる。勝手に団を飛び出し、無罪を証明したとはいえ当時追放の身となったショウちゃんの手助けをしたのだ。後悔はない。しかし、隊の規律を乱し、いくつもの規則をやぶった。デンボク団長は自らの責任もあるとして、一切のお咎めはなしだと豪胆にもそう判断を下してくださったが、咎められたとしても、咎められなかったとしても、わたしはすでにそうすると決めていた。
ムラを――ギンガ団を離れ、ヒスイを旅すること。この大地をめぐり、行く先々でさまざまなことに触れ、世界を知る。そして、わたしはヒスイという大地に生きる。
「わたしは、わたしのしたことに、けじめをつけなくてはなりません」
甘えているばかりでは、いけないのだ。ここから先は、自分で手繰り寄せて生きていかなくては。……ううん、そうして、生きていきたいのだ。「ナナセ」という人間を。
なにができるかなど、理解らなくとも、そうしたいとまっすぐに思う。知ることで守れるものがある。残せるものがある。救えるものが、きっと、ある。――なにを? ……わからない。それでも、わたしは救える人間になりたい。残せる人間になりたい。守れる人間になりたい。自分が何者かを決めるのは、「わたし」でありたい。
なんて傲慢で、我儘なのだろう。けじめと言っておきながら、わたしは自分の道をただ突き進むだけなのではないか。
手を拭い、板の間に膝をつき、きっちり三つ指をそろえる。
「長らく、お世話になりました」
震える声を引き締めて、心からの言葉であった。偽りのないまっさらな気持ちであった。シマボシ隊長は、短く息をついた。
「頭をあげろ。……団長、いやこの場合はキネ隊長だろうか。まあいい、彼らに代わり、最後の命令を下す」
顔をあげれば、シマボシ隊長はふとまなじりをゆるめ、唇に弧を描いた。
「汝、ナナセという名において、この地にあるいはこの世界に、うつくしい花を咲かせよ」
あの花よりもな――そうして視線を投げかけた先には、見事な白百合の咲く浴衣が掛けられていた。
宵を彩るのは数多の提灯のともし火、そして祭り囃子とひとびとの活気ある姿。ムラ一番の目抜き通りであるソノオ通りは、今日の主役とばかりに百の光と音をたずさえ、みなを迎える。はるばる北や東からやって来たシンジュ団やコンゴウ団、そしてイチョウ商会のかれらが笑い合い、共に時を過ごす。
「ナナセさん、よくお似合いです」
ワンダフォーです、と声をかけてくれたのはラベン博士だ。常の白衣にカメラを手にしたその姿は、すっかりおなじみのもの。
「ありがとうございます。この日のために、医療隊のトヨさんがお貸ししてくれたんです」
「そうだったのですか。そうとは思えぬほど、見事な着こなしです」
「褒めすぎですよ」
そんなにも真っ直ぐ言われると、真実はさておき胸は弾むものだ。大ぶりの白百合が咲く、夜の丘を映したような素敵な浴衣。着物よりはるかに軽やかなつくりで、温んだ風の吹く今日という日にはちょうどいい。こんなものを貸していただけるだなんて、ほんとうに恵まれているものだ。
ラベン博士の言葉にこそばゆくなり、つい浴衣の袖を摘んで肩をすくめれば、写真を撮っても? と彼は言った。どうぞ、と首をかすかに倒して表情を整えたわたしを、パシャ、と小気味いい音がとらえた。和太鼓や笛の音がすぐにそれをかき消したが、レンズに焼き付いた光景は消えることはない。サンキューです、とラベン博士がカメラから顔をはずしたところで、テルくんとショウちゃんがやってきた。
「ナナセさん!」
「ふたりとも、そんなに走ったら転ぶわ」
案の定、ショウちゃんが小石につまずいてテルくんの背中にぶつかった。まったくショウは、とかなんとか、笑いながら、かれらはやってきた。
「来てくれたんですね」
大きな目をきらきらと瞬かせて、祭囃子に負けじとショウちゃんが叫ぶ。
「うん、もちろん。こんなににぎやかなの、いつぶりだろう」
ひとしきり開始を楽しんでから、みなでヒスイに伝わる踊りをおどり、花火が上がるのを楽しむのだという。ひそやかに、そしてしめやかに去りゆく夜という象徴が、あたたかな風に吹き飛ばされる。冴え冴えとした空にあがる大輪は、さぞ美しいことだろう。
