「母は、お菓子づくりが得意でした」
スクールから帰ると、窓辺のキッチンには明るい光が灯っていた。カシャカシャ、トントン、あふれる美しい音色たち、コンポートのような淡い金色に染まる母の背中――今でも鮮明に思い出すことができる。
「バターたっぷりのクッキーに、しゅわっととろけるシフォンケーキ。モーモーミルクを使ったジェラートやキャラメリゼしたりんごのアップルパイ、きれいにデコレーションされたマホイップケーキに、それから、カリッとふわふわ香ばしいガラル名物のスコーン。どれもこれもおいしくて、可愛くて、ぜんぶ、ぜんぶ、宝石みたいに輝いて見えた。小さいころから贅沢にもそれを食べていた私は、いつしか母みたいになるんだ、そう思っていました」
エプロンをつけた母の後ろをついてまわり、泡立てたばかりのつやつやなクレーム・シャンティに指を突っ込んだり、クッキー生地をこねすぎてちょっとやそっとじゃ噛み砕けないサブレにしてしまったり、ぐるぐる回るオーブンに張りついて延々とその燈火を眺めていたり。とにかくお菓子づくりが大好きで、物心がついたころには全身を粉やクリームで汚しながら一緒にお菓子を作った。
母のレシピはどれもおいしく、それだけでなく、あたたかくきらきらしていて、まるで魔法みたいだった。いつも手にしていたレシピノートはもしかすると秘密の魔法書なんじゃないか、そんなふうに思った時期もあった。
「スクールでポケモンがはやっても、みんながはじめての相棒をもらってひとりで旅に出ても、自分と同い年の男の子がチャンピオンに勝ったとニュースになっても、私の世界はお菓子がすべてでした。大きくなったら、母のように人を笑顔にできるお菓子をつくる、それが私の夢でした」
いつしか夢は目標となり、目標は計画となり、そして現実になるはずだった。
シュートシティとナックルシティの間、山や野原ばかりの郊外に建つレンガ造りの一軒家に私たちはいた。家主のいなくなった窓辺のキッチンは、今はもうひっそりとしてしまっている。たっぷりと陽射しを溜め込んでいたあのレースのカーテンもおぼろげに黄ばみ、向こうに広がる紺色の世界をやわらかく彩っている。少しまえまで喧噪の中に身を投じていたからか、やけにそれらが心に染みるようであった。
大理石のキッチン台についた傷をなぞりながら、私はかすかに頬を緩める。
「父と母が亡くなるまでは、順調でした。なにをするにも楽しくて、世界がきらきら輝いて見えてしかたがなかった」
でも、私は続ける。
「父が出向先のポケモン研究所で爆発に巻き込まれてから、少しずつ、変わっていきました。母はその後女手ひとつで私を育ててくれましたが、結局、病に倒れてしまいました」
父がお金を遺してくれていたおかげで、裕福な暮らしとはかけ離れていたが、なんとか生きることには困らなかった。まずは働きながらいつか夢を叶えよう、そう思っていた。そしてその矢先、ひとりの男性と出会って……言葉を詰まらせた私に、キバナさんはその先を促すこともなく、ただ、「よく頑張ったな」と私の頭を撫でた。
「よくがんばったよ、おまえは」
「どうでしょうね。ただがむしゃらに進んできたような気がします」
とくに父が亡くなってからは、早く独り立ちして母を安心させたい一心で、向こう見ずなことばかりしてきたものだ。私は大丈夫、私ならできる、そんな傲りと虚栄心とともに、ひたすら歩き続けてしまった。その結果が、どうなるとも知らずに。
キバナさんの大きな手に瞳を閉じる。そのぬくもりが、その少しだけ無骨そうな逞しさが、どこか父に似ていた。
「いい家だな」
キバナさんは、ぐるりとダイニングキッチンを見渡して言った。
「そうですね。だれももう住んでいないのなら、明け渡すべきかとも思ったんですが、やっぱり、できなくて」
それならば、両親との思い出が詰まったこの家に帰ればよかったものを、私にはそうする勇気もなかった。一度、世界を黒く塗り潰してしまってから、どこかで負い目を感じていたのだ。父と母が遺してくれたものを穢してしまったという重い罪悪感。数か月に一度は掃除をし、また、キバナさんたちと出会ってからはレシピを取りに何度か帰るようになったが、それでもどこか、無理やりクローゼットの奥に詰め込んだダンボール箱を取り出すのと同じ心地がしていた。
大好きだった家。そして、今もなお、大好きな家。
「やっぱり、まだ父と母のぬくもりが残っている気がします」
やがてキバナさんの手から離れて、ゆっくり体を反転させる。キッチンの戸棚には家族三人で使っていた皿やカトラリーが残っていた。
その横には母専用の製菓棚があって、たくさんの本が並べられている。大きすぎず小さすぎず、アンティークチックなその棚は、父と私が昔、母のために作ったものだった。と、言っても、私は主に応援と、最後のニス塗りを手伝ったくらいなのだが。
齢十数年はくだらないであろうその棚は、記憶より幾分か色褪せていた。だが、他の家具にも負けじと今も立派に仕事をしてくれている。
並べられたレシピ本の中から、背表紙のない薄い本を取り出した。年季の入った、ところどころ剥げた表紙だった。
「ぜんぶ持っていったと思ったけど、まだあったんだ」
「それは?」
つぶやいた私の手もとをキバナさんはのぞき込んでくる。
「母秘伝のレシピ帳です」
ぱらぱら、それをめくると、見たことのないレシピがいくつか目に飛び込んでくる。
「これ、はじめて見るやつかもしれません」
「へぇ、よく見つけたな」
胸の奥からじわりと熱がほどけて、頬が緩んでいく。
「……うれしい」
開くたびに母の丁寧な字が目を撫で、それを書いている母の横顔が思い浮かぶ。繊細な筆先で描かれた、絵画のような優美な横顔。きっといつも私や父のことを想い、ペンを動かしていたのだろう。
一ページ、また一ページ、と母の記憶をたどる手は止まらない。埃っぽいような。かびっぽいような、独特の紙の香りの中にどこか懐かしい甘い匂いがする。
夢中になってノートをめくる私をキバナさんは見守ってくれていた。
「会ってみたかったな」
やさしい声に、ふふ、と笑みをこぼす。
「母のお菓子を食べたら、キバナさん、びっくりしますよ」
「父さんはどんな人だったんた」
「そうですね。気さくでやさしくて、ポケモンのこととなるとすぐ饒舌になって、私たち家族のことが大好きな人でした」
もしも、今、キバナさんのことを見たらふたりはどう思うのだろう。恋人でもなんでもないが、家に男の人を連れてきた娘に父は動揺するかもしれない。母は、笑いながらとびきりのお菓子を作って、迎え入れてくれるにちがいない。
「今度、一緒にお花を手向けに行ってくれますか」
「ん、いいぜ。散々泣かせたからおまえの親父には怒られそうだけど」
「そうかもしれないですね」
スッとした頬がやわく弛んで、つられて私も口もとが緩んでしまう。
「でも、きっと喜ぶと思います。ふたりとも」
レシピノートを閉じて、その表紙をそっと撫でる。
――世界一、おいしいお菓子を作る娘がいて、父さんはうれしいぞ
――あなたなら、きっとやり遂げられるわ
父と母の声がどこかから聞こえてくる。どんな声だったか、もう正確にその形は思い出せない。しかし、心や体がじんと熱く震えだすような声だった。大好きな、大切な、声。それを胸に抱きしめて、私は顔を上げる。
「キバナさん」
ん? と瞬く碧い瞳は、水面に飛び込む私をやさしく受けとめてくれる。
「私、これからまた、頑張ります」
キバナさんは指を何度か開いたり閉じたりしたあと、口もとを撫でつけて、そうか、と笑った。
それから、私は再びあのころの夢を描き始めた。一度止まっていた世界を動かすのはとても大変なことのように思えたが、知らず識らずのうちに私は自分でそれを動かしていたようで、手を伸ばすことはそう難しくなかった。諦めたくても、諦められなかった世界。大好きで、大好きで、たまらなかった世界。私がただ目を瞑り、立ち止まり、地べたへうずくまっていただけで、すぐそばにその世界はあったのだ。
なにをするにもすべてが輝いて見えて、いろんなことをこの手に掴めるんじゃないかと胸が弾んで、目に映るなにもかもが色鮮やかだったあのころに、戻ったような気分だった。
「じゃあ、無事成功したんだ」
しわひとつないテーブルクロスに、燦々と太陽の陽射しがそそいでいる。
イベントを終えて数日、目が回るような忙しさも抜け穏やかな日常が戻ってきたころ、私はソニアとバウタウンのシーフードレストランへ訪れていた。
「うん。一時はどうなるかと思ったけどね」
「かなり切羽詰まってたもんね。でも、好評だったらしいじゃん! ナックルジムの投稿、見たよぉ」
器用にフォークをくるくると回しながら、ソニアはきらり歯をのぞかせる。
ありがたいことにカフェブースは終日大盛況だった。午後のメインプログラムであるエキシビションマッチが始まるまえには用意していたすべてのお菓子がさばけ、イベント後もカフェ事業を展開しないのかという要望がいくつも寄せられたという。
「疲れたけど、夢みたいな一日だったなぁ」
いまだその夢の中に浸かっている心地だ。まるで、絹糸で紡がれた繊細なレースの布で包まれているような。くるくる、パスタを巻きながら、ついため息がもれてしまう。
「本当、よかったね」
「うん、うまくいってよかった。ソニアもありがとね」
お礼を言う私にソニアは顔の前で手を振る。
「ぜんぜん、ちょっと相談に乗ったくらいだしね。一番はキバナさんじゃないの?」
思わず、苦笑した。
「キバナさんもそうなんだけど、とにかくいろんなひとに助けられたかな」
店長はもちろん、ネズさん、マリィちゃん、ナックルジムのみなさん、本当に数え切れないくらい。
独りじゃありません。反芻するのは、何度も私を勇気づけてくれた声。そう、独りじゃない。こんなときでもやさしく胸を撫でるネズさんの言葉は、烈日の合間にふりそそぐ、ジャズの音色のようだった。
「情けないことに、ひとりじゃ、できてなかったと思う」
言いながら、目の前のヘイガニのクリームパスタをソニアに倣って口に含む。
新鮮なヘイガニを使用しているのだろう、クリームの濃厚な甘さの向こうに、ぽってりと香りの高い魚介の味がする。アクセントにはガーリックだろうか。うん、おいしい。
「人間なんて、そんなもんじゃない?」ソニアは言う。
「そうかなあ」
「そうそう。わたしたち人間は結局、ポケモンとか、友達とか、いろんな助けを借りてじゃなきゃ生きられない生き物だよ」
言って、礼儀正しく彼女はパスタを口へ運ぶ。今日も目映くやわらかな光を放っていた。
