2-7

「あぁ、一足先に町で話を聞いておく。ミツキ? ミツキは……そうだ、色々とあって眠ってる。ああ、わかってる。しばらく寝かせておくから、安心してくれ」
 頼んだわよ、と少々しつこいくらいの幼馴染の念押しを終えて、クラウドはPHSを切った。
 ふう、とひとつため息をつく。視界の端にやや寂れた町が映り喉元の違和感を覚えずにはいられない。海洋都市ジュノン――ではなく、その下に広がる町アンダージュノンだった。
 ミッドガルのスラムに似た湿っぽいこの海辺の町にたどり着いたクラウドたちは、プリシラという少女の祖母にあたる女性の家で休息をとっていた。いくつかあるベッドのうち、ひとつには、小さな子猫が眠っている。白く艶やかな毛並みと三角の愛らしい耳、それから、オパールのような一粒玉ついたピアス。
「まさか、本当に猫になるとはな」
 そのベッドのすぐ横でレッドがすんと小さく鼻を鳴らす。
「そうか、初めてだったな」
 道中猫になってしまった美月に、クラウドはもはや驚くことはなかったが、途中から加わった仲間たちは違う。興味深そうに美月を眺めているレッドに、クラウドは長い睫毛を揺らしてPHSをズボンのポケットにしまいこむ。
「不思議な匂いがすると思っていたが、なるほどこの猫の匂いだったようだ」
「匂い……チョコボファームでも、言っていたな」
 クラウドが微かに眉をひそめると、レッドがなにか口を挟む前に目の前のベッドに寝転んでいたユフィが唐突にガバリと起き上がった。
「てかさ! この猫、本当にミツキなんだよな?」
「そうだ」
 その声量にやれやれと瞑目しつつ、クラウドは頷く。ユフィは、ああもうと頭を掻き乱し、じれったそうにジタバタと脚をバタつかせた。
「なんで、猫になるんだよー! ユフィちゃんわけわかんないよ!」
 彼女のいうことももっともだ。どうして猫になるのか、美月という女に出会ったころからその謎は解けない。だが、猫の美月が意識を失っている今、それを確かめる術もない。
「静かにしろ」
クラウドは指先を擦り合わせて彼女を宥める。
「なんだよ、クラウドは気になんないのかよ!」
 腑に落ちないユフィがクラウドに噛みつくが、クラウドは、「くわしくは起きてからミツキに訊け」とにべもなく言って腕を組んだ。
 壁によりかかって窓から外の世界を眺める。海に聳えた大きな柱や鉄塔、それからその上に拡がる鋼鉄の壁。そこに神羅が築き上げたジュノン空港があるという。ソルジャーなら行ったことがあるんじゃないか、とレッドに言われたが、あまり記憶にはなかった。
 寂れた町を覆う灰色の空は、どこか遠い日の故郷を思い起こさせる。じっと睨むようにそこを眺めていると、やがてむくれていたユフィが足をぱたんと床に落として言った。
「でもさぁ、ミツキ、使えないって言ってたけど、結局魔法使えるんじゃん?」
 クラウドはすかさず外から視線を戻した。
「なにさ」
 ユフィがそれに気がついて、居心地悪そうに眉を跳ねる。
「いや……」クラウドは小さくかぶりを振った。
「なんだよ気になるな」
 クラウドは言うか迷ったが、しばらくして口を開いた。
「やっぱり、あれはミツキが唱えたやつだったのか」
 ユフィが今度は目を丸くしてまつ毛を瞬いた。
「え? それしかないっしょ? アタシら全員そんな余裕なかったし、てか、だれもかいふくのマテリアつけてなかったよね?」
 ああ、と小さく頷きながらクラウドは頬を撫でる。彼女が猫になる前のこと、「ケアル」と耳に届いた声はどうやら聞き間違いではなかったらしい。決して大きくはないが空高く響くソプラノ。苦戦を強いられていたさなか聞こえてきたそれは、まさに青天の霹靂とも言えるタイミングだった。どこからともなく力が漲り、吹き出た血さえ一瞬にして固まった。そして、腕を動かすたびに顔をしかめていたユフィの動きが格段によくなり、また、レッドの攻撃の勢いも増していったのも、そのときだ。
 なだらかな頬にはもはやかさぶた一つない。フォーミュラにつけられた傷はすでに塞がり、微かに膨らんだ凹凸のみが指先にひっかかる。
「ミツキに、かいふくのマテリアなんか持たせてたか?」
 柳眉を寄せて独り言のように呟いて、歩きだすクラウドに、「どうした?」とユフィが目を眇める。それに答えずに、ベッドまで歩み寄るとクラウドは枕元に畳んで置かれた美月の服を崩した。
「ちょっ、アタシがせっかく綺麗にしたのに!」
ユフィが飛び上がってクラウドの腕を掴む。
「ダガーは?」
 それすらも厭わず、クラウドはなにかに取り憑かれたように散らかった服を眺めていた。
「なんだよもう! あっち!」
 クラウドを押しのけ、めちゃくちゃになったブラウスとパンツを抱えてユフィは扉側を指差した。壁に沿って立つ四つ脚の洋ダンスの上に、銀色のダガーとミスリルの腕輪が置かれている。
クラウドはごつごつと床を鳴らしながらそちらへ歩み、やや急いた調子でダガーを鞘から抜いた。
「なにしてんの?」
 一連の行動にユフィはあからさまに眉根を寄せる。
「ないんだ」
 クラウドは言った。
はぁ?と顔を痙攣らせたユフィの向かいで、見かねたレッドが立ち上がる。
「なにがだ」
 クラウドはじっとダガーのリカッソ部分を見つめて言った。
「かいふくのマテリアだ」
 グリップとブレードの境に空いた二つの穴のうち、マテリアが填まっているのは一箇所のみ。緑色のクラウドが渡した攻撃マテリアだ。
「ミツキに持たせてたのは、ほのおのマテリアだけだ」
 彼女がバレットからもらったバングルも一瞥するが、マテリア穴にはなにもついていない。
「なるほど」
 レッドが耳をぴくりと揺らす隣で、「え、なに? どういうこと?」と、ユフィが二人を交互に見比べている。
 クラウドはじっとブレードを睨み、続けた。
「それに、あのとき、ケアルがかかったのは、俺だけじゃなかった」
 鋭利な刃の上で、緑光が鈍く瞬く。
「かいふくにぜんたいか……」
 レッドの呟きに、クラウドは小さく頷いた。
「ちょっと、ユフィちゃんついてけないんだけど!」
 ユフィが声を荒らげる。しばらくダガーを凝視していたクラウドだったが、ひとつ息をつくと、「いや、忘れてくれ」とかぶりを振った。

