「ナナセさん」
ゆさゆさと揺り動かされ、わたしは目を覚ました。目を開いた先には睡たげなまあるい飴玉と灰色の雲。ぺろりとわたしの口もとを生あたたかいなにかが伝うから、微睡みの余韻もなく飛び起きることとなった。
「……ひゃ、な、なに!」
「ゾロア、いきなり舐めたらびっくりするでしょ!」
犯人――人ではないけれど――はわたしの上から下りると、たたっと足音を弾ませてショウちゃんの真後ろに隠れた。
「そっか、ゾロア、起こしてくれたの?」
その子は得意げに尾を揺らして顔をのぞかせる。あまりの感触に驚いたが、事実はなによりも愛らしいものだったので、目覚めは悪くなかった。
「すみません、ナナセさん」
「ううん、わたしのほうこそ。すっかり朝寝坊しちゃったみたい」
早くに起きて薬の準備や飲み水を用意するはずだったのに。これでは彼女を追いかけてきた意味がなくなってしまう。
せめて、すぐに支度をしようと布団を押しやると、はたと気がついた。
光を撥ね返す金糸、艶を湛える白磁の肌、ぬぷりと喉を塞ぐ――あれは、夢だったのだろうか。身に纏っている着物は、寝入るときに着ていたもののまま。ざぷんと水底へいざなわれていく感触を肌が確りと記憶しているくせに――そうだ、憶えている。
しかし、あれが夢でなければ、今ごろわたしは別の着物を着ていなくてはおかしい。寝床には濡れなど一切ない。
「どうかしましたか?」
ショウちゃんに声をかけられ、わたしは意識を取り戻した。「ううん、なんでもないの」そうつぶやくように言って、ようやく重たい腰を持ち上げた。
昨日コギトさんが話してくれた神話をもとに、ヒスイにあるみっつの湖をめぐる。決して容易とは言えない旅だ。すでにウォロさんも用意を済ませ、コギトさんの過ごす庵のそばにあるテーブルセットに腰を据えていた。おはようございますナナセさん、そんなふうにいつもどおりの彼に、どこか落ち着かぬ胸を抱えながら、わたしは崩れた結い髪をしっかりと整えて彼らのもとへ向かった。
「よく眠れたかの」
泰然とした声に、ええと答える。ここはとても静かで穏やかだ。時として、恐ろしくなるほどに。そうつぶやけば、コギトさんは美しく傾斜を描いた眉のまま、「そうであろう」と唇の端に艶を載せる。
黒い洋装を着こなす姿は、引札などで描かれるカントーの令嬢というよりかは、外つ国の貴婦人というのが正しい。立ち居振る舞いからして淑やかであり、足先から指先、のみならずまつ毛の先や、身につけた帽子の飾りの先までも洗練された仕草が宿る。
ふしぎなひとだ。ずっとしゃべっていると、どことなく心のうちまでをも見透かされてしまいそうになる。綺麗な西洋人形にも似たその優美な装いは、途端にわたしを固く丸まったゴローニャだとか、ゲンガーに睨まれたゴルダックだとか、そんなものに変えてしまう。
まさにわたしの考えていたことを悟ったのか、「そんなに固くならなくてよい」と彼女は困り顔のような表情を見せて、肘つき頬に当てていた指をとんとやわく打った。
失礼しました、頭を下げれば、彼女はふむとなにやら得心した顔で紅茶に口をつける。「さて、用意が済んだのならば、中で話をするかの」と可憐な陶磁器の――そうこれはティーカップだ――のふちを指先で拭った。
それからは、昨日のおさらいを含めてこれからの動向を話し合うこととなった。まずは時空の裂け目をおさめるために、「赤いくさり」を作ること。そのためには、湖に存在するという三匹のポケモンに会いに行くこと。そのうち、まずは隠れ里から近くの湿地帯の湖――リッシ湖に向かうこと。一進一退かと思われた現実も、今となっては日進月歩のあゆみだ。ショウちゃんもあの大きな瞳に強い光を宿していた。
「お水、用意してきますね」
テレポートを使いこなす珍客を迎えたあと、寝過ごしてしまったためにできずにいた旅支度を整える。川の上流、昨日教えてもらった湧き水の箇所へ汲み水をしにいくと、背後からエルレイドがやってきて桶と大鍋を持ってくれた。
たっぷりと汲んだ水を煮沸し、一度濾したものを冷やして竹筒に入れる。アルミ製の容れ物などがあればいいのだけれど、そんなことを呟いているとエルレイドはふしぎそうに顔を覗き込んできた。
「そうね、わからないよね。……わたしも、わからない」
