赤とも紅ともいえぬ、その透きとおる見事な「あか」を背徳と言わずになんと呼べばいいのだろう。板間のすみに寄せられた小さな座卓の上に置かれた背徳の小瓶。普段イモやトウモロコシ、あるいは少しの米が主食のヒスイでは、あまり活躍することもない。それだからほんのときどき舐めるか、イチョウ商会から買い付けた紅茶に溶かすか。……あの日のことを思い出さないようにと言われても、唇の感触はいまだ色濃く残っている。
その甘い匂いを味わうだけで、たちまち唇はおろか全身に熱が奔るからやっていられない。けれど、それをやめられないのも、また事実。小指の先にとったあかいジャムを下唇にほんの少し載せて、紅がわりに鏡を覗き込んで……。ため息はどうしようもなく熱くそして湿り気を帯びている。
晴れ渡る青空に禍々しく時空の裂け目が浮かんでいた。テンガン山の山上、ときおり雷を伴うそれはまるで魔界へとこのヒスイを誘なうようでもあった。
朝が次第にまろやかになりつつあるこの季節。もはや亀裂は人々にとって当然の景色の一部であり、今となっては、わざわざそれを観察しようと見上げる人間もあまり存在しない。けれど見上げた先にあったものだから、しぜんと眺めてしまったのだった。頬を撫でるぬるんだ風が、一抹の不気味さをもたらして、つい下唇を噛む。
「ナナセよ」
本部横手にある土手の上、天日に洗い立ての白木綿を晒していたところ、頭上から声が落ちてきた。単に名前を呼ばれただけなのに、背すじがぴんと伸びるような低い声はひとりしか思いつかない。
ハッと居住まいを正し煉瓦造りの瀟洒な建物を見上げると、二階の窓辺にてデンボク団長が煙管を蒸していた。「精が出るな」と言葉短に告げる様はなんとも貫禄がある。ポケモンと相撲をして豪快にも投げ手をくり出すほどの御仁だ。「おかげさまで」と声を張ると彼は煙管を指先にとり紫煙をくゆらせた。
「して、斯様に空を眺めておまえはなにを思う」
晒しが飛ばぬよう手で押さえながら、なんとも心の臓を握られる思いで言葉を詰まらせた。「なにを、ですか」辛うじて喉を震わせれば、声なくデンボク団長はうなずく。こちらを見下ろしていた精悍な眼が天を向いた。
「おまえにとってアレはどう映る。脅威か、それとも、吉兆か」
洗いざらしの木綿をぎゅと握りしめる。
「……判りません。けれども、あの禍々しい様子を眺めると、あまりよい心地がするとは言い切れないものがあります」
み空に浮かぶ一点の闇。いつかじわじわと広がっていくのではないか。頭上に、背後に、足下に、それは瞬く間に口を開いてわたしを呑み込むのではないか。いつか、空をすべて覆ってしまったとしたら――刹那、こめかみがいやな弾みを起こした。
「妙なことを訊いたな」
「……いえ、とんでもございません」
デンボク団長はまたひとつ煙管を吸うと、「次の調査のことで話がある、仕事に方がついたら上がってきてくれ」と言って窓辺から立ち去った。
室内へ戻り、慌てて前掛けと看護帽を整えて階上にある団長室へ向かうと、そこには団長の姿のみならず調査隊の衣服をまとった少女と群青の羽織をなびかせた彼の姿があった。
「うむ、ナナセも来たな」
お待たせしましたと深く礼をすれば、デンボク団長はそう言ってわたしを迎え入れた。いくつもの視線が集まり、これほどいたたまらない心地になることはそうそうない。
いつもならば、おそらくキネさんが立ち会うような場面。この御三方が揃うということは、他でもない荒ぶるキングやクイーンたちの任務である。
すでに待たせたぶんできるかぎり俊敏に部屋へ踏み入ったところで、いま一度団長はひとりでにうなずき話し始めた。
「集まってもらったのは他でもない――」
その言葉を皮切りに始まった話は、天冠の山麓にいる洞窟キング、マルマインについてである。時空の裂け目より生じた雷により、突如として荒ぶりだしたかのポケモンを鎮めよ、というのが、デンボク団長からうら若き少女に与えられた任務だった。体内にエネルギーを溜め込むポケモンであり、落雷を受けてからはその放出が尋常ではなくなってしまったという。
コンゴウ団であるセキさまの案内により先に山麓入りした調査隊によれば、群青の海岸での任務よりはるかに困難な状況とのこと。しかし新たな命に対し、ショウちゃんは恐れおののく様子などを見せずふたつ返事でうなずいた。
「して、苛烈を極めるだろう任務、今回は医療隊であるナナセに同行を頼みたい」
デンボク団長の言葉にわたしも手のひらを握りうなずいた。
「拠点にて待機し、有事の場合はすぐに処置にあたってもらう。よいな」
相承知いたしました、こうべを垂れるとみずからの指先がふるえているのがわかった。それを隠すように左の掌で右の手を覆うと、失礼のないようにとデンボク団長をまっすぐ捉えた。その後、ツバキというキングマルマインのキャプテンであるコンゴウ団の男性が現れてひと悶着あったのだが、とにかく任務は先に述べたとおり実行されることとなった。
ムラを発つのは明日。ショウちゃんたち調査隊よりも先に、警備隊の方々と拠点を作りに山麓へ入る。通い慣れた黒曜の原野とは異なり、どのようなポケモンが生息するかも定かではない。どくやまひなどに効く薬をありたけ用意し、いつでも処置を行なえるようにしておかなければ。