 もう、なんなんだよ! とユフィが道具屋に小遣い稼ぎをしに出て行き、クラウドは美月の寝る隣のベッドに腰掛けて規則正しく腹が上下するのを眺めていた。
 ジュノンエリアで彼が地面に座り込む美月を見つけたときまでは、彼女はきちんと人間の姿を模っていた。しかし、次の一瞬、敵の動きを確認するほんの一瞬目を離した隙に、彼女は猫になっていた。「ケアル」という詠唱が聞こえたのも、その数秒の合間だ。その数えきれるほどの短い空白に、一体なにがあったというのか。
「彼女が生きてきた世界は、どんなものなのだろうな」
 じっと美月だけを映していたクラウドの脳裡に、レッドの低い声がたゆたう。
 彼女の生きてきた世界――。
「たしか、モンスターがいない、と言っていた」
 クラウドは膝に肘をおき、体の前で手を組み合わせる。
「モンスターが存在しない、か」
「ああ」
 あれは、伍番魔晄炉へ向かうプレート内部でのことだったか。赤く改造された軍用犬に遭遇し、彼女はその場に腰を抜かして動けなくなった。訊けば、武器を手にしたことはおろか、モンスターを見たこともないようだった。
「そうか、それはいい世界だったんだろう」
「どうだろうな」レッドの言葉にクラウドは額を撫でる。
 彼女の言動を見れば、それなりにいい育ちをしてきたのだろうと予想がつく。危険とはほど遠い、平和な場所で暮らしてきたせいか、どこか浮世離れしたところがある。とはいえ、彼女の過ごしてきた世界がいい世界かどうか、クラウドにはその判断基準がわからなかった。彼女にとってここが悪い世界なのか、それすらも、決めるのは憚られる。ただ、彼女が自分とは違う世界で生まれ育ち、これまで生きてきたと考えると、ひどく納得できる反面、いささか心の収まりが悪くなる気がした。
 額に手を当てたその影の間から、丸まった白い猫を見つめながらクラウドは言う。
「この星のほかに、似たような星があると思うか?」
 彼女はそれを「地球」と言っていた。宇宙に存在する銀河系の惑星だ、と。
「可能性としては、あり得なくもない」
 視界の端で、真っ赤な鬣が静かに揺れる。
「だが、彼女はどうやってここまで来たんだろうか」
 どうやって――蘇るのは不安げに瞳を揺らす女の姿だ。世界を渡る前後の記憶を彼女は失っている。気がついたらセブンス・ヘブンのベッドの上だったのだ。スクラップ置き場で鳴いていた覚えもなく、どこかから連れ出されたことも、ましてや、世界を越えた記憶など、彼女には微塵も残っていない。
 猫に表情などあるのかわからないが、苦しげに、また、寂しげに、まぶたを下ろした目の前の寝顔が不思議と女の顔と重なる。
みぞおちのあたりがやけに疼いて、心地が悪い。

 ――アンタは、だれなんだ?