おぼろげに蘇る記憶は、まるで粉雪のようだ。それぞれは小さく、そして触れた先から消えていく。無意識のうちに宿り、気がついた瞬間にはもう残っていない。
ルレッ、ルレッ、と腕を振るエルレイドは、気にするなとでも言っているようだった。ショウちゃんが捕まえてきたラルトスだったはずなのに、すっかりそばにいるのが当たり前になっていた。
「だいじょうぶ」口にすると、そうだと思えてくる。
「だよね?」
問いかければ、彼は破顔し力強くうなずいた。ひとの感情を彗敏に察知するポケモン。前向きな気持ちには、ひと一倍敏感だ。――ううん。本当は、ぐちゃぐちゃだ。それだからこそ、この子はそばにいてくれるのかもしれない。ラルトスだったころのやさしさを残したまま、かれは育った。進化をしても、その性質やこころは失われずにいる。
どこか、透明な硝子を隔てていたそれが、はっきりと目に見えるようになっていた。
すぐに準備しないとね、と声をかけると、エルレイドはシマボシ隊長のもとからやってきたケーシィに声をかけて、なんとタマザラシを連れてきてくれた。
「お友達?」
ころんとした丸いフォルムのその子は、応えるように短い手をあげて転がった。エルレイドが話しかけると、勇しく鳴き声をあげて口から白縹の光を放った。
ルレッと胸を張るエルレイドに、ゆるりとした顔つきでおそらく笑いながらタマザラシは見上げてくる。「……れいとうビーム」そして、凍りついた数本の竹筒。エルレイドはそうだそうだとばかりに小躍りをしだし、タマザラシはあたりを転がり始めた。
なんとも愉快な雰囲気に、「なにやら騒がしいのう」とコギトさんが外へ出てきた。
「おや、粋なことをしておる」
「すみません、うるさくしてしまって。……でも、ポケモンの技を使えば、文明の利器なんて必要ありませんね」
肩をすくめたわたしに、コギトさんはそうよのうと、またしても艶のある仕草で唇に指を当てた。
「ポケモンはなにがために存在しているのか。われわれ人間と同じ世界や大地に生まれ落ちた、その理由は意外と近いところにあるのやもしれん」
よし、今度は火を起こしてもらおうかのう、と、のんきに口にするコギトさんに、エルレイドは再びケーシィのもとへ向かう。つぎに現れたのは、青いたてがみのポニータだ。
「こんな子、見たことない」
うっとりするわたしをよそに、コギトさんはほれと銀色の匙をティーカップの上へ置くと、そこへ角砂糖をひとつふたつと載せて、最後そばに置かれた陶器の水差しの中身を上からかけた。それを眺めていたわたしやエルレイドだったが、ポニータは一度鮮やかな青いたてがみをふるわせると、小さなひのこを吐いて匙の上の砂糖を燃やした。
刹那、パアッと立ち上る青い炎にぱちりと目を瞬く。
「ふむ、よいできじゃ」
優雅にポニータを撫でて、コギトさんは肘つき組んだ手の上にあごをのせる。うれしそうにたてがみを揺らしたポニータは、タマザラシとエルレイドとともに辺りを走り始めた。
「待って、あなたたち!」
もしや放っておけば、勝手気ままに放牧場からのポケモンを連れてきてしまうのでは?――そう、あのケーシィはシマボシ隊長からの計らいでムラの放牧場と繋がっている。凍りついた竹筒を一度放って、転がるタマザラシを追いかけようとしたわたしに、「よいよい」とコギトさんは言った。
「それより、旅立ちの前に、おぬしも一杯飲んでいくがよい。ポニータ、紅茶が冷めてしまったからのう、いま一度湯を沸かしてくれぬか」
驚くほどすんなりと彼女の言葉を聞き入れ、ポニータは弱くなった焚き火に火をくべる。すかさずエルレイドが鉄瓶を上にかけ、準備は万全であった。
「そうして、多くを助けるのじゃ。共に生きるならば、また人間もおぬしらを助けてくれるはず」
唖然と見つめているうちに、湯が沸いたのかエルレイドがコギトさんのもとへ鉄瓶を持ってきた。彼女はそれを受け取り、背の低い陶器から一杯の茶葉をティーポットへ入れると熱湯をそそぐ。かぐわしい香気が立ち、彼女はもうひとつ空のカップをエルレイドに持ってこさせ、そこへ先ほどと同じ容量でスプーンと角砂糖とを用意した。
「おっと、これではただの小間使いじゃな」