数多の任務を終え、苦難を乗り越えたショウちゃんがデンボク団長やカイさまセキさまと頭を寄せ合い作り上げたもの。人々の顔を明るい光が照らし、瞬く間にあざやかに笑顔がかがやく。そこにはもちろんポケモンたちの姿もある。かれらは引き立て役ではない、愛玩のための人形ではない。それぞれが主役であり、この地に息衝く友である。
「あっちには露店もあるそうですよ、ポケモンの飴細工があって、すごかったんです!」
「ショウがいってた、リンゴアメ? ってやつ、今度作ってくれるって言ってたな」
「そう、りんご飴! モモンの実でも、ラムの実でも、ぜったいおいしいと思う」
りんご飴、そのことばに、「なんだかすてきね」と微笑すれば、ショウちゃんはわたしの手をとり、「ナナセさんは、ぜったい好きになると思います」とはにかんだ。
「そうね、そんな気がする」
「見たことも、食べたこともないのに、ですか?」
「案外、そんなことはないのかもしれないわ」
テルくんは不思議そうな顔をしていたが、「さ、おまつりを楽しんで」とわたしはその背を押した。
「ナナセさんも行きましょ」
「そうですよ。そのために、ここにきたんですから」
若人ふたりに挟まれ、結局、賑やかな輪のなかに飛び込んでいく。ふり返れば、ラベン博士も笑ってうなずいていた。
「応、御前さんたち、ちょいと寄っていかねえか」
人いきれの中を歩いた先、視線を上げれば、群青のあの男がわたしたちを見つけたようだった。手のひらには大きな器を載せ、得意げに唇を薄くしている。あいかわらずの色男っぷりだ。
「セキさん、近ごろはどうですか」テルくんが訊ねる。
「どうもこうも、この調子よ。ムベの旦那のしごきで、ちょっとは見られるようになっただろ?」
「もしかして、これ、セキさんが?」
感心したように器をのぞき込むふたりに、「邪魔しちゃだめよ」と声をかける。涼やかな目がふとこちらを向いて、やわらかに細まった。
「なに、構いやしないさ。むしろ……」
首をかしげたわたしに、彼はそっと近寄って耳元でささやく。
「――好いた女をひと目見られて光栄だ」
そんなことを言われては、勢いよく耳を押さえるしかすべもない。はくはくと餌を待つコイキングのように、青い化粧の入った双眸を見上げると、セキさまは満足げに眉を跳ね上げた。
「座して待つのは苦手でな。……おら、オメエら、腹は空いてねえか? ムベさん、三人、いや学者先生も入れて四人か。席に通すぜ!」
耳元に息づかいが残るうちに、彼はくるりと身体を反転させた。その先では、デンボク団長やシマボシ隊長のもとにイモモチを運んでいたムベさんが顔をあげ、彼にこくりと頷いた。もう一度ふり向いたセキさまは勝ち気な顔から、やさしげなものへとゆるやかに表情を変化させてあごをしゃくった。行きましょう、と、ショウちゃんに手を引かれてわたしも席についた。
「セキさんは、ムベさんのもとで修行していらっしゃるんですよ」
「テル、あまり余計なことは言うんじゃねえや」
「いいじゃないですか、色男がイモヅル亭に増えたと持ちきりなんですから」
隣についたショウちゃんの視線に気がついて、喧騒の中、身を寄せて訊ねる。
「どうかした?」
はっと唇を開いたあと、眉がへにゃりと歪んで、あの立派な下がり眉になった。そういえば、と、ゆっくり語りだしたのはラムの実のことだった。
「ナナセさんに、ジャムとジュースのお礼、できてなかったなと思って」
困り顔をするから構えてみれば、わたしのほうこそ力が抜けて小さくかぶりを振った。
「そんなの、むしろあんなに新鮮なラムをいただいて、わたしもうれしかったよ」
でも、と、ショウちゃんは息継ぎの間に続ける。
「それに、あれからずっと、会えてませんでしたから」
静かな夜が、今日はなんとも賑やかで、しかし騒がしいのに、ふしぎとショウちゃんの声が耳を越えて胸に届く気がした。そうねとひとりでにうなずいて、「わたしも会いたかった」と微笑むと、ショウちゃんはくしゃくしゃに破顔して――そしてほんのちょっぴりのその瞳を潤ませながら――「私もです」と言った。
「話したいことが、たくさんあるんです」