 脳裡で誰かが叫んだ。
「さあ、わからないな」
 小さく首を捻って立ち上がったクラウドに、レッドはそれ以上なにも言わなかった。

 レッドに留守番を頼みプリシラの家を出ると、クラウドは黒いマントの男について町人に訊いて回った。小さな町だ。カームほど訊きまわるのも苦労はない。それに神羅関係者以外この町を訪れる人間が少ないこともあってか彼らは皆一様クラウドを不審がり、かえって状況を理解しやすかった。だが、結果的に言えばタークスに泡を食わされたのだろう。黒マントの男はおろか、クラウドたち以外に訪れた一般人すらいなかったという。ああ見えて、やはり一筋縄ではいかない連中だと長年の勘が働いた。
 ――長年の勘? またしても声が響くが、クラウドは無視をしてPHSの履歴をリダイヤルした。
「ティファか。すまないが、あとどれくらいで着きそうだ?」
 数コールしないうちに出た幼馴染にクラウドは矢継ぎ早に言った。
今、森を抜けているところよ、どうしたの、とティファの声がする。
 森、となると、早く見積もってもあと数時間はかかるだろう。クラウドは耳からPHSを離して、時刻が夕方から夜へと移り変わるころだと確認すると、急いで耳を当てて、ティファにセフィロスの手がかりが掴めなかったことを告げた。
「じゃあ、ジュノンには寄っていないってことね」
 沈んだ調子のティファにクラウドは頷く。
「ああ、おそらく。ジュノンから船に乗って大陸を渡るかと思ったが……とにかく、明日、ここを発とうと思う。だからティファたちは今夜無理してこっちへ来なくてもいい」
「二日連続野宿、かぁ」
 ティファが電話口でぼやいた。
「すまない」
 さすがに無理強いは悪かったと思って謝るとティファは湿っぽい雰囲気を振り払うように、「しかたないわね!」と言った。
「今度なんかおごりなさいよ!」
 クラウドは、ああ、と了承する。
「それで、レッドとミツキはどうしてる?」
 脳裡に地面へと崩れた女の姿が過った。どくん、と心臓がうねる。

 ――離れるな。

「クラウド?」
 ぐっとPHSを握りしめたところで、クラウドはハッと我にかえった。
「……すまない。ミツキは、まだ寝てる」
「そっか。よっぽど疲れてたのね。まさか、ミツキのこと考えずに、どんどん進んだんじゃないでしょうね?」
 クラウドはひとりでに眉根を寄せた。
「さすがにそこまでバカじゃない」
「そう? それならいいんだけど」
 いや、実際には、よくわからなかった。彼女の限界がどれほどで、彼女が実際になにを考えているのか、あるいはどんなことを感じているのか、いつもクラウドの預かり知らぬところにある。コルネコの館のときのように突拍子もないことをしでかすこともあれば、すぐに憮然とした笑みを浮かべて物事を流すこともある。それから、顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚いたり、旅を降りると言ってみせたり、はたまた、使えない魔法を使ってみせたり。
「ティファ」
「なによ」
「ミツキのこと、どう思う?」
 ほぼ、衝動的な問いだった。
「どうって……」
 電話口の向こうでティファが言葉を詰まらせる。
 今朝もそうだ――クラウドは朝の出来事を思い返す。彼女を離してはならない、そんな感情よりも強烈な衝動に襲われ、体が勝手に動いていた。細胞一つ一つが沸き立ち、勝手に動きだすような、ひどく心地よくて、酷く悍しい。ひと言で言い表すのならば、激情だ。
 泣いたり、はにかんだり、顔を真っ赤にしてみせたり、それこら、腹を抱えて笑ったり。どれが本物の彼女なのかわからない。クラウドは人差し指で、PHSの側面についた傷を引っ掻く。
 どれが、ホンモノの『美月』なのだろう。

 ――それよりも、もっと大事なことがあるんじゃないのか?
 声がする。
 大事なこと? クラウドは応えた。
 ――そうだ。五年前のこと、ちゃんと覚えてるか?
 ああ、覚えてるとも。クラウドは瞑目する。
 視界は覆われ、漆黒の闇に独りきりになった。いや、もしかするともう一人誰かがいるのかもしれないが、姿は見えなかった。
 ――ティファはあのとき、ガイドだったよな?
 そうだ。クラウドは額を抱える。ニブル山へ向かう俺とセフィロスを案内してくれた。あのときは、おどろいたな。

「クラウド?」

 ――でも、それ以外のときはなにをしていたんだろう?
 さあな。
 ――せっかく久しぶりに会えるチャンスだったのに
 ……そうだな。
 ――どうして二人きりで会えなかったんだろう?
 わからない。靄のかかった思考を振りほどくように、やおらかぶりを振る。
 ――なあ、ティファに訊いてみろよ
「ああ」クラウドは頷いた。

「クラウド?」
 耳元ではっきりとティファの胡乱げな声が聞こえて、クラウドは、「いや、それより」と話題を変えた。
「ティファ、五年前、俺とセフィロスがニブルヘイムに行ったとき、ティファはどこにいた?」
「どうしたの、いきなり」
 ティファの声が低くなった。
「いいから」念を押すと、ティファは少しの間を空けて、「会ったでしょ」と言う。たしかに会ったはずだ。だが、そこじゃない。
「それ以外の時間だ」
 ううん、と考え込むようなそぶりが聞こえる。
「覚えてないのよ。五年も前のことだし」
 覚えてない?あっけらかんとして言われ、クラウドは閉口する。ずきん、とこめかみが強く脈打ったが、一瞬のことだ。
「それより、私たちもう少し進んだら夜営立てるから、ミツキのこと頼んだわよ!」
 心の裡が爪で引っ掻かれたようにむず痒い。それなのに、それがなんなのかを確かめる術はクラウドにはなかった。代わりにひそめた眉を小さく掻く。
「何回も言わなくてもわかる。レッドだってついてるんだ、問題ない」
「ふうん? 本当かなぁ? それはそうと、レッドに苦労かけてないでしょうねぇ?」
 どういうことだ、と喉を低く鳴らしたクラウドに、「なんでも! じゃあ、そろそろ切るね」と言うと、ティファは容赦なく電話を切った。