調査に同行するのは初めてではないが、これまでと同じ心持ちではいられなかった。いつかくるとはわかっていたものの、時代を動かすそのただ中に立ち尽くしているのだと思うと心の臓が炙られる思いだった。
日が落ちて、医務室の棚から何度も医学書を出したりしまったりをくり返すわたしに、声をかけてきたのはキネさんだ。
「そう気を揉んではいけないわ」
ほぼ毎日顔を合わす彼女の前では、どんな繕いも徒消となる。「すみません」と小さくこぼすわたしに、彼女は平然とした調子でその手におまもりを握らせてきた。
「彼女はとても立派な子だもの」
こくりとうなずく。
「それは、わかっているのですが……」
キネさんは取り計らうようにやわく微笑んだ。手の中のおまもりは彼女が長らく大切にそばに置いていたもの。それを握るわたしの手の上から彼女の白い手が重なる。
「ナナセ、あなたも立派なギンガ団の一員よ。あなたなら大丈夫」
それにまたこくりとうなずいて、下唇を密かに噛みしめる。
鎮まらぬ心が叫ぶのは結局、明日からの任務にあの男が関わっているということだった。
ムラを出たのは、夜明け前のひときわ暗い時間のこと。テンガン山のふもとには黒曜の原野を抜けていかねばならず、徒歩で行くとなると早くとも着くのは数日先。ショウちゃんの捕まえてきたポケモンの力を借りたとしても、野を越え、山を越えてというのは決して楽な道ではない。原野にたどり着くのが明け方。空は東雲色に染まっていることだろう。そこから山際までひたすら進み、おそらく夜が来るので日の出を待つのだ。山越えの後は湿地帯へ入り、コンゴウ集落へ。湿地帯への道のりは幸いにしてもう慣れたが、平野を進んだ先、コンゴウ集落に向かうのはこれが初めてでもあった。
原野の夜明けを、荷を引くカイリキーやギャロップの隣に寄り添い眺めながら進んでいく。付き添いの警備隊の男性が先導となり、行く道は容易いとは言えないがそれでも安泰と言える道だった。ポケモンたちの休憩とともに人間もムラから持ってきたきのみや握り飯などで腹拵えをして、何度かそれをくり返したのち、一度目の日没を迎えるころには、すっかり身が入るようだった。
しかし、道のりはまだ半分にも満たない。明け空を眺めながら、山を越え湿地帯へ進み、そうしてコンゴウの里へ無事たどり着いた。
「お待ちしておりました」
どうやら先に言伝があったらしく、少なからず大所帯のわたしたちを拒むことなくコンゴウ団の方々は迎え入れてくれた。
「長は只今リッシ湖に向かっておられ、間もなくこちらへ顔を出されるかと。先に寝床をご案内いたします」
集落から少し外れた峠のふもと、開けた場所に天幕を張ることになった。ありがたいことに夕餉までふるまわれ、さらには熱水線の湧き出る近くの泉にまで案内されて、こちらが戸惑うほどに至れり尽くせりであった。
てっきり、すげなくあしらわれるかと思っていたから……。ヒスイに生きてきた人々にとって、ギンガ団という外から入ってきた人間たちはみな異人だ。そして、ヒスイを荒らす侵略者でもあったはずだ。
この土地に初めてデンボク団長たちがやってきてから、何年もの年月を経て和睦が進んだのか。けれどそれって、万事いいことなのだろうか?
薄氷を渡るように、一歩踏み外し均衡が失われれば、一瞬で美しい春の訪れの関係は崩れ去る。土地の発展は新たな文明の構築であり、すなわちそれは破壊にほかならない。そうして失われたものは数多くあるはずだ。かつて、西の文明があらゆる文明を破壊しそれに取って代えられたように――……?
とにかく、裂け目の向こうから落ちてきた少女によって、まさにひとつの時代が終わろうとしているのをこの肌で感じるのだった。
さて、疲れた体を労うには十分とはいえ、酷使した足腰は十分に言うことを聞いてはくれないものだ。「鎮痛薬を置いておきますからね」と、おぼつかない足取りで警備隊の方々の天幕をまわり、それを済ませて自分も湯浴みをすることにした。
集落のともしびを背に、リッシ湖へ向かう。すっかり辺りは宵に染まり、道中立てられた松明の光が頼りだった。
この刻限は空けておいたからと里の方に言われたとおり、簡易的な脱衣場には人影はひとつもなかった。ムラにも浴場はあるけれど、それは天然のものではないから、硫黄のかすかに混じったにおいはとても懐かしい気がした。
懐かしい、その感覚に戸惑うも、温泉くらいは昔のわたしだって好んでいただろうと結論づけて着物の帯をほどく。大きな岩陰にしつらえられた行李とコンゴウ編みの敷き布。しずかに合わせを放てば夜風がするりと襦袢と肌のあいだに忍び込んだ。
すべて脱ぎ去るころには、どこか愛撫された心地になりながら、震える体を抱えてゆっくりと岩場をすすむ。シンオウさまの恵みをいただいた泉だと集落の人は言っていたけれど、泉と呼ぶにはもったいないほどの立派なたたずまいだ。
宵闇に黒々と潜んでいる岩肌を、揺らめく松明のともしびが艶めかせている。水面には光が散り、その上に立ちのぼるのは真白の湯気。神秘的という言葉が、おのずからよく似合う。近くに置いてあった桶を使って湯をひと掛け、ああ癒される――と、息をついたところで、「だれだ」と低い声が湯気のあわいを揺蕩した。
「……セキ、さま?」
その声はよく知るもので、たしかにいつもより剣呑な色が込められていたが、けっして聞き間違えるはずのないものだった。
「ナナセ……? おめえ、なぜここに?」
