お母さんは、料理が得意だった。とくにお菓子づくりはパティシエ並みで、スクールから帰るといつもおいしいお菓子が私を待ち受けていた。
バターたっぷりのクッキーにしゅわっととろけるシフォンケーキ、モーモーミルクを使ったジェラートやキャラメリゼしたりんごのパイ、きれいにデコレーションされたマホイップケーキと、それからカリッとふわふわ香ばしいガラル名物のスコーン。どれもおいしくて、可愛くて、ぜんぶぜんぶ宝石のように輝いて見えた。
お母さんみたいになりたくて、私も小さいころから一緒になってキッチンに立った。味見しかできる仕事がなくても、ただ、お母さんがクリームを泡立てるのや、クッキーを手のひらで転がすのをじっと眺めていたり、あるいはオーブンが回るのを飽きずにいつまでも見つめていたり。それだけで、私の小さな胸はポップコーンが弾けるみたいにワクワクした。手伝いができるようになってからは、お母さんのレシピを盗みたい一心で、スクールから帰るまで絶対にお菓子を作らないで待っていてとねだっては、全身小麦粉やクリームだらけにしながら一緒になってお菓子を作った。
友達がポケモンに夢中になっても、同い年の男の子がチャンピオンになったと話題になっても、私は必死にオレンジ色の明かりの灯ったオーブンに張りついていた。
きらきら、ふわふわ、見ているだけで幸せになれる。ひと口食べたら、もっと幸せになる。そんなお菓子が大好きで、いつしかとびきりおいしいお菓子を作っていろんな人に食べてもらいたい、そう思うようになっていた。
しかし、趣味のお菓子づくりで食べていけるほど、世の中は甘くない。そう、有名なパティスリーのパティシエだって、繁盛するスコーンスタンドの店主だって、私たちの知らないところで血のにじむ努力をしている。
ただの夢みる女の子がなりたいと思っても、そう簡単になれるものではないのだ。
「わ、いいきのみがたくさん!」
ガラル地方、ワイルドエリアの片隅。たっぷりと葉の生い茂った木を見上げて、私は声を弾ませた。目の届く限りでも、ひとつ、ふたつ……数えきれぬほど、色とりどりのきのみが実っている。ぷりっと丸く太った赤い実や、少し渋そうな色の痩せた実、中には見たことのないものまで!
「どうしよう、うれしい」
目の前に広がる宝石箱のような光景に、独り言をぶつぶつとつぶやきながら私は背負っていたカバンを下ろす。
ワイルドエリアには、さまざまな実のなる木が存在していた。とくに、ハシノマ原っぱやストーンズ原野には珍しい実のなる木があると有名で、それを求めてワイルドエリアまでやってくる人もいるほどである。当然、きのみ激戦区ともなると、毎日足を運んでもほんの小さなものでさえ摘みとられてしまっていることが珍しくない。
そういうわけで、これほどきのみがたわわに実っている木を見ることができたのは、本当に幸運としか言いようがなかった。枝葉のあいだにヨクバリスが潜んでいないか目で確認しながら、私は下のほうにある実に狙いを定める。
「この渋そうなのはカレーに。こっちの赤いのは、お菓子に使えるかな」
背伸びして摘んだきのみをひとつ、口に含んでみる。赤くて丸々とした、一番おいしそうなやつだ。見た目は、そうね、チェリーみたい。
舌の上で転がして、その香りと食感を味わう。これはなかなか悪くない。だが、ぷちっとその実を舌で潰してみると、瞬く間に苦味が広がった。
「う、これはお菓子には使えないわね」
しわくちゃのピカチュウ顔をしたあとで、口直しにモモンの実を口に放り込む。これはよく見慣れた実であった。なんともいえない甘さが染みわたり、私はホッと胸を撫で下ろした。「やっぱりおいしい」ひとりでにつぶやきながら、んぅ、と目もとを緩める。
「たくさんあるから、今日はこれを使ったパウンドケーキにしようかな」
小さいころからの癖だ。だれもそばにいないのにあれこれとしゃべり続けてしまう。治すべきだとは思っているが、これがなかなか治らない。おそらく、もう手遅れだろう。
「店長は、ブリーの実があったらとってきてほしい、って言ってたよね」
ひとつ目の袋がパンパンになったところで、再び木を見上げる。下のほうはあらかた摘みきってしまったが、上にはまだまだ残っていた。
「でも、あれはさすがに届かないか」
木の高さを確認してため息をつく。どこか踏み台になりそうな石はないかと探すが、まったく見当たらない。それじゃあ、と幹を揺らしてみても、私ごときの力では葉っぱ一枚すら落ちてくることはなかった。
「こうなったら、登るしかない」
幸運にも、こんなにいい木を見つけたのだ。今度ハシゴを持ってきて、あるいは店長のポケモンを借りて、などとしているうちに、この木は緑一色になっているだろう。
陽の光を浴びてつやつやと輝くきのみを見つめ、ごくり、つばを飲み下す。
よし、ひとりでにうなずき、木のでっぱりへ足をかけた。次にあそこに足をかけて、それから手をそう、そこに……と頭の中で順路を描く。木登りなどしたことはない。だが、私の目には、もはや色とりどりの宝しか映っていなかった。
『あなたは、だれよりも、ひとつのことに夢中になる力がある』
スクールに通っていたとき、教師たちが私に対してたびたび口にしていた言葉だ。良く言えば、集中力がある。悪く言えば、過集中で周りが見えない。喩えるなら、猪突猛進のウリムー。当然ながら、私は背後から大きな影が忍び寄っていることに、微塵も気がつかなかったのである。
「あとちょっと!」
ふんっと木を蹴って、手を伸ばす。右手が木の枝を掴み、心の中でガッツポーズだ。できる限りの力を込めてその枝を揺らすと、ぼたぼたぼた、と音を立ててきのみが雨のように落ちた。
「やった」
小さくつぶやいて、慎重にたどってきた足場を戻る。スニーカーの裏が地面に触れたときには、まるで何時間も運動をしたかのように体が重たくなっていたが、まさに心はガラルフルマラソンを完走した気分だった。
木登り初心者にしては、なかなかやるわね。自画自賛しながら手をはたく。そうして落ちたきのみを拾っていると、突然、ドシン、と地面が揺れた。
「え?」
気のせいではない。またひとつ、ふたつ、と大地を揺るがして、すぐそばまでそれはやってきた。もしかして――背に冷や汗をかきながら、おそるおそるふり返る。
「ひっ、き、キテルグマ!」
そこには、私に覆い被さろうとするピンク色と茶色の大きなポケモンの姿があった。
チョコレートみたいなおいしそうな色をしているうえ、愛らしい丸い目をしているが、見た目に騙されてはいけない。その強さは、ポケモンをよく知らない私でもかなり危険だと認識している。そう、きのみを採りに来ただけの丸腰の人間が敵う相手ではない。
「あ……ぁ……」
採ったきのみを差し出せばいいのか、それとも、死んだふりをしたらいいのか。必死に考えを巡らせるが、指ひとつ動かない。プルーンの砂糖漬けのような、うるりとした瞳とガッチリ目が合ってしまっている。
どうしよう。お父さん、お母さん、わたし、もうだめかもしれない。遠い空に想いを馳せるうちに、もふもふとした太い腕がカンカン照りの青空に振り上げられた。
「っ……」
襲いかかるだろう痛みに目を閉じる。だが、いつまで経ってもそれは訪れない。それどころかなにかを切り裂く斬撃音のあとに、グアアッと低いうなり声が響いた。
「へ……?」
目を開ける。と、緑のきれいなポケモンが視界に飛び込んだ。俊敏な動きで空を舞い、さきほどまで私に狙いを定めていたキテルグマを必死に追い払おうとしてくれている。
いったい、どういうことだ。茫然とその二体を眺めているうちに、激しい羽の攻撃がキテルグマを襲う。キテルグマもキテルグマで鷹揚な動きで豪腕を振るおうとするが、そのポケモンには敵わない。なにがなんだかわからぬまま、そのきれいな竜に似たポケモンは、キテルグマを追い払うことに成功してしまった。
「助かっ、た?」
立ち尽くす私に、ふりゃぁ、と鳴きながらその子は鼻をくんと寄せてくる。さきほどまでの勇ましい姿がうそみたいだ。
「たすかった」
ゆらりゆらり、空気の抜けたバルーン人形となって地面にへたり込む。その子は変わらず、無邪気にじゃれついてきた。
「ありがとう、ありがとうね」
ふりゃふりゃあ、と甘く震える首をひと撫でする。なんともすべらかなさわり心地だった。ポケモンのことはよくわからないが、とても美しいボディだ。野生の子だろうか、それとも、だれかのポケモンか。あれだけ強いのだ、トレーナーが手塩をかけて育てた可能性も大きい。ということは、迷子?