「……なんなんだ一体」
 深いため息とともに、寂れた町に再び静寂が戻った。

 夢を見ていた。きっと、幼いころの夢だろう。
 バルコニーに出て、楽しそうに笑っている美月に母が声をかける。
 ――なにしているの?
 美月はたどたどしく答えた。
「――してるの」
 ――だれと?
「んっとねぇ、――まと!」
 ――……まと?
「うん! ――ちゃんもね、――できるんだって」
 おしえてくれたよ? と首を傾げるわが子に、母は顔色を変える。
 ――もう寝る時間よ
 楽しい時間は終わりだとばかりに、強引に幼い彼女の腕を引っ張って椅子から下ろす。
「はあい。またね、――ま」
 彼女はなにを見ていたのだろう。その視線を追う間もなく、あどけなく響いた声とともに視界が黒く包まれていく。
 ――またね……さま

 目を覚ますと、視界に飛び込んだのは剥き出しになった材木と鈍い裸電球だった。
「デジャヴ……?」
 起き上がって、しばらく茫然と古びた壁紙を眺めていた。だが一巡し終えたところでハッと意識を取り戻すと自分の体を確認した。頬に、耳に、それから、腕や手。それらが毛むくじゃらでないとわかると深く息をつく。だが、同時に自分がなにも羽織っていない下着姿だということにも気がついて、すぐさま落胆することとなった。
「……また、猫になっちゃったのね」
 がくん、とシーツに垂れた腕にはバレットからもらった腕輪もない。もしかして、どこかへなくしてしまっただろうか。周りを見回すと、自分の寝ていたベッドの枕元に洋服と腕輪やダガーの一式が置かれているのに気がついた。ホッと胸を撫で下ろす。右隣のベッドにはレッドが眠っていた。
 今は夜だろうか。また、ここはジュノンの宿屋だろうか。色々と訊きたい気持ちはあったが、安らかな寝息にわざわざ起こすのも憚られて、美月はひとまずブラウスとパンツを羽織った。コルセットは苦しいのであとにするとして、バレットからもらった腕輪はしっかり手首にはめる。ダガーホルダーをつけるべきかは迷ったが、結局、それをつけるのはやめた。
 美しい装飾のダガーをしばらく眺めて、そっとその紋様をなぞる。ひやりと指先に訪れる感覚に、喉元が不意に震える。
 ふう、とひとつため息をついて、美月は目を瞑った。
 町は静けさに包まれているのか、換気扇の音しか聞こえない。ゴオオオと小さなプロペラが回る音。それから少々の黴臭さと潮の香りが鼻をくすぐる。世界を感じているようで、少し遠い。
 しばらくそうしたのち、やおらまぶたを押し上げると美月は部屋から出ることにした。
「おや、アンタも彼らの仲間かい」
 部屋を出ると、初老の女性と鉢合わせた。銀混じりの髪を後頭部でひっつめ、浅く日に焼けた肌によく映える白い前掛けをつけている。腰は少々折れ曲がっていたが、よく通るはっきりとした声をしていた。
 彼ら――一瞬まばたきをした美月だったが、すぐに意識を取り戻して、はい、と小さく頷く。女性は、「ついてきな」と彼女を手招きした。
「冷蔵庫はこれ、お皿は棚から自由に出して使いな。それと、シャワーはそこを抜けたところだよ」
 ここは宿屋ではなく彼女の家であった。美月は気を失っていたので知らないが、ここへ着いてからすでにひと悶着あったのだ。
 曲がった腰に手を当てながらまるで母親のように甲斐甲斐しく、女性はそっち、こっち、と台所を案内してくれる。
「あの、どうしてここまで親切にしてくださるんですか」
 すべてを説明し終えたところで、美月は訊ねる。
 どうしてって、女性は振り返るとおかしそうに顔を緩めた。
「孫の命の恩人に恩を返してなにが悪いんだい」
「命の、恩人……」
「そうさ。ここは神羅だなんだって、冴えない人間ばかりしか顔を出さなかったが、アンタらみたいなのを追い出すほど落ちぶれちゃいないよ」
 寝ている間に、なにか起きたのだろう。状況がよく呑み込めずに唇を軽く噛み締める美月だったが、「冷蔵庫にある食材は勝手に使っていいからね。たんと栄養をおつけ!」と背中を叩かれて、困り眉で笑って返した。