「その、今ならば、ゆっくり入れるはずだからと教えていただいて……」
湯気が夜風にさらわれ、浮かび上がったのはセキさまの姿だ。岩に背や腕を預け、緊張をほどくようにして湯に浸かっていた。だが、その顔はうろんそのものだった。
とっさに、「申し訳ございません」と謝り、岩の上に置いた手ぬぐいで前を隠して去ろうとする。だが、「いい、オレが訳知らずと勝手に入ったんだ。オレが出るのが道理だ」と言ってセキさまは髪をかきあげ立ち上がった。
ざぷん――湯が揺れる音。「いけません」と逃げ腰になりながらそれを止めようとして、運悪く足を滑らせてしまう。
「いつだってそそっかしいな、おめえは」
腕をとられ、どうにか転ばずに済んだものの、心の臓はひどく、それこそ痛いほどに跳ねていた。背後から抱きすくめられるようにして丁寧に、ゆっくりと岩に腰かけさせられ、汚れた足をきれいに湯で流される。
「セキさま、そんなこと……」
「べつに構うことはない。そも、だれもいやしねえさ」
だってこのひとは、この里の長だ。こんなところ、見られてしまったら沽券にかかわるなんてものじゃ済まない。それでもちっとも身体が言うことを聞かず、指先の泥をじっくりと落とす彼の手の感触にのぼせ上がりそうになりながら、ただわたしは伏した彼の顔を眺める。
「髪結いのためにと思ったが」
そう口にしたのは、左の足首に絡んだ組紐を見つけたときだ。人さし指が皮膚と紐のあいだをなぞり、そのままふくらはぎから膝頭を撫でた。いつもは、白い木綿布を巻いたその腕で。
「まあこれも悪くはねぇな」
息をのんで、呼吸さえままならぬ女をセキさまは泉にいざなう。
「道中、ご苦労だったな」
岩影にひそんで、セキさまはわたしを隣に置いた。対してその女は星躔を見上げる余裕すらなく、踊る湯気を見つめるばかりだった。
「コンゴウ団の皆さまには、とてもよくしていただきました」
「応、なんたって滅多にない客人だ、そうせずにはいられまいよ」
彼が長でなかったら、あるいは少し前のヒスイであったのならば、そうはいかなかっただろう。数日してショウちゃんやラベン博士もたどり着く、そのときもきっと――いやもっと、丁重に歓迎されるだろう。
「……しかし、無事でよかった」
たぷん、と水面が揺れ、次に訪れたのは熱だ。夜風に当てられかすかに乾いた頬に、ふれる灼熱。たくましい腕には、幾千の……。
「あんたがここまで来ると聞いて、気が気じゃなくてなあ。……少しばかし、赦しちゃあくれねえか」
――吐息が、攫われる。
すっかり熱に当てられた躰を、慰みとばかりに夜風が撫でていく。温めたことにより血のめぐりがよくなったからか、脚が笑うような感覚というのはすでになくなっていた。しかし、天幕を張った峠へ戻るさなか、わたしは無意識のうちに自分の唇を指先でなぞる。
蘇る、熱。それに浮かされるがまま、溺れるがまま、互いの呼吸を分けあった。その熱のみが与えてくれる心地よさに、おそらくわたしはもはや抗うことはできない。
自惚れてしまいそうになる。期待してしまいそうになる。しかし、同時に胸を覆うのは厚い雲だ。
わたしは、どこにいるの? 果たして、本物のわたしは……。
「おやまあ、だれかと思ったら、ギンガ団の」
飄々とした嫋やかな声が届いてはっと顔を上げた。闇間には、青藤色の髪をした彼が立っていた。
「このツバキとしたことが、あいさつするのをすっかり忘れちまってね」
ツバキ――コンゴウ団の長である男をアニキと慕うそのひと。彼はあごをひと撫ですると濡れた手ぬぐいや、替えた襦袢を手にしていたわたしを値踏みするような視線で眺めた。
「アニキに見初められたおひいさんがどんなかと思えば、なんだい、どこぞのウマのホネ」
やれやれと指先を額に当てて小さくかぶりを振る。
いきなりなにを、などとは声にならず、早鐘を打つ心を隠すように荷を抱えこんだ。
「……わたしは」
「アニキはおかしくなっちまったんだい。このツバキを差し置いて、あんな小さな子どもの言うことに耳を傾ける。その上、こんな珍妙なオンナにアレをやるだなんて」
役者じみた物言いで言い切ったあと、彼はまたしてもなにか得心したようにふむとあごを撫でて両腕を軽く広げる。
「ごらんよ、アニキはコンゴウ団の誉れ高き血を受け継いだお方――」
彼の視線の先に見えるのは、かがり火に照らされ里の男衆と話す精悍な彼のひと。
「唯一無二の長であり男であり、崇められるに相応しい存在」
――胴腹を抉られる、というのは、実に言い得て妙だ。おさまったはずの震えが襲いかかり、わたしは喘ぐようにして呼吸をどうにか取り込んだ。けれどもちっとも喉を通らなくて、涙目になりながら、それを気取られぬように必死に伏せてその場から走り出した。
途中、小石に足をとられ、自らの天幕にたどり着くころには着物の前見頃は泥だらけになっていた。ここまで旅をしてきたギンガ団の人々には、「風呂に入ってきたんじゃなかったのかい」と声をかけられたが、曖昧に笑って泥の塊を取り除いた。しかしこびりついた染みまでは除けるわけもない。
ひとり天幕の中で、わたしは救いを請うように思い描いていた。かすかに残る甘い、甘い果実の香り。背すじの痺れるような、畏怖に似た快楽の兆し。ああ、おそろしい。なんと、おぞましい。しかし、夜明けにも落日にも似た淡墨の空の瞳に認められるそのときだけは、心の置き場が見つけられるような気がしたのだ。金色のまぼろしに、伸ばしそうになる手を抱きしめて眠りにつく。