「ポケモンも……。たしかに、ソニアの言うとおりかも」
彼女の言葉に小さな騎士の存在を思い出し、帰ったらとびきりのパンケーキかフレンチトーストでも焼いてあげようと心に誓う私だった。
「そういえば、今日はかけないんだ?」
ついイーブイの小生意気そうな顔を思い起こして頬をほころばせていると、ソニアはそう訊ねてきた。視線は目の前のクリームパスタに向けられている。
前回はこれが血の海みたいになっていたのだから、彼女の疑問ももっともだろう。思い出せば思い出すほど、あれは大惨事だった。
「うん、やっぱりそのままのほうがおいしいよね」
「いまさらじゃん?」
笑いながら言う私に、ソニアはやれやれと目を回した。
窓際の席からは、ジムスタジアムが見えた。きっと、特等席というやつだろう。燦々と陽光を浴びながら、その美しい景色を前に、これでもかとフォークへパスタを巻きつけてひと思いに頬張る。咀しゃくするたび旨味があふれ、なんだか飲み込むのがもったいない気さえする。いつまでも味わっていたい。いつまでも楽しんでいたい。おいしいものをおいしいと思えるって、本当に幸せだ。
「でも、いいなぁ、わたしもタルト食べに行きたかった。すっごくおいしそうだったもん」
まあ研究があったんだけど、とグラスにそそがれた白ワインをぐいと飲み干すと、ソニアは店員にお代わりを頼んだ。
「ソニアにはいつでも作ってあげるよ」
「ホント? うれしい。このまえのカステラケーキもおいしかったからさあ。あのふわふわしっとりとした食感! おばあさまも大感激!」
うっとりと手のひらを組んで瞑目する姿は、なんだか一面の花畑にでもいるみたいだ。そうそう、こういう顔。こういうのたまらなく好きなんだよなぁ、などとソニアの上気した頬を眺めながら、私もワインを飲む。
さわやかなブドウの味が鼻に抜け、思わず目を細めずにはいられない。アルコールも強いはずなのに、まったくそれを感じさせないのは質がいいからだろうか。
太陽が真上にあるような時間から優雅にお酒を飲むなんて、久々だ。無礼講だ! とソニアが私のぶんまでちゃっかり頼んでくれたが、こういうのも悪くない。
ソニアのグラスにも新たにワインがそそがれて、再びグラスを重ねて乾杯する。またひと口。さっぱりとした喉ごしのワインは、いくらでも飲めてしまいそうだった。
「で、これからどうするの?」
グラスを置いて、ソニアが言った。
「これから?」私は答える。
「なにもないから、適当に買い物して帰るつもりだけど」
「そうじゃなくて」
傷ひとつないグラス越しに、ソニアと目が合う。
「キ・バ・ナ・さ・ん」
一音、一音、はっきりと紡がれた言葉にブッと勢いよくワインを噴き出してしまいそうになった。とてつもない威力の爆弾だ。片手でナプキンを探しながら、慌ててグラスから口を離す。
「なに、なっ、なにが?」
「もう、とぼけてもムダムダ。ソニアさんにはわかってるんだからね」
いいから吐きな、とばかりのニンマリ完璧な笑みに私は往生際悪く、「そんなんじゃないから」と口を拭う。
「キバナさんは心からの恩人、っていうか。もうね、好きとかそんなんじゃなくて、こう、尊敬、みたいな? 以上!」
心の奥に掠める笑顔やぬくもり、それからあの虹彩の美しさ、すべてポーカーフェイスの向こうに押し込んだが、もしかすると彼女には無駄かもしれない。とはいえ、それを今さら蒸し返す気もない。灯ったままの小さな燈火をそっと胸の奥に抱きしめる。
「本当かなぁ?」
「本当!」
パスタを頬張る私に、ソニアは、ふうん、と釈然としない様子だ。
「じゃあいい人は? スパイクタウンのジムリーダーとか」
「ネズさんこそ尊いよ……」
「尊いってなに」
「尊いは尊いなんだよ」
ソニアの粘りっこい視線から逃げて、またしてもワインを煽る私であった。
オーシャンビューの大きな窓から、たっぷりと陽射しが射し込んでいる。かちゃ、かちゃ、優雅にぶつかるカトラリーの音、隣のテーブルから、はたまた厨房から聞こえてくる囁き。初めてここに来たときとは、まるきりちがう世界にいるみたいだ。
ぐるり、レストラン中を見渡す。きらきらしたシャンデリア、光を受ける椅子にクロスの敷かれた立派なテーブル。着飾った老若男女にピシッとジャケットを羽織ったギャルソン、その隣には澄まし顔のイエッサンが立っている。つややかな壁には鮮やかな油彩画たち。なんて、優美な空間だろう。
半ば陶酔に満ちたまなざしで絵画を撫でていると、その中に一枚の写真が飾られているのを見つけた。A4ほどの、丁寧に額縁へ入れてある写真だった。映っているのは、ここのレストランのシェフともうひとりの男性。どこか、見覚えがあるようなそんな気がする。
プラチナブロンドの髪に、クラウンシェイプの襟をあしらった白いコックコート。それから、青いスカーフというスタイルがなんだかひとつの芸術みたいだ。
「あれ、カロスの有名なシェフだよね」
ソニアが私の視線の先を追いかけて言った。
「カロス、かあ」
「そう、カロスで超人気の高級レストラン。なかなか予約がとれないんだって」
「あ、それなら、雑誌で見たことある」
なるほど。ひと席ぶん離れたここからではよく見えないが、なんとなく既視感があったのはそれだろう。ガラルとはちがい、カロスの食文化はもはやアートだ。このうえなく尊いものであり、はたまた、人々の生活を彩るのに欠かせない花でもある。そんなカロスで人気店を営むという腕はよっぽどのものだ。
「しかも、みずタイプのトレーナーで、カロスリーグの四天王なんだって」
蠱惑的な美しさの佇まいに、ぼう、と写真を眺める私にソニアは続ける。
「ポケモンバトルが強いってこと?」
「強いなんてもんじゃないよ、激ヤバ」
「へえ、料理もできて、バトルもできるなんて、なんだかかっこいいね」
はたして、そのふたつの地位を手に入れるためにどれだけの研鑽を積んだのか。お高く止まった印象を受けるが、その裏の血のにじむような努力を想像して体の芯が冷える。スッと血の気が引いて、そのまま、静かに滾る感じだ。
あまりに見つめていたからか、ふふふ、と含み笑いが聞こえてきた。
「なに?」私はソニアを見る。
「いやあ、ああいうのタイプなのかなって」
その言葉に瞠目した。
「えっ。そ、そりゃあ、大人で、知的で、かっこいいなぁとは思うけど」
「ふうん?」
「もうソニアってば、私で楽しむのやめて」
プイ、とそっぽを向いてワインを飲む。ごめん、ごめん、ソニアは笑ってパスタを豪快にフォークに巻いた。
「……カロス、かぁ」
視線の先、そびえ立つジムスタジアムの向こうには、絹の陽射しを浴びて目映く瞬く青い海が広がっていた。
ソニアと別れたあとは、列車に乗りナックルシティまで戻った。すっかり街は平静を取り戻しており、歴史の重みを物語る荘厳なナックルシティの姿がそこにはあった。
駅を出てスパイクタウンには向かわずに、ジムスタジアムまで歩く。
ニャスパーを追い回す少年、キレイハナを連れたマダム、それから大きなサイドンを連れたおじいさん、すれちがう人々が皆それぞれの生活を満喫していた。やがて、一軒のパティスリーに立ち寄った。
白い外壁に、あたたかなオーク調の木枠とドア。それから赤、青、黄色など色とりどりの花の咲いた植木鉢。ガラス窓からこっそりのぞいた先には、たくさんのケーキがセットされたショーケースや焼き菓子が並べられたアンティークの机が見える。
しばらく外からそのパティスリーを楽しんだあと、先にいたお客さんが出たタイミングで中へ入った。
「いらっしゃいませ」
真っ新なコックコートを着たお兄さんがにこやかに迎え入れてくれる。その笑顔とたたずまいのなんとすがすがしいこと。少しばかり緊張しながら慎重に奥まで進むと私は息をのんだ。
曇りひとつないガラスの向こう、真っ赤な苺の載ったガトーフレーズが鎮座している。それから、つややかなガナッシュチョコを纏ったオペラケーキ、純白のレアチーズケーキにキドニーパイや期間限定と書かれたバナナのバナニエ。まさに、きらびやかな光を放つ宝石箱だった。
「おいしそう」
心のままつぶやく私に、パティシエのお兄さんは静かに微笑んでいる。ゆっくりと息を吸うと、甘くて、香ばしくて、ほんのりさわやかで、なんだか幸せな香りがした。
ショーケースのケーキをまじまじ見つめたあと、私は店内をぐるりと見て回った。
サブレやパイなど焼き菓子の並べられたアンティークの机、贈答用にと箱詰めされたプティ・フール・セックや子どもの好きそうなポケモン型のチョコ。いつまでも、見ていられる。
「なにかお探しですか」
あまりにお菓子たちへ熱視線を送っていたからか、わざわざお兄さんがレジから降りてきてくれたみたいだった。すぐ隣で屈み、顔をのぞき込んでくる彼に私は、「あの」と口ごもる。
「すみません、どれもこれもおいしそうで、その、宝石箱みたいだなって」
「宝石箱、か。すごくすてきなたとえだな。ありがとうございます」
やさしげな微笑を頬に浮かべたあと、彼は、「よければどうぞと」とピンに刺したスティック状のオランジェットを差し出してくれる。
「あの、いいんですか」
「はい。今度からお店に出す予定なんです。お姉さんの横顔を見ていたら、なんだか僕もワクワクしてきてしまって。特別に、よかったら召し上がってください」
内緒ですよ、と唇に人差し指を当てる様はいたずらっ子の印象だ。おずおずと受け取って、私はそれを照明にかざして眺めた。
「透きとおっていて、たいようの石みたい。それにチョコレートも分離がなくて、うん、すごくいいにおい」
そこまで言ってハッとする。
「す、すみません! こんな、偉そうなこと」
とっさに謝る私に、お兄さんはふっと破顔し口もとを手で撫でつけた。
「いえ。うれしいですよ」
「そう、ですか?」
「はい。口に入れたら一瞬でなくなってしまうものを、それだけ熱心に見てもらえると、作ったかいがあります」
まさに、このオランジェットを子どものように思っているみたいだ。うれしいな、とお兄さんはうなじを掻く。かえって、恥ずかしくなって私も前髪を押さえた。
だが、たしかにそうだ。おいしさを感じてくれることもそうだが、そのお菓子をじっくりと、目で、耳で、鼻で、あらゆる五感で味わってもらえたら、パティシエ冥利に尽きるというもの。
照明をその身に集め、淡い煌めきを施してくれる太陽のお菓子を見つめながら、どれほどの時間をかけてこれを創り出したのだろう、とも想いを馳せる。
「お姉さん、もしかして同業者さんだったりします?」
お兄さんはそんな私を見て言った。