「……うん、たくさん、聞きたいな」
「ナナセさんが眠っているあいだも、これのおかげで、ひとりじゃないって思えたんです」
これと懐から取り出したのは、小さな巾着だ。花びらを乾燥させ、香油で匂いづけをしたもの。彼女は白い手でそれを鼻に寄せ、祈るように瞑目する。
「……香りは、鎮静作用があるの。ふだんから嗅いでいるにおいを嗅げば、ここぞというときにも落ち着けるかと思って」
せめてものお守りになればと思っていた。役に立ったなら、よかった。「ナナセさんの香りがします」と言ったあと、ショウちゃんは哀しげに、「すこし、においが薄くなってきちゃいました」とぽつりつぶやいた。
「また、作らなくちゃね」
そう告げれば彼女は大きくうなずいて、運ばれてきたイモモチを指差した。「きましたよ!」と箸を構えた彼女に、セキさまが得意げに、「応、ムベさん特製イモモチだ! たんと食いな」と白い歯を見せた。
夜は深まっていく。太鼓や笛や、笑い声、軽快な音が辺りに響き渡り、やぐらの下で人々がおどり始める。幾たびもの試練を乗り越え、祝されるのは「親和」だ。コンゴウ団とシンジュ団、そしてギンガ団が、人とポケモンが、ヒスイという大地と共に生きていくあすへの祝宴。耳に触れる音、目に投げかけられる光、それらはどこか懐かしい気がする。遠き日の思い出。ぽろぽろと溢れては消えていったかけらたち。……ここは、これからどうなっていくのだろう。
カイさまの吹く笛の音に合わせ、ペリーラさんやハマレンゲ先生が太鼓を鳴らす。オニゴーリやグレイシアとともにスカタンクとツバキさんの優雅な舞が披露される。大きな提灯には、ギンガ団、コンゴウ団、シンジュ団それぞれを象徴する紋章。
――ここは、■■■■■■じゃない。
ぼんやりとそれらを眺めていると、聴こえてきたのは、「エルッ」という声だった。
「……エルレイド」
試練を終えて、ショウちゃんのもとへ返したその子が、ゾロアとともにラベン博士に連れられて立っていた。
「ショウさんが、きっとこの子はナナセさんに会いたがっているんじゃないか、と」
彼女のもとに帰ってからは、ラベン博士の手伝いをしていると聞いていた。調査にも積極的に参加し、皆から頼りにされている、と。そんな記憶の反芻を悟ってか、エルレイドはわたしを見て得意げに破顔した。ふらふらとどこかへ行ってしまいそうになるゾロアを引き止め、ラベン博士に預けると――まるで幼い弟の面倒をみるみたいだった――こちらへ歩み寄ってきた。
エルッ、エルルッと語りかけてくるその子の頬に手を伸ばして、「ひさしぶり」とわらいかける。ショウちゃんはというと、すでに人垣の向こうでテルくんと踊りの輪に混ざっていた。「エルッ」再会を喜ぶように笑っていたその子が、突然語気を強める。どうしたのか首をかしげるわたしとはうらはらに、ラベン博士がおやおやとまなじりをゆるめた。
「なにやら言いたいことがあるようですね」
「言いたいこと? なあに、エルレイド」
怒ってはいるけれど、でも、けっして激昂ではなく、言い表すならば頬を膨らまして訴えかけるように。
ポケモンの話している言葉がはっきりとはわからなくとも、彼がラベン博士に向き直るやモンスターボールを受け取り、それを突き出してきた意味を、わたしはきちんと理解することができた。
「……ナナセ?」
まじまじと眺めたモンスターボールには、不恰好な文字が刻まれている。
「これ、あなたが?」
そうだとばかりに胸を張り、「エルッ」顎をツンと上に上げてエルレイドは恭しく腕を胸に当てる。
「ショウさんたちに手伝ってもらいながら彫ったのですよ」
「あなたが……」
――ナナセ。一文字ずつ指でなぞる。子どもが書いたようないびつな字ではあるけれど、線一本ずつ削ったのだろうその文字は、またとないほど愛らしくも思える。
「あなたとともに、行きたいのです」
ほんとうは、置いていくつもりであったのだ。このヒスイを旅するのに、自らの手で、脚で、また一から始めようと考えていた。彼はショウちゃんの捕まえたポケモンだったから。
ラベン博士の言葉に、モンスターボールをぎゅうと握りしめる。