――わたしは、愚かだ。それに見合うように、翌朝テンガン山に向け出立したわたしの着物はどこもかしこも酷い有り様だった。
数日して、天冠の山麓に荒ぶりしキングはひとりの少女によって無事鎮められた。
「ナナセさん」
ふりかかる声に気づかず、わたしはムラから出たすぐの草原で薬草となる草花を摘み続けていた。これまでは一歩外に出るのにも警備隊の人間をひとりは連れていなければならなかったというのに、今ではこうしてそう遠くなければ、ひと声かけるだけで飛び出していける。一本、二本、と頭痛膏に試すための花を籠に入れていき、ひと息ついたところで顔をあげると、にゅうっと濃い影が自分を覆っていることに気がついた。
「あら……? ウォロさん?」
こんにちは、と、眩しさにはにかむ。彼は太陽を背負いながら、しかしそのために表情はよく窺うことができない。瞳に宿した光すら影に隠したまま、わたしを見下ろしていた。
「いつからいらっしゃったんですか」
声をかけてくれても……と言おうとして、彼はわたしに手を伸ばしその腕を引き上げた。
「ウォロさん?」
立ち上がり、彼の顔を見あおぐ。その瞳の繊細な色合いに胸が手のひらで掬われた心地になる。
「――」
見上げているうちに彼はなにかを言ったようだったが、それをはっきりと音として理解することはなかった。伏せた瞳のまま彼はわたしをじっと見つめていて、しかしどこか視線が絡み合う感覚というのはなく、遙か遠くを見ているようなまなざし。一陣の風が吹き、彼の帽子が攫われた。「あ、ぼうし」と声を上げるが、彼は少しもそちらに気を向けることなく、長い指でわたしの額を撫でた。
「土がついていますよ」
あっと思い手の甲でそこを擦ると、彼はふっと息を吐き出した。
「おや、余計に汚れてしまいました」
「え、うそ」
「本当です。鏡を確認されてはいかがでしょう?」
すっかりいつものウォロさんだった。背負った鞄の傍から手鏡を取り出してわたしの額を映す。そこにはしっかり茶色い土のあとがついていて、たちまち羞恥心がのぼり詰めた。
「恥ずかしい」と着物の袖で額を擦るわたしに、ウォロさんは金色の髪を夕陽に瞬かせながらただ微笑を浮かべていた。
薬草摘みに勤しんだあと、ムラへ戻ることもなく彼のあとをついていった。「とっておきのものをお見せしましょう」と人差し指を突き立てて言い切られては、それを拒む謂れもない。商人の「とっておき」がなんたるかは正直少しの恐ろしさもあったが、これまで彼の用意するものに期待を裏切るものなどひとつもなく、それどころかことごとくわたしの心を射貫くような特別な審美眼さえ持ち合わせていた。だから、大きな鞄を背負ったその背をひたすら無垢に追いかけていた。
なぜだろうか、どこか懐かしい気がした。そう遠くはない日のことだ。一面の銀世界を或る人の背を追いかけて進んだ気がした。けれど、それがいつだったか、果たしてどこだったか、その背がだれのもので、どんな状況だったかは、まったく延々と晴れない霞の向こうに葬り去られたまま。
その背に手を伸ばしたくなる。どんどん進んでいくその背に。優しさなどというものを忘れたように好奇心にひたすら身を晒し歩みながら、その実、離れ過ぎない距離を保っていてくれるその背中に。
唇に蘇る熱。それはひとつだけではない。むせかえるほどに、感情が込み上げる。複雑に絡んだそれをほどく術は持ち合わせていない。
彼はムラを離れどんどん原野の奥へ進んでいく。「ウォロさん、どちらまで?」声をかけるが、彼は、「今にわかりますよ」と愉しげな音色で風に紡ぐだけ。いつしかムラは背後に見えなくなって、広大な自然が待ち受ける。視界に迫りくるのは、悠然とそびえる山々だ。
「これが、ヒスイですよ、ナナセさん」
黄昏刻の、一歩手前。黄金色の絹の光が山の向こうから強く射し込む。芽吹く緑、空を切るムックル、風そよぐ花房。すべてが燦然と瞬く。
言葉を失ったわたしを、ウォロさんはふり返り、そしてまた前を向いた。
――これが、ヒスイ。懸命に集めた薬草が風にひとつふたつと攫われるのすら厭わず、わたしはただ呼吸を奪われていた。ヒスイ地方――■■■■地方の遙か昔、まだポケモンと人がたがいに寄り添い合う術を持っていなかったころ――。パチン、とこめかみに電流が走って、腕に掛けていた薬草籠を地面へ落としてしまった。
「ナナセさん?」
そこに、「オー! ウォロさんではないですか!」と鷹揚な声が飛んできた。
ガタン、ガタンと小石の上を車輪が回る音がする。少し遠くに見えたのは白い布を張った荷車と、白衣の男性、そして一輪の花が綻ぶように恥じらいを持ってはにかむ少女。傘をかぶった男女の間からひょっこり顔を出して手を振っている。
「これはこれは、みなさんお揃いで! 調査の帰りですか」
「ええ、今日はイダイトウの力を借りて奥のほうまで。ショウくんのおかげでかなり図鑑の記録が進みました」
「さすがはショウさん! 水面を越えた先の小島には、強力なポケモンたちが生息しているとのうわさですからね! さっそく、ジブンにも図鑑を見せていただいても?」
和やかな風景のはずなのに、わき起こったのは焦燥だった。ぼうふうに吹かれたように、胸の裡が大きく荒れる。あるいは、体の中で見知らぬ虫が蠢く感覚。