「いえ、私はまだ」小さくかぶりを振る。
「まだ、か。じゃあこれからがたのしみですね」
こんな真剣に目を輝かせてお菓子をたのしんでくれる人、なかなかいないので。と、にこにこ笑うお兄さんの前で食べるのは、やはりこそばゆいような、緊張するような。だが、その美しい見た目に観念して、オランジェットを口へ入れた。
「おいしい」
さわやかなオレンジに濃厚なビターチョコレート。ひとつひとつの素材がしっかりしているのに、決して味同士が喧嘩をしていない。なんとも見事なマリアージュだ。
「おいしいです」
ぱあっと顔を輝かせる私に、よかった、とお兄さんは幸せそうに手を胸に当てた。
ブラッスリーへのお土産と自分用に焼き菓子をいくつか買い、宝物庫近くの広場まで歩く。いつもはポケモンバトルをやっている少年たちの姿が見えるのだが、もう少ししたら日が暮れるとあってか、今日は静けさが辺りを包んでいた。
熟した太陽の中、ベンチに腰掛けてパティスリーの紙袋を開ける。ふわり紙の香りが掠めたあと、次いで香ばしく濃厚な匂いが追いかけてきた。
バターと小麦粉のいいにおい。ショートブレッドだ。
うん、これはカロス産のバターと小麦粉だろうか。大きく息を吸って胸を満たし、袋の中へ手を入れる。二本ずつ小包装になっていた。
ショートブレット自体はどこにでもあるようなシンプルさだが、透明のクリスタルパックに詰められ紺色の麻紐があしらわれたそれは、とてもオシャレだった。わくわくしながら紐をほどく。と、目の前に影が落ちた。
「よっ」と現れたのは、ガラル随一のドラゴン使いだ。
「キバナさん」
茫然と見上げる私に、キバナさんは宝物庫から来たのであろう、「スタジアムに戻るとこだったんだが、ラッキーだな」などと、ニッカリ、白い歯をのぞかせて、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま私の隣に腰かける。
「こんなところでなにしてんだ」
すぐそばに整った横顔がやってきて、思わず心臓が跳ねた。
「これ、あそこのパティスリーで買ったやつです。帰るまで待ちきれなくて」
「ああ、あそこの」
食いしん坊な姿までも晒して顔が熱くなる私をよそに、キバナさんはヘアバンドの下で眉を上げる。
「とてもおいしそうだったので、キバナさんも、いります?」
この期に及んで意地でも食べるかどうか迷ったが、言ってしまった手まえあとにも引けない。そのまま封を切って中から一本、ショートブレッドを差し出してみると、キバナさんはなにやら悩んだ様子だったが、やがて長い指が伸びてきた。
「さんきゅ」
言うやいなや、まるごと大きな口へ放り込む。
「ん。やっぱおまえのほうがうまいな」
「そうですか? このザクほろ感、すごく勉強になります。味のバランスもいいし」
「勉強熱心なこって」
口の中の水分が奪われるが、不快な感じはしない。ちょうどよいほどける感覚、とでも言えようか。ポルボロンとはちがってザクザクと噛みごたえもあるのが爽快だ。
噛み締めるごとに、口の中にほろりとあふれる粉とバターの自然なおいしさ。シンプルだからこそ、この素材の味を殺さない塩梅が難しい。
インテリアのセンスも、味のセンスも、今風だがしっかりしている。ふむふむうなずきながら味の考察をしていると、横から、ぷは、と吹き出す声が聞こえてきた。
「なんです」
きょとんとする私にキバナさんは手で口もとを隠す。
「本当、お菓子一辺倒って感じだな」
笑いをこらえているようだったが、全然こらえられていない。
「今さら、ですよ。今回、足りないものがたくさんあることに気がついたから、もっと頑張らないとなんです」
唇をちょんと突き出す。イベントを通して自分の視野の狭さを強く実感した。メニューひとつ考えるにしても、一点のことに囚われすぎて周りが見えなくなってしまう。自分の知識の狭さや経験の少なさは、必ず弱点となる。ならば、夢を現実にするためにも、そこをしっかり学ばなくては、と気を引き締めていたところだった。
――僕も、一度は諦めたんです。でも、どうしても諦めきれなくて。社会人になってから、製菓学校に入り直しました。脳裏に掠めるのは、パティスリーのお兄さんの言葉だ。自分の中の決心が、確実に形を成していく。
「あんま、気ぃ張りすぎんなよ」
ぽん、ぽん、と二回頭を撫でてキバナさんは立ち上がった。それから、私の手の中からショートブレッドを奪うと、それを自分の口の中に放り込んだ。
「それ、私のショートブレッド……」
悲しむ私をよそにキバナさんは、「途中まで送ってく」と歩き出してしまった。
それから数日、スパイクタウンのブラッスリーはいつものように穏やかな昼下がりを迎えていた。
「すっかり、ウチの子だね」
カウンターの下で前脚を舐めるイーブイの姿に、店長は困ったなぁと眉を下げる。だが、実際には全然困っているようには見えない。
「もうここを家だと思っているんでしょうか」
「かもねえ」
スパイクタウンはずれの空き地で出会って以来、なんだかんだここに居ついてしまっているイーブイである。一度は、迷子だとポケモンセンターに連れていったのだが、結局、「野生の子ですね」とジョーイさんに笑顔で突き返されてしまった。それからというもの、野生なら野生で自然に帰してあげようと何度か空き地に放してみたのだが、次の日の朝、ブラッスリーの開店まえにはきっかりここへ戻ってきてしまう。
「どうしましょうねえ」
悪さをするわけでもないし、正直、招きイーブイのごとくクッションの上にちょこんと座っている様子には、思わずギュッと抱きしめたい衝動に駆られる。とはいえ、同時に、はたしてこのままでいいのかと不安がよぎる。
しゃがみ込んでそのふわふわなあごを撫でると、私たちの気持ちを知ってか知らでか当の本人はゴロゴロと喉を鳴らした。
「僕がゲットしてもいいんだけど、本人、すごく嫌そうだからさ」
ねえ、とその顔をのぞき込む店長に、イーブイは私の手すら放り出して、プイとそっぽを向いてしまう。と、いうのも、かれこれ二日まえ、放しては帰ってくるイーブイにしびれを切らして、「もう店の看板息子にしよう」と店長が言い出したのがきっかけだ。
その勢いでモンスターボールを投げたはいいが、一秒もせずにイーブイはボールから出てきてしまった。普通もうちょっと粘るよね、と当然ながら店長はショックを受けていたが、それを尻目に、当のイーブイはすたすたとランウェイ歩きで私のもとへと逃げてきたのだった。
「あんなにたくさん餌をもらっておきながら、あなたって子は」
「なんだか息子の反抗期を思い出すよね」
べつにね、いいんだよ、気にしてない、とつぶやく店長の横顔は、なんとも哀愁に満ちていた。
「でも、本当どうしましょうね」
「ゲットしてみる?」
店長の言葉に、うぅん、と頬へ手を当てる。
「この年になって初めてのポケモンなので、正直、ちょっと緊張します」
「イーブイは育てやすいと思うけどな」
そんなこんなでふたりと一匹で話していると、カウンターの奥から、チン、と軽快な音が聞こえてきた。
「あ、焼けたみたいだよ」
店長の声に合わせてイーブイもピンッと耳を張る。まったく、なんとも食い意地の張った子だろう。それに苦笑しながら、はあい、と返事をして立ち上がる。ちょうどそこで、さらに来客を報せるベルが鳴った。
ドア口で、白黒の髪とあどけないツインテールが揺れる。
「ネズさんにマリィちゃん、ちょうどいいところに。今、焼き上がったところですよ」
まさに絶妙なタイミングで現れたスパイク兄妹に満面の笑みを向けて、私はエプロンの紐を結び直しオーブンへと向かった。
焼き立てのアップルパイを手にホールへ戻ってくると、わぁ、と小さく歓声が上がった。もちろんそれは主に店長からの歓声なのだが、カウンターに並ぶネズさんとマリィちゃんも同じ色の瞳をぱちりと瞬いて私のことを見つめていた。
「バニラアイス、いるひと」
即座にカレーを仕込んでいた店長の腕が、ハァイ! と元気よく挙がる。その向かいで、大小ふたつの手も控えめにのぞいていた。
冷凍庫からパーティー用のバニラアイスを取り出して、ディッシャーでアップルパイの上に載せる。熱々のパイにバニラがとろりと溶けだす様は、まるで極上の羽毛ふとんを広げたみたいだ。
「うまそうですね」
「ふふふ、今日はマリィちゃんのリクエストです」
ね? と目を見合わせてから、まずは頬を染めてちょこんとスツールに座っているマリィちゃんに皿を差し出す。きらきら、翡翠色の瞳が煌めいた。
「すごい……これ、ずっと食べてみたかったと」
「うんうん、アップルパイって魅力的だよねぇ」
「焼き立てにアイスなんて、なかなか食べられないしね。僕も大好きだよ、これ」
ちゃっかりフォークとナイフを両手に用意している店長である。そんな彼には待ってもらい、先にネズさんにアイスをすくう。
「はい、ネズさん」
皿を差し出すと、ゆらり、前髪が揺れた。
「どうも」
その仕草は常の気だるさだが、どこかきれいな音色が聞こえてくるようで、思わず笑みをこぼしてしまう。と、うろんげな視線が飛んできた。
「なんです」
顔の角度は一ミリも変えずに、瞳だけをこちらへもたげる。その仕草までもが器用でしかしなんとも彼らしく、私はちょこんと肩をすくめてみせた。
「なんだか、ネズさんだなぁと思って」
「……妙なことを言いやがりますね」
「すみません。やっと日常が帰ってきたものですから」
あたたかな照明の灯った店内に、穏やかに流れるシャンソン、それから、飛び交うやさしい声。はにかみながらフォークとナイフを手渡す私に、「おかしなひとですね」と言いつつ、ネズさんはかすかに口もとを緩めていた。
「あ、そういえば、ネズさんはケーキなにがいいですか?」
ふと思い出して口にする。今日はまずマリィちゃんのお礼にパイを作ったが、いずれはネズさんにもお礼をしたい。もとより、ネズさん直々に私の作るお菓子がいいとご指名を受けていたのだ。
「そういえば、そうでしたね」
「はい。考えておいておくださいね、腕によりをかけて作りますから」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせると、ネズさんは手にしていたフォークを落とした。カラン、乾いた音が鳴り、「すみません」と瞳を伏せて謝るネズさんに、私も思わず謝罪を口にした。
「いやあ、最高だね」
午後の仕込みがあるため、店長は折り畳みの簡易椅子を用意してキッチンで、私はマリィちゃんの隣に並んで熱々のアップルパイに舌鼓を打った。イーブイとモルペコも足もとで切れ端を堪能している。ポケフーズを食べたばかりだったためあげるのを渋ったのだが、二匹のおねだり攻撃には勝てなかった。まったく、手ごわい彼らである。