「命の恩人、か」
 ひとまず洗面所を借りて顔を洗い、美月は鏡に映る自分を眺めた。
 ほつれた髪に、虚ろな目、頬はやや痩けている。この家同様年季の入った鏡に映ったそれらは、この世界に来る前のものと比べると天と地の差のようにも思えた。仕事が忙しくて残業や徹夜が続いたときでも、こんなふうにはなったことはない。照明の暗さもあいまって、サスペンス映画にでも出てきそうないでたちだ。
 それなりに気を遣っていたはずの髪も、前を見ているはずなのに焦点の合わない瞳も、げっそりした頬やカサついた唇も、とにかく酷くて目を伏せたくなる。どちらかというと食事は摂っていたはずなのに、明らかに病的だった。身なりに気を遣る余裕がなかったというより、精神的な疲れが滲んでいるといったほうが正しいだろうか。
 すっかり気が滅入って、美月は素のまつ毛を指先で上げる。それでも気分はよくならず、外の空気を浴びにいくことにした。
「これが、アンダージュノン……」
 空は錆びた鋼鉄で覆われ、吹く風は潮と錆の混じった臭いがする。活気に乏しい町並みが拡がっている様は、太陽の下を歩いてきた身からするとかなりの落差だ。
 目覚めたときにはすっかり目的地に着いたと思っていたが、ここはアンダージュノンと言う、まさしくそのジュノンの下にある町であるらしい。先ほどの女性が美月にそう教えてくれた。
 薄暗く、お世辞にもあまりいい匂いとは言えない臭気が漂っているところはスラムに似ている。だが、スラムほど治安が悪そうな雰囲気はない。並ぶ民家もしっかりとした造りをしているし、なにより、錆と潮の匂いを除けば異臭はしなかった。喩えるなら、昔有名だった観光地に訪れたような、そんな感じに似ているだろうか。時代の波に揉まれ、いつしかシャッター街になった商店街を進むときのそんな心もとない心地。
 茶けた地面と、潮風により風化した家の塀や薄汚れた壁、それから鋼鉄の空。それらを見渡すたびに、どこか哀愁じみた思いを抱かずにはいられない。だが、人々の辛気くさいほどの穏やかさとはうらはらに、空から聞こえてくる機械音が耳に障る。
「少しくらいなら、外でても、いいかな」
 この寂れた雰囲気には、不安を煽るなにかがあった。とにかく、新鮮な空気が吸いたくてたまらない。
 コルセット防具もダガーも着けてきていないが、ほんのちょっと町を出るくらいなら大丈夫だろうか。そう思い、美月は町に背を向ける。
「どこへ行くんだ」
 だが、歩き出してすぐのことだった。粒の揃った低音が脳髄を揺さぶり、美月は足を止めた。
 振り返らずともその声の主が誰だかは明白だ。まさかこんなタイミングで見つかってしまうとは思わなかったが。怒気を孕んだような刺々しい余韻にひとつ深呼吸をして体を反転させる。想像どおりやや不機嫌そうなクラウドによって迎え入れられると、美月は眉を下げた。
「クラウド。その、外の空気を吸いに行こうと思って」
「ダガーも持たずにか」
 腰元を認めた瞳が細まり美月はすかさず、「ごめん」と謝った。
 ハア、とクラウドは瞑目してため息をつく。そして、腕を組んでおもむろに目を開くと、美月をまっすぐに見据え、「俺も、行く」と優しい声色で言った。