いつもの癖でひとりでに考えていると、きゅるんとした瞳と目が合った。
「そうだ、まずはあなたにお礼しないとね」
あたたかな首をさすると、嬉しそうに羽ばたく。心なしか笑っているみたいだ。とはいえ、お礼するとしてもなにをしてあげればいいのか。――そういえば。
思い立って、力の入らない腰に鞭を打ちなんとかカバンへと手を伸ばす。確か、今朝作ったお菓子を持ってきていたはずだ。よたよたとお尻を地面につけたままずり這う私を、その子はきょとんとした顔で見つめている。大丈夫だよ、そっと微笑みかけると、なんと、その子は口にカバンを咥えて私のもとへ運んでくれた。
「えらい子だね」
そのかしこさに驚きつつ、喉を撫でて礼を言う。ふりゃぁ、とまたしても甘い鳴き声がひとつ。思わずまなじりをゆるめながら私はカバンの中へ手を忍ばせる。
しばらく中をあさって、目当てのものを見つけた私は、「あったあった」と、それを取り出した。
不思議そうにその子はこちらをつぶさに見つめている。
「スコーン、食べられる?」
訊ねると、こてん、と首をかしげた。
「そうだよね、わからないよね」
苦笑しながら、紙袋からそれを手に取って実際に匂いを嗅がせてみる。
「これがスコーンだよ。パンみたいな、うぅん、クッキーみたいな焼き菓子なんだ。バターの香りと小麦粉の味があわさって、すっごくおいしいの。でも、勝手に食べさせたら、あなたのトレーナーが怒っちゃうかな」
ひとりでにつぶやく。しかし、くんくんとその子はスコーンに興味津々だった。
どうしよう。迷っているところに、どこからか叫び声が聞こえてくる。
「おい、フライゴン、どこに行っちまったんだ!」
この子のトレーナーだろうか。声質から、おそらく男の人だろう。とにかく、彼がそうならば、ここにいると教えてあげなければ。私は手を上げようとする。
「あの、ここに――」
刹那、ビリ、と裂ける音が私の言葉を遮った。
「ちょ、こらこら、待って! あなたのご主人さまに許可をとらないと!」
犯人はつぶらな瞳のあの子だ。どうやらスコーンを食べたくてたまらないらしい。喜ばしいことだが、ここで勝手に食べさせるわけにはいかない。手に残った憐れな紙切れをポケットへ突っ込んで、負けじと袋を咥えたその子に手を伸ばす。
「まってまって……あっ」
健闘も虚しく、手のひら大のキュウコン色に焼けたスコーンは、破れた穴から大きな口に転げ落ちていった。
あああ! と悲鳴を上げるも、時すでに遅し。ひとつ、ふたつ、みっつ。ポンポポン、とピンボール玉が穴へすべり落ちるように吸い込まれていく様は、なんとも見事だ。
むしゃむしゃ、もぐもぐ、ごっくん。おまけに、ふりゃあ、と甘いひと鳴き。
「おい、オマエ、こんなところにいたのか。ダメだろ勝手に飛び出したら……って」
ぎゃあぎゃあという騒ぎを聞きつけたのか、トレーナーがやってきた。だが、破れた紙袋片手に青くなった女と、口の周りをスコーンだらけにした自分のポケモンを見るや、碧い瞳をきょとんと丸くした。
「ホント、悪かった。げきりんの湖でヌメラを探していたら、急に飛んでいっちまって。普段はこんなことないんだけどよ」
オレンジ色のヘアバンドをつけた彼は、緑のポケモン――フライゴンを見やる。
「おい、オマエのことだぞ」声をかけるが、フライゴンはスコーンを食べて満足したのか、お兄さんの鋭い視線も声もいとわず、ふりゃあ、とひときわ明るく鳴く。
反省の色ゼロのその様子に、ったく、とお兄さんは額を抱えた。
「あの、実はこの子、私のことを助けてくれたんです」
すかさず助け舟を出すとお兄さんはタレ目をキュッと丸くした。
「助けた?」
「はい。きのみ採りに夢中で、私、キテルグマがいることに気づかなくて。でも、この子が追い払ってくれたんです」
スコーン泥棒の真実にいささか驚きを隠せないようであったが、「とても強くてかっこよかったんですよ」と救世主の喉を撫でるとお兄さんは、「オレさまの相棒だからな」と唇を頬へ食い込ませた。
「しかし、まあそういうことだったのか。ならよかったけどよ……」
「けど?」首をかしげる。
お兄さんはぽりぽりうなじのあたりを掻きながらやおら視線を横に動かす。
「よっぽど、うまかったらしいぜ。その菓子が」
同じく横を見る。きゅるきゅる、輝いた瞳と目が合った。
「あ……」思わず声がこぼれる。
「わかりやすすぎだろ、オマエ」
お兄さんは、はあ、とため息をついた。
「そんなに、おいしかった?」
まるで、花畑でも舞っているような瞳だ。思わず笑みがこぼれてしまい、それをよい反応と感じとったのか、フライゴンはふりゃふりゃ弾んだ声と、美しい羽音を上げながら私の体に頭をすり寄せる。
「まだあるけど、いる?」
そこまで熱烈な感想をもらったら、黙ってはいられないのが作り手というものだ。確か、もうひと袋カバンの中に入っているはずだと思い、可愛らしいスコーン泥棒に訊ねると、バタフリーのように美しく羽ばたいた。
「オマエってやつは」
額に手を当てるお兄さんに、かまいませんよ、と苦笑してカバンを探る。
「あ、でも、スコーンをあげても平気ですか」
「ん、今日はまだキャンプしてないから平気だ。けど、本当、すまないな」
いえいえ、と笑いつつ、それならよかったと胸を撫で下ろしてスコーン探しを続ける。大量のきのみの下で潰れていないといいが。祈りつつぐちゃぐちゃになった荷物をかき分けると下のほうに紙袋を見つけた。
「これ、どうかな」
破かぬよう慎重に紙袋を取り出して、フライゴンに差しのべてみる。くんくん、確かめるように匂いを嗅いで、フライゴンは首をかしげ私の目を見つめてきた。
「あ、もしかして、わかった?」
口もとを緩めてから、中身をひとつ手に取る。実をいうと、さきほどのスコーンとは別の種類なのだ。さっきあげたのは、モーモーミルクから作られたバターたっぷりのプレーンスコーン、今度はブラッシータウン産の木苺を使ったベリースコーンである。
はい、とフライゴンに差し出すと、隣から声が上がった。
「おっ。うまそうだな、それ」
どうやら、トレーナーも釣れたようだ。そんな言い方は失礼だが、ひょいと大きな体躯を屈めて興味津々に手もとをのぞき込んでくる姿は、大の男がするにはあまりに可愛すぎた。フライゴンは主人に似ているのかな、ふとお兄さんを見て口もとをほころばせていると、目が合った。
「なんだよ」
きょとんとした顔も、なんだかそっくりだ。くすりとひとつだけ笑みをこぼして、かぶりを振る。
「いえ。よければ、お兄さんもおひとつどうぞ」
「いいのか?」
「はい。自家製なので、それが気にならなければ、ですけど」
さすがに手掴みするのはダメだと思い、フライゴンのスコーンをおあずけに、紙袋を両手で持ち直して彼のほうへ口を向ける。
ぱちり、ぱちり、碧い目が瞬いたが、すぐに彼は白い歯をのぞかせた。
「んじゃ、遠慮なく」
その男らしい体格とはうらはらに、ニッカリ、八重歯をちらつかせて笑う姿はなんとも無邪気だ。だが、紺色のグローブをはめた手が伸びてくると、私よりもはるかに大きいそれに少しばかりどきりとする。
そんなことを考えているうちに、立派な手がスコーンをひとつつまんで、ぽい、と口へ放り込んだ。さらに驚いた。
「あの、だいじょうぶ、ですか」
もぐもぐ咀しゃくするのを見守りながら、おそるおそる声をかける。直径五センチのセルクルで作ったから、それなりに大きかったはずなのだが、ひと口で食べて平気なのだろうか。ただでさえ、スコーンは口内の水分を奪うというのに。
「ん」と手のひらを見せたきり、お兄さんは食べることに集中している。
もしゃ、もしゃ。その顔はどちらかというと無表情に近く、なにを考えているのかわからない。もしかして、口に合わなかったのではないか、と心が落ち着かなくなる。しかし、それもすぐさま杞憂に終わった。
「うまっ」
言うなれば、「う」と「ま」のあいだに、「ン」の音が混じる発声である。おまけに、へにゃっとした笑顔。一瞬にして端正な面差しが崩れたのにも驚きだが、なによりそのしまりのない無邪気な表情といったら。なんということだろう!