だが、こうして、みんなで仕込みの時間にのんびりおいしいものを食べるのは、なんとも幸せなひとときだった。
「この絶品なアップルパイ、店に出せたらいいんだけどなぁ」
しみじみつぶやく店長に頬が緩む。
「よかったら、レシピお教えしますよ。店長なら簡単に作れると思います」
「いやいや。それはうれしいけど、それじゃだめなんだよ」
なにがだめなのだろう。神妙な顔でひとりでにうなずいてアップルパイを頬張る店長に首をかしげる。と、今度は右肩をトントンと叩かれた。
「アニキのこと、どう思っとお?」
こそこそ、右耳に耳打ちされたのはそんな言葉だった。
「ん? どうって、ほんとう、頼りになるひとだよね」
「そうじゃなくて。もっと、こう、なんかないん?」
なんか、と言われても。「……尊い?」とソニアに告げた言葉を口にすると、マリィちゃんはあからさまにため息をついた。みんなして、どうしたものかとさらに首をひねる。とはいえ、そんなことを言われてしまったら意識してしまうのが人間だ。ちらり、髪の隙間から反対の兄をうかがう。右がマリィちゃん、左がネズさんというなんとも贅沢な並びであった。
フォークを指先で持ちアップルパイをつつく仕草は、いかにもネズさんという感じがする。そんなことを言ったら、またしょうもないことを、と呆れられるかもしれないが。伏せられたまつ毛は長く、宵を孕んだアイシャドウがなんとも色っぽい。鼻すじもスッとしていて、まるでホワイトヒルをひと筆で丁寧に描いたみたいだ。肌も陶器みたいになめらかで、正直、羨ましいくらいだった。
そんなことを考えていると、長く濃いまつ毛が揺らめいて、不意にきれいな瞳がこちらを向いた。
ドキッ。漫画のように、思わず心臓が跳ねる。宝石よりも深い緑色の虹彩が私を捕らえ、呼吸を奪うのはまさに一瞬のことだった。だが、すぐにネズさんは手もとのアップルパイに視線を戻して、私ごしにマリィちゃんをたしなめる。
「マリィ、あんまり困らせるんじゃねぇですよ」
「わかってるもん」
つん、と拗ねた声が今度は反対の耳を撫でる。なんだかもう、両手に花であった。頬をほんのり膨らませながら溶けたアイスをすくうマリィちゃんが、私の中に生まれたこそばゆさをいとも簡単に吹き飛ばす。
「ほんとう、仲がいいですね」
「そうだよねえ」
小さなつぶやきに店長も同意する。ほくほくと焼き芋を食べたときの顔だった。
「ホント、マリィちゃんみたいな妹がいたらなぁ」
刹那、右側から熱視線を感じる。
「いや、ごめんね。あまりにもかわいいから、つい」
「マリィは、いつなってあげてもいいと思っとおよ」
え? とその言葉の意味を噛み砕くまえに、ブッと勢いよく吹き出したのは、目の前の店長だった。
「店長、汚いです」
「……ごめん」
「……マリィ、おまえもへんなこと言うんじゃありません」
低く喉を鳴らす兄のことを、マリィちゃんはじいっと物言いたげに見つめていた。
しばらくパイを楽しんで、あたたかな紅茶が飲みたくなってきたころに外から物音がした。
「今の、なんでしょう」
「さぁ、野生のポケモンとかじゃねぇですか」
ゴトン、となにかが落ちるような音だった。
残ったパイ生地を余すことなくつついているネズさんをよそに、「一応、見てきますね」とアップルパイをかき込んで立ち上がる。
おそるおそる外に出ると、アイシングケーキの上にぱらぱらと彩りを加えるかのように地面にフルーツや野菜が転がっていた。なんだろう。不思議に思い、手を伸ばす。と、店の立て看板のほうで、またもや落下音がしてきた。転がったりんごを手に、上体を起こしてふり向く。
「っ、悪い……」
小さな看板の向こうから現れたのは、懐かしい人の姿だった。
数年まえ、私が大好きだった人。苦しいとき、そばにいてくれた人。そして、私を裏切った人。癖のついた髪は、先日ナックルジムで見たときとまったく同じだった。白い頬は赤く、このまえよりも日に焼けている。手にした紙袋は破け、ほとんどその機能を果たしていない。
「これ、あなたの?」
手にしたりんごを一瞥すると、ああ、と小さく返事があった。彼はおもむろに歩み寄ってくる。少しだけ体が強張るが、なんとかこらえてりんごを差し出した。
「元気に、してた?」
笑う顔はとてもぎこちなかったかもしれない。だが、笑えただけマシだろう。
私の手から控えめに赤い果実を受け取った彼は、小さくかぶりを振った。
「散々、だった。ゲンガーに取り憑かれてるんじゃないかってほど」
思い詰めたように瞳が伏せられている。かつての精彩さはそこにはなかった。
「親の商売が傾いて、借金を返さなくちゃならなくて……それでずっと死に物狂いで働いてた。あのときの、ツケが今もずっと、続いてる。知り合いから、絶対儲かるからなんて話、鵜呑みにしなきゃよかったんだよな」
なにを言っているのか一瞬わからなかった。だが、すぐにあのころの話をしているのだと理解した。私が母の死を乗り越えようとしていたとき、彼もまた人生の岐路に立っていたのだという。親の設立した事業が傾き、家族を支えなくてはならなかった。だれにも近しい友人に相談できず、そんな折に、「あの話」を見つけた。
「そんなつもりはなかったんだ。でも、結局、君を騙すような形で終わってしまった。謝って、済むことじゃないってわかってる。けど、俺、どうしても謝りたくて」
彼から出てくる言葉が本当かうそかわからない。今さらなにを言うのか、と冷静な自分が頭の中で憤りを露わにする。だが、彼の言うことが真実だったならば、あのとき彼は最初から私を裏切るつもりではなかったのだろうか。不遇の出来事だったというのか。だとしたら、どうして私の前から消えたのだろう。
「最低なことして、ごめん」
ふつふつと沸き上がる感情を押さえて、謝罪を口にする彼を見据える。呼吸がおかしくなりかけたが、「吐け」というキバナさんの声を思い出してただ長く息を吐いた。
彼は私から受け取ったりんごを眺めて、情けなく眉を下げる。
「今、ターフタウンで農業、やってるんだ。ヤローさん、ターフのジムリーダーがすごくいい人で、こんな俺でも雇ってくれてる。そのおかげで、なんとかやってる」
「そっか」そう口にするのが精一杯だった。
手を伸ばしたら触れられる距離にいるという事実に体が自然と警戒する。彼の身じろぎひとつすら、監視しているような自分に喉の奥がいやにうずいた。
「本当に、本当にごめん。今からでも遅くないのなら、お金だって返す、償いだって」
私は小さく唇を舐めて言った。
「いいよ、そういうの。いらない」
もしも彼に事情があったとして、それでも彼のしたことは赦せることじゃない。なにもなかったことにできるほど、私は慈愛に満ちた人間ではない。きっと、これからも私はあのときの絶望と虚無を思い出し、立ち止まり、二の足を踏むだろう。しかし、もう、そこでうずくまる私ではない――支えてくれるものが、たくさんあるから。
「ねえ、私の作った料理、まずかった?」
私は訊く。
「お菓子も、本当は嫌いだったかな?」
彼をまっすぐ見据え、昔はあの目もとが好きだったな、なんて思いながら。男らしく、でもどこか繊細で、笑うとくしゃくしゃになるそれがどうしようもなく好きだった。今はあのころの甘さが消え、ほんの少し草臥れているように見える。
「……うまかった」
それでも面影は残っている。私の作ったお菓子を食べて、これでもか、とまなじりを細める、その面影が。
「そっか」転がったオレンジを手にして、匂いを嗅いだ。
「よく、育ってるね」
甘くて青い、熟した大地の香り。彼は泣きそうに、でも、こそばゆそうに頬を掻いた。
「どげんしたと」ブラッスリーから、モルペコとイーブイを抱いたマリィちゃんが顔を出してくる。「すぐ戻るよ」と笑って、私は彼と向き合った。
「つらいとき、そばにいてくれてありがとう」
風が、吹き抜けた。
人生とは、喜びと苦しみの連続だ。幸福と絶望の絶え間ない波の中で、人々はその波に抗い前へ前へと進んでいく。過去へと強く押し流されながら、それでも決してオールを止めずに漕ぎいでていく。
「いやあ、ネズくんたち本当仲がいい兄妹だよね」
「ほんとう、羨ましいくらいです」
ネズさんたちがブラッスリーをあとにし、紙袋いっぱいのフルーツや野菜を手に取りながら店長と私は話していた。やれ、マリィちゃんはネズさんのことが心配みたいだ、や、ネズさんもネズさんで先日お客さんがマリィちゃんに話しかけたらすごい顔していた、だ、話題はスパイク兄弟にとどまらず、エール団や店のお客さんの話にも移り変わっていく。
「このブラッスリーは、すごいですよね」
にんじんやじゃがいも、たまねぎにズッキーニ、それらを仕分けながら私はぽつりとつぶやいた。ブラッスリーはさまざまな匂いで満ちていた。熟れた甘い香りに華やかな酸味、それから土の青臭さ。胸がきゅっと引き締められるような匂いたち。
「ネズさんも、マリィちゃんも、いろんな人がふらふらっと立ち寄ってくれる。それで、みんながいつも笑っているんです。くだらないことを話しながら、おいしい食べ物と飲み物に囲まれて」
次はこの野菜を使って店長たちにケーク・サレを作るのもいいかもしれない、そんなことを考えながらそれぞれ丁寧に分けていく。
店長は隣で果物の表皮を磨いていた。
「それが、僕の望みだったからね。自然と人が集まる、そんな場所。でも、そっか。いつのまにか、そうなっていたんだ」
やわらかく笑んだ横顔に、喉もとに込み上げるものがあって大きく息を吸い込む。キッチンに並んで、あるいはカウンター越しに顔を見合わせて店長と過ごしてきた毎日。そんなに数は多くないが、自然と人がふらりと立ち寄って、やってきたお客さんたちとも他愛のない会話を交わす。派手さはないが、あたたかい日々だった。
ここがなかったら、本当に私はどうなっていたのだろう。両親を亡くし、人を信じることに恐怖心を抱いていた私を救ってくれたのは、間違いなくこのブラッスリーだった。店長はいつだって兄のように、父のように、私を見守っていてくれた。
「私、店長に、このブラッスリーに出会えて、よかったです」
あのとき、逃げるためにこの街を選んだことも、おなかが空いてふらりと立ち寄るのにここを選んだことも、なにひとつ後悔していない。
店長はズズッと鼻をすすりながら、「やめてよ、そんな今生の別れみたいなこと言うの」と笑った。
「店長」次々に野菜を手に取りながら、口にする。