「ここにいれば、いろんなことを経験できる。仲間もたくさんいるのよ」
「エルルッ」
それがなんだと口にした気がした。エルレイドを見上げ、そしてショウちゃんを人いきれの中から探し出せば、ふしぎと目が合い、彼女はこくりとうなずいた。
……そして、その先に、見慣れた帽子が見えた。だが、一瞬のうちにその人は背を向けて人の波に消えた。
残像を追い求めることなく視線を戻して、エルレイドを見つめる。
「……あなたがいたら、百人力ね」
もちろんだと彼は胸を叩き、わたしの腕をひいた。そして、にぎやかなおどりの輪の中へわたしを連れ出した。
花火が上がる。轟音が夜空に響き、大輪が咲く。歓声が辺りに満ちる。
鮮やかな夜は続いていく。光瞬くソノオ通りを脱け出し、ひとり喧騒に背を向け本部の裏手にある丘を上がっていくと、いつものひそやかな夜の風景が広がっていた。煉瓦づくりの本部越しに光や音が届くが、しばらく歩けばやがて風がそれらを攫っていった。
イモモチをたらふくいただき、ぐるりぐるりとやぐらの周りをおどり歩いた足はすでに重くなったが、その静けさが絶好の慰みでもあった。
「……ウォロさん」
宵闇にたたずむように、空を見上げていた背に声をかける。ふり向きもせず、彼は、「……アナタですか」と吐息で返した。
拒絶、ではなかったはずだ。そっと歩み寄り彼の金色の頭を見上げると、いつだったか、彼とムラを眺めたことを思い出した。まっすぐ、人々の息づくコトブキムラを眼前に、彼はなにを見ていたのか。そして、背を向ける彼が、今、なにを見ているのか。
「……目が覚めてから、考えていました」
風に、ひそやかにささやく。彼の結った髪が首元で小さく揺れ、それから彼は手にしていた帽子を被り直した。
「目の前の男が、なにをしたかについてですか」
「いいえ」
「では、如何様にして一矢を報いてやるかどうか」
「……いいえ」
苦虫を噛み潰すように、続いたのは、「アナタは莫迦な女だ」ということばだ。
「すべて話せばいい、この男がなにをしたのか。そして、奪えばいい。邪魔をすればいい」
ゆっくりと息を吸い込んで、いいえとわたしは答えた。
「ウォロさん」
その背は、ひどく強情だ。いくら呼びかけても、もう二度と、ふり向いてはくれないのではないかと鼻の奥がかすかに痛む。あの純白の大地から彼と顔を合わせるのは初めてだというのに。これを逃がしたら、おそらくきっと……。
渇いた口内をうるおすようにごくりと喉を動かして、わたしはその背に語りかける。
「わたしに、居場所をくれて、ありがとう」
たとえ、この出会いがすべてを失う理由であったとしても。
なにもかも失くしたわたしを、棄て置かずにいたこのひとを、どうして、わたしは憎むことができるだろう。
その背に手を伸ばすか悩み、そして結局、彼の腕をそっと掴んだ。
「生きていきます。あなたが居場所をくれたこのヒスイという土地で、今を、生きて、生きて、生きて――」
なにもかもを知りたいわけではなかった。ただ、わたしが、ここに生きていていいという証がほしかった。おのずと与えられるものに、縋りたいだけだった。……そんなもの。
この足で歩き、この手で掴み、手繰り寄せればよいのだ。そうするしか、ないのだ。
「この世界と、向き合います」
彼は莫迦だと嗤うだろう。救いようがないと蔑むだろう。それでも、これがわたしの選んだ道だ。もう、選んだのだ。すべてを受け容れて、わたしは歩いていく。
ゆっくりとふり向いた彼の、灰燼の瞳を見つめながら。触れたら壊れてしまう、そんな硝子細工のような彼の、その青い衣服を強く掴みながら、わたしは繰り返し口にする。
「……ウォロさん」
――ありがとう、と。
見渡す限りの大自然であった。あたかも人間などその腕に抱かれる稚児のように、ヒスイという世界はそこに広がっていた。空は高く澄み渡り、筆で刷いたような白雲が細くたなびいている。赤い空は疾うに過ぎ去り、ヒスイという大地を揺るがした騒動は、ひとりの少女とそして時空を司る二体のポケモンによって鎮められた。
「エルレイド、こっちよ」