思わず、ふふ、と笑みをこぼしていた。とろりと溶けたマシュマロのような、あるいは、ほくほくのおまんじゅうを食べるときのような。こんなにおいしそうに食べてくれるひと、お父さん以外で初めて見た。
うっかり彼に見入っていると、今度は、つん、と手にやさしい衝撃が訪れた。
「あ、ごめんね。ほしいよね」
主人の様子に待ちきれなくなったのか、フライゴンが鼻を押しつけてくる。はい、とおあずけしていたスコーンを小さくちぎって手のひらに載せると、フライゴンはまるでワンパチみたいに勢いよくそれを食べた。さらにおかわりとして、もうひとちぎり。もちろん、そんなことをする必要はないとさきほど見せつけられたのだが、万が一を考えてのこと。
「初対面なのに、うまく手懐けたな」
尾を振りながらスコーンを食べる相棒に、感心した様子でお兄さんは長い腕を組む。
「手懐けたなんて、そんな」
「あまり、人間に寄っていかないんだぜ。相当うまい匂いにつられたんだな、オマエ」
そうなのだろうか。まさかそれほど遠くスコーンの匂いがしていたとは思えないが、真相はフライゴンのみぞ知る。この子はどうして助けてくれたのだろう。そんな疑問を胸に抱きつつ、微笑ましいような、呆れたような、そんな表情で息をつく彼に苦笑した。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったな」
端正な顔がこちらを向いて、私もとっさに居住まいを正した。
「オレさまはキバナ。知っているかもしれないが、そこのナックルシティでジムリーダーを務めている」
そこ、と丘の向こうに見える城塞の街を親指で指し示し、お兄さんは女の子が見惚れてしまうような笑みを口もとにたたえた。
「ジムリーダーさん、だったんですね」
どうりでフライゴンが強いわけだ。それに、太陽がまぶしくなるくらい見上げる長身、引き締まった逞しい手脚、自信に満ちたまなざし、すべてに納得がいく。まじまじとキバナさんを眺めていると、碧い瞳がじいっと私の目をのぞいてきた。
「あの、なにか?」
思わず目を瞬く私に、キバナさんはあごを撫でた。
「いや、オレさまに会ってそんな反応するやつ初めてだな、って思って」
未確認生物を発見した、そんな顔だ。本当に、ころころとよく表情が変わる。じっとこちらを見つめてくる彼に、ああ、と私は頬を掻いた。
「実は私、ポケモンのこととか、リーグのこととか、疎くて」
その整った顔に居たたまらなくなり、とっさに前髪を撫でつける。
「なるほどな。オレさまも、もっと有名になんねえと」
「いえ、そんな、私が世間知らずなだけなんです」
ナックルシティにジムがあったことは知っていたが、そこのジムリーダーまでは気にしたことがなかった。だが、見た目から考えるに、おそらく有名な人なのだろう。
慌てて顔の前で手を振ると、彼はふっと微笑んだ。
「それで、どこで店やってんだ? 教えてもらえたら、コイツと食べに行くぜ」
コイツ、とキバナさんが親指を立てる。相棒のフライゴンはそれを理解しているようにこっくりうなずいた。
「そんな、たいしたものじゃありませんから」
「遠慮すんなよ、そんだけうまかったんだ。よければポケスタとかでも紹介するけど」
どうだ? 彼は訊いてくる。私はかぶりを振った。
「実は、お店、やってなくて」
そう、すべて単なる趣味だ。眉をハの字に下げた私に、キバナさんは唇を尖らせる。
「なんだかもったいないな、それ」
もったいない、それってどういうことだろう。お世辞でも嫌味でもなく、きっと心から言ってくれているにちがいない。出会ったばかりだがなんとなく彼がそんな人だとわかる。だが、もったいない、その言葉を心の中で小さく繰り返し、私は曖昧に笑った。
「ありがとうございます。でも、もっと上手なひと、たくさんいますから」
「そうかねえ」
腑に落ちない様子で彼は頭のうしろに手を組む。とはいえ、それは紛れもない事実だ。そうです、とまたしても情けなく眉を下げたのち、私はカバンから財布を取り出した。
「もしよければ、今度、バイト先に遊びに来てください」
中から、一枚のカードをキバナさんに渡す。
「バイト先?」
「はい。店長のつくる焼きカレーが絶品なんです。キバナさんには特別サービスします!」
そうして、半ば無理やり約束をとりつけたのだった。
ガラル地方北東部、ナックルシティからルートナイントンネルを抜けた先の小さな街、スパイクタウン。そこに一軒のブラッスリーがひっそり店を構えている。寂れた大通りから一本側道へ入ったところにあるそれは、まるで映画に出てくる定食屋を再現したような出で立ちで人々を出迎える。そこが、私の働いている店だ。
店名には隠れ家的要素を狙ってか「アジト」という単語がつくが、実際には極彩色のネオンが店先に煌々と瞬き、全く隠れられていないのがご愛嬌である。だが、そんな派手な外観とちがい、店の中は至極、落ち着いた雰囲気であった。
オーク材のテーブルや椅子にカスティール・ゴールドの照明。穏やかな音楽がひとときの休息を彩る。どこかアットホーム感のある古きよきブラッスリーとして、地元民から愛されていた。
そんなブラッスリーで今日も私の一日が始まる。きゅっとエプロンの紐を締め上げ、よし、と頬を叩いてフロアへ出ると、朗らかな声が私を待ち受けた。
「よろしくね」と、銀ぶち眼鏡の奥で目を細める彼は、この店の店長だ。
白いシャツに茶色いエプロン、おまけに細いフレームの眼鏡とスキンヘッドという特徴的な身なり。一見すればガラが悪い人に見えなくもないが、もっぱら柔和な人間だと定評がある。ちなみに眼鏡とスキンヘッドを除けば私とほとんど同じスタイルをしているが、これがこの店のコスチュームだ。いや、実際にはコスチュームというほどではないのだが、いかにもブラッスリーの店員らしくて私は気に入っている。
店長の腕に山盛りのブリーの実が抱えられているのを認めて、白いスキッパーシャツと黒いスキニーパンツの上で茶色いエプロンをサッと撫でつけながら、私はさっそく開店準備にとりかかった。
カウンターテーブルを間仕切りにしたキッチンで店長が特製カレーをことこと煮込んでいるあいだ、店先を掃除し慣れた動きでテーブルセットを整える。それを終えると、カウンターに戻ってグラスを磨く作業だ。開店までの時間はまったりとしているが、実はなかなか忙しい。
開店直後、いつものようにお客さんがひとり、ふたりと現れ、一時間ほどすると席がいっぱいになる。店長と私で切り盛りする小さな店だが、こうなると大変だ。
店長は料理を作っているので、当然ホールはひとり。テーブルのあいだをくるくるとワルツを踊るダンサーのごとく、華麗な身のこなしで注文をさばかなければならない。しかし、私の大好きなもののひとつが、さまざまな人に求められていると思うと、ふしぎと足取りは軽いものだ。
その第一派が過ぎたころ、店は再びもとのアジト感を取り戻す。ひと息つきながら、テーブルを丁寧に拭っていると、カランカラン、と来客を報せるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