なあに、やさしい声が返ってきた。
「私、製菓学校に通おうと思います」
手の中のズッキーニは美しい緑色だった。始まりを予感させるような鮮やかな緑。朗らかな音楽に包まれて、私は打ち明けた。
「エンジンシティに製菓学校があるんです。そこなら、ポケモン栄養学も製菓技術も、それから経営学も、自分に足りないことをたくさん学べると思って」
実際には、ガラルにはいくつか製菓専門のスクールがある。シュートシティとエンジンシティ、それからキルクス――どれも由緒ある養成機関であり、学校のカリキュラムに遜色の差はない。だが、エンジンシティならば、夜間課程があった。働きながら学べるのだ。エンジンシティまでは少し距離があるが、空飛ぶタクシーを、あるいはひこうタイプのポケモンを手に入れれば空を飛んで行ける。
「もちろん、ここでの仕事は続けますから」
心配しないでくださいね、と、ズッキーニを置いて黙って話を聞く店長にへにゃりと顔を崩してみせる。
「そんなこと……」眼鏡の下で、もとより下がり気味の眉がさらに下降した。
「気にしなくていいんだよ。ウチは僕だけでじゅうぶんやっていけるし、なんなら新しく雇ったっていいんだから。働きながら学ぶって、相当大変なことなんじゃないかな」
店長の言うことはもっともだ。パティシエのお兄さんは微笑みながら軽く話してくれたが、一度にふたつの帽子をかぶるのは容易ではない。
「でも、ひとつのことに集中すると、息詰まっちゃいそうだから」
簡単なことじゃない、それはわかっている。それでもこの場所が好きで、離れたくない気持ちがあった。思い出がたくさん詰まった、私にたくさんの愛とインスピレーションをくれた場所だから。
言葉にした途端、現実味を帯び始めた世界の大きさに、なんだか声が震えそうになる。世界は広くて大きい。私が想像していたよりも、はるかに。それを、見てみたい気もする。だが、お世話になった店長たちにきちんと恩返しもしたい。
破れた袋から黄色いパプリカとマトマの実を取り出して、「ほんと、色があざやかですね」と笑う。足もとでは珍しくイーブイがキッチンに入ってきて、間をすり抜けた。
「僕はさ」
果物を磨き終え、カレーの鍋をかき混ぜながら店長は言った。
「いつかこの店で、とびきりおいしいケーキを出すのが夢なんだよ」
カレーを食べたあとに、熱々のアップルパイ。あるいは、ちょっと気取ってベリータルトなんかもいい。
最高だろう? 店長は誇らしげに声を高くする。
「僕にお菓子づくりの才能はないから、どこかのパティスリーから仕入れようと思ってるんだけどね。ただ、そこらへんにあるお店だとつまらないから、どうせなら、世界で通用するようなお店がよくてさ」
どういうことだろう、カレー鍋に向けられた横顔をきょとんと見つめる。
店長はコンロの火を止めると、やさしく微笑を浮かべて店の戸棚から一冊の冊子を取り出してきた。
「世界を、見てきなよ」
洗練された街並みに、この世で最も一流が揃っているだろう立派な施設。そして、燦然と太陽に輝くプリズムタワー。
「店長……」
ああもう。この歳になって、どうも涙腺が緩くなってしまったみたいだ。
「後光が射してます」
「こら、それは言わない約束でしょ」
潤んだ声で言う私に、まったく、などと怒りながら店長はまなじりにたっぷりとしわを刻んでいた。
「じゃあ、カロスに行くのか」
雲ひとつない晴天の巨人の鏡池。池のほとりでテントを張りながらキバナさんは言った。
「はい。これから受験するので、まだ確定したわけではないんですが」
フライゴンとジュラルドンとともにそれを手伝いながら私は答える。
「でも、ポケモンバトルの世界で戦うキバナさんみたいに、私も製菓の世界で闘ってみようと思って」
サアサア、耳の裏で波の音がした。なんだか海みたいだった。水面はさんざめき、青々とした匂いが辺りに満ちている。ヌメイルがぬめぬめとほとりを歩き、水にときおり体を浸している様はなんだか見覚えがあった。つい微笑ましくなって頬を緩めると、手を止めるな、とばかりにジュラルドンに見つめられてしまう。
「そうか」つぶやくキバナさんに、私はいそいそと手を動かしながら苦笑する。
「まだ、スタートラインにも立っていないんですけど」
そうこうしているうちにテントを張り終えた。
「でもまあ、カロスか。いいんじゃないか」
言って、キバナさんは私に顔を背けて伸びをした。
「ずっと憧れの場所だったんです。そのぶん、不安もありますけど。でも、楽しみのほうが大きいです」
もっと知りたいことがある。身につけたいことがある。大切な思い出を守っていくためにも、自分がずっと望んでいた世界で生きていくためにも。その想いが私の背を強く押してくれる。「ありがとう」手伝いをしてくれた二匹に礼をすると、彼らは嬉しそうにぴょんとひと跳ねして、仲間たちのもとへと戻っていった。
地面を這うサダイジャ、水面に映る自分が気になるのか、じいっと池をのぞき込んでいるギガイアス。それから、水に浸かるヌメイル。そこへフライゴンが飛びまわり、ジュラルドンが話しかけるように寄り添っていく。あいかわらずの仲のよさに、自然と頬がほころんで、胸が満たされる。
「さびしくなるな」
ぽつりこぼれた言葉に、いつのまにか隣へやってきていたキバナさんを見上げた。
「なんでもない」すぐに小さな笑みが返ってくる。
「ま、なにごとも踏み出すのはいいこった」
「踏み出すどころか、跳び越えていくような感じですけどね」
「それでこそ、人生だろ」
きらり、白い歯がのぞく。
「なにか、オレさまにできることは?」
「キバナさんに、ですか」
「ああ」彼はうなずく。
「ナックルジムのキバナさまが、未来のパティシエの特別スポンサーになるってのも悪くないよなぁ」
ツンと尖ったあごを撫でながらいたずらな顔をする彼に、くすりと笑みをこぼす。
「それ、とっても魅力的なんですけど、炎上しちゃうんで」
「なんだよ、オレさまと炎上すんのイヤなのかよ」
「自分の身を守るためですよ」
唇をちょん、と尖らせて抗議の顔を見せると、「言うようになったな」とキバナさんは前髪をぐしゃぐしゃに掻き乱してきた。
「もう、それ、いっつもいっつも、なんなんですか。せっかく今日も整えてきたのに」
「かわいい、かわいい。乱れてもかわいい」
「そうやって、すぐ軽いこと言うんだから」
かわいい、その言葉には正直体が反応してしまうが、頬が燃えるように熱いのをなんとか隠して前髪を押さえる。キバナさんは、「軽くないっつの」とパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
一時はどうなるかと思ったが、こんなふうに他愛のないやりとりを返せるようになったのは、関係ないと突っぱねる私に負けず、キバナさんがぶつかってきてくれたからだろう。以前と同じく、ワイルドエリアできのみを集めながらキャンプをする、そんな和やかな時を過ごせるようになって心から感謝していた。
「でも、本当、お金に関しては心配しないでください。ずっと貯めてきましたし、それに、カリキュラムに提携のパティスリーでの実習制度があって、少しはお金がもらえるんです」
いざとなったら、父と母が遺してくれたお金もまだある。しばらく手をつけるつもりはないが、それはそれで力強いお守りだ。ポケモンたちを見守りながら肩をすくめてみせると、キバナさんは感心したように眉を上げた。
「本当、自信なさげに愛想笑い浮かべてたころとは、大ちがいだな」
「だれのおかげでしょうね」
にやり、私は笑う。
「オレさま、だな」
キバナさんも私を見下ろして得意げに片頬を上げた。
見上げた先にはいつだって太陽があった。目を細めなくてはならないほどの烈日を彼は背負っている。
ふふ、とひとりでに吐息をこぼして、私は手のひらをポンと軽く打ち合わせた。
「さ、おなかが空いて、みんなが鳴きだすまえにカレーでも作りましょうか」
ったく、とため息をつくキバナさんだったが、すぐに自分のポケモンたちを呼び寄せてカレーづくりにとりかかった。
カロス留学の話は一路順風に進んでいった。
ミアレシティにある製菓学校は、カロス随一の歴史を誇るパティシエ養成機関であり、実習制度や卒業後の進路指導も手厚い。なにより、その立地のよさから最先端をゆく流行を肌で感じられるともあり、世界中からパティシエ志望者が集う人気校のひとつであった。裏を返せばそれほど狭き門ではあったのだが、新年度の募集にもどうにか間に合い無事出願。それから試験のために一日カロスへ飛び、晴れて入学の切符を手にすることができた。
ともすると、決めなくてはならないことも多く出てくるわけで、まずは住む場所だった。学校はミアレにあるが、さすがにカロスきっての繁華街で暮らすとなると予算がかさばってしまう。不動産会社の力を借りながら、近郊の手ごろなアパルトマンを探した。実際に物件を見にいくことは叶わなかったが、店長の友人の力添えなどもあり、今よりも坪数自体は狭くはなるもののキッチンは広々、もちろんシャワートイレつき、さらにはロフトのある部屋を契約することができた。家が決まると、自ずとガラルを出る日取りも決まっていった。
「カロスに行くときは絶対に会いに行くから」
留学を伝えると、涙目になりながらそう背中を押してくれたのはソニアだった。せっかくのお茶仲間が、と別れを残念がられたが、そっちが頑張るならわたしも頑張らなきゃね、と笑ってくれた。その顔は、多分一生忘れられないだろう。ソニアだけじゃない。店に来る常連客や、もちろんマリィちゃんとネズさんにも留学の旨を伝えると、皆さみしがりながらも応援してくれた。本当に、私はあたたかな人たちに囲まれているのだと実感した。
引越しの手続きに、留学手続き、実家の管理は店長に甘えることにして――そんなふうに目まぐるしく日々は過ぎていくなか、私は実家から少し離れたとある丘にやってきていた。
「私のお父さんとお母さんのお墓だよ」
肩に乗ったイーブイのあごを撫でながら、目の前に鎮座する白い石碑を見つめる。ふたつ、寄り添うように並んだその石のプレートには、それぞれ父と母の名前が彫られていた。ゆっくりとその名をなぞり、風に晒されたまった埃を落としていく。昔からの墓守がいるだけの、小さな丘の墓地。母が亡くなってから、もうずっと訪れていなかった場所だった。
その墓碑の前にしゃがみ込み、今度はじいっと目で彼らの名を模る。