 町から出ると、すっかり日は暮れていた。切り立った岩崖にはガードレールや柵などの一切がなく、すぐ向こうに黒々とした海が広がっている。上の町からこぼれ出た魔晄の光が波に合わせて水面に揺れるが、気を抜けばその闇に飛び込んでしまいそうだった。
 崖の縁からやや離れて、クラウドと美月は草原に腰を下ろす。短い葉が洋服の上から肌を刺してチクチクとこそばゆかった。
「セフィロスの情報、手に入った?」
 静かな夕闇に美月の声が響く。
「いや、どうやらここには来ていないみたいだ」
「そっか。もう、ほかの街に行っちゃったのかしら」
 目の前に広がる海は果てしなく、空との境界線は曖昧だ。もしかすると、黒マントの男はすでに海を越えたのかもしれない。あるいは、山を越えたか、それか、どこかこの近くに潜んでいるのか。海風が耳の裏を撫で、髪が舞い上がる。必死でそれをかき集めながら耳にかけ直すと、右隣に座るクラウドと目が合った。
「体は、なんともないのか」
 暗闇の中で燈る碧い光。彼の金糸をペールグリーンに淡く染める魔晄色を混じえたようなその虹彩に、美月は吐息を震わせる。
「……うん、大丈夫」
「そうか、ならいい」
 なんだが、不思議な心地だった。やけに胸のあたりがそわそわして、じっとしていられないような。髪を整えた手をそのまま口もとへ下ろし、その光から逃れ美月は海を眺めた。
 漆黒の海の上には、雲居に紛れて星々が煌めいている。昼間は青と緑のコントラストの鮮やかな丘だったというのに、太陽がなくなるだけでガラリと印象が変わるようにも思えた。ザザァン、ザザァンと、潮騒が鳴り、ジュノンの街からこぼれる猥雑な生活音とのアンサンブルを粛々と奏でる。明かりの少ない海はどこか気味が悪かったが、クラウドの瞳をじっと見つめているよりかは落ち着いた。
「わたし、また猫になっちゃってたのよね」
 潮の匂いを胸に閉じ込めながら美月はぽつりとこぼす。
「ああ。気がついたら、服の中に埋もれていた」
「そっか。洋服、ありがとうね」
 どことなく、ぎこちない話し方になってしまうのは、この夜の空気のせいだろうか。右側に感じる熱に、唇を忙しなくいじる。カサついた皮を剥がしかけて、ぴり、と痛みが刺した。
「クラウドたちは、平気だった?」
 はしたなくそこを舐め、滲んだ血の匂いを味わいながら美月は言った。だが、クラウドはそれに答えず、「なにも、覚えていないのか?」と声を低めた。
「なにも、って?」
「猫になる、直前のこと」
 ユフィが丘を駆け下り、モンスターに襲われたこと。レッドとクラウドが応戦に入り、一匹のモンスターの爪が彼の頬を裂いたこと、それから――?
「覚えてるよ」
 ダガーを握ろうとしてできなかった右手が小さく震え、それを隠すようにぐっと膝を抱えこむ。
「ごめんね、またなにもできなくて」
 二の腕に口もとを埋めると、顔の横に落ちた髪の間からクラウドのうがつような瞳が覗いた。
「本当に覚えていないのか?」
「本当に、って?」
 まるでそんなの、なにかあったみたいじゃないか。目と目があって、クラウドはなにかを言いたそうに唇を薄く開く。だが、すぐに、「いや、なんでもない」とかぶりを振った。
「とにかく、アンタになにもないのならよかったよ」
「クラウドたちが頑張ってくれたから、ね。クラウドは、ほっぺ、きれいに治った?」
 それから、ユフィも。今彼が目の前にいるから、当たり前にモンスターたちを倒すことができたのだろうが、彼らの傷はきちんと癒えたのだろうか。
「俺は……なんともない」
 クラウドは片膝を立てて、左腕をそこへ載せて指を擦り合わせている。
「その、ユフィも?」
「ああ」
 ぎゅうと膝を抱き込んで、よかった、と美月はこぼした。
「クラウドたちは、すごいね。傷ついても、決して諦めないんだもの」
 それと比べて自分といったら――寒くもないのに顎が震えてしまう。
「ごめんね、クラウド」
 こぼれた言葉は震えていた。
「なにがだ」
「なにも、できなくて。ほんとに、ごめんなさい」
「期待してない」クラウドは摺り合わせた指を宵闇に放りだす。
「でも……」
 はあ、と盛大なため息とともに、クラウドは、「いい加減にしてくれ」と言った。
 苦々しく額を抱えてしまったクラウドにハッとして、美月は俯ききつく唇を噛み締める。無情にも唸り声は風にほどけ、彼女にまとわりついた。
「アンタのそれ、聞いてて苛々する」
 それも、そうだ。何度も何度も同じことの繰り返し。平気なふりをして、結局だめで、迷惑をかけて、謝って。そんなの、だれだって辟易する。
 目の奥がツン、と痛み、溶け出した熱がじわじわと広がっていくのを美月は止めることができなかった。
 どうしてこんなにも精神的に弱ってしまったのだろう。
 なにもできない罪悪感と焦燥、それから、美月自身が手に負えないほどの複雑に揺れ動く感情に対する不安と恐れ。子どもじゃあるまいし、と腕に口元を埋めて美月は泣き出したくなるのを必死で抑えるが、どうにも敵は手強い。こんな姿をクラウドの前で晒すことすら、情けなくて心底いやになる。
「……うん」
 ごめん、と謝りそうになるのをすんでのところでこらえて、美月はただクラウドの言葉を受け入れた。
「……悪い」
 美月はかぶりを振る。
「いいの。わたしも、自分にいらいらするから」
「ちがう、そうじゃない。俺が言いたいのはもっと……」
「もっと?」
 おもむろに顔を上げると、暗闇の中で再び視線が重なった。怒っているのでも、呆れるでもない、闇に紛れる美月を探り当てるような真剣なまなざし。
 風が吹き、長い髪が舞う。その間にも、複雑に、静かに絡み合った視線がほどけることはない。何度も何度もまばたきを繰り返す美月とは違い、クラウドはまつ毛すら揺らさずに彼女を見つめている。
 ザザァン、波が鳴る。
 ジュノンの街からこぼれだす魔晄が彼の輪郭をほのかに明るく染める。
「クラ、ウド?」
 この空気を、知っている気がした。ぎゅっと濃縮された、静かで、濃厚な、ブランデーみたいな空気。ゆっくりと腕を地面に下ろし、クラウドは肩当てをした左肩を引く。かちゃり、装備が擦れる音がして、彼が体をこちらへ寄せているのだと美月は理解した。
 言葉も合図もない。ただ、この空気がすべて。まるで吸い寄せられるように、二人の間の距離が埋まっていく。風に遊ぶ髪がなだらかな頬にかかり、メデューサのごとく彼を誘っては互いを狭い世界の中へ閉じ込める。なにもかもが遠くに感じる。海も、空も、ジュノンの町さえも。目に映るのは、淡く光に染まったクラウドの輪郭のみ。それ以外には、なにもない。これから先も、きっと、そうなんじゃないかと錯覚させられる。
「ミツキ」
 やがて、互いの虹彩の色を確かめられるほどの近さになると、クラウドは瞳をそっと伏せた。吐き出した吐息に胸が震える。どうかしたの、と言えばすむことなのに、それすらも言葉にできない。ただただ美月は口を半開きにして、クラウドの整った鼻梁と長い睫毛、それから、薄い唇を見つめた。
 意識が遠くなりそうなほど美しく、熱い吐息が漏れてしまうほど色っぽく、泣きたくなるほどに儚い。
 彼の吐息が唇を掠める。