きのみを両手いっぱいに抱えたその子が草原を駆け、すぐそばまでやってくる。豊満な果実の香りは、長い冬の終わりをたしかに感じさせてくれるかのような甘さと爽やかさがあった。
コトブキムラを出てから、季節は廻り、そして時代は変わった。ディアルガさまとパルキアさまとともに生きるこの大地は、かつての苛烈な、死を隣人として感じさせる場所ではない。ムラにはヒスイじゅうからコンゴウ団、シンジュ団の人々がやってきて、日がな一日活気にあふれる。他の集落においてもそうだ。紺色の衣のあいだにきらきらとしんじゅ色の衣装がまじり、彼らの未来を明るく語り合っている。
さらに、黒曜の草原地帯では、新たなムラを作ろうと開拓の話が進んでおり、以前はただひとつの天幕が建っていたその場所が、いまやあすへの象徴であった。
ヒスイは変わりゆく。森や川は人々の生活から隔たれ、いつしかコンクリートの塊で満たされるかもしれない。発展は破壊でもある。「むかし、おおきなあらそいがありました」――その声は、まやかしなどではないことを、心に刻んでおかなくてはならない。
「エル、エルルッ」
「……そうね、そろそろいかないと。ユウガオさんを困らせてしまうわね」
ただ、人々が生きる活力を取り戻したことを、光を見い出したことを、けっして嘆いてはならない。彼らの、そしてわたしのそばに寄りそうこのぬくもりを、もはや否定することはできないのだから。
「ギャロップ、あなたの出番よ」
真っ赤なほのおが青空に翻る。その背にくくりつけられた袋に山ほど集めたきのみと薬草とを詰め込んで、エルレイドはギャロップによろしくとばかりに語りかける。
美しいたてがみは、銀色のあの子のものではない。鼻先から頬にかけて刻まれた深い切創痕。いななく声は高く、遥か先まで響き渡る。蹄鉄ヶ原の奥地で、怪我をしてうずくまっていたポニータがこの子であった。放っておくことが自然界の法則であったかもしれない。だが、苦しげに鳴く一頭の仔馬を見てみぬふりすることもできず、結局連れてきてしまったのだ。治療の甲斐あってか、すっかり傷も塞がり、今では立派なギャロップとしてわたしとともにヒスイじゅうを駆けめぐっている。
その背に乗り、青い風を浴びることのなんと心地よいこと。大地を切り裂き、丘を、山を駆け上がり、世界を見渡すことの尊さよ。まだまだこの地には知らないことがたくさんある。――この目に留めたい景色が山ほどあるのだ。それを教えてくれたのが、この子でもあった。
いつ自然に帰そうかと悩む時期もあったが、今となっては、かけがえのない存在だ。エルレイドとギャロップとそれぞれ目を見合わせ、腰のポーチからボールを取り出してエルレイドをしまうと、大きなギャロップにまたがり颯爽と草原を行く。
冬を越えたヒスイでは、ポケモンたちの大量発生が話題になっているようであった。先日ムラで耳に挟んだ話によれば、各地で大規模なポケモンの群れが散見され、「大大大発生」と名付けられたその事象は、現在、調査隊とコンゴウ団、シンジュ団によって解明が進められている。マネネやゾロアの大群ならまだ可愛らしいが、中には強靭なポケモンたちが集まっている例もあるらしく、近ごろは怪我人も出はじめているとユウガオさんからの文にも書かれていた。きっと、ショウちゃんたちは今ごろこの大地を東奔西走していることだろう。
原野を抜けて湿地帯に向かえば、ズイの遺跡の入り口に待ち人の姿が見えた。ケムリイモの大きな葉を背に、コダックとともにわたしたちを出迎えた。またもや頭痛を拗らせたというその子を、ひでんのくすりで癒やし、それから採取してきたきのみと薬草とをユウガオさんに渡す。お礼には、ズイの遺跡の中を案内してもらった。
遺跡の中はひやりとしており、時の流れが止まった泉のような心地になったものだ。これが初めてではないのに、毎度のこと瞑目し祈りをささげるようにして音の反響や空気の流れ、温度や湿度を感じるわたしを、ユウガオさんは、「前にも、そんなふうにしていた人間がいたね」と言って受け止めてくれた。遺跡の内部を歩きながら、ヒスイに伝わるさまざまな話を聞くのが、わたしの役目であった。それは神話のような神秘的なものから、父母の語る子守り唄のような身近なものまで。ただムラに暮らすだけでは知ることのできなかったことを、今、わたしはこの目で、この耳で、身体で、確かめていた。