目の奥が熱くなり、わたしは風光明媚な景色を眺めることもできなくなってしまった。取り落とした籠もそのままに、気がつけばその場を駆け出していた。
浅く荒く上がる呼吸も、見頃があられもなく肌蹴るのもそのままに、ひたすら丘を越えて目指したのはムラの表門だ。一日の終わりに向け忙しなくなる刻限。ソノオ通りは活気に満ちていた。行く宛もなく、ひたすら逃げ場を探していたわたしは、ひとりの少年に気づかず体当たりを喰らわせてしまった。
「――と、ナナセさん!? どうかしました?」
よろけそうになったわたしを受け止めた彼に、わたしはなにも答えることができなかった。それどころか、唇を震わせ、歯をカチカチと鳴らして彼を見上げただけだった。
なんて、情けない。なんて無様な。「ごめんなさい」どうにか意識を取り戻して、吐息をこぼすと、テルくんは怪訝そうに眉根を寄せて、「なにかあったんですか?」と声をひそめるばかり。
なにも……なにもないのだ。ただ、わたしが勝手に逃げ出しただけ。ひとりの少女の無垢な愛らしさに、手に入ることのない目映い光に。そこに立ち尽くす女の惨めで昏い影に。
「……大丈夫、ムラの外で、ムックルに驚いてしまって」
だめね、こんな大人が。苦笑するわたしに彼は釈然としない顔をした。
「まさか、おひとりでムラの外に?」
「途中までウォロさんと一緒だったの。……あ、ショウちゃんと、ラベン博士たちもそろそろ帰ってこられると思うわ」
矢継ぎ早に言い募って、とにかくその場を離れたかった。これ以上、自分の黒い感情を酷い姿を晒したくはなかった。「本当に、ごめんなさいね」と、テルくんに頭をさげて長屋へ向けて歩こうとする。しかし運命とは悪戯なもので、その先に、人々の頭の先にのぞいたのは、深い青色の髪だった。
胸の奥が跳ねる。喉もとがきつく締め付けられる。
「……ナナセさん?」
テルくんの呼び声にも応えず、わたしは人いきれの中、必死で姿を眩ました。
もはや草履が泥塗れになっていた。それを脱ぎ去る気力もなく土間でへたり込むと、濡れた頬を乱暴に何度も手の甲で擦りつけた。依然、呼吸は苦しく、まるで真綿で窒息させられるような心地だった。
暗い室内にはまわりの家々から洩れだした明かりがうっすらと射し込んでいる。窓辺に置かれた石や瓶たちが鈍く瞬き、宵闇の中で逃げ場をなくすようにわたしの目を灼く。
――罰が当たったのだ。仕様のない女だから。だからきっと、わたしの心の置き場は、どこにもない。あってはならない。
それは断罪の光のようだと、喉からこぼれる情けのない声を必死で手の甲へ押しつける。
恙なく時は過ぎゆくもの。太陽とともに目覚め、顔を洗い、浴衣を着替え、干したきのみをひとかじりしてから本部へ向かう。調査で怪我をした警備隊員や農作業で肌の荒れた人々の世話をし、午後は製造隊のところへ向かって備品の補充をする。仕事が終われば、空いた机で本部にいられる刻限まで医学書を開いた。
代わり映えのない日常。廻りゆく世界。おそらくわたしの時間は、あの山麓での調査以来――否、もっと前、ヒスイという見知らぬ土地で目覚めてからちっとも進んではいないだろうに、世の中ではマルマインを鎮めてからしばらく、今度は北の大地、純白の凍土にいるというキング・クレベースが話題になりつつあった。
その日も、医務室では次の調査にだれが同行するかの話になり、豪雪地帯である件の地に向かうのは、隊長としての責務を果たさんとキネさんが名乗りをあげた。ただ、ひとりでは間に合わぬことも多かろうと、寒さを熟知しているという男性隊員が二、三名付き添う予定となった。
調査まではまだ日がある。しかし、準備をするにはいささか心許ない期限とも言えた。防寒具と凍傷予防の道具や薬を用意するために、隊員皆が本部はおろかムラじゅうを東奔西走していて、わたしは日ごろからタオファさんと顔を合わせる機会が多かったために地下の製造隊の執務室へ向かった。
「医者の不養生とは言い得て妙だな」
入るなり告げられた言葉にわたしは弱々しく笑うしかなかった。
「医者じゃあございませんよ、わたくしは」
「似たようなモンだろうが。辛気臭い顔をしおって」
これまでをはるかに凌ぐ忙しさではあった。だが、そうしていたほうが楽だから、さほど気にしてはいなかった。考える暇もないほど、できることなら疲れきってしまいたかったのだ。
ぶつぶつと苦言を洩らすタオファさんに眉を垂らし、わたしは次の調査に必要な用品をキャビネットから取り出す。覚書きには、いつもの倍以上の品が記されていた。中には「懐炉灰」と呼ばれるものがあり、タオファさんにこれはなにかと訊ねると、大きな鉄鍋の中を示された。
「木炭の粉に、ある植物の灰をまぜたものじゃ。火をつけるとじわじわと燃える。それをこっちの容器に入れて持ち歩くと暖がとれるって理論だな」
手触りのいい高級そうな布地の貼られた入れ物を手渡され、わたしはまじまじと見つめた。なるほど、ヒスイの真冬を知らないわたしにとっては初めて触れるものだが、両の手のひらに収まるくらいの大きさなので持ち歩くのに適している。
中を開くと金属が一面に敷かれており、いくつも連なった突起のその中心には穴が開けられている。縦開きとなった土台側は二重構造になっていて、同じく金属の蓋を上げると円柱状の窪みがあった。