 ――愛しい子

 声が脳裡に吹き抜けた。
「……どうかしたか」
 肩を大きく跳ねた美月に、クラウドがやおらまぶたを擡げる。
「いま、こえが」
「……声?」
 美月は呪縛をふりほどき、うしろを振りかえった。
「聞こえた、気がしたの」
「どんな声だ?」
 風が吹き、闇夜に草原が揺れる。美月はじっと影の中を睨んでいた。

「先に、戻ってろ」
「クラウドは?」
「俺は、しばらく、町を探ってみる」
 アンダージュノンに戻り、薄暗い魔晄色のライトの下で美月はクラウドと別れた。時刻は夜の九時。寂れた町中にはほとんど人など出歩いていない。昨晩の夜番からきちんと休めていないだろうに、本当ならば引き留めるべきだったのだろうが、美月にそうする余裕はなかった。
 少しずつ遠ざかる男の背をちらりと一瞥して、息をつく。
 錆びた鉄と潮の匂いの中に残る、微かな男の香り。
(あのまま、ああしていたら、どうなっていたんだろう)
 クラウドがわからない。だが、あの瞬間の、濃密で独特な色香に気がつかぬほど純粋ではない。
(まさかね)
 元より彼が優しいのは知っている。だが、度が過ぎているようにさえ感じてしまうのは、気のせいだろうか。きっと自分が情けないからだ。そう言い聞かせるが、美月は不意に彼から与えられる安堵や優しさをどう受け止めたらよいのか考えあぐねた。
(なぜこの世界に来たのかもわからないのに……)
 小さく唇を撫でると、剥がれた薄皮が指先にひっかかる。
 ――あなたはだれ
 輪郭を失った声はいつまでも脳裡に残ったままだ。
 ――あなたはなに
(そんなの、わたしが知りたい)
 ――愛しい子
 芯に温もりが篭り、ひどく懐かしいような声がそれらに覆い被さる。やさしく凛とした女の人の――美月はかぶりを振ってそれをふりほどく。そして遠ざかるクラウドの背をもう一度確認して、家の中に入った。

 戻った美月を出迎えたのは、家主とレッドだった。彼らに挨拶を交わすと、美月はすぐにシャワー室に籠った。昼間汗をかいた体が気持ち悪かった。それに、明日の朝、ティファたちと合流してここを発つため、しっかり体を休めておく必要があった。
 すべてを脱ぎ去って、バルブを捻る。キュッと高い音が響き勢いよくシャワーが頭から降り注ぐと思いのほか冷たくて体がびっくりした。
「つめた」
 修行僧はこんな感じなのだろうか。最初はそこから逃げ出したくてたまらなかったが、次第に刺すような温度がかえって心地よくなっていく。じわじわと温度が上がり、肌を包む温度に変わるとシャンプーを借りて髪を力強く洗った。潮風を浴びていたからか髪が軋んでいる。ほつれた箇所を丁寧にほぐし洗いし、リンスをもみこむといくらかマシになった。
(帰りたい)
 慣れない香りが鼻について、しきりに湯を浴びる。なにも考えないでいればいいのに、自分のこと、この世界のこと、それから、クラウドたちのこと、あらゆる煩慮が美月の中に渦巻く。なぜ猫になるのか、いつ、猫になるのか。それからこの世界に来た理由。それぞれ考えを巡らせてみるが、答えは当然見つからない。すっかり抜け落ちた記憶も今のところ蘇る気配すらないし、ますます自分の身になにが起こったのか、また、起こっているのか、謎は深まっていくばかりだった。
 自分の知る『美月』という人間が、本当の『美月』ではないような気がする。自分は一人しかおらず、そして、その自分のことは美月が一番知っているはずなのに、胸の裡に広がった黒いシミが一向に消えてはくれない。
 探さなければならないものがある。そう決意して旅に出たのに、探しているものがなんなのか形すらわからなくて二の足を踏んでばかりだ。
 セフィロス、古代種、セトラ、神羅、魔晄――落ちた湯が渦を巻いて流れていく。
 できれば、クラウドたちに迷惑をかけたくない。だが、クラウドはどうしても美月を連れて行こうとしてくれている。誰も知る人がいない、家もない、お金だってない。それならば、なにも考えずについていくしかない。それなのに、覚悟が固まりきらない、いや、一度固めたと思っていた覚悟がずるずるとほどけていってしまっている。
 何回、こんなことを考えたらいいのだろう。ザアザアと降り頻る水の中で、美月は深くため息をつく。
 この星にとって、『わたし』はどんな存在なのだろうか。その他大勢と同じ人間なのか、あるいは、唯一の異物なのか。
(力があればいいのに)
 敵を倒せる強さがあれば、これほど悩む必要もなかったかもしれない。膜を張る視界に、右手を映す。
(ちがう、覚悟があれば……)
 力などいくらだってつけることができる。ただ、美月自身がそれを拒んでいるのだ。この手に剣を握り誰かを傷つけることを、二十数年培ってきた善悪の観念を手放すことを、どうしようもなく恐れている。
 クラウドたちはそんな美月のいくじのなさを見て見ぬふりしてくれているが、いつまでもそうしてはいられない。
(なにか、使命感のようなものがあれば、変わったのでかもしれない)
 それこそ、クラウドたちのように、「星を救う」という使命感があれば。
 情けない。なんて情けないのだろう。握りしめた手のひらに水が溜まり、溢れていく。
 傷ついたユフィ、背を向けるクラウド、飛び込んでいくレッド、その場に立ち尽くす役立たずな女。猫になる前の記憶が脳裏に過ぎる。鋭いモンスターたちの攻撃に、苦々しい仲間たちの顔――悔しかった。なにもできなくて、苦しかった。彼らの顔が悲痛に歪み、真っ赤な鮮血が視界に宿る。全身に血潮が巡り、やがて、声がした。
 ――声?
 そこまで思い返してハッとする。
 だが、思惑の海に飛び込むには時間が足りなかった。ザアザアと降り頻る滴の向こうから、「ミツキー? 起きてんのー?」と明るいユフィの声がして、美月は慌ててバルブを捻った。