集落に向かえばヨネさんとカイさまが出迎えてくれ、「ああ、いいところに」と、ひとつの天幕に押し込まれた。なんでも、大大大発生のパチリスに強烈なスパークを食らったセキさまが腕の巻木綿を直しているところだったらしく、その手当てを行なうことになった。ほかにも、農作業や狩りで怪我を負った人々の治療を施して回り、火ともし頃には子どもと一緒になって、夕餉の支度をした。
コンゴウ団に伝わる、伝統的なしきたりや慣習に基づく生活を教わりながら、彼らと過ごすのは大切な時間だ。カイさまからシンジュ団のお話を聞いて、それらとの違いを見出すのも貴重な学びとなる。それぞれの集落の味、あるいは、その時代、その瞬間、そして空間、さまざまな「味わい」がある。
夜が明けてからは、カイさまとともに海岸へ向かい、ヨネさんから預かったどうぐをススキさんに届けた。ショウちゃんが来たら頼むつもりだと言う彼女に、夕餉の席で、わたしが行くと告げれば、半ば呆れられながら感心されたものだ。
そんなとき、
「……まったく、あのお姫さんがねえ」
「あいつは、新時代の女ってやつよ」
などと、ヨネさんとセキさまのあいだで会話されていたことを、のちにカイさまの口から聞くことになる。「セキってば、やけに得意げにしてたの」と愉しげな顔で告げられるのだから、わたしは曖昧な笑みをかえすばかりだった。
青き海原を眺めたあとは、隠れ里へ。
「おぬしもよう来るものじゃ。いつものやつは持ってきたのか?」
「もちろん。コンゴウ集落で、カイさまたちにわけていただいた花びらをたんまり」
いっときのティータイムと、お菓子づくりとを楽しんで、純白の大地へ。
「そういや、さっきまで大陸からの商人が来ていてね、イチョウ商会のあのひとが舶来品をたんまり手に入れたって話してくれたよ」
変わったこともあれば、変わらないものもある。またその逆も然り。そのまま手のひらに残っているものもあれば、すり抜けていったものもある。
今がある限り、明日は変化し続ける。そして、未来だけではない、過去ですら、昨日手にしていたはずのかたちから少しずつ変化を遂げていく。しかしそれは、すべてがなくなるということではないはずだ。人々の中で、大地の中で、この世界で、たしかに息づき続ける。今があるから明日があり、昨日があり、そして、世界がある。
「そうですか、彼は元気そうでしたか?」
「そうだね、朝方からハマレンゲ先生とクレベースを見に行ったとかなんとか言っていたよ。このあとはキッサキ神殿に向かうって話をしていたから、もしかしたらまだそのあたりにいるんじゃないかな。珍しい薬品とか買えるかもしれないよ」
わたしは治療のお礼にいただいたシンジュ編みの衣を胸に抱えて、「元気なら、なによりです」と笑った。
ショウちゃんに会いにムラへ立ち寄れば、なぜだかセキさまやカイさまもいらっしゃり皆で訓練場に向かい詰めた。このごろは新たな訓練を編み出したらしく、警備隊のみならず、さまざまな人々が相棒を連れて鍛錬に勤しむ様子が見られた。ムベさんに負けて悔しがるセキさま、テルくんと息つく暇もない接戦を繰り広げるカイさま。ノボリさんとショウちゃんのバトルは、いつだって想像を絶するほど熾烈な戦いだ。いつのまにかシマボシ隊長やデンボク団長までいらっしゃって、訓練場は大盛り上がり。
こうして時代は創られていくのかと、日々、実感する。
「それで、例の品は持ってきたんだろうな?」
本部の地下に向かえば、ギラリと丸眼鏡が光を携えた。
「タオファさんったら、あいかわらずせっかちなんですから」
「うるさいわい。これほどにも辛抱強い爺を前に、なにを言うか」
漸く完成した瓶入りの頭痛膏を差し出すと、彼はふんと鼻を鳴らして蓋を開ける。
「しばらく試して出来がよければ、あやつの店に置いてやらんでもないぞ」
いがみあっているように見えたタイサイさんと彼の仲も、このごろはどうやら穏やかなものになりつつあるらしい。微笑ましい提案に、「それは光栄ですね」と、つい頬が弛むが、すぐにわたしは首をすくめた。