それでも、彼らは躊躇せず、スプーンの上に火を灯す。茫然と立ち尽くしていたわたしは、エルレイドに背を押され、コギトさんの目の前の椅子へ座らせられた。
「さて、そろそろ頃合いかの」
琥珀色の優雅な液体を陶器のふちからそっとそそいでいく。やがて燃え尽きた砂糖が崩れて、ぽつりと蒸留酒が一滴、二滴としたたり、波紋を立てた。――そうだ、このにおいは、おそらくブランデー……。
そこで、川にかかる板の橋の向こうから、ザアッと足音がした。
「おう、来たぜショウ!」
「もっと言い方がないのか、まったくおまえは」
あの声は。あの群青は……。
「――セキさん、カイさん!」
そう朗らかに上がる声も、一瞬のうちに、遥か遠ざかる。
出立の前、現れたふたりにコギトさんはさほど動じた様子もなく、むしろそれまでどおりの調子で紅茶に口をつけていた。どうやらポニータの力を借りてつくるティー・ロワイヤルをお気に召したのか、ひと口飲むたびにふむとその味わいを確かめていた。
わたしはというと、カップを落とさぬようにどうにか口をつけることで精一杯であった。情けない。琥珀色の水面が、小刻みに揺れている。
「おぬしは行かなくてよいのかの」
その音色は、どのような音色かを判断しかねた。愉しげな色も、まともな色も、どちらも含んでいる。
「彼らの話が、済んでからで構いません。……わたしは、ショウちゃんの進むべき場所に共に向かうつもりですから」
「ふむ、人間というのはいつの時代も面倒な生き物じゃ。しかし、だからこそ人間」
神妙につぶやいたあと、コギトさんはまたひと口、紅茶に口をつけた。
紅茶の味も定かではないまま、最後まで飲み干して紅蓮の湿地まで発つことになった。それまではどこにでも徒歩で向かうのが常であったため、湿地帯までの道のりを思っては気が遠くなりそうだったが、アヤシシさまやウォーグル、多くのポケモンたちのおかげでその道程は束間に過ぎていった。
森をアヤシシさまの背に乗って駆け抜ける。その風のなんと心地よいこと。ときおり大地へ向けておりてくる枝葉に頭蓋を撫でられるが、それすらも雄大なる大地の指先にくすぐられるかのようであった。
しばらく駆け抜けた先、山岳地帯を川沿いに迂回してコンゴウの里山を登った先にリッシ湖はある。黒曜の原野にあるシンジ湖同様、火山噴火により生まれたとされる湖。周りを高い山に囲まれ、ウォロさんの話ではポケモン同士の争いで大地が窪み、そこへ水が溜まり、湖となった説もあるという。
ショウちゃんは巧みにもウォーグルとマニューラの力を借りて、先導となり、その後、人目に触れてはいけないからと迂回することなく山を越えて一足先にリッシ湖へ向かった。わたしとウォロさんはコンゴウの里山を上がり、それよりも北上した場所にある霧の遺跡周辺に天幕を張った。
「万事、順調か」
荘厳ささえ漂う遺跡のそばで、簡易的な拠点を仕立てるわたしたちのもとにやってきたのは、コンゴウ団の長たる御仁。時空の裂け目を治めるために、湖の試練を受けるショウちゃんの助太刀を買って出てくれたのだ。その立場ゆえに表立って行動をすることはできないからと、隠れ里を先に発ち、わたしたちを待ち受けた。
さて、彼の問いに、「ええ」と答えたのはウォロさんだ。
「ショウさんならば、すでにリッシ湖へ向かっているところかと」
「ならいい。オレたちも、ショウのイダイトウさまを借りて後を追うことにしよう。……アンタは?」
話を振られ、天幕の敷布を整えていたわたしはその手を止めて笑みを浮かべた。
「わたしはこちらで待機しております。御二方に彼女をお任せしなくてはならないのを心苦しく思いますが、これがわたしの為すべきことがゆえ」
そうかい、とセキさまはひと言答えて、腕組みをした。
「しかし、万が一、ポケモンたちが襲ってきたら、どうしやがる」
「エルレイドがおります」
「……エルレイド」
荷解きを手伝ってくれていた彼が勇しく顔をあげ、武道の構えをとった。
「この子は、もとはこの霧の遺跡で出会ったポケモンなのだと、彼女が教えてくださいました。ですから、だれよりもこの場所を熟知しているはずです」
そうだとばかりに両腕を引き、構えを正す。「……だが」と言葉を継ごうとしたセキさまをウォロさんが遮った。
「ではジブンが、ショウさんとアナタを試練に見送ったあとここへ戻ることにしましょう。なに、このような身なりですが、多少はポケモンを戦わせる心得があります」