首を上げて、ドア口をみた私はパアッと顔を明るくした。
「キバナさん!」
目に入ったのは目映いオレンジだった。よ、と軽やかにグローブの手を上げるその人は、先日ワイルドエリアで出会ったフライゴンのご主人さまである。
「来てくださったんですね」
「おう。こっちに用事があったし、ちょうどいいと思って」
ドラゴンを模したパーカーのポケットに手持ち無沙汰な手を突っ込んで、ニッと白い八重歯をのぞかせる。その姿はお世辞なしに輝いて見えた。なんだか、うちの店に有名俳優がお忍びでやってきたような。いや、キバナさんはジムリーダーなので、あながち間違いではないのだが。
ありがとうございます、と笑みを浮かべて、ドア口まで迎えに上がる。
「へえ、なかなかいい店だな」
キバナさんは、ぐるりと首を回して内装を見渡している。私よりも頭ふたつくらいは背が高いため、自然と見上げる形になった。キュッと引き締まったあご、すうと尖った鼻、それからまなじりが垂れた碧い瞳。なるほど、やはりこれは芸能人といってもいい。
「でしょう?」と、キバナさんに得意げな返事を返すが、内心かなり緊張していた。
「外観は派手ですけど、店長が世界を旅していろいろ集めたんです」
だが、大好きな職場を褒めてもらえるのが嬉しくて、頬が緩んでしまうのは止められない。キバナさんがひとしきり店内を眺め終えるのを見計らい、なんとか背すじをピンと伸ばして、「こちらへどうぞ」と席へ案内する。
「お、どれもうまそうだな」
テーブルに開いたメニューを見て、キバナさんは声を弾ませた。
「どれもとびきりおいしいですよ」
お世辞なしに店長の料理は絶品だ。用意したおしぼりを差し出しながら、メニューを目で追いかけるキバナさんに微笑む。
ブラッスリーともあって、うちの店はお酒も料理もその種類は豊富である。ガラル地方の食べ物だけでなく、他地方の郷土料理も多数あり、中にはきっとはじめて目にする名前もあるだろう。それらをいくつかピックアップしてひとつひとつ丁寧に説明を加えていくと、彼は難しい論文でも読むように真剣に聞き入っていた。
「オススメは?」
手を拭い終え、律儀にそれを畳んでキバナさんは言う。
「そうですね、一番人気はアローラ風若鶏のグリルですけど、個人的にはこちらがイチオシです」
手のひらを開いたまま、メニューの右下に載った写真を指した。気分は一流レストランのウェイターだ。
「なるほど、焼きカレーか」
ふむと感心するキバナさんに顔をほころばせる。
「はい。みなさんカレーは食べ飽きてるからって、頼まれることは少ないんですけど。でも、チーズと卵が絶妙なバランスで最高においしいですよ」
きっと、一流はこんな稚拙な表現を使わない。しかし、ガラルのトレーナーには馴染み深い料理をアレンジしたこの焼きカレーの味は保証できる。
キバナさんは私の説明に苦笑したが、ツンと尖ったあごに手を当てると、「じゃあ、それで」と私を見上げた。
「かしこまりました。店長もきっと喜びます」微笑んで続ける。「それと、大盛りで出てきたらごめんなさい。なにせ、今日初めてのカレーのオーダーなので」
肩をすくめてメニューを片づける私に、「そりゃ、最高だな。ちょうど腹減ってたところだ」とキバナさんは好戦的な笑みを浮かべた。
これは大盛りどころか特盛り決定だ。そんな心の声は隠して、水を用意しにいこうと常の接客どおりメニューを抱えた。
「なあ」
私を呼び止めたのはむろんキバナさんだ。
ふ、とふり向くと、甘くタレた瞳と目が合った。
「写真、撮っても平気か?」
写真? と思ったが、すぐに店の写真だと気づく。そんなのたいていは勝手に撮っていくものだ。わざわざ確認してくれるとは思わず、つい笑みがこぼれた。
「かまいませんよ、お好きなだけどうぞ」
私の答えを聞いて、すぐさまキバナさんはスマホロトムを取り出した。
壁に掛けられたタペストリーから天井のアンティーク照明、店長と私で作ったブラックボードのメニュー表。ひとつ、ひとつ、余すところなくシャッターを切っていく。その様子は、なんだかジムリーダーと言うより雑誌の編集者とかみたいだ。
「ああ、キバナくんか」
キッチンに戻り、グラスに水をそそぎながらそれを観察していた私に、奥の厨房から店長が顔を出した。
「店長もご存知なんですか」
「いやいや、ガラルで彼を知らない人は、いないでしょ。ジムチャレンジ最後の砦、ドラゴン使いのキバナ!」
きょとんと黙り込んだ私に、店長は、マジで? という顔をする。
「まあ、君、ポケモントレーナーじゃないもんね」
「そういう店長は大のガラルリーグ好きですもんね」
言うと、店長は得意げに胸を叩いた。
「そうそう。ダンデくんがチャンピオンになったときから、僕はもう残りの人生を彼に捧げるって決めたね。で、キバナくんの注文なんだって?」
店に捧げたんじゃないのかと内心苦言をこぼしつつ、「焼きカレーです」と彼の選んだメニューを告げる。
「それは、なにかの間違いではない?」
「大丈夫です、きちんと聞いてきました」
レンズの下で、丸い目がワンパチのごとくきらきらと輝きだす。スキンヘッドに細い銀フレームの眼鏡という出で立ちの店長は、ぱっと見は強面で近寄りがたい。しかし、実際は自分の作るカレーを愛する、ただの気さくなポケモン大好きおじさんだ。
「これは大サービスしないと」
キバナさん、大変なことにならないといいけれど。腕まくりをする店長に、やっぱり、と眉を下げる私であった。
冷たい水の準備は完了。それからカトラリーを用意して、ホールに下りる支度は完璧だ。シャツの胸もとを整えていざ戻ろうとすると、店長がこそっと耳打ちをしてきた。
「キバナくんのポケスタグラムはね、フォロワー数万人なんだ。明日からお店、忙しくなっちゃうかもな」
え、と瞠目する私を横目に、ふんふん、店長は愉快な鼻歌を奏でる。厨房に消えたその足取りはワルツではなく、まさにクイックステップといったところだった。
どうりであんなに写真を撮るわけだ。いよいよアジトという店名を変えたほうがよさそうね。ひとり肩をすくめて、プレートにグラスとカトラリーボックスを載せた。
「フライゴン、元気にしていますか?」
音を立てぬようグラスを置きながら、キバナさんに話しかける。
「もちろん。今もボールの中でおまえに会いたくて、じれてるぜ」
「えっ、そうなんですか」
目を素早く瞬く私に、彼は携帯をテーブルに置いて腰のベルトから紺色のボールを取り出し手のひらへ載せた。ふるふる、小刻みに震えている。普段の状態がいまいちよくわからないが、おそらく、これが彼の言う「じれている」状態にちがいない。
「そんなにスコーンが気に入ったんでしょうか」
「だろうな」キバナさんはボールをしまう。
「フライゴンから聞いたのか、ほかのポケモンたちもスコーンをねだるようになっちまって。けど、そこらへんのやつを買ってやってもちがうって怒られるんだ」