「でも、舶来の薬には、とうてい及びませんから」
「今さら弱気になるとは、まったく」
ぶつぶつと苦言を洩らしながらも、タオファさんは軟膏を指先にとって首すじにまんべんなく塗布する。
「ほう、冷感ならぬ、温感か」
「ええ。シンジュ集落の方に教わった薬草から、まずは血の巡りをよくすることで肩の緊張をほぐすものをつくってみました」
「第一歩ってわけだな」
間違いない。つい苦笑してみれば、タオファさんは瓶の蓋を締め、背後のキャビネットに丁重にしまった。
「――それで、この先はどうするか決まったのか。まさか、ずっとそのままの生活を続ける気じゃあるまい」
わたしは今度こそ眉をさげて、広げた荷を整頓する手を止めた。
「そうですね。この生活を始めて、わたしにできることは限られていると強く感じました」
すべてをこの手で賄えると考えていたわけではない。だが、思いえがいていたよりも遥かに、自然を前にわたしは無力だった。ふんとタオファさんは鼻を鳴らして、隣のキャビネットから青い小瓶を取り出すとぶっきらぼうにも突き出してきた。
「青二才が、それで限界を感じたわけじゃあないだろう?」
ムラの畑でとれた花の精油だ。もとはカントーから運ばれてきたものを使っていたが、くさタイプやみずタイプのポケモンたちのおかげでその花を多く栽培することが可能になった。寒さが尽きたつい先日、花を収穫したと文に書かれていた。
その小瓶を握りしめながら、「……ええ」とうなずく。
しかし、守る、救う、繋ぐ――そんなふうに想い、行動していくあいだにも、刻一刻と時は流れ、時代の波はやってくる。その波に、果たして抗い、立ち向かっていくことができるのか。そうするには、どうしたらいいのか。わたしにははっきりと見当がついてはいなかった。
「このあと、デンボクのもとへ行け」
タオファさんは背を向ける。視線の先、黒板に描かれているのは新たなモンスターボールの設計図であった。
「団長のもとに?」
「おまえに会いたがっていてのう。本当は、孫同然のおまえを行かせるつもりもなかったが、なに、おまえにとって悪い話ではないはずだ」
きょとんとしたわたしに、タオファさんはふり返りざまニヤリと不敵な笑みを返す。
「どの道を選ぶのか、その道を選び突き進むのか、それとも戻るのか。あるいは立ち止まりうずくまるか。それを決めるのも、おまえさん次第」
まるで崖からコリンクを突き落とすみたいに、と唇をすぼめれば、「親心というのは厄介なものだ」と片眉をあげて、タオファさんは近くの洋机に積まれていたぼんぐりの殻を手にとった。
どこか落ち着かない気持ちで階上へ向かうが、執務室に団長はいらっしゃらなかった。急な来訪であったため、仕方のないことだと引き返そうとしたところで、「ナナセよ」と背後から声が届いた。
「デンボク団長」
先日の訓練場ぶりのその人は、開け放たれた戸の向こうにいた。以前は決して開かれることのなかった扉。どこか荘厳な、重苦しささえ感じる執務室に陽光が射し込んでいる。
「突然、申し訳ございません」
手を揃えてこうべを垂れれば、デンボク団長は肩にかけた外套を揺らす。
「なに、そう堅くなることはない。タオファのもとに顔を出していたのだろう」
「はい。ようやく、頼まれていたものを渡すことができました」
気を安くと言われても団にいたときの名残りが身についている。苦笑すると、常の威風堂々といったたたずまいで、その人はふむとあごを撫でた。
「単刀直入に話そう、ナナセ」
思わず、瞠目せずにはいられず。慌てて居住まいを正せば、彼は意に介すこともなくまっすぐな光を宿して続けた。
「此度、ラベンの故郷から腕利きの医師がやってくることになった」
お医者さまが……。繰り返したわたしに、団長は「ああ」と首肯する。
これまでも、ムラにはデンボク団長に馴染みのあるお医者さまが月に何日かホンシュウからいらしていた。彼の指導のもと医療隊が発足し、キネさんを長にここまで発展を納めてきたのだ。ただ、このくにの医術は外つ国に比べれば、まだ途上にあった。
ごくりと生唾を飲みくだしたのを、彼はおそらく見逃さなかっただろう。