なにやら釈然としない顔つきであったが、口内で言葉を転がしたあと、セキさまはまたしてもそうかいと告げて、懐からモモンの実を取り出した。
「この近くにある雲海峠にゃ、強靭な毒を持ったマスキッパのナワバリがある。用心しとくに越したことはねェ」
「……お気遣い、ありがとうございます」
いくつものそれを受け取り、広げた鞄の中へ傷つけぬように置いた。
「では、向かいましょうか」
「ああ。集落の奴らには湖に近づくなと言ってある。時は急げだ、早いとこアグノムとやらに会いに行こうぜ」
ふたりの背を見送り、やがて見えなくなったところで、わたしはその場にくずおれた。
「ルレッ、エルル?」
「……だいじょうぶ。ごめんね、おどろかせちゃったね」
昨日の今日だ。彼の手を振り払い、背を向けて駆け抜けた。今更、どういう顔をしていればいいのかわかない。
「情けない、ほんとう」
ねえ、エルレイド。そばにやってきたその子に手を伸ばせば、彼はその手を取り、真横に傅き、そっとわたしを抱きしめた。
時空の裂け目は捨ておけぬ――これは古代シンオウ人の血を継ぐコギトさんの言葉だ。数多の時空に繋がるという亀裂のその先に、シンオウさまが在られるとし、過去現在未来、そして前後左右上下、時間と空間とを司る。
往来古今 謂之宙
四方上下 謂之宇
コンゴウ団とシンジュ団では異なるシンオウさまが存在している。だが、時間と空間は、宇宙という存在にとって切っても切り離せぬもの。いわばこの異変はそのふたつの均衡が崩れた証。裂け目が生じたならば、湖の試練を越え、霧の遺跡に向かわねばならない。それが、古の民より受け継がれた伝承。「あかいくさり」が世界をつないでくれるという。
自らの選んだ道を悔いるな。あのひとに失礼だ。……悔いてなどはいない。ただ苦しいだけ。けれど、苦しみは果てのない海ではない。きっと、いつか果てる。乗り越えるのだ。
見上げれば、禍々しい空が待ち受ける。天冠の頂には、膨大な闇を抱えた時空の裂け目。
「わたしは、あそこから来たのかしらね……」
エルレイドが背を撫でる。わずか、触れた頬から鼓動が伝った気がした。そのぬくもりは安堵となり、今はひたすら目を閉じて優しい熱に寄り添う。
少女とひとりの男を送り出して、ウォロさんが戻ってきたのはそれから一時間ほどしてからのことだった。火を起こし、そのそばでエルレイドとともにわたしは採取した薬草やきのみの仕分けをしていた。
「いかが、でしたか」
訊ねれば、射し込む陽射しを遮り、大きな彼が目の前に立った。
「無事、送り届けました。湖の中央に巨きな岩があるのですがね、ショウさんを待ち侘びていたかのように、その岩肌を切り崩したのです。まったくあれは見事でした」
太陽を背負ったそのひとは、帽子のつばを掴んで一度深く被り直し、いやいやとかぶりを振って帽子を取る。
「そうですか」
視線を落としたが、すぐにわたしは立ち上がった。
「すみません、ぼうっとして。よければあまいミツを落とした紅茶と、それからきのみを用意したので、召し上がっ――」
慌てて手ぬぐいを握り、ナイフとラムの実を取り出そうとしたわたしの手を、ウォロさんは止めた。
「世界を見にいきましょうか、ナナセさん」
「世界?」わたしはゆっくりとくり返す。
「ええ、こういう時だからこそ、ヒスイという大地を知ることも大切ですからね!」
拒否権などあるはずもなく。否、たしかにそれはあったのだけれど、彼はわたしの腕を掴んでいた。淡く赤みを帯びた金糸が、どことなく目の奥を回転させるような気がして、陶然とそれを見つめているうちに、わたしはわかりましたと答えていた。
エルレイドに火の番を任せ、雲海峠へ向かうことになった。途中ラルトスやサイホーンが近寄ってきたが、しかしすぐそばまでくるとミツハニーのごとく彼らは一目散に逃げていく。不思議なものだと思いながら、彼らを尻目に峠の中腹にある小高い崖を迂回して上がった。最後、足場が悪くなり、「連れ回してしまい申し訳ないです」と言いながらウォロさんが手を掴み、引っ張り上げてくれた。