やれやれと肩をすくめるキバナさんに、思わず笑みがこぼれた。
「キバナさんのポケモンたち、かわいいですね」
「かわいいぞ」彼は誇らしげに言う。「たぶん、見たらびっくりするけどな」
びっくりする? 小首をかしげた私に、キバナさんは携帯のロックを解除して一枚の写真を見せてくれた。
「これ、キバナさんのポケモンですか?」
フライゴンはさることながら、そこには見たこともないような屈強なポケモンたちが映っていた。一匹、二匹、三匹……これが、ドラゴンタイプというやつだろうか。
「そ、みんなオレさまのポケモンだぜ」
驚く私をよそに、キバナさんは意気揚々と長い指先で次の写真へスライドする。今度は、キバナさんが彼らをまとめて抱き込んでいる――さすがのキバナさんでも抱き込めていないが――写真が出てきた。はがね色の、シュートシティのビルみたいなポケモンがジュラルドンで、パンのコロネを思わせるフォルムの子がサダイジャ、キバナさんと同じカラーリングの岩山型の子がギガイアスだという。
屈託のない笑顔のキバナさんと、心なしか表情がやわらかいポケモンたち。なんだか、みんな仲がよさそうだ。
「っていうか、おまえ、本当にオレさまのこと知らないんだな」
なんとも微笑ましくなって頬を緩めていると、キバナさんが言った。
「すみません……」と、とっさに謝る私に、キバナさんは、「べつにいいんだけどよ」とつぶやく。だが、その横顔はムッと拗ねた子どもみたいだ。
「キバナさんは、ドラゴンタイプのポケモンを使っていらっしゃるんですよね?」
彼は画面をスライドして、ほかにも写真を見せてくれる。
「ああ。実際にはそれだけじゃないが、ドラゴンタイプが好きでよく育ててる」
店内にポケモンを連れてくる人も少なくないが、彼のポケモンのようなドラゴンタイプはあまり見かけない。そりゃ、こんな子たちが店に現れたらびっくりしてしまうから、みんなボールにしまっているのだろう。
「でも、こんな子たちが怒るって、迫力ありそうですね」
聞く限り、スコーンをねだる様子はたいへん愛らしいが、怒ったらただではすまなそうだ。想像して眉を下げると、彼は神妙な顔であごを撫でた。
「迫力がある、どころじゃないな。下手したら部屋の中ぐっちゃぐちゃになる」
「ぐちゃぐちゃ……」
言葉を失った私に、「ま、そのまえにボールにしまうけどな」と白い歯を見せるキバナさんであった。
「おーい」キッチンから呼ぶ声がして、私は再び席を離れた。
そのあとは、結局、キバナさんは店長特製の大盛りどころか特盛り焼きカレーを食べることになり、自分の顔よりも大きなグラタン皿の料理と激しい格闘を繰り広げた。勝者は、なんとキバナさん。途中、飲み物をサーブしながら、「大丈夫ですか、無理しないでくださいね」と何度も声をかける私をよそに、苦しい表情を全く見せることもなく、彼は常に優勢を保ちつつカレーをたいらげた。それどころか、完食後にはきれいに空になった皿とピースで自撮りを決める余裕の持ちようだったのには驚いたものだ。さすがは最強と謳われるドラゴン使い――それが関係あるのはよくわからないが、店長はそう言っていた――といったところか。
愛情たっぷりボリュームもたっぷりのカレーを完食してくれた彼に、当然店長はさらに気をよくするわけで。食後のアイスクリームまでサービスしてしまう結果となったのは、言うまでもない。
思わぬフードファイトを目の当たりにした翌日。店長の予言どおり、めまぐるしく忙しくなったランチタイムを終えた私は、夜の部までのつかの間の休憩時間に、カウンターで一冊のノートと向き合っていた。
「あれ、どうしたんだい、そんなにむずかしい顔して」
顔を上げると、エプロン姿の店長がオフィスから戻ったところだった。
「店長、実はちょっと悩んでることがあって」
ノート相手ににらめっこをしていた私は、ふうと肩を落としてそれを閉じる。
「悩み?」店長はメガネの奥でじっと私を見つめた。
「はい、って言っても、ささいなことなんですけど」
キッチンに入り、カウンターに座る私の前へ立って店長は、「僕でよければ聞くよ」と言った。
「でも、店長、夜の仕込みがあるんじゃ」
「だから、少し手を動かしながらになっちゃうけど。それでもよければ」
どう? と白いタオルで手を拭いながら微笑む店長に、私は甘えることにした。
とはいえ、打ち明けるのもなんだかこそばゆい。「その……」と言葉を詰まらせると、店長はやさしくまなじりを緩めて、うん、と相づちを打つ。
「実は、ある人にお菓子を作ってほしい、って頼まれて」
「そっか。それで、そのノートなんだね」
閉じられたノートに店長が視線を落とす。私はこっくりうなずいた。
――今度、また、なんか作ってくれるか
昨日、「店長がはりきりすぎて、すみません」と店先まで見送りに出た私に、キバナさんが言った言葉だ。まさかではあったが、断るいわれもなく引き受けてしまった。
年季の入ったノートの表紙には、「レシピ」という文字。恥ずかしながら、小さいころに落書きした「ヒミツの」という吹き出しもばっちり残っている。
「そんな感じのノート、息子もよく持っていたな」
懐かしむように銀ぶち眼鏡の下で頬が緩む。ちなみに、店長の息子さんはどこかの地方でコメディアンをやっていると以前聞いたことがあった。
「それで、悩みっていうのは?」
視線を上げた店長と目が合う。ごくり、私はつばを飲み込んだ。
「それが、どんなお菓子を作ったらいいのかなって、思いまして」
私にとってのお菓子づくりは、単なる趣味にすぎない。今までだってそうだ。ほとんど気の向くままに作りたいものを作ってきた。もちろん、両親の誕生日や友人が遊びに来るとき、あるいはクリスマスだバレンタインだ、とイベントごとの際にはとびきりのケーキを焼いたりもしたが、それももうとうに昔の話である。
お菓子を作ってほしいと言われると、急に複雑な迷宮へ落とされた心地だった。なにを作ったらいいのか、なにを作るべきなのか、はたまたなにが求められているのか、よくわからない。
私の言葉に、店長は鍋のカレーをかき混ぜながら、ううん、と小さくうなる。
「たしかに、それはむずかしいかも。相手の好みとか知っているなら、そこから考えてもいいけど」
静かにかぶりを振ると、店長は、だよね、と眉を下げた。
「じゃあ、まえにお菓子は渡したことある?」
「はい、スコーンを」
ふむふむ、唇をつんとすぼめて、店長は続ける。
「そのとき、反応はどんな感じだった?」
「そうですね……」
脳裡に先日のことがよみがえる。スコーンを頬張って幸せそうに緩む顔。それから、きらり光る瞳に、甘く鳴る喉。きっと、バターを使ったお菓子は嫌いではない。
「チョコレートとかプディングよりかは、焼き菓子がいいかもしれません。あとは、プレーンよりベリースコーンのほうが好きそうだったかも。でも、今度はその子だけとは限らないし……。あと、人間とちがって添加物とか気にしたほうがいいかな。それなら、砂糖とベーキングパウダーも……」