「ここに灰をそのまま入れるのですか?」
だとすると、穴から灰がこぼれてしまいそうだが。タオファさんはわたしの問いに、眼鏡の奥でじいっとわたしを見つめると、「そうか、おまえさんはそれも知らなんだ」と眼鏡を一度押し上げて、備品がしまわれたキャビネットとは対になった棚からあるものをとりだしてきた。
「そのままじゃあ仕様がねえだろう? 助燃剤を足して固めてやるのさ」
これまた円柱状の筒。指二本分ほどの、容器というには底も蓋もない。懐炉灰を詰めて押し固めてから一方を叩いて取り出すためだ。
タオファさんは鉄鍋に入った灰を、底を作業台で塞いで簡易的に蓋をした筒に詰めると、実際に作る動作を見せてくれた。
「それで、懐炉灰を百個用意するんだったな」
百個、おもわず目を瞬くと、彼はニイと唇をひしゃげた。
「あいにく、こちらとて手が空いてるモンが少ないモンでな。おまえさんに手伝ってもらうとしよう」
午後は、ひたすら灰を固めて突く作業となった。黒く染まった手を元に戻すのはひと苦労で、長く水に浸かった手のひらはふやけて皮が白くなっていた。それでも爪先に懐炉灰づくりの名残りはこびりつき、鼻に指先を寄せるとかすかに木炭と桐の木の香りがした。
百個という道のりはたやすくはなかったものの、数人の手にかかれば無事一日で終えることができた。調査が長引けばもっと必要になるだろうからと、しばらくは作業の手伝いを任された。
ようやく地下から地上に上がったころには、もうすでに山際に向けて太陽が進んでいる刻限だった。どこか清々しささえ感じながら医務室へ戻ると、そこには思ってもみなかった人物の姿があった。
「よかった。ナナセ、いいところに来てくれたわね」
キネさんが手当てをしていたのは、群青の君、ほかでもないセキさまだった。呼吸を失ったのはほんの一瞬、彼の精悍なまなざしがわたしを射貫き、かすかに細められるまで、酷く永遠のようにも感じた。
「セキさん、放牧場でガブリアスに引っ掻かれたようなのよ」
「先生、これっぽっちの傷だ、舐めときゃ治る」
「……とは言うけれど、何らかの菌が入ったみたいで、患部が爛れてしまっているの」
立ち尽くす暇もなく、わたしは医務室に踏み込むと椅子に座らせられた彼の傍に立った。
怪我をしたというのは、左腕だった。戯れつきのさなか、ふりかかる鎌を止めようとしてとっさに出したらしい。キネさんの言うとおり、たしかに傷口は赤く糜爛が進行しているようだ。
「近くにいたポケモンを、おぼえていらっしゃいますか」
失礼しますと羽織の袖を捲り上げ、患部の観察をする。一見、皮膚は一直線に裂けているようには見えるものの、その実裂かれたようにふちが不揃いであり、皮膚の剥脱もみられた。そこから細菌かなにかが入り込んでしまったのだ。カブリアス自身に毒はないし、グレッグルの解毒剤ならばここにあるが、もしかするとちがうかもしれない。
セキさまは神妙な顔つきのまま、「ああ」とうなずき数匹のポケモンの名を連ねた。
「たしか、ギャロップ、カイリキー、ゴルバット……それから、ヌメルゴンだな」
なるほど、滲んできた黄色透明な液体を木綿布でぬぐうと、わたしは断りを入れて羽織から左腕を抜いた。
「少し痛みますが、我慢をなさってくださいね」
キネさんに合図をして、卓の上に置いた腕を焼酎で消毒してもらっているあいだ、薬棚からいくつかの瓶をとってきた。
「おそらく、ヌメルゴンの体を覆う粘膜がいずれかの形で傷口に触れたか、ガブリアスの爪や鎌についていたのだとおもいます」
ヌメラ、ヌメイル、ヌメルゴン、彼らは皮膚を粘液で覆い乾燥から身を守るポケモンだ。ヌメラやヌメイルはおくびょうな性格の個体も多いけれど、ヌメルゴンは懐いた相手に対しては抱擁で愛を示す。ポケモン同士の接触も、人を介してヌメルゴンとガブリアスの接触も十分考えられる。
毒性はないけれど、粘液は粘液。傷口に触れれば当然、衛生的ではない。
「なるほどな。ちょっとの傷が命取りになるってわけだ」
「命には関わりませんが、治りが遅くなり跡が残る可能性が大きくなりますから」
ただでさえ傷が深いし、と患部の周辺を指で触れて岩などができていないかをたしかめると、いくつかの小瓶の薬を薬皿で練り合わせた。それを、清潔に保ったガラス匙で傷へ塗り込んだ。だいぶ染みるのか眉根を寄せた彼に、キネさんが、「さすがはコンゴウ団のお方ですね。たいていは皆さん卒倒してしまいそうになるんですよ」と笑う。
手早く木綿布を巻き、端を結び上げて治療を終えるころには、キネさんは団長に呼び出されたからと医務室を留守にしてしまった。思いがけずふたりきりになり、わたしは震えそうになりながら、それでも気丈に振る舞い続けた。
「簡単な処置しかしておりませんので、明日ムラへいらっしゃるお医者さまに再び診てもらってくださいね」
慣れた順序で道具や薬を片付ける。しかし指先が滑って、ガラス匙を落としてしまった。からん、と無機質な音が響く。「なあ」セキさまの声が耳朶を打った。
「アンタはよくポケモンのことを知っているんだな」
しばし口を噤んだが、「……ラベン博士に教わりました」と告げると彼はただそうかと口にした。
ほんとうは、教わっていない。これは、「だれか」の記憶だ。
「オレは、アンタになにかしちまったのか」