依然空は赤く、おどろおどろしい絽紗を広げたように妖しい光を孕んでいる。しかし先ほどの濃密な緊迫にも似た空気とはちがい、里山の裾野から吹き上げる風が新たな空気を運んできてくれた。青々とした大地の香り、それは泥や岩や、草木や下を流るる川の匂い。雲海峠の名のごとく、辺りにはかすかに霧が立つ。それを、ウォロさんがモンスターボールから出した天使のようなポケモン――トゲキッスのエアスラッシュで払えば、視界は徐々に晴れていった。
宙を舞い戻ってきたその子の頭を撫で、彼は、トゲキッスをボールへしまった。
「湿地帯が、見えてきましたね」
霧のあいだから、裾野に広がる川や平野、沼、大地の輪郭が光のもとに結ばれる。
「すごい……。なんといえばいいのでしょう」
ああ、もっと晴れていたら。空が青ければ。しかし、今あるヒスイの大地さえ、強靭な力に晒される自然さえ、雄渾とした美を湛えている。
「こうして、大地を眺めていると、ふしぎな心地になります。この大地はいかにして創られたのか、どのようにして拡がったのか。宇宙は、アルセウスという一匹のポケモンから始まったといいますが、そのアルセウスはいかにして産み出されたのか」
「アルセウス……」
「ええ。創造神といえばいいでしょうかね。この世界を創りし、唯一の神」
果てなき宇宙を、広大な世界を、天真爛漫な大地を。
「……ヒスイという土地を、わたしはまだまだ知らないのですね」
見ていたつもりになっていた。知っていたつもりになっていた。わたしは、見ているようで実に盲目だったのだ。届きそうで届かぬ大地の、掴めそうで掴めぬ風の、その隅々にヒスイという世界が息衝いている。滔々と流れる時、広々と拡がる空間。
「……知りたいですか」
ウォロさんは隣立ち、訊ねた。
そうですね、とわたしも答えた。
「……知りたい。いろんなことを」
「たとえ、なにが待ち受けていたとしても?」
「はい、それが、わたしにとって大切なことだと思うから」
ふり向けば、彼はその頬に赤い光を浴びていた。美しいという言葉が似合う彼の横顔。その目もとは帽子のつばに隠れ影が落ちている。左眼を覆う髪が風に揺れ、その奥にある熱や色をわたしから遠ざける。あなたは、なにを見ているの?
「悟ったのですか」
「そんな大仰なことではありませんが……。でも、そうであったらいいです」
ただ生きることに必死だった。必死のあまり、わたしは生をおろそかにしていた。これまで無自覚に生きてきた時間は、わたしが死とともに過ごしたのとなんら変わりがない。
自分がどこにいるのか。そしてどこに在るのか。世界とは、なんなのか。
今ここに存在する、その証明を……。
「――写真、撮れたらいいのに」
たなびく金糸を目で撫で、わたしは前を向く。そうして腕をまっすぐ伸ばし、人差し指と親指を使い四角を作った。
「ここで、ウォロさんと、この景色を見たことを」
やっと、わかったことがある。記憶がないことは、悲しいということ。だって、それは、わたしの大切なだれかのことを、忘れてしまったということだから。怖いというその感覚の裏に潜むもの。怖さには、惧れには、さまざまな色がある。
どうか願はくは――わたしは自らの生み出した小さな世界を、目を細めて見つめる。
紅蓮の湿地の遙か先に拡がる、雄大な大地。そして、隣の彼の人。ふり向いた彼の、ほんのわずかに目を見開いた表情を四角く切り取る。
忘れたくないことがある。ヒスイに目覚めてからのこと、ムラで過ごした日々、数々の出会い、別れ、再会……。この手に掴んでいたいことが、山ほどある。
「目に灼きつけなきゃ」
このひとは、知っている。わたしのなにかを、もしかしたらすべてを。それでも今は、彼が見せてくれた世界を信じ手にしていたい。そう、思ってしまう。それは、このひとがウォロさんだから。
「……ウォロさん?」
世界は包まれた。厚く広い胸板に。小さなふたりきりの、箱庭のような宇宙に。わたしは、瞬く間に閉じ込められてしまった。
彼は問いかけに応えることなく、わたしを抱きしめていた。はじめよりもその力は強くなり、確かなものに変わり、頬に当たる胸から彼の鼓動を感じる。――ああ、わたしはこれを知っている。やはり、夢ではなかったのだ。
その背に手を回すべきか、そうするのはためらわれた。しかし、結局、わたしは大きくて小さい孤独な背にゆっくりと手を伸ばした。