途中から盛大な独り言と化していた。ぶつぶつと呪文を唱え続ける私を見かねて、「ねえ」と店長が止めに入る。
「もしかして、君のお菓子を食べるのって、ポケモン?」
訝る店長に、私はぱちりとまつ毛を揺らしてそれから首を縦に振った。
「はい。あれ、言ってませんでしたっけ?」
はあ、とあからさまなため息が目の前に落ちてくる。
「言ってない、言ってない。僕、男の子にあげるのかと思って身構えたのに、なんだか損した気分だな」
「わあ、すみません」
恥ずかしくなってノートで口もとを隠すと、店長は肩をすくめて、夜限定メニューのガラル風ステーキライスの仕込みに入った。
「まあでも、それなら話は早いかな」
カウンターの向こうで、特製ソースを調合しながら店長は微苦笑する。
「なにか、いい案ありますか?」
迷わず私は飛びついた。実を言うと、店長はトレーナー時代、ポケモンをよく知るためにあらゆる地方を回ったことがあるというほどのポケモンマニアだ。途中からそこに料理という要素も加わったが。とにかく、ポケモンの好みのみならず、さらには体にいいお菓子のヒントを聞くことができたら、それほどありがたいことはない。
いい案ねえ、店長がボウルの中でスプーンを二、三度上げては下ろしてを繰り返しながら言う。
「そうだな、そのポケモンのタイプと性格、あとは、トレーナーとの親密度をもとに、なにかきのみを混ぜてみるといいかもしれないよ」
なるほどと、つぶやきながら私は急いでノートを開く。タイプ、性格、親密度――走り書きでメモをすると、店長は慣れた手つきでソースの味見をし、保存容器に移したあとさらにオススメのきのみをいくつかピックアップしてくれた。
「ちなみに、ポケモンはなにタイプ?」
「ドラゴン、ですかね」
「ドラゴン……」店長は眉根を寄せる。
実際にはそれだけではない、とは言っていたが、今回は見せてもらった子たちメインでいいだろう。四匹のポケモンの姿を思い描いてひとりこっくりうなずくと、店長は急に仕込みの手を止めた。
「ねえ、ちょっと込み入ったこと、訊いてもいいかい」
なんだか、やけに神妙な顔つきである。はい? と思わず小首をかしげる私に、店長はごくり固唾をのんで眼鏡のブリッジを手の甲で押し上げた。
「そのポケモンのトレーナーは?」
「トレーナー? それは――」
だが、私が答えようとしたところで、店長はなにやら途端にふにゃあっと顔をふやけさせて、「いや、やっぱり皆まで言わなくていいよ」と言って、そそくさとライスの準備をしに奥の厨房へ引っ込んでしまった。
なんだったんだろう。店長が消えていった扉を見つめて、私は肩をすくめる。ぐつぐつ、カレーが煮えていい匂いが店内に漂っていた。
「へんな店長」
まあいいか、とつぶやいて、さきほど店長からもらったアドバイスを忘れないうちに頭へ落とすことにする。
「いやあ、さすがドラゴンタイプ。いい攻め方だ」
数分後、鼻歌交じりに戻ってきた店長に、そういうのじゃありませんから、とノートを顔の前に立てて城壁を築いたことは言うまでもない。
お菓子を作ることは好きだ。昔から、なにかつらいことがあったときにはひたすらパン生地をこねたり、メレンゲを手で泡立ててみたり。嬉しいことがあったときには、いつもより砂糖を多めにホイップを作ってみたり、バターを焦がし香ばしいフィナンシェを作ったり。私の人生はお菓子づくりとともにあった。
そういうわけで、キバナさんたちのためにスコーンを何度も焼いたり、新しくレシピを考えたりするのは、正直大変だったが、まったく苦ではなかった。むしろ、オーブンの中に灯った橙の光が、かつてのようにきらきらといっそう輝いて見えた。
きのみに合わせてバターや砂糖の分量を変えたり、使用している材料を無添加のものにしてみたり、または、産地を変えてみたり。試行錯誤を繰り返しているうちに、あっという間にナックルシティまで行く日がやってきた。
「ついた」
中世の趣が残る城塞は、天からの目映い光に照らされている。
私の住むスパイクタウンからは、トンネルを抜ければすぐナックルシティだが、キバナさんがいるスタジアムまではしばらく歩かなければならない。
空飛ぶタクシーを降り、ポケモンセンターと駅を右手にできるだけ日陰を選んで進む。その手には大きな紙袋が提げられている。結構な重さだが、それを見るとなんだか胸がそわそわした。
「ナックルシティ、あいかわらずおしゃれだなあ」
スパイクタウンとちがって、ナックルシティには荘厳な雰囲気がある。さすがは歴史ある街というか、ほぼ城というか、街ゆく人々もそれに合わせてどこか優雅な気がしてならない。まさに、瀟洒という言葉が似合う街。ときおり観光客が大きな荷物を背負っているのを見ると、少しだけ安心する。
街の中心には、大きな建物が天に突き刺さるように建っていた。城と近代文明を掛け合わせたような、不思議なルックス。それがナックルスタジアムだとキバナさんは教えてくれた。すぐにわかる、という言葉のとおり、街に着いた直後その存在を確認できた。
あとはポケモンセンターのある十字路を曲がって橋を渡ればいい、そう教えてくれたのはタクシーの運転手だ。
「もうすぐかな」
道なりに歩いていると、ふたつ目のポケモンセンターが見えてきた。ああ、ここはワイルドエリアに行くとき、ときおりタクシーで降ろしてもらう場所だ。見慣れた場所に来てホッとする。その角を曲がると、いよいよスタジアムだ。
キバナさん、いらっしゃるといいけど。つぶやきながら堅牢なスタジアムを前にする。
実を言うと、はっきり日時の約束はしていなかった。ただ、私の都合を考慮してのことだろう、大丈夫なときでいいから、と自分の手が空く曜日と時間を彼は教えてくれていた。親切だが、少し、ずるい、と思ったのは、ここだけの話である。
それはさておき、今日はその曜日で、その時間の少しまえ。彼の言葉どおりならば今はきっとスタジアムで仕事をしているはずだ。
「会えるといいなあ」
小さく息をついて、天を仰ぐ。ナックルスタジアムは立派な建物だ。はるかに大きくて、もはやその全貌はわからない。都会に赴いた田舎者の気持ちで、初めてのスタジアムにドキドキしながら、私は心化粧をして扉をくぐった。
「わあ……」
さきほどまでの荘厳な雰囲気がうそのように一変した。もちろんいい意味で、だ。ザワザワ、人々のにぎやかな声が飛び交っている。あっちでは紳士が、こっちでは子どもが、それから向こうでは女学生が。至るところに熱気が満ちていた。
不思議な場所。そんなことを思いながらぐるりと建物内を見渡す姿は、まさに田舎からの観光客丸出しだったであろう。スパイクタウンもそこまで田舎ではないが、比べるのは止しておく。
「あ、いけない」
少しのあいだ辺りを見渡していたが、すぐに用事があることを思い出し受付を探す。
「すみません、ジムリーダーのキバナさんに用があって来たのですが」
スパイクタウンから来た旨と名前を告げる。念のため身分証明書も提示すると、受付の女性は、「ただいま確認いたしますね」とキーボードを素早く打った。