今度は、震える手を彼が捕らえた。その顔を見ることができずに、それでも必死にかぶりを振ると、彼は苦虫を噛み潰した調子で続けた。
「言いてえことがあるなら、口にしてくれ。オレはそう鋭敏なわけじゃねえんだ」
そんな優しい声を出さないで。心をのぞくような慈しみの篭った瞳でわたしを見ないで。
口に出せない想いがある。それはきっと、このひとに嫌われたくないからだ。失望、されたくないからだ。どうか手を離してくれないかとそこに手を重ねて、ひとつずつ指を剥がしていく。しかし彼は、わたしの両手首を掴んだ。
強引にも向かい合った先、凛々しい顔がそこにあった。いつもの豪胆な笑いを引っ込め今この瞬間を見定めんとする面差しだった。
「……セキさまは、なぜわたしなんかを」
その眼は、ほんのすこし苦手だ。だって明るいところで見られてしまったら、わたしはすべてを見透かされてしまう。
「言いてえことは、それか?」
わたしを見上げ、彼は口にする。低く、唸りに似た声だった。
「……わたし、出過ぎた真似を」
「やめてくれ、オレはおめえの長でもなんでもねぇんだ」
とっさに目を逸らすと、彼はギリと歯を噛み締め、それからわたしの腕を離した。堪らず額に手を置く様子は、呵責を募らせているように思えた。
――ツバキという、あの方のおっしゃることは、正しいのだ。
わたしはこの人のそばにいることが赦されない人間。何者でもなく、ただ息をしているだけの空っぽの容れ物。これ以上ここにいたら、そこにいたら、苦しめてしまう。
この人が悪いわけでは、ないのに。
「ごめんなさい、すべて、忘れてください。……なにも、かも」
もう会うことはできません、そう口にしたわたしをセキさまは止めることはなかった。「相承知した」それだけを告げて、医務室を後にした。
仕事を終えたのはそれから間もなくだった。外はまだ明るく、ムラは朗らかな音に満ち溢れていた。その中で、たしかにわたしだけが異物のようで、人里に迷い込んだサマヨールの心地であった。「おつかれさまです」と真顔で労いをかけてくれるスグルさんに会釈だけをして、ぼう然と歩く先には青い羽織と対照的な朱色。鮮やかな亜麻色の髪に、日に晒さられた白い肌が照り映える。常のとおり軽く諍いを繰り広げるふたりのあいだには、隊服姿の可愛らしい少女の姿。
真綿で、じっくりと喉をしめられる。いっそのこと、ひと息に終わらせてくれたらましだというのに。決心をしたのは自分のはずだ。この結末を選んだのは自分だ。それだのに、この苦しさといったら。
影を縫って歩き、わたしは表門まで向かった。ちょうど門番がバリヤードに気を取られて、咎める人間はだれひとりとしていなかった。
ひたすら歩き続ける。行く宛もなく、ただ果てを目指して。わたしは、ひとりだ。なぜここにきてしまったのだろう。父も、母も、なぜわたしを置いて去ってしまったのだろう。顔すら思い出せなくなってしまうのなら、いっそのこと、一緒に逝ってしまえればよかったのに。
――なぜ。
なぜ、記憶をなくすのがわたしだったのだろう。
すべてが手のひらをすり抜けていく。なにもかも。なにかひとつ、この手で掴めるものがあれば、わたしは強くなれたのだろうか。この手になにかが残っていれば、確りと地を踏みしめ顔を上げて歩けただろうか。
黒曜の草原に向かうこともかなわず、疲れて岩に座り込んだ。疲れというよりかは、脱力感に襲われたというのが正しかった。迷子の子どもみたいだと思い、不可思議に笑いが込み上げてきた。けれど笑いきれず、こぼれた吐息は嗚咽に変わった。
泣くな、いくじなし。おまえはもう大人だろう。いい年した女が、こんなのみっともないじゃないか。それでも涙は止まらず膝を抱えてうずくまっていると、脳裡にキインと金属が擦れるようなかすかな音が流れ込んだ。
「……あなた、いいこだね」
あの日のラルトスだった。たった一度のふれあいだとしても、なぜだか波長がその子のもののような気がした。
「また脱け出して、ショウちゃんに怒られても知らないんだから」
ラルトスはぴっとりと小さな体を合わせて、わたしに寄り添っている。それはまるで、わたしの感情を読み取ってくれたかのように。この子はそうしてだれかを探していたのだろうか。だとしたら、ここじゃあないよと告げる。こんなところにいてはならない。
「わたしは、自分がきらい」
けれど、口に出るのはちぐはぐな言葉だ。爪先には木炭の色が残り、ひどく黒ずんでいた。わたしにお似合いだった。
「なにもないから、なにもかも、失くしてきちゃったから。ちゃんとした、ほかの『だれか』になれたらよかったのにね」
その子はかすかな声で鳴いた。背を撫ぜるような声だった。
「一緒に、いてくれる?」
またひとつ、応えてくれたような気がした。距離などを赦さぬようにしがみついて、たしかにその子の温度を感じた。
「……ひとりにしないで」
はなさないで。
どこまでも連れ去って。
――わたしは、どこに向かえばいいの。
いつのまにか、眠りについていた。夢の中だけでも幸福な夢を見られたらいいのに、わたしは昏闇の中をひたすら彷徨っていた。天も地もなく、果ても底さえもおそらくどこにもない。重々しく、体にのしかかるほどの、濃密な闇。
たすけてと声を上げることもかなわず、わたしはただひたすらそこを漂っていた。
――
声がする。
――……
だれの声だろう。
――ウ
だあれ?