胸の中ではまだ生き生きとした姿が思い起こせるというのに、こうして見るといまだにその名が別人のものなのではないかと錯覚する。同じ名前の、全く知らない人。生まれた年、それから、亡くなった日、ひとりの人間の一生がそこに刻まれているかと思うと、時間の感覚が曖昧になる。父はどのように生きたのか、母がどうやって人生を歩んだのか、草花のさざめきに消えてしまいそうになる。それでも、こうしてその石の前にくると、彼らと繋がれるような気がしてしまうから不思議だった。
イーブイが肩から降りて、私の足へ体をすり寄せる。
「ごめんね。来るのが遅くなって」
報告することはたくさんある。そして、伝えたいことも。しかし、あまり多くを口にするときっと心配してしまうだろう。ただ、想いを込めて冷たい石に手を当てる。
「お父さん、お母さん。私、もう一度頑張ってみるから。笑って、みててね」
風が吹く。芽吹いた草木がそよぎ、青く甘い香りが鼻腔をやさしく撫でる。もうすぐ新たな季節がやってくる。
あなたなら大丈夫。
ちゃんと、見てるぞ。
そんな声が届いた気がした。
そうして、刻一刻と旅立ちの日が近づいていた。
ブラッスリーでの最後の出勤が翌日に迫ったある夜、店長が見送りのパーティーを開いてくれた。いつもお世話になっているスパイク商工会の店長の仲間、毎日ご飯を食べにきてくれるエール団の人々に、スパイクタウンには欠かせないマリィちゃんとネズさん。想像していたよりも人が集まって、隠れ家のはずのブラッスリーが街一番の賑わいを見せていた。
店長自慢の焼きカレーをメインにしたオードブルのフルコースに、この日のために取り寄せたというシャンパンやワイン。穏やかな店内がパーティー会場に生まれ変わった姿はなんだかこそばゆく、しかし、最高に胸が熱くなり、自然と流れる音楽に合わせて踊り出してしまうほどだった。それにはネズさんも呆れを隠せない様子だったが、なんだかんだとまなじりを緩めて見守っていてくれた。
「お店、出すなら、スパイクタウンに出してよね!」
「帰ってくるのを楽しみにしてるよ!」
「本当に、ここの華がいなくなっちまったらオレはどうしたら! 毎日後光を拝まなくちゃいけねぇなんて!」
「おっ、今なんて言った? もうカレー食わせないぞ!」
夜が更けて、お酒が入ったせいかそんな騒がしい会話が飛び交う。おいおいと泣く声に、それを叱責する声、カスティール・ゴールドの明かりがまるでステージの目映い照明のように彼らを包んでいる。
にぎやかなやりとりにカウンターテーブルへ背を預け、脚をスツールからぶらつかせて笑っていると、隣でネズさんがやれやれとため息をついていた。
「まったく、みっともない奴らですね。今生の別れじゃねぇんですから」
ネズさんの言葉に、そうですよね、とグラスに口をつけながら肩を揺らす。
さきほどまで陽気なカントリーポップスが流れていたのに、今はもう夜の濃密な空気を感じさせるしっとりとしたジャズがかかっていた。
「でも、アニキだって、このところため息ばっかしついとおよ」
そうぼそっとつぶやきながら、モルペコと一緒になってオレンジジュースをすするのはマリィちゃんだ。この場の雰囲気に当てられたのか、頬が血色よくなっている。ネズさんの柳眉が幽かに歪む。そこに、エール団がひとり、ふたりと話に乗ってきた。
「そういや、ネズさんがめちゃくちゃ悩んでるの、久々に見やしたね」
「あんなに哀愁が漂ってる姿、見たことがなかったっす!」
痺れを切らしたのか、ネズさんの眉間に深いしわが刻まれる。
「……おまえら本当にやかましいですね」
やっぱり、私はこの街が大好きだ。
時代の流れと戦い、共に寄り添いあうこの街が。どうしようもなく、好きで、好きで。大好きで、たまらない。
「ふっ、あはは」
「おまえもですよ」
こらえきれず声を上げて笑うと、ネズさんはさきほどよりも大きく肩をすくめて、それでもなおやさしくまつ毛を揺らしながらグラスに口をつけた。
真夜中を周り、宴に参加していた客たちも散り散りになって、とうとう店には店長と私、それからイーブイだけになった。それまで騒がしかった店内が波を引いたように静まり、楽しい夜の終わりを色濃く感じさせる。
「片づけはあと僕に任せて。もう遅いから帰っていいよ」
店長はあの父のような笑みをたたえている。だが、その顔は、一日の疲れをたしかににじませていた。それもそうだ。朝から晩まで、加えて今日は、昼の休憩もパーティーのために返上するほど働き詰めだったのだから。
でも、と散らばった皿やグラスをカウンターへ運ぼうとすると、「ほらほら、帰った、帰った」とそれらを手から奪われて、容赦なくホールへと追い出されてしまう。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「そうして。楽しい心地のまま、今日はゆっくり休みなね」
楽しかった一日も、もう終わり。幼いころには決して知り得なかった濃密な夜の空気がみぞおちをそっとくすぐっていく。
「店長」
灯りの落とされたカウンターに立つ店長に、私は声をかける。
「本当に、ありがとうございました」
もしかすると、震えていたのがばれてしまったかもしれない。今生の別れではないのに、やけに静かな空気のせいだ。
店長は眼鏡の下で瞳を細めると、「また、明日ね」といつもの挨拶を返してくれた。「はい」私も笑いながら、置いてあった上着とカバンを手に取る。
しっかりと宴に参加していたイーブイはクッションの上に寝転び、大きなあくびを拵えている。その、いかにものんきな姿に引き締まった胸が緩んで、「おやすみ」とあごをふわふわとさすって外に出た。
「やっと来ましたか」
頬を撫でた声に、ハッとした。
「ネズさん、どうして?」
マリィちゃんがいるからと早くにブラッスリーをあとにしたはずの彼が、扉のすぐ横に背を預けて立っていた。
「ひとりで夜道を歩かせるわけにはいきませんからね」
ゆらり、体を起こして、ネズさんはこちらに歩む。「帰りますよ」虹彩の色がはっきりとわかる距離までやってくると、翡翠色の瞳にやわく半月を描いた。
「ネズさんにはお世話になってばかりですね」
猫背の彼の隣に並びながら、すっかり紺色に染まったスパイクタウンを進む。幾度となく見た風景が少しずつ過ぎ去って、なんだか泣きたくなるのは、にぎやかだった一日が終わるからだけではないだろう。
「今さらですね」
「たしかに」
小石をこつんとつま先で蹴ったネズさんに私は笑う。
「ネズさんがいたから、私はこの街が大好きでした」
夜の空気に冷やされた地面を、しっかり踏み締めて歩いていく。
「たぶん、ネズさんが、みんなが、大事にしている街だから、よそ者だった私も自然と大事にしたいって思えるようになったのかなって。そう、思います」
数えきれないほど思い出が詰まった街。そこには、いつだってネズさんの姿があった。
「あまり、しんみりしたのは好きではないんですがね」
つぶやきながらも、ネズさんはしなやかに髪を揺らして穏やかな視線を送ってくれる。
「泣いたり笑ったり、だいぶノイジーでしたが、まあ悪くはなかったですよ」
彼がまばたきをするたび、瞳を動かすたび、長い指が首もとを掻くたび、なんだかジグザグマの尻尾で撫でられた心地になる。口ぶりはすげないくせに、その表情や声色はまるで、寝しなに奏でられる子守唄みたいだった。
「こんなふうに、まえにも送っていただきましたよね」
さまざまなものを失って、亡霊のように足もとをふらつかせる私をそばで見守りながら連れて帰ってくれた日。ボロボロと大粒の涙を流しながらエキシビションマッチから帰った日、それから、転びそうになって腕を引いて、助けられたあの日。一度だけではない、何度も、何度も。
夜空を見上げる。破れたアーケードの隙間からのぞく空には、幾千の星が広がっていた。こんなふうに悠然と星空を眺めるのはいつぶりだろう。自分がどれほど下ばかり見てきたかを実感する。
その命を絶やさんと煌々と瞬く光。言葉を忘れてしまうほど、とても美しかった。
陶然と見上げる私の横で、ネズさんは言った。
「今夜は、月が恐ろしいほどにきれいですね」
歌を紡ぐように、しっとりとした濃厚な声だった。
彼の立っている位置からだと月がきれいに見えるのかもしれない。確かめてみたくなって、少し体を寄せる。
「ほんとうだ」
残念ながら満月ではなかったが、紺色の空に月の船が浮かんでいた。冴え冴えといっそうの光を放ち、闇夜にさまよう旅人に標を示すような神秘的な煌めき。
そんなことに気がつくなんて、やはり彼は生粋の芸術家だ。こうして歌のひとつでも思い浮かぶのだろう。
アーティストである彼の一面を目の当たりにして、ふふ、と夜空に笑みをこぼす。と、弛んでいた空気が、しん、と引きしまったのがわかった。
不思議に思い月から隣の彼へ視線を下ろす。すぐそばに、あたたかな肩があった。思っていたよりも、私たちはぴったり寄り添って立っていた。きっと、手を伸ばさなくても、ふれることができてしまうほどの距離に。
月の瞬きを載せた長い翼が揺れる。息をのんだのもつかの間、あごに芸術家の白い指が添えられた。月の光を集めた聖なる石のような、はたまた、つやのある甘い、あまいクレーム・シャンティのような。夜だからか、ひんやりしていて、しかし、あたたかい。
「いやだったら、突き飛ばしやがりなさい」
なんのこと――思う間に、宵闇を吸い込んだ瞳が私をのぞく。ルージュの引かれた薄い唇が弧を描いて、刹那、ふれるだけのキスが贈られた。効果音もなにもない、ただ、互いの熱をわけあう繊細な口づけだ。
「――餞別です。くれてやります」
柔らかな髪が頬を掠め、その下でふっと微笑む顔は、普段のネズさんよりも数倍、いや何十倍も、たおやかで、あでやかだった。月に魅せられたせいでなく、本当に。シュボッとコンロの火が大きくついたように顔が熱くなって、ただ、茫然と彼の顔を眺める。
「……なんですか、その顔は」
ふに、と掴まれた頬がこそばゆい。マリィちゃんが言っていたのはこういうことだったのか。思わぬタイミングで点と点が繋がり思考回路がショートした。
なにを口にしたらいいかわからなくて、パクパクと唇を閉じたり開いたりトサキント状態の私に、「しかたないひとですね」とネズさんはまなじりへしわを刻む。
頬を掴んでいた手を離して、やさしくそこに親指のはらを這わせる。そうして、ゆっくり手のひらで私の輪郭を模った。
「いいですか。ここは、いつまでもおまえの帰る場所ですよ」
じん、と胸が熱くなる。目の奥が、耳の奥が、頬が、体が、ネズさんからの熱で満ちる。その手に一生この身を預けてしまいたくなるのを今だけは必死にこらえて、精一杯の笑みを浮かべる。