「申し訳ございませんが、本日キバナは外しておりまして」
すぐに、淡々とした答えが返ってくる。
やはり、アポなしの訪問はやはり厳しかったか。困ったなと肩を落として、「戻られる時間とかは……」とおずおず訊ねてみるが、頑として答えてはくれない。さすがは一流ジム。セキュリティがバッチリである。
「では、本人から頼まれたものがあるので、それだけでも届けてくださることって可能ですか?」
「ええ、それなら」
快諾してくれた彼女であったが、ひょい、と大きな紙袋を持ち上げた私に、その澄まし顔を曇らせた。本人に言えばわかるから、と言い添えても、正直、どうしたらいいか考えあぐねているようだった。
やっぱり、だめかもしれない。これならきちんと約束しておくべきだった。心の中で、ごめんね、とフライゴンたちに謝罪しつつ、渋々受付から離れる。
そのとき、背後から声が響いた。
「あっ、キバナさまだ!」
キバナさま? 思わずその呼び名にふり返る。
オレンジのヘアバンドにいつものドラゴンパーカー、それから紺色のハーフパンツ姿のキバナさんがスタジアムへ入ってきたところだった。
ザワザワしていた空気がまたしても変化する。一瞬、熱気が圧縮されたと思えば、一気に広がって、なんだかピンクっぽいような、黄色っぽいような。そして、その空気を具現化したように、彼はすぐにスタジアム中のお客さんに囲まれてしまった。
「すごい、本当に有名人だ」
口に手を当てて呆然とつぶやいた私に、受付のお姉さんは白い目を向けてきた。
一緒に自撮りをしたり、サインをしたり、しばらくファンサービスをしていたキバナさんだったが、ふと顔を上げた拍子にこちらへ気がついた。
途端にあの碧い目が丸くなり、私が控えめに手を振るとファンの子たちに断りを入れて、円を抜けてくる。
「まさか、本当に来てくれるとは」
目の前に立ちはだかると、かなりの存在感、いや威圧感であった。
「約束、しましたので。それに、キバナさんのご自宅が破壊されたら困りますから」
手にした紙袋をひょいと掲げると、たしかに、と言って彼は大口を開けて笑った。
「では、こちらへ。本日はお越しいただきありがとうございます」
やけにかしこまった口調で声高々に口にしたキバナさんに、きょとんとする。しかし、すぐに、「合わせろ」と、小声の指示が続いて、「こちらこそお招きいただきありがとうございます」と丁寧なあいさつを返す。
どういうことかと疑問が拭えずにいたが、彼は満足そうに口角をきゅっと上げて、私をスタジアムの内部へとエスコートしてくれた。
「悪いな。ああでもしないと、めんどうなことになるんだよ」
入ってすぐにキバナさんは言った。
「なるほど。キバナさん、すごい人気ですもんね」
「そ。炎上すんの、いやだろ」
たしかに変なうわさを立てられるのも困ってしまう。ファンに囲まれる彼の姿を思い出して苦笑しつつ、「ありがとうございます」と告げると、「やっとわかったか」と彼は得意げな顔をした。いたずらっ子のような、そんな顔だが、やはり一般人とは比べものにならないほど整っていた。
「ちょっと歩くけど、いいか」
「かまいません」
複雑な造りのスタジアムをキバナさんに案内されるがままついていく。おそらく、私ひとりでは入り口に戻ることができないだろう道のりだ。
しばらく大きな背を追いかけていくと、ジムチャレンジで彼らがポケモンバトルをするスタジアムフィールドではなく、殺風景な部屋にたどり着いた。白塗りの壁に、中央には長机がいくつか並んでいて大きな四角を描いている。いかにも会議などで使われそうな部屋構えだ。さきほどまでの熱気とははるかにかけ離れている。
「よし、オマエら、出てこい」
完全にドアを閉め切ると、キバナさんはボールを投げて手持ちのポケモンを出した。フライゴン、ギガイアス――ええと、それから――サダイジャにジュラルドン。
「あれ、ちっちゃい子がいる」
そして、もう一匹。丸くてぬめっとした、小さなポケモンだった。
「そいつはヌメラ。フライゴンが逃げ出したときに、ちょうど探してたやつだ」
「ヌメラ……」
その名をキャンディのように口の中で転がす。
初めて見る私に怯えているのか、その子はふるふると体を震わせたあと、一目散にキバナさんの足もとへ隠れてしまった。
これは、かわいい。なんだろう、すごく庇護欲がそそられるっていうか、なんというか。ああもう、ぎゅっと抱きしめたい! それだ。
「おいで」
どうにかふれあいたくて、すとんとその場にしゃがみそのポケモンと目を合わせる。だが、ヌメラは引き締まったふくらはぎを盾に、徹底抗戦の構えだ。
「すげえ、おくびょうなポケモンでさ、捕まえるのに苦労したんだぜ」
心の中で悶える私にキバナさんは言う。
「おくびょうなポケモン、かわいい……」
人間、心が震える存在と出会ったとき、言葉を失うとはよく言ったものだ。
かわいい、そんな月並みの言葉しか出てこない。つぶらな瞳と触覚と、そのぬるんとしたボディ。足もとに隠れきれていない姿すら、なにもかもがツボをついてくる。ガラル屈指のかわいいの権化、ワンパチやマホイップとはまたちがう愛らしさだ。
じりじりと隙あらば距離を詰めようとする私に、ヌメラは警戒を隠しもしない。ヌメラ、と声をかけてみるが、キバナさんの足もとから一ミリも出てこようとしなかった。
「ちなみに、進化するとかなり強力なポケモンになるってうわさだ」
「もしかして、この子たちくらいに?」
膝を抱えたまま、フライゴンたちを見上げる。ふわんふわんと無邪気に宙を舞っているが、キテルグマをものともしない強さだったのを忘れもしない。
「場合によっちゃ、それよりだな」キバナさんは腕を組む。
「うそ……」
信じられないものを見る目でキバナさんとヌメラを交互に見つめる。
「ウソじゃねぇんだなぁ、それが」
キバナさんは得意げにヌメラを見下ろした。
「なあ、ヌメラ、オレさまと一緒に強くなるんだよな」
声をかけられるも、知らない人間にあまりに注目されているからか、ヌメラはいっそう体を小さくするだけだった。
ああだめ、そんな姿もかわいい。心を奪われていると、不意に背中へ、ドン、という衝撃が訪れた。
「ふ、フライゴン!」
なんと、緑のドラゴンが背中にのしかかってきた。どうしたものかと驚くが、すぐさま、ふりゃりゃあ、と愛らしい鳴き声が聞こえて頬が緩む。
「いっちょうまえに嫉妬か、オマエ」
嫉妬、その言葉に喉もとが熱くなる。
「ごめんね、フライゴン。あなたもとってもかわいいよ」
やだ、ポケモンのモテ期到来かしら。期待に胸がうずいたが、すでにヌメラにフられているので気のせいで終わりそうだ。
「もう、くすぐったいよ」
ぐいぐい押しつけてくる鼻をやさしく撫でる。気持ちいいのか、フライゴンはくうんと甘く喉を鳴らしたあと、ふわり尻尾を宙に浮かせた。ヌメラの愛らしさに半ば衝撃を受けていたが、やはりフライゴンもかわいい。