「まだまだ、ヒスイは――このシンオウの地は変化を遂げる。これから人が多く訪れ、ムラは大きくなり、やがて各地にも人々の集う場ができるはずだ」
実際に、新しいムラを作る計画がすでに始まっている。ギンガ団による、ギンガ団の、ヒスイの開拓。それは、この地のために行なわれるものか。この地に生きとし生けるものたちのために、考えられたものか。
「ムラができ、人々が息づく。この地を豊かにするために、必要不可欠なものが数多ある」
彼の声は、低く、そして一本の木のようにまっすぐであった。
カントーでは、郵便事業が始まって久しいが、ここヒスイではようやくポケモンたちの力を借りて文を届けるようになったほど。アーク灯が夜を照らし、石畳で舗装された街並みをステッキを鳴らす者もいれば、ポケモンを車夫とした俥で往来を行く者あり。ここにはそれらはもちろん、当然、陸蒸気などというものもない。
「……だが」デンボク団長は続けた。「なにより病院や学校だ。――そこで、ナナセ」
合わさっていたはずの視線が、不思議なことに再び深く重なる。彼の明日を見つめるまなざしが、わたしに注がれている。
「彼のもとで、研鑽を積んではみぬか」
ひいては、この土地に暮らす人々のため。ポケモンたちのため。そして、ヒスイのため。――果たして、本当にそうだろうか。未来は、明るいだろうか?
「……わたくしは、ムラを、ギンガ団を出た人間にございます」
「それゆえ、ナナセに進言したのだ」
――わたしは。わたしは、なにかを救い、守れるだろうか。繋いでいくことが、できるだろうか。あすを紡ぐことが、果たしてできるのだろうか。
「わたし……」
わたしが、そんな人間に、なれるの?
「ナナセ、おぬしが決めることだ」
ごくりと、何度めになるかわからない唾を飲みくだす。ここで生きていくために。この世界と人々とポケモンとともに生きていくために。
自分が、何者であるか。
――むかし、おおきなあらそいがありました。
なにを、すべきか。
――花を咲かせよ。
さいご、脳裡に響いたのは、シマボシ隊長の声だ。
「……やらせてください」わたしは答えた。
「たとえ、険しい道でも、茨の道であったとしても、どうかその道を進ませてください」
頭をさげたわたしに、デンボク団長は穏やかにうなずいた。
「励むがよい、ナナセよ」
ひとりの少女とそのポケモンたちの功績により、築かれ始めた新時代。互いが歩み寄り、手を取り、ともに明日を見据える。輝かしいあすへの旅路のただ中。
わたしは今を生きていた。この広大な大地の中で、「わたし」を生きていた。皆がそうだ。今を懸命に生きていた。
空が鎮まり、人々が手を取り合うさ中、ひとり巡ったヒスイの大地。それは、生易しい旅だったとは決して言えない。幾度となく危険に晒され、命を落としそうになったこともある。自らの不甲斐なさに、涙したこともある。けれど、大地は、世界はわたしを見捨てはしなかった。いつも、そこにあったのだ。
踏み出してみなければ知らなかったことも山ほどある。どこにどんなポケモンがいるか、どんな草花が生えているか、大地の息づき、光の瞬く瞬間、風が記す軌跡。あるいは、あのツバキさんの歌声がたいそう美しいことだって。
わたしはこれからいくつ、知らなかったことを手に入れられるのだろう。この手に触れ、大切に育むことができるのだろう。
「――ショウちゃん」
草原の向こうに見えた背に大きく手を振る。太陽の光が眩しい。彼女には太陽が似合う。きらきらと、屈託のないたしかな光。彼女は光そのものだ。
野を越え、山を越え、ヒスイを巡る。最果てはどこか。果たしてたどり着くのか、その地に咲く花はどんな花か。
やがて、夜をも越えてわたしは対峙する。
「エルレイド、ギャロップ」
ぬくもりを抱き寄せながら、たしかにこの目で、この身体で。
「――朝が、来たわ」
真っ暗な空を染め上げる、皓々とした光。目を灼きつける、鮮やかなこんじき。
――ああ、わたしはまだこの世界を知らない。
寒さの尽きたこの地に、吹きつける甘く、青く、あたたかな風を抱きしめながら、燃える朝陽に照らされる大地の姿を待ち侘びる。