――――ラヌ
「ナナセさん」
はたと意識が浮上した。色濃い闇にひと匙のミルクが滴り落ちて、徐々に世界は光を取り戻した。辺りは日が傾いて、いっそう強い西陽のあとの太陽の残滓が、薄暮の景色を描き出していた。
「わたし……」
いつのまに寝ていたのだろうとはっきりとしない頭で考える。刹那、ぼやけた視界に金色の光が瞬き、弾けた。
「ずいぶんと仲良しになったのですねえ!」
目映い微笑と明るい声が飛び込んで、ふわふわと揺蕩う意識が玉突きのように撥ね返り、わたしは腰掛けていた岩から落ちてしまった。
「……いたい」
「そうでしょう。そんなところから落ちてしまえば、痛いのは当然です」
「ウォロさんが、おどろかすから」
咎めるような口ぶりのくせに、頑なな心が今にも溶けだしてしまいそうだった。
ちっとも責める気なんかはなくて、むしろ彼が目の前に現れてくれたことが永遠に夜の都に太陽が上がったようで、わたしは泣き笑いみたいな情けのない顔をしてしまった。
彼はきょとんとしたあと、「おどろきのあまり、幼な子にでもなってしまったようですね」と屈託のない無邪気そうな表情をその顔に浮かべて手を差し伸べてくれた。
「ウォロさん」
その手をとるか迷い彼を見上げると、太陽を背負ったその人は、「どうかしましたか」とゆったりとした声で首をかしげた。
「……わたし、かんざし、なくしちゃった」
「いま、それを言いますか?」
「だって、せっかく、あんなにも高価なものをいただいたのに、どこかに、落としちゃったから」
眉を垂らしてなんとも困り顔を浮かべた彼に、わたしは続けた。
「わたしは、ウォロさんがいなければ死んでいたも同然なのに。わたしは、あなたになにかを返すどころか、奪って、失くして、っ」
彼どころか、だれにだって。押しとどめていたものが、堰を切って溢れだす。こんなことを言いたいわけではないのに、こんなふうに、だれかの手やその背を借りてでしか、生きられない人間になんて、なりたくないのに。
「あなたがいなくなったら、わたしは、死んでしまうのに――!」
人が死ぬというのには、大きく分けてふたつある。ひとつは、息を引き取ったとき、是即ち生命体としての終焉。他方は、忘れ去られてしまったとき――人間としての尊厳上の死。わたしは、わたしをすでに一度殺してしまった。わたしの知らない「だれか」をこの手で奪ってしまった。もうほんとうのわたしはどこにもいない。――ウォロさんの心をのぞいて。
ごめんなさい、ごめんなさい、と子どものようにくり返し謝罪を口にして泣きじゃくる女を、その男は真顔のまま見下ろしていた。けれど、すらりとした指先を伸ばすと、涙で濡れた頬を、わたしの輪郭を、取り戻すようにそっとなぞってくれた。
「生きているじゃありませんか。アナタは今ここに、ジブンの前に。それが現実でないとすれば、いったいなんだと?」
頬を親指で撫でて、涙をぬぐって。人差し指でまたもや輪郭をたどり、唇をなぞると、食いしばるそれをほどいてくれる。
「欲しいですか、存在する意義が」
存在してもいい〈理由〉と言うほうが、正しいかもしれない。
「望んでください、強く、重く、烈しいほどに。ただ只管、欲すればいい」
目の前のこの男を――然らば、与えられん。
最後に一粒こぼれた涙を指先に掬い、彼は光にかざしたあとわたしの唇にあてた。そしてそれを自らの其処へと寄せて、ちっとも笑っていない顔で、それでもたしかに微笑を唇の端に載せた。
「さて、そろそろアナタのナイトがお怒りのようですね」
足もとにいたはずのラルトスが、いつのまにか彼の荷へよじ登り、後頭部に抱きついて顔をのぞかせているところだった。それをそのままにして、彼はわたしを立ち上がらせるでもなく、同じようにしゃがみ込んでみせた。
「これは、ナイショ、ですよ」
人差し指を唇にあてて、悪戯に目を細めて、彼は、手を出してくださいと言う。おそるおそる手のひらを差し出せば、そこへ、ころんと一粒のキャラメルが落ちてきた。
「そろそろウチの人間に叱られますからね」などと言いながら、彼は自分でも甘い飴菓子の包みをほどいて口へ放り込む。ラルトスが興味を示していたが、おまえにはこっちですよとオボンのきのみを取り出して、律儀にもナイフで削いで与えてあげていた。
小さなポケモンが勢いよくきのみに食いつくあいだ、わたしはじっと包みを見つめたままだった。「まったく、世話のかかる人ですね」と、彼は役者じみた顔をみせてはナイフをしまい、キャンディー包みのそれを器用にほどいて手のひらへのせてくれた。
「これに懲りたら、おひとりでムラの外に出るなど無謀なことは遠慮なさることです。なにせ、まだ世界には危険が多いですからね」
ころんと転がるそれを指先で摘んで、彼は言う。
「いずれ、時が来ます。それまで、アナタはムラでぬくぬくと暮らしていればいい。だれしも、そうしていつしか天命を悟るのだと、ジブンは思います」
「……ウォロさんも?」
「ええ、そうです。夢、野望、大義、責務……」
彼はひとつ遠きまなざしを浮かべて、唇に弧を描いた。
「……この胸の裡に、いつしか宿ったそれは日々成長し続け、今にも皮膚を裂いて飛び出しそうになる」
刹那、キィンとかすかな金属音が脳裡に響いた。
――チシキヲ、トウ――
――ココニイテハ、ナラヌ――
開かれた、その眼を――……。
「――しかし、これはどうしてなかなか、魔性の味わいですね」
薄い唇の向こうへ消えかけたキャラメルに、「駄目!」とわたしは声を上げた。ウォロさんは驚いた顔をしたが、すぐに吹き出してさぞおかしそうに笑った。