「さて、帰りますかね」
その手のぬくもりになごり惜しさを感じながら、なにごともなかったかのようにくるりと踵を返す。そんなネズさんのあとを、「待ってください」と数歩遅れて、私は追いかけていった。
そして、旅立ちの日。
「忘れものはない?」
スパイクタウンの外まで送り出してくれた店長の目はすでに赤くなっていた。涙はそこにないのだが、確実にこすったあとがある。せっかくのブラッスリーの休憩時間だというのに、看板娘の旅立ちだから、と、ここまで来てくれた彼は本当に父のようだった。「はい」と大きくうなずいて、笑みを返す。気を抜くと私までも釣られてぽろぽろと泣き出してしまいそうだったが、なんとか堪えた。
「じゃあ、本当に気をつけるんだよ。なにかあったら必ず連絡すること。すぐに駆けつけられなくても、頼りになる知り合いを紹介するから」
「もうそれ、五十回くらい聞きましたよ」
「それだけ心配なんだよ。わかるかな、この親心!」
なんて、いつもどおりの軽い応酬がありがたい。目の前にはルートナイントンネル。ここを過ぎれば、ナックルシティ。もうすぐ行かなくては。
引越し業者にほとんどの荷物は任せてしまったので、背負うのは肩にかけたカバンひとつだった。やけに体が軽くて不安にもなるが、重たいよりはましだろう。
くるりふり返って、スパイクタウンと書かれたアーケードの看板を見上げる。照りつける太陽に鈍く瞬くそれとも、しばしのお別れだ。ありがとう、と心のなかで小さく礼を告げた。
「でも、いいの? この子、連れていかなくて」
店長の足もとから着いてきてしまったらしいイーブイがタタタと駆け寄ってくる。
せっかく慣れたのに離れるのはさびしい。しかし、この歳までポケモンを手にしたことのなかった身としては、新しい生活でこの子を振り回してしまうのが怖かった。
「はい」私は眉を下げる。
「私じゃ、うまく育ててあげられない気がしますから」
ここにいれば店長に可愛がってもらえる。そのうえ、いつだってもとの生活へ戻ることができる。しゃがみ込んで、自信たっぷりに張られた胸の飾り毛をふさふさと撫で上げると、イーッブイッ、と心地よさそうに鳴いた。
「ついていきたいんじゃないのかなあ」
一向に離れようとしないイーブイを見て店長が言う。そうですかね、と首をかしげながら、彼のつぶらな瞳をのぞき込んでみた。
「一緒にくる?」
思いきって訊ねてみる。だが、あろうことに、イーブイはプイッとそっぽを向いて、ルートナイントンネルのほうへ駆けていってしまった。
「ゲンキンな子」
ついてくると言われたら、それはそれで困惑しただろうが、あの素っ気ない態度も釈然としないものだ。あれだけお菓子たっくさん作ったのに、とハリーセンのごとく唇を突き出して立ち上がると、店長は声を上げて笑っていた。
店長とハグを交わして別れてからは、ルートナイントンネルを抜けてナックルシティへ。何度も何度も通い慣れた道が今日をもってしばらくお別れだと思うと、いささか足もとでチョロネコがいたずらしているような、そんな心地だった。
ナックルシティに着いてからはジムスタジアムへ向かった。シュートシティへの列車までは、あと三十分。そこからは船に乗って一路カロスへ向かう。キバナさんに会うならこのタイミングしかない、そう思ってのことだった。だが、次のリーグ戦およびジムチャレンジの開催に向けて、より忙しくしているだろうジムリーダーの姿はやはりそこにはなかった。今すぐに探して参ります! とリョウタさんが言ってくれたが、それには及ばないと断った。お世話になったトレーナーの皆さんに挨拶だけを伝えて、ジムをあとにした。
それからはワイルドエリアへ向かった。船に乗ったら長旅になる。本当は飛行機でもよかったが、一瞬で目的地に着いてしまうのももったいない気がした。せっかくの旅路、これまで感じたことをゆっくり整理しながらカロスの地を踏もうと決めていた。
だから、そのまえにもう一度、ガラルという土地を目に灼きつけておきたかった。
「ひとりで行こうとして、止められたこともあったっけ」
石段を下りて、目の前に広がる悠然な大地に胸が熱くなる。砂塵の窪地には今日もすなあらしが舞い、げきりんの湖の方面はカンカン晴れ。巨人の鏡池には霧でもでているだろうか。人間のように百面相を浮かべる空を眺めながら、私は深呼吸をした。
キテルグマに襲われたやつは黙っとけ、と頭をぐしゃぐしゃにされながらなんだかんだときのみを採りに一緒にいったこと。それから、泣きながら駆け出そうとしたこともあった。思い出すだけで、懐かしくて頬がほころんでしまう。
ワイルドエリアへと無謀にもひとりできのみ採取に立ち入ったあの日。もしも、フライゴンに助けてもらってなかったとしたら、今の自分はない。
キテルグマに襲われかけた瞬間は心臓が飛び出てしまいそうなほど恐ろしかったが、あの日を思い出すだけで胸がどくどくと高鳴る。
新しく開けた道。広がった世界。不安でないと言ったらうそになる。だが、もう、独りじゃない。
携帯を取り出してワイルドエリアの写真を撮ろうとすると、ソニアから激励の長文メールが届いていた。
『カロスに必ず遊びに行くから。わたしを忘れないでよ。帰ってきたらいちばんに連絡すること! あとまたおばあさまがカステラケーキを作ってくれだって!』
とか、なんとか。いつもの彼女の調子に笑みがあふれてしまう。それを閉じると、マリィちゃんやネズさん、それから店長からもさっそくメールが届いていた。店長からは、君なら大丈夫、という簡単なひと言だけ。だが、一緒に送られてきたお別れパーティーの写真がなによりの言葉だった。
満面の笑みではしゃぐみんなの中に、私もいる。そう、私にはたくさんの仲間がいる。独りじゃない。――ネズさんはとんでもないものをくれたけれど。
父と母との思い出に、たくさんの新たな思い出が連なる。ここから、またさらに増えていくのだろう。
なんだか、プティ・フールの詰まった箱みたいだ。
スコーンにポルボロン、シュークリームにアマンディーヌにサヴァラン、それからカステラケーキやガトーフレーズ、とろとろプディング、タルトレットにアップルパイ。色とりどりの小さなケーキたちが並ぶ、幸せの詰まった箱。ときおり、とびきり苦かったり、塩からかったり、そんなのもあったがそれはそれでスパイスだ。
私もいつか、そんなパティスリーを出そう。ガラスケースにたくさんの幸福と夢を詰めて、ガトーショコラやガトーフレーズ、しゅわしゅわのスフレチーズケーキにモンブラン、香ばしく焼けたシュークリームやカラメルたっぷりのプディングもいい。もちろん、サヴァランも忘れずに。それから、シナモンやカルダモンを使ったお菓子なんかを並べたっていい。ガラスケースだけじゃない。店中をたくさんのお菓子で埋め尽くして、だれかの人生を、一日を、その瞬間を、鮮やかに彩れるような作り手になろう。
脳裡にたくさんの笑顔がよみがえる。その中にはもちろん、キバナさんの顔もある。
あの屈託のない、溶けたマシュマロのような笑みを思い出すたび、胸がジンと疼く。だが、きちんと胸を張って隣に立てるまで、その小さな小さな火はそのままに。
「ありがとう」
ワイルドエリアに、そして、聳える堅牢な城塞に礼を告げて、私はナックルシティをあとにした。
シュートシティの港へ着くと、もうすでに船は波止場に停留していた。見上げるほどの大きな船だ。きっと、嵐があってもちょっとやそっとじゃ沈まないだろう。
チケットを見せて荷物の検査を受ける。いざ、乗船、と拳を握ったところで携帯が鳴り出した。「すみません」と謝りながら、後続に並んでいた貴婦人に先をゆずる。だれからだろう。着信を確認すると、そこに載っていた名前に心臓がどくりと跳ね上がった。
「キバナ、さん」
切れてしまうまえに、慌てて電話に出る。
「キバナさん、もしも――」
「うしろ、見てみろよ」
まさか。波止場の喧騒を切り裂くような、低く落ち着き払った声に、私は迷わずふり返る。オレンジ色の目映いヘアバンドに、健康的な肌。やさしく弛んだ瞳と、それから、「よっ」と軽やかにのぞく白い八重歯。
「キバナさん!」
「なんとか、間に合ったな」
空を舞っていたのだろう、フライゴンが降りてくる。キバナさんがその首をひと撫ですると、ふりゃあ、とやさしく鳴いた。
「お忙しいのに、こんなところにいて大丈夫なんですか」
その声は興奮で若干震えていた。目を何度も何度も瞬かせながら見上げる私に、キバナさんは頭を掻いた。
「まあな。必死こいて、なんとか切り上げてきたんだ。このあとはまたナックルシティにとんぼ返りだけどよ」
「そんな、本当に、ありがとうございます」
ったく、人気者は困るよな、と屈託なく笑うキバナさんにつられて私も笑う。
「そういや、これ」
キバナさんは紙袋を手にしていた。
「なんですか?」
「ダンデからと、あとはうちのトレーナーたちから。荷物になっちまうけど」
たしかに、私の上体ほどの大きさだ。だが、差し出されたそれに胸が膨らむ。
「ありがとうございます。さっき、ジムには挨拶に伺ったんですけど」
「ん、リョウタから聞いた。どこほっつき歩いてんですか! って怒られたな。仕事だっていうのによ」
やれやれ首をつねるキバナさんに苦笑する。
「みなさん、本当、お忙しいのにありがとうございます。ダンデさんにも、よろしくお伝えください」
受け取った袋は少し重かった。だが、いい重みだった。
頬に喜びを浮かべてそれをぎゅっと胸に抱きしめると、キバナさんは言った。
「それと、忘れてるぞ、大事な相棒を」
相棒? 首をかしげる私の耳に、「ブブイッ」と高い鳴き声が届く。
「イーブイ!」
キバナさんの足もとからタタタッと誇らしげに歩み出てくる彼は、さきほど誘いの手を交わしたあの子だった。飛び込んでくるふわ毛のかたまりを、しゃがんで荷物とともに受けとめる。体の小ささのわりに、勢いは立派だった。
「ジムの前でうろうろしてたから、連れてきてやったのよ」
「てっきり、自分の棲み処に帰ったんだと思ってたのに。――あれ?」
もふもふ、体中を撫でまわしていると、彼の首もとで指がひっかかった。キバナさんが頭を掻いている。
「――リボン? と、タグ?」
抱き上げて確認する。海のような青いリボンに、銀色のプレート。そこには碧い宝石がひとつ。そして、私の名前が刻まれていた。
「かわいい……」
陶然とつぶやく私にキバナさんは言う。
「そいつの名前はちゃんとまた決めてやれよ」
その言葉にハッと顔を上げる。
「もしかして、これ、キバナさんが?」