そんなフライゴンとじゃれながら――といってもポケモンの扱いがわからないので、ワンパチと遊ぶときみたいになってしまうのだが――立ち上がると、ほかの三匹が心なしかそわそわしている様子だった。
「もしかして、私のこと警戒しているんでしょうか」
キバナさんは腕組みのまま、彼らをじいっと観察する。
「いや、ちがうな。こいつら、待ちきれないんだと」
「待ちきれない?」首をかしげる。
形のきれいなあごをしゃくって、キバナさんはテーブルを示した。
「そっか。そうだよね、甘い匂いするもんね」
そこには、私が持ってきた大きな紙袋が置かれていた。
ポケモンの嗅覚は人間よりも鋭いと言う。おそらく、モンスターボールから出てきた瞬間から、すでにお菓子の存在を感じていたにちがいない。まったく、とキバナさんは息をつくが、彼らを見る目はやはりとてもやさしかった。
またおあずけしちゃったね、とフライゴンを撫でると、そうだとばかりに羽音が響く。さらに、ぐるりと首をひと回し。強面な面々も目をきらきらさせているのに気がついた。まったく、そんなまなざしを向けられたら、いてもたってもいられないじゃない。私は喜びから口もとをもぞつかせながら紙袋に手を伸ばした。
「前回は砂糖もバターもたっぷり使用していたので、今回は知り合いにいろいろ教えてもらって、ポケモン向けに作ってみたんです」
へえ、とキバナさんの相づちを聞きながら、ポケモン用スコーンの入った箱を取り出す。ふわっと甘い香りが鼻を掠め、うん、我ながらいい出来だ、と私は胸を膨らませた。
「これは添加物不使用、甘さ控えめ油控えめ。そのかわりモーモーミルクで作ったヨーグルトをたっぷり加えました」
箱の中には、直径二センチほどの小さめのスコーンが山になっている。前回フライゴンから学び、ひと口で食べることを考慮して形を変えたのだ。
「ということは、体力回復ってわけか」キバナさんは言う。
モーモーミルクは滋養強壮にいいと有名だ。ポケモンの傷を癒やすのはきずぐすりだが、ミルタンクのミルクもポケモンにとっては薬のひとつである。
「そこは試していないのでなんとも言えないんですけど、理論的にはそうですね」
そう言い添えると、なるほど、と感心して、キバナさんは腕組みのまま箱をのぞき込んでくる。かなり背が高いからか、上体を折り曲げなければならないのは大変だ。しかし、唇を尖らせて、私の手もとを食い入るように見つめる顔がなんともあどけない。
碧い瞳には色っぽく長いまつ毛がかぶさるのに、「興味津々です」とばかりに前のめりな姿勢のせいだろうか、微笑ましくなってつい顔が緩んでしまう。
「おい、オマエら、まだ食うなよ。ちゃんと説明を聞け」
一緒になってのぞき込んでくるフライゴンたちにそう牽制を加えるあたりも、一流のジムリーダーというよりは、近所のお兄さんという感じだろうか。
「もう少し待ってね」
やはり、ポケモンとトレーナーは似てくるのかもしれない。今にもスコーンに倒れ込みそうなジュラルドンに微笑んで、別の箱を取り出す。
「お、こっちはなんか入ってんのか」
箱の中身を見たキバナさんが声を弾ませる。そう、新しく出した箱には、店長おすすめのきのみを混ぜて焼いたスコーンが入っていた。
「ドラゴンタイプにはロゼルの実がいいって聞いたので、一緒に混ぜてみました」
「ロゼルの実? あんなめずらしいきのみを?」
「ちょうど、先日採った中に混じっていて。乾燥させて、ドライフルーツにしてから生地に混ぜ込んだんです」
ロゼルの実はベリーのように赤いきのみで、ピンチのときにドラゴンタイプの苦手なタイプ技への耐性が強まる効果があるらしく、店長に相談した結果、入れてみることにしたのだ。少々味に癖はあるが、ドライフルーツにして生地の砂糖とバターの配分を変えてみたらうまくごまかすことができた。
プレーンスコーンとロゼルスコーン。どちらも表面はロコン色に色づいて焼き加減はばっちりである。店長のワンパチに味見をお願いして、興奮気味にほっぺすりすりをされたから、味も保証できる。だって、あやうく意識が飛ぶところだったもの。
さあ、おあずけは終了! スコーンを手に取ってフライゴンへ差し出すと、ぱくり、迷いもなくかぶりついた。
うん、食いつきはよさそう。それからジュラルドン、サダイジャ、ギガイアスにも、同じようにスコーンをあげる。手を差し出して咬まれたりしないかと正直少し不安だったが、キバナさんを信じてなんとか手であげることに成功した。
ひととおり一巡して、最後は怖がりなあの子だ。ヌメラは……と、体をくるりと反転させたところで、じいっと熱視線を浴びていることに気がついた。
「キバナさん?」
なんと、その視線の主は、彼らのご主人キバナさんだった。
「どうかしました?」
私は首をひねる。
「オレさまのは?」
「は?」思わず、素っ頓狂な声が出た。
だって、そんなことを言われるとは思わなかったのだ。目を瞬く私をよそに、キバナさんは端正な顔を両手で覆ってその場にしゃがみ込んでしまう。
「え、キバナさん?」
ぼふん、膝を折った拍子にぶつかったのか、ヌメラが彼の足もとから転がり出てくる。だが、彼はそれすらもいとわない。
どういうこと? 突然のことになにをしたらいいのかわからず、手をあたふたさせる。
「あの、具合、悪いですか? それとも、なんか当たったとか」
一向に反応のないキバナさんに、不安になって歩み寄った。
どうしよう、匂いで酔ってしまったとか、なにかアレルギーを発症してしまったとかだったら。私ったら大事なジムリーダーになんてことを。
うずくまるキバナさんの背はいつもより丸まっている。その背中を撫でようかと手を伸ばしたが、やはり、そう簡単に触れていいものかと指先をひっこめた。
「――のかよ」
そのとき、キバナさんがつぶやいた。
「え?」私は訊き返す。
ああくそ、彼は顔を覆ったまま、天を仰いだ。
「オレさまの、ないのかよ」
その瞬間、時が止まったみたいだった。
「んだよ、オマエらばっかいい思いしやがって」
ぶつぶつぼやく声は止まらない。
「ロゼルスコーン、めちゃくちゃうまそうじゃねえか」
気がつけば、喉もとにあたたかな気持ちがあふれていた。
「ふふっ」
「なんだよ」キバナさんはムッとしたまなざしを向けてくる。
「いえ、その、ふふふっ」
「あぁ、もう」
ちくしょう、といよいよ頭を掻き始めたキバナさんに、私は胸に宿った小さな燈火を抱きしめる。
「ありますよ」
は? キバナさんが顔を上げた。
「だから、キバナさんのぶんも、ちゃんとあります」
疲れたとき用のトリュフショコラと、アフタヌーンティーにぴったりのバターフィナンシェ。野菜たっぷりのケーク・サレは、小腹が空いたときに。それから、忙しいときには口へぽいっと投げ入れられるひと粒クッキーを。どれも量は少しずつだが、スケジュール的にほとんど空きのない彼にはきっとぴったりだ。
――なんて、ちょっとした私のお節介。
ひときわ大きな箱を広げる私に、ゆるり碧い海の中で光が揺らぐ。
「まじかよ」
口もとを撫でつけた彼の顔を、私はきっと一生忘れないだろう。