「ユフィおかえり」
「たっだいまー! あー腹減った、ミツキ、メシ食った?」
 夜着に着替えて浴室から出ると、居間でユフィがどんと椅子に座ってふんぞりかえっていた。我が家のような寛ぎように美月は思わず先ほどの煩慮を忘れて笑いをこぼしながら、「ううん」と答える。
「んじゃ、一緒に食べよ。クラウドは?」
 ぎくり、一瞬身を固くした美月だったが、笑みを浮かべて冷蔵庫から水を取り出した。
「……まだ、町じゃないかな。セフィロスのこともう少し探るって言ってたし」
 心のざわつきを治めるようにコップにそれを注いで、一気に飲み干す。怪訝に思うこともなく、「よくやるねぇあのツンツン頭も」とユフィは後頭部に手を組んで唇をすぼめた。
「ま、いっか。レッドにも声かけてくっかなー。あっ、てか冷蔵庫なに入ってる?」
 なんだか忙しない少女だ。勢いよく椅子から飛び上がったユフィに美月は張り詰めた糸をほどいて微笑む。
「けっこう、いろいろあるよ。好きなもの、使っていいって言ってたから、ちょっといいもの作っちゃおうか?」
「いいもの?」
 ユフィの目が爛々と輝く。
 明日、おぼあさんには感謝しなくちゃ、と思いつつ、美月はコップをシンクに置いて冷蔵庫に再び手をかけた。
「そういいもの! 嫌いなもの、ある?」
「ない!」
 と自信満々に胸を張ったあと、小声で、「やっぱ、レイゲンだけは使わないでほしいなー、なんて」と訂正を入れた彼女は心底愛らしいものだった。
 冷蔵庫の中の卵と牛乳を拝借して、オムライスを作った。西洋風の文化が根強いこの世界だが、どうやら白米は一般的に普及しているようで、美月はどこかホッとした。家主が気を利かせて炊いておいてくれたご飯にバターと塩胡椒を絡めてお皿に盛り付けたあと、牛乳を混ぜた卵をふわふわに仕上げる。本当は半熟が好きだったが、なにかあってはいけないので、焼きめにした。
「うんまそー」
 美月が作っている間にシャワーを浴びていたユフィが、出てくるやいなやうれしそうに跳ねながら近寄ってくる。
「ソースは?」
「ケチャップ? デミグラス?」
「デミグラス!」
 本格的なのは作れないが、ケチャップとソースでなんちゃってデミグラスソースはできるだろうか。ユフィの返事に、了解、と笑みを深めながら冷蔵庫を開く。
「いい匂いだな」
 寝室のほうからレッドが尾を揺らしてやってきた。
「お、レッドいいところに。ミツキ特製オムライス! いる?」
「ああ、いただこうかな」
「カーッ、かっこつけちゃって! しっぽフリフリしてるくせに!」
「これは……そういうものだ」
 そのやりとりにふっと吹き出しながら、美月は、ケチャップとソースのほかに卵を余分にとる。
「ミツキ、レッドのぶんもいい?」
「もちろん。レッド、留守番ありがとう」
 美月が卵を手にして振り返ると、レッドの尾がぴょんと翻る。
 ほんとうに犬みたいだとその仕草に微笑ましくなって、心なしか軽い気持ちでコンロに向かった。こんな瞬間は、悪くない。そんなことを思いながら。
 この日、クラウドが帰らぬまま美月たちは眠りについた。