「ああ。オレさまがはじめてのポケモンを渡そうと思ったのに、そいつが許してくれなさそうだからな。その代わりに、先輩トレーナーとしてのプレゼントってやつだ」
なあ、と長い体躯を折り曲げて、腕の中のイーブイに目を合わせる。イーブイはキバナさんの言葉を理解してか、ブイッと勇猛に鳴いた。
「それからこれ」キバナさんはパーカーのポケットからなにかを取り出す。
「ちゃんと、おまえの相棒にしてやれよ」
赤と白のボール――モンスターボールだった。
「でも、私、うまく育ててあげられるかどうか」
「育てようとしなくていい」
キバナさんの顔を見る。
「どういう、ことですか」
彼はふっと口もとを緩めた。
「ポケモンは、オレたちが思っている以上に育つように育つ。泣いたり笑ったり、怒ったり、励ましあったり、喜びあったり。壁にぶつかって、一緒に乗り越えて、共に成長していけばいいんだ」
手のひらに、その紅白のボールを握らされる。キバナさんの手の中にあったときにはあれほど小さく見えたのに、いざ手にしてみると意外にも大きかった。つるりとしていて、吸いつくような肌馴染みだ。
どくどく、と生々しいボールの感触に心臓が迫り立てられる。泣いたり、笑ったり、心の中でキバナさんの言葉を反芻する。
ごくり、つばを飲み下して、私は腕の中の小さな存在に訊ねた。
「私と、一緒に生きてくれる?」
垂れ気味だった耳がピンと天に伸びる。つぶらな瞳が、まっすぐに私を捉えて光を瞬かせている。もちろん――そんなふうに、なんだか笑っているみたいだった。
さっきはそっぽを向いて、どこかへ行ってしまったくせに。ぼやきながらも、どうしようもなく愛しさが込み上げてくる。唇をぎゅっと結んで、柔らかな額に頬ずりをして、それからゆっくりと彼を地面に下ろした。
「イーブイに向けて、軽く投げればいい」
キバナさんは言う。その感覚がうまく沸かないが、こくりうなずいて、モンスターボールをきつく握りなおした。
じいっと見上げてくる彼を私も見つめ返し、深呼吸をひとつ。握った手を軽くふりかぶり――ボールを投げた。閃光とともにイーブイが消える。ゆらりゆらり、ボールが揺らめき、心臓が炙られる。それでも一切を見逃すまいとつぶさに見守って、やがて、カチリと動きが止まった。
「やったな」
潮にくすんだコンクリートの上で、小さな影は微動だにしない。
「これで、いいんですか」
「ああ」
呼吸を整えながら歩き、ボールを拾い上げる。どこかあたたかく、かすかに重くなった。――たぶん、そんなことはないのだけれど。指のはらで美しい流線をなぞると、トン、トトン、と生命の営みが振動で伝わってきた。
「大事にしてやれよ。イーブイはきっと、おまえにぴったりだぜ」
その意味を図りかねて、ボールを手にしたまま私はキバナさんを見上げる。
「たくさんの可能性を秘めたポケモン、だからな」
可能性――この先に広がる大きな世界。キバナさんのそよ風が吹くような碧い瞳を見つめながら、ぎゅっと唇を噛み締めボールを抱きよせる。
はじめてのポケモン、私だけのパートナー、私たちの未来。あらゆる感情が一気に押し寄せて、大きく胸が震えだす。
言葉を失い黙ったままの私の頭を、キバナさんはガシッと掴んでかき混ぜる。
「ちょっ……」
せっかく余韻に浸っていたのに、まるでスコーンの生地をまとめるような、おおざっぱで豪快な手!
「キバナさん!」
「悪い。あまりにかわいい目でオレさまを見上げてたからな」
言葉の割に反省の色は見えない。攻撃の手から逃れようにも、大人と子どもほどの体格差にはどうにも勝てなかった。
「だから、そういうの……」
だめです、ムッと唇を尖らせて言おうとした言葉が、胸もとの閃光によって遮られる。ボールからイーブイが飛び出たのだ。「あっ」と思ったのもつかの間。
「いって、やるなおまえ!」
地面に降り立つやいなや、キバナさんの脚にたいあたりをくらわせたイーブイである。ギョッとする私をよそに、ブーイッと勇敢にも飾り毛を逆立てて大きな敵に立ち向かっていった。
「オマエ、いっちょまえに、ガラル騎士気取りか」
そう、その姿はまさに小さな騎士。
「ああもう、すみません」
あわあわとイーブイを再び腕に抱き込んで、ぜんぜん、私の言うこと聞かないんですよこの子、先が思いやられる! と半ばわめきながら、メッと顔を合わせる。しかし、プイ、とそっぽを向かれてしまった。言ったそばからなんとやら、である。
「なんで? 本当にどうなってるの?」慌てふためく私に、キバナさんは笑った。
「おまえなら大丈夫」
「キバナさん……」
その凛とした声に、不覚にも泣きそうになる。いつだって、彼は私の前に立ち腕を差し伸べてくれた。いつだって、できないと怖がる私の手を引っ張ってくれた。
「ほんとうに、今までありがとうございました」
潤んだ声で言うと、やれやれ、とパーカーの胸もとをひっぱって、溜まった涙を拭ってくれる。せっかくの日だというのに、だが、これがなんともキバナさんと私らしかった。すみませんと言葉を震わせる私の目を、キバナさんはまっすぐにのぞき込んでくる。
「自由に生きろ。なににもとらわれず、自分を信じて、がむしゃらに進め」
声の力強さとはうらはらに、瞳や頬、それから唇は、これまでにないほどやさしく弛んでいる。凪いだ海のようだった。
出会った瞬間から美しいと思った瞳。胸の奥を疼かせた、なだらかな頬や薄く大きな唇。鎮まっていた火が勢いを増しそうになる。だが、キバナさんはそれを許さない。
「なりたい自分になれ」
キバナさんは私の目を、その奥を見つめて言った。こっくりうなずいてみせると、再び大きな手のひらが迫ってきた。額を包むその手の逞しさに、あたたかさに、今だけは身を委ねて目を閉じる。
「がんばります。キバナさんの隣に堂々と立てるように」
キャモォ、キャモォ、空高くキャモメが鳴いている。ザァン、ザザァン、潮騒が岸辺へ寄せては返していく。プォオオ、けたたましい汽笛の音が降りそそぐ。
それでも、とくり、とくり――と確かな鼓動が体を支配していた。
「楽しみにしてる」
キバナさんは言った。私の、焦がれた声で。スッと天に背を伸ばし、挑戦者を待ち受けるその堅牢な佇まいで。
「はい、待っていてください」
私も精一杯胸を張って応える。
「……っとにわかってんのかね」
だが、そんな私に落ちてきたのは盛大なため息だった。
「……なんですか」うろんげな瞳をとっさに作ると、キバナさんは口もとを撫でつける。
「ああもう。わかった。手、貸せ」
「はい?」
なんだろう。眉をひそめながら手を差し出す。
「右じゃない、左」
「左」
イーブイと荷物を抱きなおして、左手をキバナさんへ。
そして、すばやくその手を絡めとられたかと思うと、薬指に鋭い痛みが走った。
「いっ……!」
顔を上げたキバナさんの、碧く鋭いまなざしが私を射貫く。
「帰ってきたら、容赦しないからな。おまえのこと、全身全霊で奪いにいく」
薬指に与えられたのは、想いを込めた口づけでも誓いを示すリングでもなく、赤い竜の歯型だった。くっきりとついた、紛れもない所有印。
言葉を失う私に、キバナさんはあの好戦的な顔で笑う。
「オレさまが諦めの悪い男だって、知ってるだろ?」
どういうこと?
――キバナさんが、私を好きだったってこと?
「きっ、聞いてないです――!」
絶叫する私をよそに、キバナさんは、「そうだったか?」と、とぼけている。
ずるい。ずるい、ずるい、ずるい。私がいくら悩んで、苦しんできたかも知らずに! 本当にこの人は! なにひとつ言葉にはならないのだが、とてつもない百面相をしていたことだろう。
「ま、そういうことだ」
キバナさんは悠長にロトムを取り出して、空に高く掲げる。
「オレさまの心は――いや、すべてだな。すべて、ずっとおまえが掴んでんだよ」
慣れた手つきで肩を抱かれて、なんでそういうこと……などと文句を言おうとした瞬間に、カシャ、と軽やかな音が響く。
「いってこいよ」
とん、と背中を押され、その勢いで踏み出す。空を舞っていたフライゴンがどこからともなくやってきて私に飛び込んできた。首すじに頬ずりを一回。ふりゃりゃあ、と甘く鳴いてから、彼のパートナーのもとへ帰っていく。
「まもなくカロス行きの当船は――」
出港の合図が告げられる。うしろ髪を引かれてふり返ってみると、キバナさんとその相棒たちが太陽を背負って笑っていた。
「ブイッ」
好敵手にイーブイは威嚇鳴きをして、私の腕から離れていく。あっと思ったときには時すでに遅く、華麗に着地を決めて私よりも先に意気揚々と船へと乗り込んでいた。
「待ってよ」
そのあとを追いかけようとして、とっさにもう一度ふり返った。
フライゴンにヌメイル、サダイジャにギガイアス、それからジュラルドンに――キバナさん。彼らの姿を目に灼きつける。
「いってきます」
大きく声を上げると、キバナさんは、ニイ、と白い歯をこれでもかというほどのぞかせながら手を空に挙げた。
いっそう激しく汽笛が鳴り響き、まっすぐに伸びた大きな体が遠ざかる。水面は揺らぎ、光の綾を燦然と交差させている。
心臓がうるさい。痕をつけられた薬指が、ジン、と痛む。
「……ああ、もう」
ぽつり、つぶやいたささやきは、頭上を飛び交うキャモメの羽ばたきにさらわれていく。
――むかしむかし、あるところにひとりの女の子がいた。
お菓子を作るのが大好きなその子は、キッチンに立つ母の後ろをついて回っては、体じゅうを粉まみれにして明かりの灯ったオーブンにぴったり張りついて育った。みんなが興味を抱くようなものには見向きもせず、流行に左右されることもなく、ただひたすら銀色の製菓道具を手においしいお菓子と向き合う毎日。いつか、自分もすばらしいお菓子職人になる。それが、少女が抱いていた大きな夢だった。
やがて少女は大人になり、一度はその夢を手放そうとした。だが、とある竜との出会いにより、その夢を再び自分の手でたぐり寄せることとなる。
まだ、彼女の物語は始まったばかり。
とはいえ、ガラル地方北東の街、スパイクタウン。その寂れたアーケードの中に、幸せと夢とをたっぷり詰め込んだ宝石箱のようなパティスリーができるのも、そう遠くはない未来の話である。
「よし」
船はカロスへ向けて海原を進む。どこまでも続く、広大な海を。
火照った頬をぽん、と叩いて、私は足もとの相棒に笑いかける。
「がんばろう」
まだ見ぬ世界に想いを馳せて、七色に光る目映い陽光に胸を満たす。
応えるように、ブイ! とチョコムース色のホイップヘアが脚を掠め、青々とした風が私たちの背をやさしく撫でていった。
